銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

【初恋】と【遥かな友に】は名曲だと思うが、日本の歌百選から漏れている。それは、変だ

2019-04-16 02:06:51 | 音楽

 なお、この一章は、本当は、【日本の、歌百選に、【遥かな友に】が、無いのはおかしい。早稲田びとよ、怒れ!・・・・日大びとも、怒れ! CIA Agentに対して】としたいのですが、昨日の続きとして語ると、音楽の話題から入りますので、総タイトルを、わざと、温和なものにしておきましょう。

副題1、『藤木大地が、石川啄木作詞、越谷達之介作曲の、【初恋】を、最終曲として、予定をしていたであろうことは、彼がどれほどに、今、快調であるかを証明している』

  藤木大地の演奏会を聴いて、その日(=19-4-13)に上野の文化会館小ホールに集まった、聴衆と、主役の間にどれ程に、深い信頼関係があったかを、前報(あと注1)で、述べています。彼は、アンコール曲を四つも歌いました。そして、9時15分に演奏会を終えています。それは、大サービスだと、聴衆は、みんな思いました。そして、「通」の人々は、彼が、用意した、アンコール曲は、本当は、二曲であって、最終曲は、【初恋】になるはずだと、わかっていたはずです。、あまりに会場が盛り上がったので、演奏会の中の二曲を、付け足しとして、さらに、選んだのではないかなあ? で、全部で、四曲になった。ただ、その付けたしの二曲は、私にとっては、未知の外国の曲だったので、この発想が、正しかったかどうかがわかりませんが、たぶん、そうです。

 ところで、最終曲が、【初恋】だったのには、驚きました。だって、たった9小節しかない短い短い歌なのですよ。歌詞は、一番しかありません。それで、締めくくるとは、どれ程に、自分の歌唱力に自信があるか、そして、聴衆が、受け入れてくれていることへの、どれ程に、強い信頼感があるかを示しています。ただ、何といっても、素晴らしい選択でした。

 そして、後注1内では、「政治的な論理を用いない」と、宣言をしていますので、藤木大地が、来る4月29日に覚園寺で、大々的な演奏会を行う事などには、触れておりません。そして、そこに、武部聡志の陰を感じていることをも、語っておりません。なお、その件は、別の章で、語る予定がありますが、今は、触れないで、置きましょう。

 そして、私の方も、実は、今では、そういう、短い、短い曲も美しく歌える様になっていることをも、語っておりませんでした。あくまでも、藤木大地という人を主役に立てた文章だったからです。

 私は、各分野に、それぞれ、その道に通暁している人なら、わかっている傑作というものがあると、思いますが、【初恋】は、その一つです。

 今、別の人のブログ、日々の暮らしを記憶に刻む に入り、その人の、2015年10月のブログ、石川啄木・短歌を歌曲にした越谷達之助にふれる に入り、さらに、その人が紹介をしている、越谷達之介の、青山学院高等部で、教師をしていた時代の生徒であったらしい、青木純のブログ が、紹介をされているのにも、きがつきます。しかし、そこには、私は、入れなかったので、上記のブログの著者が、引用している青木純の文章を選び取り、下に、コピペします。:::::::::::

『日本歌曲の傑作「初恋」〜   越谷達之助の歌曲。
越谷達之助先生が昭和13年に作曲し三浦環に捧げられた日
本歌曲の不朽の名曲「初恋」は今も多くの日本人に愛唱され
ています。また海外の多くの著名な声楽家にもしばしば歌わ
れ、日本歌曲を代表する名曲となっています。
この「初恋」は越谷達之助先生の歌曲集「啄木によせて歌え
る」に収められています。この「啄木によせて歌える」のほ
か、単独の歌曲や連作歌曲を集めた「日本の哀愁」を「越谷
達之助記念会」では再刊しました。
またこの他の歌曲集のコピーやLPからダビングしたCD-R
を頒布しています。』     :::::::::::

