今日は間違えて、タイトルと言うか、メモだけが公開されていました。しかもその後で、12時間も気がつかず、ほうったらかしみたいになっていて、失礼をいたしました。何かクリック間違いをして公開してしまい、その後ずっと忙しかったので、パソコンを開けませんでした。おわび申し上げます。今から大いそぎで続きを書きましょう。
画廊のオーナーのお葬式で、今でも忘れられないのが、磯良さんのケースでした。こちらの方は男性で、50代の働き盛りでしたが、急逝されました。画廊の場合、先々まで予定が詰まっているのでオーナーが急逝されても、ぱちっと、ドアーを閉めるわけには行きません。
それで、壁には、展示がしてある形で、しのぶ会というか、お通夜が行われました。連日です。夜ではなくて、昼間から・・・・・
その画廊は汲美といって、昔は、京橋にあって、二つの部屋がありました。これは、前日申し上げたギャラリー山口と同じで、画廊の経営としては、うれしい形です。前にも申し上げたように、日本では、画家のほうが借り賃をだして、個展をする形が定着しました。だけど、欧米風に、
画廊主が、画家を支援して、ただで、個展を開いてあげて、その絵が売れたお金で、画廊の利益も上げ、オーナーやスタッフ(若手の事務員さん)のお給料を捻出する形も、とりたいわけです。で、二つあると、その両方ができるので、実利もあるし、誇りも満たせると言うことになります。
今度銀座の画廊をお訪ねになると、今ではそういう形式が多いことにお気づきになるでしょう。つまり、体力のある画廊とは、そういう形式で、運営されています。今でも、残っている
(と言うのは、不況になると、こういう風に風下の仕事はもろ、影響を受けて、閉鎖する画廊も多いのです。また、オーナーの年齢があります。戦後の高揚期、または、高度成長経済期に画廊を始めた方は、そのころ、40代であれば、山口さんと同じく、60代となりますし、または、70代となりますので、ちょうどやめ時となるわけです)画廊とは体力が(つまり、経営が健全で)あると言うことになります。
そして、その京橋の時代には、磯良さんは、コンクールも主催されていたのです。自分だけが審査をするのではなくて、美術評論家とか、有名なえらい画家にも依頼して、一緒に審査をして、<30代までかなあ? まだ、メディア等に取り上げてもらっていない>画家を、支援するのが、目的です。
こういうことをなさる画廊は少ないのです。ただ、画廊賞というのを大きな展覧会(業界用語で、団体展といい、日展とか版画協会展とか、いろいろあります)に出す画廊はあります。こんど、この件でまた、書くときもあると思いますが、今日は、磯良さんのお葬式が問題なので、磯良さんに集中します。
しかし、それは、費用がかかります。メディアへの広告料、そのほか。そして、コンクール前後は貸し画廊(お金をとる形式の個展)もできません。その出費だけが原因ではないと思いますが、移転をされました。特にビルの建て替えもあって、移動をなさったのです。
今度は一室だけ。前とはまるで違って、庶民的な雰囲気の部屋でした。それで、なんとなく、気の毒でもありました。だけど、急逝なさった後では、その庶民的な<一室>だけであることが、かえって、ぴったりであって、そこで、磯良さんを懐かしみ、しのぶことが、素敵に、暖かい雰囲気を、かもし出したのです。
壁には、その週の画家の絵がかけられていて(画廊とは、先々まで予定が入っているので、オーナーが急逝なさっても、急にドアを閉めるわけには行きませんので)います。特にグループ展(それは、大勢の人が関係のある展覧会形式です。それは、偶然ですが、しのぶ会を開くためにはよかったことです)でした。
が、ひとつの壁面に、工夫をした祭壇がしつらえてあって、磯良さんの写真が飾ってあり、お花や、果物が供えられていて、簡素ですが、一種の祭壇となっています。その前の、普段は一メートルかける50センチぐらいの小さなテーブルが、拡張されていて、皆さんがもちよったお菓子や、デパ地下で買ってきたお惣菜などが並べられ、皆さんが、これも持ち寄ったであろうワインや、ビールがあけられ、しんみり過ぎるでもなく、はしゃぎすぎるでもなく、それぞれが、自分の語りたいことを語っているのです。磯良さんの思い出だけを語っているわけではありません。でも、そこに、共通する思いはある。悲しくて切ないと言う。
そして、すばらしい言葉も聴きました。「ああ、痛いなあ。(磯良さんが亡くなって)」と言ううめきにも似た言葉。40代の女流画家でした。これから、毎年、一回でも、企画展(つまり、場所代を不要な形での個展)をして行きながら、本当のプロとして、有名になって行く年齢です。そこを以前も言いましたように、一種のマネージャーとしての画廊のオーナーと一緒に進んでいくわけです。
