銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

野島今日子、ヴァンサン・ル・テクシエ・・・・・シューベルトの、【楽に寄す】と、岩永先生の思い出

2018-01-26 21:49:10 | Weblog

副題1、『赤とんぼ、から始まって、今日は、お歌を、結構長い時間、歌ってしまったのだなあ!』

 私は、朝起きた時は、本日も又、新しいもので、長いものを書こうと、思っておりました。しかし、午前11時までは、前報の、推敲やら、加筆をしていて、その後の、家事をしながらの、ウォーミングアップの時間帯に、録画しておいた、クラシック倶楽部を見てしまったのです。伴奏者は、野島今日子さんです。フェリスを卒業したと、あるので、「あれ、野島稔さんの一族ではないかなあ?」と思ったのですが、wikipediaが、立っていなくて、判りませんでした。でも、きれいで優しそうな、素敵な人です。お胸はふっくらとしていて。顔は、野島稔さんとは、似て居ないのですが、つつましやかで、しかも実力があるので、野島稔さんの、姉妹だろうと、思っています。

 フランス出身のバリトン歌手【ヴァンサン・ル・テクシエ】とのデュオだったのですが、アンコールに彼が【赤とんぼ】を歌ったのです。

 それには感動してしまいました。と言うのもピアノ伴奏部分を含めて楽譜が、9行程度だったと、推察されました。一頁にも満たないだろうという短い曲をアンコールに持って来た、二人の選択眼と、心映えの美しさと、力量にです。

 お歌を歌うことが好きな人だったら、それがお分かりだと、思うのですが、短い曲で、アンコールを閉めるなどと言う事は、凄い事なのです。自分一人で、勝手に歌っている時には、曲の長短は、あまり関係がないのですが、お客様が目の前にいる時に、単純にして短い歌で、最後を飾るなどと言う事は、大変な自信があるという事なのです。

 しかし、自信がある筈なのに、全体的に、謙虚で静かだったのです。演奏会本体の方は、知らない曲ばかりだったので、聞くのが苦痛なくらいだったのにアンコールで、一気に二人の音楽家を、敬愛する様になりました。

 そして、「ヴァンサン・ル・テクシエは、この歌のどこが気に入っているのだろう?」と思い、それを、知りたくなりました。で、今、彼がフェイスブックに投稿をしているかどうかを、調べましたが、投稿をしておりません。もし投稿をしていたとしてもフランス語でしょうが、それでも、知りたかったところです。『日本語の抑揚に沿って、作られたメロディですが、フランス人にも、美しいと感じ取ってもらっているのだろうか?』と、か、いろいろ知りたくなったところです。

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副題2、『年齢によって、私の愛唱歌は、異なって来るが、最近では、だいたいロンドン・デリー・エア程度だった。それなのに、二人に感動させられたので、短い曲ばかり選び取って、歌ってみた』

 40代はイタリアオペラからの、男性用アリアが、愛唱歌だったのですが、50代に、【ソルヴェーグの歌】(これが最後尾の蛇足へ繋がっていきます)とか、【オッフェンバックの舟歌】などの、短いお歌に変わって来て、最近では、さらに、短い歌になって居て、「我が子よー、愛しの汝(なれ)ーを」で、始まる、ロンドンデリーエーア等へ変化しているのですが、本日は意図的に、さらに、短いお歌を選んで歌ってみました。

 その際にできるだけ、大きな声で歌ってみました。それはですね。歌舞伎役者の声量と言う事に、関心が、移っているからです。特に吉右衛門の声量が落ちたことに関心がありますが・・・・・この件については、後ほど、語ります。しかし、大きな声で歌ったがために、疲れたらしいのですね。なんという体力の少なさよと、唖然としてしまうほどですが、午後に、別用で、外出したことも相まって、いつも並み「の深さのブログの新稿が書けないのでした。頭の中に種が下りてきていないので、「まあ、それもいいか」と、思っているところです。