 どうして、これ程に、込み入った、紹介記事を書いたかというと、グーグル検索だけではこの曲が作られて時期が、探し出せなかったからです。この曲が、昭和13年に作られたというのは、重要です。それは、まだ、一部に、ほんのトレース程度でも、大正モダニズムの影響が残っている時代だったからでしょう。

~~~~~~~~~~~~~~~~

副題2、『次に、童謡の分野では、傑作のひとつであろう、【里の秋】が、いつ作られたかを、知りたくなって、その制作秘話にたどり着いた』

 ところで、私は、この歌の作曲者を探し出そうとして、其れもなかなか、苦労をいたしました。その過程で、同じく、自分にとっての、最近の愛唱歌である、【里の秋】が、いつ、作成をされたかを知りたくなったのです。それは、童謡でもあるが、反戦歌でもあると、言われています。で、戦前に、作られたのではないかと、推察していたのでした。しかし、それは、戦後に、制作されたものだったのです。特に海沼実が、作曲をしたのは、戦後です。しかし、作詞の裏側が、微妙極まりないのでした。その微妙さが、歴史的事実を反映をしているので、wikipediaから、その部分を引用します。::::::::

「里の秋」と『星月夜』

『星月夜』(ほしづきよ)は、斎藤信夫がまだ国民学校の教師をしていた1941年(昭和16年)12月に作られた、1番から4番までの歌詞で、後に童謡の雑誌に掲載された。

太平洋戦争の始まりを報せる臨時ニュースに高揚感を覚え、その思いを書き上げたと言われている。

1,2番は「里の秋」と同じ歌詞だが、続く後半の3,4番は「父さんの活躍を祈ってます。将来ボクも国を護ります」という様な内容で締めくくられている。

早速、童謡にしてもらうため海沼に送ったものの、曲が付けられる事はなかった。

やがて終戦を迎え、海沼は放送局から番組に使う曲を依頼され、要望に合った歌詞を探して見つけたのが「星月夜」だった。

そのままの歌詞では使えないと判断した海沼は、斎藤に東京まで出てくるように電報を打つ。

戦争で戦う様に教えていた事に責任を感じた斎藤は、終戦後、教師を辞めていた。

電報を受けた斎藤はすぐに海沼に会いに行き、「星月夜」の歌詞を書き変える作業を始めたがなかなか進まず、曲名が「里の秋」に変えられたのも放送当日だった。  ::::::::::::::

 この秘話を知って、わかったことは、最初期、1941年(昭和16年)の、詩では反戦歌では、無くて、戦意高揚の、歌詞が、三番と、四番にあったという部分です。で、海沼は、その時点では、無視したのです。しかし、1番と2番が傑作だったので、戦後、「どうですか? 三番と、四番を作り直しませんか?」と、提案して、斎藤信夫が、作り直したのでした。それでは、一般的ですね。戦後には、人々は、自由な発想を許されたのですから。戦時中にあの歌詞で、あの曲が、制作をされたとしたらすごい事だったのですが、・・・・・しかし、其れだけ、軍部の圧力がすさまじかったと、いう事でもありましょう。

 ところで、そういう作業をしているうちに、日本の歌。百選というものがあるのに、気が付きます。【里の秋】が選ばれていると、書いてあるからです。

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副題3、『日本の歌・百選に、【里の秋】は、選ばれていた。しかし、【初恋】と、【遥かな友に】が、選ばれていなかった。ほかの曲を詳細に検討してみた。湯山昭の、【あめふりくまのあめふこ】が、選ばれているのには、・・・・・短い歌でも傑作は傑作だと、言う趣旨からいうと、・・・・・喜びが、大きかったが、【遥かな友に】が、選ばれていないのは、変だ。そこから、数字のマジックとか、CIAエージェント、特に、私が、鎌倉エージェントと呼ぶ連中の陰(=悪い影響力)を察してしまう。ひどいことだ』

 里の秋は、NHKが、放送をしたそうです。それと、学校の教科書に載っていると、思います。したがって、人口に膾炙したと、言えますね。一方で、【初恋】は、高校の教科書に、載っているかどうか? というくらいの、難しい曲の方に入るでしょう。難しさとは、短い曲で、表現することの難しさを指します。メロディが、10段階飛ぶとか、そういう技術的な部分ではありません。