画家専属ですとお金持ちではないです。特に現代アート(一般の言葉で言う抽象画)を専門としていて、ほかに、先生などの職業がない形で、画家として、ずっとやっていくのは大変です。ボーナス等がないわけですから・・・・・
その際、一年に一回でも、費用をかけないで個展をしてもらうのは、新しいお客様を開拓しながら売ったり自己宣伝をして行かれるので、非常に幸いなことなのです。個展の案内状も、500通ずつ、違った分野に出すとか、そういう形で、工夫をしていかれますが、そのことが決まっているのと、決まっていないのでは、気分も違うし、時間の使い方もまったく異なってきます。
「汲美と言う名前の通った、立派な画廊でやりますよ」と言うことは自分をも支えるし、対世間としても、信用を醸成するのです。
そこまでの声を出さない人も、皆さんが懐かしみ、悲しがっていました。
~~~~~~~~~~~
そして、その昼間から夜まで行われた通夜は、ほぼ、2週間続いたでしょう。みなさん、十分に悲しみつくし、また、顧客として訪れるかたの、ほとんどに、電話でもなく、手紙でもなく、メールでもなくて、通知が行ったという形です。大体その画廊が好きな人は、二週間に一回ぐらいは訪問をするものだからです。
しかも二ヵ月後ぐらいの、後日、ホテルでも、ちゃんとしたしのぶ会があったそうです。これは、人徳もあるが、喪主と言うか、ちゃんと、束ねる人があったからです。先ほど言った、うめいていた人などが、画廊にとっては重要な人物(画家)として、ほぼ毎日お手伝いに来ていたでしょう。電車賃、ワイン代等、決して、裕福ではなくて、かつ、欧米への取材費や材料費もいる画家にとっては、大変なことですが、人が一人亡くなるということは、それこそ、大変なことで、近しくて親しみを感じたり、恩を感じたりしている人にとっては、お金や時間にはかえられない出来事です。
~~~~~~~~~~~~
比較すると、山口さんがものすごく気の毒でした。まず、お年から言って、兄弟が、助けを出さないみたいでした。年上なら、次の代になっていて、みなさん、30か、40代、忙しいですね。それにおばのために、2~300万円のお金は出せないかもしれない。
そして、喪主としては、名乗り出ないかもしれない。山口みつ子さんは、生涯未婚だったわけですが、そのことも、兄弟や、姪御さん、おいごさんたちとは、考えが違う話だったかもしれません。また、係累がまったくと言ってよいほど、なかったのかもしれません。今では都会では子供のない家庭も多いから。
「ちゃんと、結婚してくれていたら、私たちがでしゃばらなくてもよかったのに」とか、言われてご家族だけで密葬をされたような気もします。
でね。他人(特に私のような立場のもの)は、誰も、お見送りができませんでした。
お花料でもささげたいと思いましたが、責任を持てる人が誰もいないのです。大変しつけのよいスタッフさんがいましたが、山口さんは、彼女をすでに解雇していて、「たまたま、ボランティアーとして、後始末をしてあげている」とのうわさを他者から聞きましたので、彼女を煩わせるわけにも行かず、ほかの人も、ほとんど何も決定権がないのです。
ここは、この画廊つきの作家では、社会的な存在としては、一番えらい人である野見山暁司さんが、出てくるべきだと、思います。
実は、最終週にうわさを聞きました。「1月31日に、小さなしのぶ会が行われるとのこと」を。しかし、それを教えてくれた方が「あなたもどうぞ」とは言わないのです。「それは、小さな会ですから」と婉曲に断られました。と、言うことは、ギャラリー山口で個展をした作家だけでやりたいと言うことだし、それ以外の訪問者は、野見山暁司さんとか、そのほかの主要な方の、知り合いのみと言うことでしょう。
で、そこを押して出席するほど、強気な人間でも、私はないので、土曜日にお花を作ってもって行きました。材料費を、香典ぐらいかけて、自分で、盛り花を作り、画廊へもって行きました。
この日曜日のしのぶ会ですが、日曜日に開かれてしまっては、私のようにフラッと画廊を訪れるタイプの人間には、出席することもできません。実は、本当のことをいえば、美術の世界は狭量なところがあります。偉い人ほど、そうですし、世界そのものも小さいです。版画が比較的に、世界へ門戸が開かれています。だから、より近代化していますが、絵の世界はまだまだ、古い体質が残っています。
これは、私が想像するに、パイが小さい(買う人、たとえば美術館の数が、限られている)から、ご自分の優越権やら、名声を、他人に、譲り渡したくないのかな?