 ナカダ・ルデナ・何とかの裁判が行われたことも、やまゆり園、18か月目で、入倉かおる園長とか、尾野一矢、剛志父子が現れたことも、 すべて、私が過去に書いたことを打ち消して、国民側を、洗脳するために、報道をされているニュースですが、「ああ、そうですか!」と、言っておいて、全くたじろいでもいないのですよ。そういうニュースが、今準備をされ、報道をされることこそ、最近、私が書いていることがどれほどに、正しい考察の連続であるかを語っているからです。

 特に常用のパソコンが突然、下記の写真のごとき、状態になったのも、最大限の攻撃であり、どれほどに、私が高いレベルの真実を語っているかを指し示しております。

 パソコンは、「更新プログラムをインストール中であり、何度も、再起動をします」と、言い始めていますが、これは常用のウィンドーズ10では、かつて、現れたことのない画面であって、グーブログ【銀座のうぐいすから】への書き込みを阻害しようとして現れた画面です。という挿入を、夜の11時に入れて元へ戻ります。

 【赤とんぼ】、【ふるさと】、【里の秋】、【みかんの花咲く丘】、【この道】まで歌ったところで、記憶の種が尽きたのです。一階に降りて楽譜を探せば、短い歌はもっとあるはずだと、思ったのですが、何せ、寒波襲来で、寒いです。で、『まあ、いいか、日本の歌はこれくらいで』と、思い、西洋の歌へ移る事としました。

 西洋のお歌で、短いものとして、真っ先に浮かぶのは、シューベルトの【楽に寄す】です。

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副題3、『シューベルトの【樂によす】は、1958年、か、1959年の高校の音楽の時間の試験課題であったのだが、その際に、岩永先生が、示された深い慈愛に出会う。それは、中学時代も同じで雲居佐和子先生が示された深い慈愛にであった。どうしてそうなるかというと、子ども時代の私は、一人になると、緊張して、歌えない人間だった。しかし、大勢の中で、歌うと、いい声が出る人間であって、音楽の先生は、それに気づいてくださっていたのだった。・・・・・たった五分程度の、短い間だったが、純粋な恩愛というのを感じたものだった』

  私の父は、ロマンチストだったと思います。体格は大きいのに、いつも、夢見がちで、お歌をうたっている人でした。ところが、声がしゃがれていて高いし、調子も外れていました。だから、本人だけ悦に入っているが、周りの人は聞き苦しいものでした。

 で、母が、常に、「ほら、また、お父さんの<変タ調>が、始まったわ」と言って笑っていました。父にはそれが、聞こえていたと、思います。でも、自分の想像に浸っていたので、その想像の世界への伴奏音楽としての、歌を歌うということをやめませんでした。この<変タ調>ですが、母の発明した語彙ではありません。

 父の11歳年上の兄が発明した言葉です。父の兄は、明治32年生まれで、本業は旧制中学の数学の教師でした。でも、「音楽だって教えられるよ」と豪語するほどに、音楽に強い人でした。しかも、父の父が早く亡くなっているので、父親代わりなので、弟を、からかうのも平気だったのです。

 私は、その叔父が、父をからかっている場面は見たことがないのです。ただ、「変タ調ってなあに?」と、母に質問をした結果、そういういきさつを知ったのです。

 そのエピソードは、わかったのですが、父が、かわいそうにとは、思いました。それが、私が、人前であは、歌を歌えなくなった、大きな原因です。ただ、母のために、弁明をすれば、父が脳挫傷を患って、言葉を発せられなくなったり、寝たきりになった後では、非常に大切にしました。元気で正常で、自分よりおおきいと思っていたからからかったのです。

 この、父の歌と、母のからかいのエピソードに深く傷ついていた私は、人前では、歌えなくなっていたのでした。特に一人では歌えないのです。舞台に上がったとしても、コーラスなら、歌えるのに、一人では、歌えないのでした。

 で、中学時代は、結局歌えなくて、課題曲が何だったかも覚えていない程です。

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副題4、『岩永先生は、悲しみを知る人だった。わたくしも少女ながらに、悲しみを知る人だった。その二人が、音楽の試験の際の、特に前奏部分で、太い太い愛の絆を、かわしたのだった。その時の岩永先生の顔と態度は忘れられない』