 そして、【初恋】は、最初、日本最初期の有名オペラ歌手、三浦環にささげられたそうですから、クラシック畑の歌曲としてとらえられているので、歌える人が少ないのかもしれません。だから、日本の裏百選にえらばれていない。それは、納得しないといけないかもしれません。

 しかし、【遥かな友に】の方は、納得ができません。一時期、人気が高かった、ボニージャックスの持ち歌なので、テレビでも何度も、放映をされていると、思いますし、いわゆる、市民合唱団の、定番ソングの、一つだと、思うのです。だから、日本の歌百選に漏れているのが、変なのです。

 ダークダックスの方が、慶応グリークラブが生み出した、グループでした。ボニージャックスは早稲田大学グリークラブが生み出したグループです。【遥かな友に】は、道志村(【おらあ三太だ】という児童映画のロケ地として有名)で、早稲田のグリークラブが、合宿をしていた最中に、部員が寝ないので、上級生が、「どうしましょう?」と、当時、指揮者だった、磯部俶に相談をしたら、磯部俶が、腹ばいになったまま、五線紙もないのに、作曲をしたと、されている曲です。静かで、しみじみとした名曲です。だから学生たちも枕投げ等をやめて、すやすやと、寝入ったと、思われる曲です。

 星野リゾートが、リニューアルしたあるホテルで、夜、合唱の催しがあったのです。そこでも、選曲をされていました。本当に美しい曲です。

 でね。これが、日本の歌百選から漏れていること、及び、その選定が、2007年になされていることを考えると、これは、例のごとく、対、私いじめの作業であろうと、みなすほかはないのですね。断腸の思いで語る話ですが、語っていきましょう。

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副題4、『私は、【隅田トリフォニーホール】の舞台で、磯部俶指揮で、この【遥かな友に】を歌って居る。それは、1999年代だったが、私が本を作り始めて、2007年ごろは、もっとも、活発に、其れを行って居たし、さらに、この百選が、準備されたころの、2006年には、月刊ギャラリーに連載もしていたので、・・・・・ありとあらゆるレベルで、又、アリと、あらゆる方向で、弾圧をしてやれ。そうしないと、自分達が過去に行ってきた悪を世間に、公開をされてしまう・・・・・という形で、この【遥かな友に】を、落とすために、日本の歌百選を選定したのだと、思われる。当時の文化庁は、めちゃくちゃなレベルで、鎌倉エージェントに、支配をされていたので、そこまで、ありえると、感じている』

 今では、どういう経路で、そこに入ったのかを忘れていますが、藤沢女声合唱団というところに所属をしていた時期があります。「鎌倉への引っ越し後、合唱祭を、聞きに行った時に、そこが、新部員を募集していたので、入った」と、あいまいな、記憶ですが、覚えています。その指揮者は、当時は、磯部和先生でした。和(かず)先生は、たまたま、美術界で、私が深く尊敬をしている、高橋和さんと、同じ名前です。そして、俶先生の奥様でした。普通は、藤沢市民会館で、練習成果を、披露をするのですが、一回だけ、俶先生が、指導をしているグループと一緒に、隅田トリフォニーホールの舞台で、数曲、歌ったことがあり、その最終段階で、全員合同で、この【遥かな友に】をうたったのです。なお、私は、1997年から、そこをやめています。パリへ版画の講習を受けに、行かれることとなったので、音楽は捨てて、美術畑に、集中をすることとしたのです。

 なお、磯部俶作曲の童謡で、【びわ】というのもあり、これも、美しい曲です。そして、短いです。作詞は、【まどみちお】

 まあね。まさかとは、思うが、親戚ではないのですが、私の旧姓もいそべです。ただし、ギイソといって、使う漢字が違います。磯部俶先生は、次男だそうで、兄が、学習院の、院長だったそうです。だから、名前が、凝っていて、珍しいです。私の実家は、学習院の院長などしておりません。が、江戸時代からの、教養は蓄えている家なので、父の名前は、礒部千晴と、書いて、ちはると、よみます。次男でしたが、単純な、〇〇二とか、〇次と、言う名前ではありません。