すでに、偉くなっている人に対しては、失礼な言い方ですが、そうとしか思えないことが、たびたびあります。そういう中で私など必死になって、この世界を広げようとしているわけですが、なかなか、内情を言うと、大変なのです。足をとられることが多いのですよ。性格の問題より、政治的な文章を書くことに原因があるでしょう。
政治的なメッセージを発しますので、別の世界である、美術の世界の方で、いじめられてしまいます。それが言論弾圧の一変形だと言うことです。「あの人はのいろーぜだよ」といううわさを流されて、人が急に白目で見ることしょっちゅう在ります。今回、山口さんにひどく同情しているのは、あとで、悪いうわさが流されていて、そこが、なんとも言えず、不快であり、疑問があるからです。
ともかく、その日曜日に予定をされていたしのぶ会の方へ、話を戻しましょう。
私は、香典として、用意していたお金5000円で、お花を買い、自分でコンポーネント(盛り花)を作りました。花屋で買えば、一万円ぐらいの感じで作り上げました。よく、葬式の祭殿に上げてある、白菊中心ではなくて、白系統の花をさまざま集めて、自分なりにオアシス(スポンジの別名)にさし、それを、いたまないように、工夫して家から持って出ました。
駅からギャラリー山口へたどる道すがらの画廊で、チラッとそれを見せて、「これ、あるところにもっていくの」というと、見た方が異口同音に、「山口さんね」とおっしゃいました。みんな心の中で『気の毒だったなあ。かわいそうだったなあ』と思っているのです。
それを、しのぶ会の中央のテーブルにでもそっと置いていただき、それで、山口さんをしのぶつもりでした。参加していなくても、心だけを花に託して・・・・・だから、買った盛り花では心が足りないように思えて、自分で作ったのです。
~~~~~~~~~~
しかし、しかしなのです。「なんと、しのぶ会は行われなくなった」と、そのお花を持参した土曜日に聞きました。その瞬間に深い深い疑念を、野見山暁司さんに対して抱きました。
もちろん、九州にいらっしゃったのでしょう。で、「僕は、上京はしないよ」とでもおっしゃったのではないかなあ。これは、例の私固有の見てきたようなうそをいいですが、上品な言い方をしたほうです。もっと、冷淡なことをおっしゃったのかもしれない。だって、野見山さんがいなくても、できるはずでしょう。でも、できなかった。それで、「主役が欠席なら、なんとなく、盛り上がらないから止めましょう」と言うことか、それ以上、たとえば、「やらないように」とでも、おっしゃったのではないかなあ。
ここでは、「僕は行かれないけれど、東京に住んでいる千里を代理として、参加させますから、みなさんよろしくね」と言ってもらいたかったですね。または、「東京の知り合いたちにも、声をかけるから、君よろしく、司会でも、スピーチでもお願いしますよ。急なことで、本当に、気の毒だったねえ」という言葉でもあれば、ギャラリー山口付きの、次のランクとして、または、三番目のランクとして、かかわった(個展をやった)人が、主役として会を行えばよいのです。
もちろん、ここでこう書けば、きっと、野見山暁司さんが声をかけてホテルで、一ヶ月か二ヵ月後に、立派なしのぶ会が開かれると思います。それは、会費、一万円ぐらいで、しかるべき人だけしか、招かれない会でしょう。でも、開かれないよりはましですが、それでも、あの1月31日に予定されていた<小さなしのぶ会>は、行われた方がよかったと思います。
磯良さんの場合は、ほぼ、10日以上、毎日、小宴会が開かれていたのですよ。その上での、ホテルでの会でした。二重になってもよいのです。
土曜日には、ギャラリー山口に、相当な人数が集まっていました。それらの人たちの中で、知り合い同士は飲み屋等に誘い合わせて行くことができたと思いますが、そのグループの中の誰かと知りあいでない人は、参加しにくかったと思います。日曜日としては、すでにキャンセルになったのでしたら、それを、急遽土曜日に回してもよかったと思います。一応ですが、デパ地下で何かを買ってきて、パーティをやっていれば、都心へ一時間以内に来ることができる人は電話で呼び出せば、参加できるし、その場で顔合わせをして、その後で、みんなでそろって、二次会をすれば、仲良く話ができるでしょう。知らない人とでも、山口みつ子さんを、話題として。