  1950年代は、人々は、まだ、余裕がなかったので、クラシック音楽に強い人は、少数でした。東京でも少数だったのです。従って、東京の音楽の世界では、岩永先生は、その悲恋のエピソードで、とても、有名な方だったらしいのです。

 私のほうには、高一の時に、AFS の試験を、書類を渡してもらえないという形で、受験できなかったことが、深い悲しみとして、沈澱していました。担任は、東大出身の英語の先生でしたが、発音が悪い人だったので、内心で、私のほうが嫌っていました。「努力を、しない人だなあ」とも思っていました。それが、相手にわかっていたのだと、思います。

 私の眼って、とても小さいくせに、目は口ほどにものをいうの典型で、先生のほうでは、「あいつめ、僕の事を嫌っているな。それに、バカにも、しているな。生意気なやつめ、思いしれっ」という事だったらしいのです。でも、すでに、50代になっている男性が、たった、16才の女の子に復讐をするということが信じられませんでした。

  私が、シューベルトの、【樂によす】をなかなか、歌いだせないでいるのに、待って、待って、くださって、何度も前奏を弾いてくださった、岩永先生の愛に接したのが、もし、一年の二学期だったら、上のエピソードの直後だったので、ことさらに、身にしみてうれしく感じたのかもしれません。

 その試験での課題曲は三つあって、【ドリゴのセレナード】なども含まれていたと、記憶しています。で、いちばん短い曲を選んだのに、短いから、やさしいのだとは、ならないのでした。

 「シンプルな曲ほど、難しい」の典型でした。岩永先生は、下の名前を輝と書きます。でも、だれも、名字でしか、呼びませんでした。どこか、毅然とした方で、甘えられない雰囲気がありました。

 たった、3分程度でしたが、そういう毅然とした方が、こぼれるほどの愛をお示しくださったので、それは、忘れられない思い出となっています。

 歌舞伎役者の声量の問題については、またあとで、語ります。

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蛇足・・・・・・【黄色いさくらんぼ】・・・・・125頁より

 少し解説を加えますと、私はメルマガ時代のエッセイ集を紙の本へ直しています。6種類作りましたが、そのうちの第五冊目【黄色いさくらんぼ】が、最も評判が良くて、アマゾンで、古本が、10800円の値がついて居ました。600部程度、主に美術の分野の人々に、献呈して歩いたものですが、面白いと評判をとりました。

 これは、全編が、2000年のニューヨーク滞在に基づくお話です。その第28章であって、工房内で、材料費をぼんぼん使う私が、日本人女性達の嫉妬によるいじめに出会っている際の或る晩の話です。登場人物は、私自身の名前が百合子となって居て、他の人もすべてが、仮名で、語られています。

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ソルヴェーグの歌 

ある夜のこと、タカコとサユリの二人が例のごとく、大声の日本語で話し合っていた。ほかに在室している日本人がいないので、外人たちは、その雰囲気の悪さは感じるものの、内容がわからないので、タカコが悪い人間だとも思うわけでもなく、それを熟知しているタカコが、サユリを巻き込んでいると百合子は見る。しかし、百合子はこのニューヨークに観光ビザ限度いっぱいの三ヶ月しかいられないのだ。だから、挽回策として、サユリをこちら側につけるわけにも行かなかった。自分が帰国した後で、サユリが今度は標的になる可能性はある。タカコにはヒステリー性格が見られ、それは、必ず仮想敵を必要とするので、タカコには常に、軽蔑し、ののしる相手が必要なのだった。

版画工房というのは、人と接するのが不可欠な場所だ。酸化室に行けば誰かほかの人が、自分の銅版をチェックしているし、銅版を切るところに行けば、そこの傍で仕事をしている人がいるわけだ。大きなサイズの紙を小さく切る場所は中心にあるので、大勢の人が傍を通る。