 ::::::::::::でね、此処から先は、例の見て来た様なうそを言いの類の記述に入ります。しかし、当たらずともいえども、遠からずでしょう。2006年ごろから、弾圧の程度がすさまじくなってきていたのです。パソコンを使い始めた、1999年から、特に強い、弾圧が始まっていたのですが、本(400から、800冊という小規模出版ですが)、を、自分で作り始めた時から、さらに、すさまじいレベルでの、弾圧が始まったのです。このころの私は、死に物狂いでした。

 というのも、その種の裏側を、他人に語ることをやらなかったからです。川崎ラゾーナ(日本一売上高が、大きい商業モール)内の丸善で、【原発反対者に対する弾圧】という書物が、平台に大量に、おいてあった時期があって、買ってあるのですが、まだ、読んでいません。もしかすると、盗まれている? でも、そのキャッチコピーに書いてあったよりもひどい、いじめの数々にさらされていました。

 そのいじめの数々を、今は、相当数ブログで、さらしています。本日のもその一つですね。だけど、当時は、書けませんでした。どうして書けなかったかというと、こういう事情が、裏にあります。

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副題5、『2007年秋に、ソニー損保社長だった川島章由君が亡くなった。彼は、国際キリスト教大学時代の、一年時たった、23人しかいない、私の同級生なので、追悼文を書いた。それは、むろんの事、ブログではさらさないで、おいて、(というのも、ブログそのものを開設していなかったし)、メルマガで描いた。しかも、当時、500人以上あった宛先全部ではなくて、110人ぐらいを占めていた、国際基督教大学同期生だけに送ったのだった。しかし、それに続いて、パソコンのシステムに、異常がきたしている窮状もついでに、添えた。すると、読者の内で、何人かが、有言、又は、無言で、メルマガの受信を断ってきた。それ以来、こういう弾圧については、書くのをやめている・・・・・しかし、あまりに弾圧がひどいので、とうとう、それを再開することにした。それは、2012年からだった。特に、ブログの方で、2012年ごろから、書き始めたのだった』

 ソニー損保という会社は、内田有紀と、九代目松本幸四郎(=現白鴎)のコマーシャルで、有名です。後発の損保会社でしょうが、ばんばんコマーシャルを打っています。今、書いた部分が相当量消えました。もっとも、鋭い観察に基づく事実だからでしょう。

 もう一度、書き直します。その後、いろいろ、あって、わかってきたのですが、そのシステム異常を、生起させていたのは、同じく、たった、23人しかいない、同期の、古村浩三君だった模様です。彼は、国際基督教大学の、第一男子寮で、石塚雅彦さんとか、ロックフェラー四世と知り合って居るので、・・・・・・また、途中の1965年に、ベイカーさんという金髪碧眼の、アメリカ人男子学生が、私を後ろから首を絞めて、殺そうとした事実があるために・・・・・・なんと、普通の人である、私を、弾圧する側に回っていて、パソコンのシステムを壊すという事を、日常的にやってきていたのでした。彼は、1966年からアメリカにわたって、この種の勉強をしているので、日本の始祖みたいな存在です。そして、今では、警察庁内部他にも、その技術をさらに、ブラッシュアップする集団が、存在していて、又、担当者も、全世界で、20人ぐらいいる模様です。それで、私のパソコンは、敵さんが、其れをやりたかったらですが、24時間、開いている間中、システム異常を起こしがちなのです。
 ただね。2007年の秋に、必死の思いで、書いた苦境を、発生させていたのが、川島章由君と同じ、23人のうちの一人だったと、言うのは、本当の、奇遇ですよね。だから、事実は、小説より奇なりと、なります。