そうなんです。誰かに真心や、親切心があれば、どんな風にでも工夫はできます。『もしかしたら、野見山さんに非常に冷酷な心があったのではないかなあ』とさえ、推察ができてしまいます。だって、山口さんの最後って、彼女らしくないのです。
悪いうわささえ流されています。それも、変です。特にお金に関して、「詐欺だ」なんていう人があります。予約金を返さなかったと言う話です。その額はどのくらいなのだろう。
3万円か、5万円だったら、許してあげてほしいです。もし20万円だとしたら、それを返さなかった山口さんは普通の状態ではなかったと思いますが、それでも、死者に鞭打つようなまねはやめてほしいです。だって、お葬式の費用さえ用意できなかったのかもしれないし、老人ホームへ入るお金も用意できなかったのかもしれないじゃあないですか? そんな人に20万円(決してそれほどの額を取ってはおられなかったと思いますよ。わからないけれど、・・・・・
私はキャンセルしたときにちゃんと戻していただきました。17万円ぐらいかなあ。それは、三年前の2007年の前半でした。そのときに、ずいぶんちゃんとした方だなあと尊敬したものです。だから、今回が、とても、異常なのです。返却できませんと本当に彼女が言ったのなら、なにか、深い絶望を喚起したことが、裏にあるのでしょう。どういう理由があれ、見逃して挙げてほしいです。
ちゃんとしたお育ちの、プライドの高い方が、何もかもほうっぽり投げるようにして、急に画廊を閉鎖したのには、深い絶望が横たわっていたのでしょう。私が相談されたのなら、何かの力になれたと思います。だけど、山口さんは、自分より力の強い人に頼りたかったのでしょう。
皆様にも言いたい。偉い人は当てにはなりません。やさしい人とは野の草のように、出世などできないひとです。だから、本当に困ったときは、自分より目下の人に相談することです。
私は成り行きがあまりに変なので、急逝の知らせを受けたときに、一瞬、『他殺では、ないか』とさえ思ったほどです。彼女がお金を返さないなどと、そんなことをするはずがないです。それに、後日、さらに変なうわさも流れた。それも、おかしい。いろいろなことが非常におかしいです。
彼女は、これから、仕事もなくなって、さびしい一人暮らしを続けなくてはいけないと思って、不安がいっぱいであったでしょう。その、山口さんを、当座慰めて挙げられるのなら、私は自分の私生活など、いかようにも脚色できるのです。「あなたよりしあわせっていうことはないわよ。みんなおんなじ」と力強く、いえます。ともかく大切なことは、弱い状況にある人を、支援することです。それも彼女が尊敬していて、目上と思う人からでないと効果がないでしょう。私では役不足だったのです。
名声や、地位があっても、人は満たされず、悲哀を感じるときもあるでしょう。そういうときは誰かが慰めてあげなければなりません。それは、たくさんの該当者がいたはずです。30年も画廊をなさっていたのです。知り合いは大勢いらっしゃったであろう。でも、彼女の方がほしかった慰めや、元気付けを、ほしかった相手からもらえなかった可能性はあるのです。
演技でもよい、芝居でもよい。野見山さんには、もっと、役割を果たしていただきたかったですよ。大画家と言えども、そしてたった年に一回、一週間だけの付き合いとはいえ、毎年、その個展をしてあげるためには、一年に五十週以上、山口さんは、いろいろなお客に頭を下げ、その場所をハレの場として、きれいに保つ努力をこめた日々送っていらっしゃったのです。九州にまでは手伝いにいかれなくても、縁の下の力持ちとして、東京でがんばっていたのです。たった一週間の影に、ほかの、50週の積み重ねが隠されているのです。
しのぶ会などの、彼女の努力と献身を、記念するものが何も行われず、突然に明かりが消えて、ドアが硬く閉まっているを、京橋に行くたびに見つけます。非常に切ない風景です。
なお、今日はご返事をいただかないツィターみたいな形での、アップロードになりました。大変失礼をいたしました。五、六行書いたらすぐと言う形でアップしたので、文章として、構成やまとまりが、どうなったか、まるでわかりませんが、『ここで、一応の起承転結がついた」と感じますので、終わりとさせてくださいませ。 では、2010年3月6日 雨宮 舜
画廊のオーナーのお葬式で、今でも忘れられないのが、磯良さんのケースでした。こちらの方は男性で、50代の働き盛りでしたが、急逝されました。画廊の場合、先々まで予定が詰まっているのでオーナーが急逝されても、ぱちっと、ドアーを閉めるわけには行きません。