そのときに、声を交わすかどうか、顔の表情がどうなのか、というポイントで、意外と大きなコミュニケーションを交わしている。そして、人間関係のダイナミズムも生まれる場所だ。表向きには、話をしていない。だけれども、態度で、意思と感情を表出する人間がいる。特に悪意を。最近の日本の言葉ではモラル・ハラスメントというもの。漱石はイギリス留学においてノイローゼになったそうだが、版画工房というのはそれよりも、もっと、間接的ではある。けれど、結構、長時間お互いが同じ場所にいるので問題なのだ。立って労働を重ねているので、ノイローゼになっている暇もないともいえるが、その暗黙のいじめに対しては、日々の戦いが必要な場所である。

どういう風に戦うかは人によって違うのだが、百合子の場合は、ただひたすらによい版画を作ることを目指す。綿密な作業ノートを作り、今日はシャルボネ(フランス製の版画インク)の何番と何番を何パーセントの割合で組み合わせなどと、詳細に記録する。

 内心では、サユリに対して深く同情をしていた。それは、ある日彼女が、日本からきた客について愚痴をこぼしていたときに、前々から感じていた、お嬢さんぶりを再び感じたからだ。『特に母親と確執があるのではないか、そして、それゆえに、彼女はどうしてか、自己主張ができないタイプなのだ』ということが、確認をされる感があった。

サユリはタカコにいう。「必ず、お金は払いますというから泊めたのよね。だけど、相手からいい出してくれないと、こちらから、何ドルくださいっていえないじゃあない。だから結局もらえないの」と。タカコは『ふん、ふん』とうなづく。しかし、内心では『あなた、はっきり断ればよかったじゃあないの』と思っているらしくて、「そりゃあ、大変だったわね」とは、同情をしない。「時間がね、問題なの。すごく遅く帰ってくるの。引っ掻き回されちゃう。疲れ切っちゃった」とサユリは続ける。「この前、キューバに行ったでしょう。その疲れが取れていないときだったから、本当に疲れた」と。

百合子は聞こえてしまう二人の会話を聞きながら、一人でしみじみといろいろなことを考える。特にパリでのランチのときの会話を。遠縁に当たる女性と、凱旋門そばのベトナム料理店で、お昼を一緒にしていた。彼女はいう。「あのね。その一人の日本人にとっては、パリが初めてだったりするの。だから、おおごとであるというか、知らないことはいっぱいね。それで、頼るのよ。パリにいる人間を。でも、こちらにすれば相手が一人ではないの。次から次へとくるわけでしょう。本当にたまらないのよ。でも、あなたって、意外とものがわかる人みたいね。面白いわ。三ヶ月いるの。もう一回ぐらい会いましょう」と。

そうだ。百合子は意外とものがわかる。彼女にそういわれても機嫌を悪くするわけでもなくて、『なるほど』と内心で思うだけだ。そして、パリに向かうときにも鳩居堂のレターセットは持っていった。ともかく、文房具を好きな人は多い。そして、海外にいればこそ、和風のものは生きるだろう。今は、『世界中どこにでも、日本のデパートの支店がある』といっても、サイズの特に小さなものなど珍しいはずだと、百合子は考える。そして、相手の時間を使ったことを感謝する。それを態度に出す。しかし、サユリのお客はそれを、態度に出さなかったのだ。がさつな人間だったのだろう。

いや、がさつというよりも、現代の若い日本人として、普通の態度なのかもしれない。特に大学を出たてだったりすると、学生気分が抜けなくて、年上のサユリに甘えきっているのだろう。また、同年代の、お客、特にアーチストだと、『自分が貧乏だ』という認識があるがために、かえって、堂々とずうずうしくなったりするのだ。『ホテルじゃあないところに泊まれれば、一日に一万円浮くわ。それで、ガイドブックに出ている評判のレストランに行ったり、ミュージカルを見てみよう』などとなって、その感想を得々と、サユリのアパートで次の朝語ったりしたら、そりゃあ、サユリはたまらない。

『サユリは何年前に、このニューヨークへきたのだろう。たった、十年で日本社会はすごく変わった。サユリは、十年、または十五年ぐらい前の日本人なのだ。節度があって、控えめな。もしかすると、永住権がまだ持てないのだろうか。アーチストは保障がない。会社という組織に属していたら、すでに取れたであろう、グリーンカードをまだ持っていないのだろうか。キューバにはその関係で出かけたのだろうか』と思っているうちに、サユリがキューバの思い出を語り始めた。それは明るい前向きなもので、百合子はほっとする。

