たっぷり時間があるので、こういう時を利用してじっくりと読書をしようと思い、久しぶりにドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読もうと準備した。が、準備はしたものの相手はあまりに手強い。まずはその前に助走に当たる読書をしようと、井沢元彦さんの「逆説の日本史」第一巻を読み始めた。
奥付を見ると、初版は1993年とある。すでに20年近く経っている。今でも雑誌に連載は続いていて、日本の神話から始まり、最近は日露戦争から第二次世界大戦へといよいよ佳境に入っている。単行本が出てすぐに愛読者になって読み続けているので、僕の読書も20年近くになり、日本の歴史の知識のほとんどは井沢さんの本から得ている。なんたって面白いのは、歴史を専門とする学者ではないことで、そのため大局から日本史を書くことができ、専門家が陥る自分の専門とする時代バカになっていないことである。久しぶりに読み返すと、大筋は覚えていても細かいエピソードなどはすっかり忘れている。あらためて教えられることが多い。
第一章は神話の世界を扱っているが、ここではすでに日本人特有の性質である「和の精神」についての洞察がある。日本人は日本という国を民主主義国家と思っているが、実は「話し合い至上主義国家」であって、真の意味での民主主義国家ではない。
民主主義国家として大切なことはふたつ。ひとつは罪刑法定主義であり、もうひとつは基本的人権である。簡単に言えば、社会を運営するのに規則を決めてからでなければ何事も始められず、たとえ全員一致で決めたことであっても人間の尊厳を侵すようなことがあってはならないということである。
どこかの村で村人のひとりが悪さを働いた。それにより村人が集まり話し合いを行い、全員一致で悪さを働いた人間を村八分にすることにした。が、村のおきてとして「これこれこういう悪さをしたときには村八分とする」という取り決めがなければ、ルール違反となる。事後に決めた法で裁くことは、民主主義に反するのである。日本の政治を見ていても、事前に物事を決めておくということができない。何事か起きると、あわてて雁首をそろえて話し合いを始める。これでは法治国家ではないのだ。
話し合い至上主義は、村社会のような小さな世界ではある程度有効な手段だろうが、仏教の教えにはこういうエピソードもある。「昔々、あるところに大変慈悲深いサルの王様がいた。あるとき井戸の底の水に月の影が映っているのを見て、月が落ちてしまったと驚いた。そこで王様は国にいたサルすべてを動員し、月を救出しようとした。みんなで手をつなぎ、深い深い井戸の底まで手をつなぎ、月を拾い上げようとしたのだ。ところがサルの重みで木の枝が折れ、サルは全員溺れ死んでしまった」
真の知恵というのは、時には話し合いだけでは得られない場合がある。
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