それで、壁には、展示がしてある形で、しのぶ会というか、お通夜が行われました。連日です。夜ではなくて、昼間から・・・・・
その画廊は汲美といって、昔は、京橋にあって、二つの部屋がありました。これは、前日申し上げたギャラリー山口と同じで、画廊の経営としては、うれしい形です。前にも申し上げたように、日本では、画家のほうが借り賃をだして、個展をする形が定着しました。だけど、欧米風に、
画廊主が、画家を支援して、ただで、個展を開いてあげて、その絵が売れたお金で、画廊の利益も上げ、オーナーやスタッフ(若手の事務員さん)のお給料を捻出する形も、とりたいわけです。で、二つあると、その両方ができるので、実利もあるし、誇りも満たせると言うことになります。
今度銀座の画廊をお訪ねになると、今ではそういう形式が多いことにお気づきになるでしょう。つまり、体力のある画廊とは、そういう形式で、運営されています。今でも、残っている
(と言うのは、不況になると、こういう風に風下の仕事はもろ、影響を受けて、閉鎖する画廊も多いのです。また、オーナーの年齢があります。戦後の高揚期、または、高度成長経済期に画廊を始めた方は、そのころ、40代であれば、山口さんと同じく、60代となりますし、または、70代となりますので、ちょうどやめ時となるわけです)画廊とは体力が(つまり、経営が健全で)あると言うことになります。
そして、その京橋の時代には、磯良さんは、コンクールも主催されていたのです。自分だけが審査をするのではなくて、美術評論家とか、有名なえらい画家にも依頼して、一緒に審査をして、<30代までかなあ? まだ、メディア等に取り上げてもらっていない>画家を、支援するのが、目的です。
こういうことをなさる画廊は少ないのです。ただ、画廊賞というのを大きな展覧会(業界用語で、団体展といい、日展とか版画協会展とか、いろいろあります)に出す画廊はあります。こんど、この件でまた、書くときもあると思いますが、今日は、磯良さんのお葬式が問題なので、磯良さんに集中します。
しかし、それは、費用がかかります。メディアへの広告料、そのほか。そして、コンクール前後は貸し画廊(お金をとる形式の個展)もできません。その出費だけが原因ではないと思いますが、移転をされました。特にビルの建て替えもあって、移動をなさったのです。
今度は一室だけ。前とはまるで違って、庶民的な雰囲気の部屋でした。それで、なんとなく、気の毒でもありました。だけど、急逝なさった後では、その庶民的な<一室>だけであることが、かえって、ぴったりであって、そこで、磯良さんを懐かしみ、しのぶことが、素敵に、暖かい雰囲気を、かもし出したのです。
壁には、その週の画家の絵がかけられていて(画廊とは、先々まで予定が入っているので、オーナーが急逝なさっても、急にドアを閉めるわけには行きませんので)います。特にグループ展(それは、大勢の人が関係のある展覧会形式です。それは、偶然ですが、しのぶ会を開くためにはよかったことです)でした。
が、ひとつの壁面に、工夫をした祭壇がしつらえてあって、磯良さんの写真が飾ってあり、お花や、果物が供えられていて、簡素ですが、一種の祭壇となっています。その前の、普段は一メートルかける50センチぐらいの小さなテーブルが、拡張されていて、皆さんがもちよったお菓子や、デパ地下で買ってきたお惣菜などが並べられ、皆さんが、これも持ち寄ったであろうワインや、ビールがあけられ、しんみり過ぎるでもなく、はしゃぎすぎるでもなく、それぞれが、自分の語りたいことを語っているのです。磯良さんの思い出だけを語っているわけではありません。でも、そこに、共通する思いはある。悲しくて切ないと言う。
そして、すばらしい言葉も聴きました。「ああ、痛いなあ。(磯良さんが亡くなって)」と言ううめきにも似た言葉。40代の女流画家でした。これから、毎年、一回でも、企画展(つまり、場所代を不要な形での個展)をして行きながら、本当のプロとして、有名になって行く年齢です。そこを以前も言いましたように、一種のマネージャーとしての画廊のオーナーと一緒に進んでいくわけです。
画家専属ですとお金持ちではないです。特に現代アート(一般の言葉で言う抽象画)を専門としていて、ほかに、先生などの職業がない形で、画家として、ずっとやっていくのは大変です。ボーナス等がないわけですから・・・・・