『本当は、あなたは、日本に帰って、親戚の人に頼んで、お見合いででもよい相手を紹介してもらって、品のよい奥様業をしたら似合うのに。今の日本なら、結婚に対する年齢制限はないのに。四十過ぎていても、相手は見つかる。それは、自らの意識の持ち方にかかっている』などと、百合子は思う。しかし、二人がガード固く、『入れてあげない』ムードを作っているので、そんな提言もあらばこそだった。そして、もし昼間、タカコのいないときに、百合子が話しかけたとしても、サユリはガード固く、拒否するだろう。特にこの間、サザラッシュに百合子の方が大事にされていると、誤解をしてしまっているから、余計、受け入れを拒否するだろう。

百合子はなんともいえない切なさを感じる。人間とは憎み合うときもあるが、一方では、愛し合うものなのだ。そして、友愛という意味では、今現在、この瞬間には、『百合子の方がタカコよりもサユリを理解している。そして、本当の意味でサユリに役立つ忠告ができる』と思っても、それは、かなえられない望みだった。

そのとき、ラヂオからソルヴェーグの歌が聞こえてきた。百合子は思わずそれに連れて歌いだしてしまった。漂泊するペールギュント。そして、それを待ち、許すソルヴェーグ。百合子はそのとき、サユリの切なさも感じていたが、自らの切なさと、不安をも感じていたのだ。強気というか、一生懸命版画一筋で、今、この工房にいる。しかし、明日はどうなるだろう。それは自らにもわかっていなかった。『今の自分は、デラシネ(浮き草)そのものである』と思えばさびしさも募る。そして、目の前で、それに入れてもらいたい、日本人の輪から拒絶をされている。

数十秒間、百合子はメロディそのものに没入をしていた。そして、ラヂオが別の曲目へ移ったときに、ふと、われに返った。するとあたりの空気が一変をしていた。二人の大声のおしゃべりが止んでいた。二人は別々の場所に移動をして、黙々と版画の制作を再開した。

思いがけないことだった。それを目的に歌ったわけではない。二人を叱るために歌ったわけではない。ただ、ほとばしるように、出てしまった声だった。自然極まりない、内面からの声だった。しかし、その声は、あたりを払って、空気を清めてくれたのだ。ここはある人間をいじめるための場所ではなく、版画を制作するためにある場所だった。それを二人は気がついてくれたのだ。天が助けてくれたと思った。サザラッシュのコーチングが助けになってはいたが、彼を問題にしないタカコの強引さを防ぐ手立てはなかったのに、そのいじめに対して、防衛もできないが、復讐や反撃もしないという、よい心構えでいただけで、天は救ってくださった。

 ::::::::::この時に、この書物の代表的な登場人物であるエドアルドが、「まるで、マリアカラスみたい」と、言ってくれたのですが、それは、ここには、記載をしていません。::::::::エドゥアルドとは、露悪的な人物ですが、毎日サツマイモ入りの蒸しパンを持って来ていたほどの、貧乏な人でした。そして、私が、工房を、2000年の、11月の末に去った、一年弱の後に、孤独死します。多分、貧窮ゆえにです。ただ、私が居たころは、元気だったのですが、この章の登場人物であるタカコが、工房を、閉鎖に追い込むモニター制度を作ったために、工房の収入が激減して、閉鎖をせざるを得なくなったのです。それで、エドゥアルドは、摺り師の仕事をする事が不可能になったのでした。その上に、独身であった、かれにとっては、工房が、ほぼ、家庭に等しい場所だったのに、それが無くなって、毎日、そこへ行けば、人との交流があるという場所が無くなったからでした。