 ここで、四時間休みました。午前10時半に、再開をします。それと、同時に、この文章の所属分野を、音楽から政治に変更したいのですが、それが、不可能みたいなので、weblog として無所属にしましょう。
として、
 で。その後どうなったかですが、書けないものの、苦境は続くので、ブログを開始することとなります。
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副題6、『私は、国際キリスト教大学1966年度全卒業生のうち、電話を頻繁に交換した女性が、全部で、6人ぐらいいるが、そのうち、元筑摩書房編集員であった、笠松敦子さんが、どこかで、敵方に、取り込まれているのを、知った。それが、2008年だった。しかし、私も自分がリアルな世界では、喧嘩をしない主義だし、彼女も優雅そのものの人だったので、やまゆり園事件が起きるまで、そのことをブログに書く事は、無かった。
 
 しかし、実情を言うと、2008年には、彼女は、ひどく、きつく、ブログを開始することを反対したのだった。それが、不思議極まりなかった。苦境を乗り越えるには、大勢の人に現状を伝える必要がある。その一手段として、ブログを開設するのに、其れを、阻止された。
 その時の彼女の言葉なのだが、「ブログを開くと大変ですよ。攻撃があったりして、神経を使います。・・・・・・・ここから、言葉にならないこと葉で、・・・・・あなたは、神経質でしょう。とても、繊細な方なのでしょう。だから、きっと、苦しむと思いますよ。と、あったのち、・・・・・・・ 私は子供の為に、ブログを開いています。必要性があるので、ブログを開いています。その私でさえ、ひどく大変なのですから」と、言われて。
 しかし、彼女が、山折哲雄さんの、
『ブッダは、なぜ子を捨てたか』集英社新書 2006を、編集して、其れを送ってきたとき、とか、
吉田秀和氏の「『たとえ世界が不条理だったとしても――新・音楽展望 2000-2004』(朝日新聞社、2005)」の、二冊を担当し、そのできあがったものをおくってくれたときにも、相当に敵側の気配を、感じ取りました。
 彼女は、お子様が、自閉症と診断されたのちは、筑摩書房を退職して、在宅のフリーの編集者となったのです。で、立派な本を編集し続けてきました。しかし、だからこそ、井上
ひさしとか、伊藤玄二郎とか、三輪喜久代さんとかと、深い結びつきがあって、・・・・・・しかも、其れを、見せつけない様に頼まれていて、ああいう態度を、取っていたのでした。しかし、2012年に、安藤てる子さんの件で、新百合ヶ丘から、彼女の自宅へ電話をかけた際に、電話口に出てきた彼女のご主人から、手ひどい軽蔑の発言を受けてから、裏側の実像は、知っていたのです。
 それでもね。気が付かないふりをしていました。ところが、上で言って居る古村浩三君が、同期生を募って、みんなで、寄付金を一緒に集めて出しましょうと、言う話を出してきて、それを委員会を作って、実行をしました。その理事(または、幹事役)として、笠松敦子さんが、くわっていた事は、敵方にすれば、快哉を叫びたいほどの勝利だったと、思う。しかし、仕方がないので、ただ、黙っていた。
 さて、2016年になって、やまゆり園事件が起きる。すると、事件の起きた月曜日の、夜に手をつなぐ親の会が、声明を発表をした。あまりにも手早い措置であって、それも、私が、この事件が謀略であると、信じる由縁の一つとなっている。
 
 ところで、上の方で言って居るが、当時の、国際キリスト教大学の卒業生は、一般の日本人よりもキーボードしょりが早いと、言って居ます。それが、1960年代ですね。その後も、笠松敦子さんは、ずっと、在宅編集者といて、キーボードを扱っているわけです。し可も、私生活では、お子様(自閉症児)のための、ホーム頁、及びブログ活動、及び、狛江市や、自閉症児団体の、啓蒙や、発信活動を、続けているのです。したがって、私はどこかで、・・・・・・コの素早すぎる声明は、笠松敦子さんが、書いたはずだ・・・・・と、言い切って居ます。