その際、一年に一回でも、費用をかけないで個展をしてもらうのは、新しいお客様を開拓しながら売ったり自己宣伝をして行かれるので、非常に幸いなことなのです。個展の案内状も、500通ずつ、違った分野に出すとか、そういう形で、工夫をしていかれますが、そのことが決まっているのと、決まっていないのでは、気分も違うし、時間の使い方もまったく異なってきます。
「汲美と言う名前の通った、立派な画廊でやりますよ」と言うことは自分をも支えるし、対世間としても、信用を醸成するのです。
そこまでの声を出さない人も、皆さんが懐かしみ、悲しがっていました。
~~~~~~~~~~~
そして、その昼間から夜まで行われた通夜は、ほぼ、2週間続いたでしょう。みなさん、十分に悲しみつくし、また、顧客として訪れるかたの、ほとんどに、電話でもなく、手紙でもなく、メールでもなくて、通知が行ったという形です。大体その画廊が好きな人は、二週間に一回ぐらいは訪問をするものだからです。
しかも二ヵ月後ぐらいの、後日、ホテルでも、ちゃんとしたしのぶ会があったそうです。これは、人徳もあるが、喪主と言うか、ちゃんと、束ねる人があったからです。先ほど言った、うめいていた人などが、画廊にとっては重要な人物(画家)として、ほぼ毎日お手伝いに来ていたでしょう。電車賃、ワイン代等、決して、裕福ではなくて、かつ、欧米への取材費や材料費もいる画家にとっては、大変なことですが、人が一人亡くなるということは、それこそ、大変なことで、近しくて親しみを感じたり、恩を感じたりしている人にとっては、お金や時間にはかえられない出来事です。
~~~~~~~~~~~~
比較すると、山口さんがものすごく気の毒でした。まず、お年から言って、兄弟が、助けを出さないみたいでした。年上なら、次の代になっていて、みなさん、30か、40代、忙しいですね。それにおばのために、2~300万円のお金は出せないかもしれない。
そして、喪主としては、名乗り出ないかもしれない。山口みつ子さんは、生涯未婚だったわけですが、そのことも、兄弟や、姪御さん、おいごさんたちとは、考えが違う話だったかもしれません。また、係累がまったくと言ってよいほど、なかったのかもしれません。今では都会では子供のない家庭も多いから。
「ちゃんと、結婚してくれていたら、私たちがでしゃばらなくてもよかったのに」とか、言われてご家族だけで密葬をされたような気もします。
でね。他人(特に私のような立場のもの)は、誰も、お見送りができませんでした。
お花料でもささげたいと思いましたが、責任を持てる人が誰もいないのです。大変しつけのよいスタッフさんがいましたが、山口さんは、彼女をすでに解雇していて、「たまたま、ボランティアーとして、後始末をしてあげている」とのうわさを他者から聞きましたので、彼女を煩わせるわけにも行かず、ほかの人も、ほとんど何も決定権がないのです。
ここは、この画廊つきの作家では、社会的な存在としては、一番えらい人である野見山暁司さんが、出てくるべきだと、思います。
実は、最終週にうわさを聞きました。「1月31日に、小さなしのぶ会が行われるとのこと」を。しかし、それを教えてくれた方が「あなたもどうぞ」とは言わないのです。「それは、小さな会ですから」と婉曲に断られました。と、言うことは、ギャラリー山口で個展をした作家だけでやりたいと言うことだし、それ以外の訪問者は、野見山暁司さんとか、そのほかの主要な方の、知り合いのみと言うことでしょう。
で、そこを押して出席するほど、強気な人間でも、私はないので、土曜日にお花を作ってもって行きました。材料費を、香典ぐらいかけて、自分で、盛り花を作り、画廊へもって行きました。
この日曜日のしのぶ会ですが、日曜日に開かれてしまっては、私のようにフラッと画廊を訪れるタイプの人間には、出席することもできません。実は、本当のことをいえば、美術の世界は狭量なところがあります。偉い人ほど、そうですし、世界そのものも小さいです。版画が比較的に、世界へ門戸が開かれています。だから、より近代化していますが、絵の世界はまだまだ、古い体質が残っています。
これは、私が想像するに、パイが小さい(買う人、たとえば美術館の数が、限られている)から、ご自分の優越権やら、名声を、他人に、譲り渡したくないのかな?