 この一巻は、エドゥアルドと、ロブと言う二人の対照的な、行動様式の版画家の死を主要なストーリーとしています。ロブは、ニューヨーク出身の、いわゆる黒人で、それなりに苦労があったために独身です。才能と、社会の偏見の間に乖離があったからです。でも、態度は、気さくで、かつ陽気で、かつ上品なので、大勢の人に慕われていますし、芸術家を優遇することで有名なホテルチェルシーで、それなりの厚遇を受けている人です。そして、家政婦とか、看護師も来ています。一方のエドゥアルドは、南米出身で、褐色の肌の人です。不法滞在なのか、非常に貧乏です。エドゥアルドは2001年の八月に、ロブは、2003年の、四月に、亡くなります。私は、ロブから、生きているうちに、「もう一回ニューヨークに、おいで」という電話をもらっています。しかも亡くなった時には、上述のサユリさんから、「お葬式に来てほしい」と、電話で、言われています。遺言書に、作品類を百合子に渡してほしいと書いてあったからでしょう。

 どうして、そういう願いをロブから、寄せられるかと言うと、或る夜に、すでに、すべてのお店が閉まっていたので、たった8粒の、自分用の、黄色いさくらんぼをお見舞いにもっていくのですね。しかし、その同じ日の朝、ロブが、結婚をしておらず、妻も子もいない事の悲哀をとことんわかってしまって、それを、顔に出したからでしょう。

 ロブには、ほぼ同世代の家政婦と、若い看護士が、介護をしにやってきています。単純に高齢だというよりもパーキンソン氏病を患っていて、一人では、歩けないので、サポートが必要なのでした。ロブとは、1999年にも、2000年にもホテルチェルシー内で、あっているのですが、どんどん、衰えが進んでいました。そして、ものがほとんど、整理されて無くなって居ました。他人のお世話になる老後というのはそういう事でした。

 しかし、最も哀しかったのは、ロブのパンツに穴が開いているのが見えてしまった事なのです。後から丁寧に考えると、古いパンツだったわけではないのです。ただ、介護上、その方が便利だったので、わざわざ、はさみで開けたアナだったのです。でもね、もし、傍に立っている女性(若い介護士、もしくは看護師)が、妻、もしくは、子供だったら、このパンツの上にバスタオルを置くでしょう。そのぐらいの配慮はすると、思います。『他人だから、気が付かないのだ』と、おもったら、涙が出てきそうで、そばには、もういられない感じでした。で、「夜もう一回きますね」と言って、夜、ホテルのスタッフさんと一緒に、黄色いさくらんぼをもって、再度、訪問をしたのです。今度はちゃんと、バスタオルを膝の上に置いていました。ロブは、私が午前中に、何を感じたか、そして、どういう風に思ったかを全部わかって居るのでした。

 サユリからの電話を、解釈すると、ロブは、私をベッドサイドに引き寄せて、そこで、椅子に座らせたうえで、自分はベッドに横たわって長時間を掛けて、人生で経験したことを、語りたかったのだと、思います。いつも、玄関わきで、二人とも硬い椅子に座って話す、短い会話で、終わっていますから。

 私は、ロブの要請を、拒否したというよりも、その時点では、逗子のアトリエで、寝る生活は終わって居て、鎌倉の自宅に帰っていたので、海外へ行く自由が無かったのでした。

 ロブとエドゥアルドの二人が亡くなって、はや、15年が過ぎました。同世代だった二人よりも、私の方が、15年も長生きをしたなんて、当時は、考えも、しなかった未来でした。本のタイトルを黄色いさくらんぼとしたのは、やむを得ず、持って行った、たった、8粒の、きいろい、さくらんぼを、一粒食べた上で、「キャシー(家政婦さん)にあげよう」と、ロブが言ったからです。

 歩くことが自由にできないロブは、決まりきったものしか食べて居ないので、とても、珍しいものだと、受け止めてくれたみたいです。日本にはない種類のサクランボで、大粒で甘いのです。しかし、時は、8月でした。早春に収穫されるサクランボは、最上級の措置を受けて保存をされて来たと言っても、すでに、しわしわでした。しかも、私がすでに半分食べてしまった残りでした。それをさらに半分分けにして家政婦さんにあげるというロブ。にこにこしながら、そういう単純な言葉しか吐かないロブ。でも、その陰に語られなかった膨大な言葉がある事を知って居る、私は、次の日に空港に向かわなければいけないのに、その夜は、一睡もできず、従って、パソコンをホテルに忘れて、日本へ、出発をするのでした。

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