 ところが、ネット情報として、違うと、言う事情が私に開示されました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
 この件ですが、大変、似た様な、ケースとして、横須賀市池田町六丁目に、ある、杉本俊一元横須賀市、副市長邸の、近所の土地、1千坪が、ずっと、開発されないでいて、杉本家は、ほとんど、千坪の庭を持っているのと同様であると、書いています。それだけの恩典をもらって居るのは、例の、地籍変更届という、大悪事(横須賀市の水道山が、無償で、ある個人へ手渡された)に協力した、恩典であろう。と、書いています。当時杉本俊一氏は、横須賀市の土木課長であり、しかも、私は内々で、こういう異常なことが起きていますよと告げているのに、私の方を無視したのですからね。横須賀市民に対する裏切り行為の一つです。
 それが、この2019年4月9日に現地に行ってみると、十一軒ぐらいのデザイナーズ、建売住宅が建っていて、駐車場に、ベンツが停まっているなどという、高級住宅街へと、変身していました。また、後ろ側の山も開発中でした。
 で、結果として、私の文章の方が間違って居るという事になりますね。しかし、30年以上、ご近所がないという形で、杉本邸は、保護されていたのです。其れについては変わりはありません。それに、地籍変更届が、起きてから、40年たっていますので、あれこれ、変更することが、彼等には可能だったのです。今般青地の存在場所が、私が知っている図面とは、まるで、違って居たとか、いろいろ、ありますので、全般的に、私が間違って居るという事でもないのですよ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 この杉本俊一邸、近辺の空き地問題と、やまゆり園事件の起きた当夜に、発信をされた、手をつなぐ親の会の声明というのの、いきさつが、非常に似ている様に思われるのです。
 やまゆり園事件は、私に言わせると、とんでもない食わせ物の謀略です。19人は死んでいないし、植松聖は、作り上げられ、洗脳され、演技している、犯人にすぎません。
 しかし、前夜徹夜をしているし、月曜日は、必ず、銀座の画廊街へ行くはずで、ブログが書けないから、通るだろうと、思って事件を発生をさせたのですが、
 たまたま、事件の当日、朝の五時から、起きていて、午前7時からブログを書き始めています。これもまた、井上ひさし原案、実行準備係が伊藤玄二郎であろう、謀略です。しかし、参議院議長、(当初は、総報道をされていたが、途中から)衆議院議長、まで、巻き込んでいますので、この二人だけではなくて、警察庁、神奈川県、及び、関係する医療機関、そして、谷垣禎一氏等が、事前に、洗脳教育を受けていた大規模な、謀略事件なのです。
 しかし、私が書いていることが正しいからこそ、大急ぎで、伊藤玄二郎達、鎌倉エージェント側を、援助する必要が出てきて、其れに役立つ支援人として、二つの方向で、準備をされたのが、神奈川県側(やまゆり園は、神奈川県立の施設だったからだが)の黒岩県知事だったのです。それが、一つ目で、もう一つは、夜に発信をされた、手をつなぐ親の会の、声明でした。
 今般の、第一次地方選挙で、事前にも、事後にも、神奈川県知事、候補者、及び、当選者・黒岩氏に関する情報が徹底的に抑えられていたのも、やまゆり園事件に関する真実を私に語られてしまうことを恐れての事でした。
 其れを、書きかけて途中になっているのが、後注2に置いた文章です。
 
 で、二つ目の、夜発信をされた声明の方へ、戻ります。私は、其れを手配したのは、笠松敦子さんであろうと、書いています。それは、寄付金の問題で、古村浩三君とつるんでいますね。したがって、笠松さんは、そちら側の、陣営に立つ戦士と、既になっているので、依頼を受ければ、すぐさま手配をする可能性が高いのです。
 古村浩三君は、先輩である、石塚雅彦さんと、非常に親しくて、その石塚さんは、伊藤玄二郎達と密接でありますから。
 しかし、上で言って居る様に、そう書いてから、数か月、もしくは、数年たってから、否定をされました。私のブログの、其の章に対して、「これは、違う」というコメントとして、知らされたわけではなくて、「あの声明は、素晴らしい」というお褒めの記事とともに、其の全文が、私の目の前に出現をしたのです。