すでに、偉くなっている人に対しては、失礼な言い方ですが、そうとしか思えないことが、たびたびあります。そういう中で私など必死になって、この世界を広げようとしているわけですが、なかなか、内情を言うと、大変なのです。足をとられることが多いのですよ。性格の問題より、政治的な文章を書くことに原因があるでしょう。
政治的なメッセージを発しますので、別の世界である、美術の世界の方で、いじめられてしまいます。それが言論弾圧の一変形だと言うことです。「あの人はのいろーぜだよ」といううわさを流されて、人が急に白目で見ることしょっちゅう在ります。今回、山口さんにひどく同情しているのは、あとで、悪いうわさが流されていて、そこが、なんとも言えず、不快であり、疑問があるからです。
ともかく、その日曜日に予定をされていたしのぶ会の方へ、話を戻しましょう。
私は、香典として、用意していたお金5000円で、お花を買い、自分でコンポーネント(盛り花)を作りました。花屋で買えば、一万円ぐらいの感じで作り上げました。よく、葬式の祭殿に上げてある、白菊中心ではなくて、白系統の花をさまざま集めて、自分なりにオアシス(スポンジの別名)にさし、それを、いたまないように、工夫して家から持って出ました。
駅からギャラリー山口へたどる道すがらの画廊で、チラッとそれを見せて、「これ、あるところにもっていくの」というと、見た方が異口同音に、「山口さんね」とおっしゃいました。みんな心の中で『気の毒だったなあ。かわいそうだったなあ』と思っているのです。
それを、しのぶ会の中央のテーブルにでもそっと置いていただき、それで、山口さんをしのぶつもりでした。参加していなくても、心だけを花に託して・・・・・だから、買った盛り花では心が足りないように思えて、自分で作ったのです。
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しかし、しかしなのです。「なんと、しのぶ会は行われなくなった」と、そのお花を持参した土曜日に聞きました。その瞬間に深い深い疑念を、野見山暁司さんに対して抱きました。
もちろん、九州にいらっしゃったのでしょう。で、「僕は、上京はしないよ」とでもおっしゃったのではないかなあ。これは、例の私固有の見てきたようなうそをいいですが、上品な言い方をしたほうです。もっと、冷淡なことをおっしゃったのかもしれない。だって、野見山さんがいなくても、できるはずでしょう。でも、できなかった。それで、「主役が欠席なら、なんとなく、盛り上がらないから止めましょう」と言うことか、それ以上、たとえば、「やらないように」とでも、おっしゃったのではないかなあ。
ここでは、「僕は行かれないけれど、東京に住んでいる千里を代理として、参加させますから、みなさんよろしくね」と言ってもらいたかったですね。または、「東京の知り合いたちにも、声をかけるから、君よろしく、司会でも、スピーチでもお願いしますよ。急なことで、本当に、気の毒だったねえ」という言葉でもあれば、ギャラリー山口付きの、次のランクとして、または、三番目のランクとして、かかわった(個展をやった)人が、主役として会を行えばよいのです。
もちろん、ここでこう書けば、きっと、野見山暁司さんが声をかけてホテルで、一ヶ月か二ヵ月後に、立派なしのぶ会が開かれると思います。それは、会費、一万円ぐらいで、しかるべき人だけしか、招かれない会でしょう。でも、開かれないよりはましですが、それでも、あの1月31日に予定されていた<小さなしのぶ会>は、行われた方がよかったと思います。
磯良さんの場合は、ほぼ、10日以上、毎日、小宴会が開かれていたのですよ。その上での、ホテルでの会でした。二重になってもよいのです。
土曜日には、ギャラリー山口に、相当な人数が集まっていました。それらの人たちの中で、知り合い同士は飲み屋等に誘い合わせて行くことができたと思いますが、そのグループの中の誰かと知りあいでない人は、参加しにくかったと思います。日曜日としては、すでにキャンセルになったのでしたら、それを、急遽土曜日に回してもよかったと思います。一応ですが、デパ地下で何かを買ってきて、パーティをやっていれば、都心へ一時間以内に来ることができる人は電話で呼び出せば、参加できるし、その場で顔合わせをして、その後で、みんなでそろって、二次会をすれば、仲良く話ができるでしょう。知らない人とでも、山口みつ子さんを、話題として。
そうなんです。誰かに真心や、親切心があれば、どんな風にでも工夫はできます。『もしかしたら、野見山さんに非常に冷酷な心があったのではないかなあ』とさえ、推察ができてしまいます。だって、山口さんの最後って、彼女らしくないのです。
悪いうわささえ流されています。それも、変です。特にお金に関して、「詐欺だ」なんていう人があります。予約金を返さなかったと言う話です。その額はどのくらいなのだろう。
3万円か、5万円だったら、許してあげてほしいです。もし20万円だとしたら、それを返さなかった山口さんは普通の状態ではなかったと思いますが、それでも、死者に鞭打つようなまねはやめてほしいです。だって、お葬式の費用さえ用意できなかったのかもしれないし、老人ホームへ入るお金も用意できなかったのかもしれないじゃあないですか? そんな人に20万円(決してそれほどの額を取ってはおられなかったと思いますよ。わからないけれど、・・・・・
私はキャンセルしたときにちゃんと戻していただきました。17万円ぐらいかなあ。それは、三年前の2007年の前半でした。そのときに、ずいぶんちゃんとした方だなあと尊敬したものです。だから、今回が、とても、異常なのです。返却できませんと本当に彼女が言ったのなら、なにか、深い絶望を喚起したことが、裏にあるのでしょう。どういう理由があれ、見逃して挙げてほしいです。
ちゃんとしたお育ちの、プライドの高い方が、何もかもほうっぽり投げるようにして、急に画廊を閉鎖したのには、深い絶望が横たわっていたのでしょう。私が相談されたのなら、何かの力になれたと思います。だけど、山口さんは、自分より力の強い人に頼りたかったのでしょう。
皆様にも言いたい。偉い人は当てにはなりません。やさしい人とは野の草のように、出世などできないひとです。だから、本当に困ったときは、自分より目下の人に相談することです。
私は成り行きがあまりに変なので、急逝の知らせを受けたときに、一瞬、『他殺では、ないか』とさえ思ったほどです。彼女がお金を返さないなどと、そんなことをするはずがないです。それに、後日、さらに変なうわさも流れた。それも、おかしい。いろいろなことが非常におかしいです。
彼女は、これから、仕事もなくなって、さびしい一人暮らしを続けなくてはいけないと思って、不安がいっぱいであったでしょう。その、山口さんを、当座慰めて挙げられるのなら、私は自分の私生活など、いかようにも脚色できるのです。「あなたよりしあわせっていうことはないわよ。みんなおんなじ」と力強く、いえます。ともかく大切なことは、弱い状況にある人を、支援することです。それも彼女が尊敬していて、目上と思う人からでないと効果がないでしょう。私では役不足だったのです。
名声や、地位があっても、人は満たされず、悲哀を感じるときもあるでしょう。そういうときは誰かが慰めてあげなければなりません。それは、たくさんの該当者がいたはずです。30年も画廊をなさっていたのです。知り合いは大勢いらっしゃったであろう。でも、彼女の方がほしかった慰めや、元気付けを、ほしかった相手からもらえなかった可能性はあるのです。
演技でもよい、芝居でもよい。野見山さんには、もっと、役割を果たしていただきたかったですよ。大画家と言えども、そしてたった年に一回、一週間だけの付き合いとはいえ、毎年、その個展をしてあげるためには、一年に五十週以上、山口さんは、いろいろなお客に頭を下げ、その場所をハレの場として、きれいに保つ努力をこめた日々送っていらっしゃったのです。九州にまでは手伝いにいかれなくても、縁の下の力持ちとして、東京でがんばっていたのです。たった一週間の影に、ほかの、50週の積み重ねが隠されているのです。
しのぶ会などの、彼女の努力と献身を、記念するものが何も行われず、突然に明かりが消えて、ドアが硬く閉まっているを、京橋に行くたびに見つけます。非常に切ない風景です。
なお、今日はご返事をいただかないツィターみたいな形での、アップロードになりました。大変失礼をいたしました。五、六行書いたらすぐと言う形でアップしたので、文章として、構成やまとまりが、どうなったか、まるでわかりませんが、『ここで、一応の起承転結がついた」と感じますので、終わりとさせてくださいませ。 では、2010年3月6日 雨宮 舜