 すると、文末に署名があって、それは、その当時の全日本、手をつなぐ親の会の会長であった、某女史でした。
 しかし、その署名を見ても、私の、考えは変わりませんでした。その女性は、その時点まで、一切テレビ画面に登場しません。実在をするのでしょうが、登場をしません。その後も一切登場しません。
 テレビ画面に登場するとウソがばれるからです。本日、2019-4-16以降に彼女が登場したら、私は持論が正しかったと、結論をつけます。
 
 で、私は依然として、当夜、発信をされた声明は、原案及び、草稿も、笠松敦子さんが制作し、アップも彼女が行ったと、推察し続けています。ただし、名前は、依然として、某女史でしょう。事件当夜、及び、数か月間、私のパソコンでは、其れを見ることができあいませんでした。今どうであろうか? 時間がないので、確認をしませんが、持論が正しいと確信をしています。
 
 この時に、私は、笠松敦子という友人を、70%の部分で、切り捨てました。敬愛の念を捨てました。『なんという馬鹿なことをやっているのだろう!』と、思いました。お子様が、自閉症で、大変だったのに、其れを、単なる謀略的嘘として使う悪人連中に協力をする人として、とらえる様になったからです。
 30%の部分では友愛感情は、残してあります。それは、お嬢さんに関する部分です。素敵な青年と知り合うと、あそこのお嬢さんは、お兄さんが自閉症なので、バランスが悪くて、30歳までは、まだ、結婚をなさっていなかった。この青年をお見合い相手として、紹介をしたいなどと、思いますが、それ以外の、感慨は、無いのです。
 でね。はっきりと敵対者として、見始めてから、敵対者であるからこそ、確認をしたいことができてきました。
 私はブログ内で、彼女があの声明の文案を作ったし、公開の措置も彼女が取っただろうと、はっきりと書いていて、其れを、いまだ、否定をしていないのですよ。
 彼女は、ある時点で、「あなたのメルマガを、受け取るのをお断りをしたいと、言ってきました。メルマガには、こういう政治的問題は、書いていない上に、AOL側で、突然に、相手に届かないという措置を取られ始めたので、事実上停止しています。
 だから、このブログに何を書いても、知らないのだと、いう事もできます。
 しかし、例の寄付の、幹事委員会で、古村浩三君とつるんでいるのですよ。当然のごとく、このやまゆり園事件で、私が何を書いているかは、届いているはずです。
 で、其れを確認する作業に取り掛かることといたしました。
 届いているのに、無視し続けているのなら、私の考察は正しいとなります。
 しかし、届いていないのが、真実だと、感じたら、そこで、改めて、話をし始めたもいいと、考えて、電話をかけたのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
 さて、電話をかける前に、シミレーションを二つ立てました。
 ところで、皆様、私はここで、外出をしないといけなくなりました。時間のリミットがある相手先です。この続きは、明日、又は、別の日に書きます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
副題7、『午後三時に家を出て、夜8時に帰宅をした。そして、ゆっくりと、心身を休めていたところ、ワンギリの電話が、数年ぶりにかかってきた。で、五時間の休息を経て、又、ブログを書く事と、意志を奮い立たせているところである』
 
 本日は、続きを書かない予定だった。体力を温存して、しっかりとした、最高の状態で、明日、続きを書くつもりだった。それで、テレビをゆっくりとみていた。NHKの【プロフェッショナル】で、美尻トレーニングを、売り物にしている女性が、出現。
 この美尻という言葉は、私にとっては、鬼門である。泥棒ちゃんが、10年以上前に、寝室に、【美尻and 美脚】というラベルを置いて帰ったのを、泥棒の侵入の証拠として、ブログ化している。しかし、その私のブログを打ち消すかの如く、アンアンが、美尻and美脚特集を打った。私はそれを、私のブログが正しかったことを傍証づけるものだと、認識していて、最近、画家Aという泥棒と、安野忠彦氏という二人のご近所様が、警察から合鍵をもらって居て、種々様々な悪さをしに、この私の家に、侵入をして居ることを書き続けている。その二軒の家の上部に存在する、鎌倉エージェントは、私が書いていることを否定するつもりで、雑誌【アンアン】を使ってきたのだけれど、私は、其れを二重否定として、勘案するのだった。したがって、直木賞受賞者、林真理子が裏で動いて、アンアンは、そういう特集号を出したのだし、その裏には、井上ひさしの意思が存在したと、考えている。
 本日、2019-4-16のプロフェッショナルが、美尻トレーナーという人物を取り上げたのも、結局は、鎌倉エージェントが、NHKを支配していると、いう事のあかしだし、ご近所が、泥棒に入っているのも、正しかったのだと、思う。
 しかし、その番組を、見ているうちに、その主人公が、アメリカで、教育を受けて、アメリカ人女性の良い部分(=個性を大切にする。一方で、日本人女性は、横並びで他人と、同じであることを大切にする)を、日本人女性に、植え付けたいと願って居ることを知り、其れは、私も同じだから、割と、熱心に見始めた。
 まあ、私の本音としては、・・・・・日本は、被・植民地国家だから、あに、ただ、若い女性に限らず、みんな没個性で、横並びを、やりたがるわけで、其のトレーナー一人が頑張っても社会が変わらない限り、日本人は、女性であれ、男性であれ、変わらないのだけれど・・・・・といいたいが、それでも、その番組を面白いと思って注目をしていた。すると、テレビのそばに置いてある、新しい機種の電話の、発信先電話番号を教えるウィンドーに、光が入った。時間は、23時直前である。『立っていったら、相手先電話番号がわかるかなあ』と、思ったが、立っては、行かなかった。『どうせ脅かし用ワンギリであろうから、相手は、番号非通知で、掛けてきているはずだから、立って行って、確認をするのも無駄な作業だろうと、思ったからだ。案の定、ワンコール程度で、電話は切られて、例のワンギリであった。これは、
 こういう時間帯に、電話をかけてくる人の心当たりは、二人あった。一人は、津田塾大学卒の、インテリ女性であり、もう一人は、いまだ、実際には、生きている井上ひさしである。私は後者だと、思って居る。そして、久しぶりに彼が真夜中のワンギリを、行ったことに、意味を感じて、急にブログの、続きを書く事と、意志を変更をした。

@@@@@@@ここが、第一の書きかけ中の最先端です。

 この数字を利用する話とか、コンクールを利用して、言論弾圧を行うケースは、佐野研二郎の、オリンピックエンブレム選定に、もっとも派手に表れた現象でした。

 佐野研二郎は、盗作を指摘されていますが、どうして盗作などやったかというと、重圧に負けたからでしょう。

尚、このブログの2010年より数え始めた延べ訪問回数は、5268607です。


 

 @@@@@@@@ここが、第二の、書きかけ中の最先端です。

日本の歌百選(にほんのうたひゃくせん)は、2006(平成18年)に日本文化庁日本PTA全国協議会が、親子で長く歌い継いでほしい童謡唱歌歌謡曲といった抒情歌愛唱歌101曲を選定したもの。

一般から募った895曲から選考委員会が選出し、200612月15に最終的に決定した。発表は20071月14新国立劇場で行われ、これらを歌うコンサートも合わせて開催された。

 

後注1、

藤木大地を、聞いてきました。    2019-04-14 21:02:06 | 音楽

後注2
NHKは神奈川県知事選挙について触れない。なぜか? ・・・・栗田玲子、浅尾慶一郎、竹中直人、寺島しのぶ、飛んで埼玉△
2019-04-08 20:54:59 | 政治

 

 

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