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ガッツ藤本(藤本正人)のきょうのつぶやき

活動日記ほど堅くなく、日々の思いをつぶやきます

7月2日(日) フェラーリン家から飛行機三昧(ざんまい)+ ワイン 3 / 5

2022-07-25 12:48:23 | 視察関係

7月2日(土)
アルトゥーロ・フェラーリン中尉の生家訪問


  写真左が アルトゥーロ・フェラーリン中尉

アルトゥーロ・フェラーリン中尉の生家を訪ねる。

フェラーリンの甥(弟の子ども)[兄マリオさん、弟フランシスさん]

とフランシスさんのご子息アレッサンドロさんから説明をいただく。

説明はアレッサンドロさんが中心に語ってくれた。

当時発行された記念地図をもとに説明するアレッサンドロさん (右は道原聡さん)

本当はその姉のバレンティーナ・フェラーリンさんがフェラーリン中尉の研究本も執筆していて、参加するはずだったのだが、ちょうどコロナに罹患してしまい、自宅療養中。彼女とは携帯越しにあいさつした。

  コロナで待機中のバレンティーナさんの書いた本

フェラーリン家は当時より繊維産業で名をはせた名家。

1920年当時も大富豪であり、だからこそ「飛行機乗り」になれたのであった。

そういえば、船舶持ちも、ましてや飛行機持ちなど大富豪しかできない趣味。

もちろん、軍隊に所属していたのではあるが、飛行機を個人で乗り回すのは大富豪の伊達者(だてもの)だということだ。

とてもよく女性にもモテたという。

アルトゥーロ・フェラーリンの偉業についてはここでは詳述はしない。

時代背景としては、第1次世界大戦で勝利したイタリアにおいて勝利に見合う戦利はなく、
国中がわだかまっていた。

ムッソリーニがファシスト党を率いて、力を伸ばしつつあった時だ。

そういう時に、これまた飛行機乗りであり文化人、政治家のガブリエーレ・ダヌンツィオと詩人、日本人下位春吉が東京への横断飛行を企画した。

伊達者たちが計11機挑
戦する中、最後に遅ればせながら参加したフェラーリンだけが、
(機関士も同乗、ジーノ・カッパンニーニ)109日間の飛行を経て、東京まで自分の飛行機のまま到着した、という話である。
(1920,2,14ローマ発⇒5,31東京着 30か所経由(不時着含め34か所)17920km)
(自機は大破したが、新たな飛行機に替えて東京到着した人は、もう一人いる。 マジエーロである。)

日本でも大歓迎を受け、所沢飛行場にも訪問した。

また、東京まであと少しの連絡を受け、所沢飛行場より出迎えの飛行機が2機飛んで、途中で曲芸飛行をしながら代々木飛行場に誘導したという。


飛行機をこよなく愛し、その後も、ブラジルなどへの無着陸飛行記録を打つ立てながら、1941年7月、飛行機事故で亡くなった。

 




さて、本題に戻ります。

アルトゥーロ・フェラーリン直系の子孫は、今はミラノ(フィレンツェ?)に在住とのこと。

ティエーネ市の生家のほうは、その弟さんの息子さんがお住まいになって、静かに確かにひっそりと守っておられた。

歴史を守る、という営みは、決して華やかなものではないのだ。

普段は公開されていない、生家の中を案内される。


            フェラーリン家の皆様と

2020年、ここでローマ東京間飛行達成100周年を迎え、昨年記念式典も催された。

ティエーネ市としてもフェラーリン家も、日の目が当たって誇らしく、面目躍如というところなのだと感じる。

アルトゥーロの甥のマリオさんと マリオさんは90歳を過ぎながらも、
                 その後も歓迎会など多くの行事に参加してくれた


名家というものは、良い意味でも悪い意味でも過去の栄光から眼をそらし、自由の空に羽ばたくことはできないものなのである。
90歳になんなんとする御兄弟は、当時の思い出を語ってくれた。

僕が3歳の時おじさんの飛行機に乗っけてもらってね、でも、僕は気持ち悪くなって吐いちゃったのさ。
そしたらおじさん、なんで飛行機を汚すんだ、ばかやろうって、ね。


 写真左から
甥(弟)のフランシスさん、女性はマリオさんの奥さん、そして、甥(兄)のマリオさん

ワイナリー見学

ティエーネ市周辺はブドウ畑も多くワインの産地である。

お隣のブレガンツェ市のワイン工場主からの招待で、醸造所に伺う。

ワイン醸造蔵のことを「CANTINA」と呼ぶんだそうだ。

そうか、所沢のイタリア料理CANTINAはそこからとったのか。

伺うと複数の醸造所共同経営者(出資者)が待っていた。

この辺りはローマ時代からワインの産地であり、第二次世界大戦後は教会を通じ、複数の農場主が共同体を作ってワインづくりに取り組んできた。
ベネト州で採れたブドウを使ったワインはプロセッコと呼ばれ人気である。

ベスパイオーロという品種を使ったものは特に名産。

代表で案内してくれた社長さんは、ぶどう農家も後継者が減っていて、ワイン醸造の共同体への参加数が減ってきているといっていた。
(が、別の人いわく「農家も高く買ってくれる醸造所を選ぶんだ」とか。)

社長さんは笑顔を絶やさず、一所懸命ワインの説明をしてくれていた。

所沢のよく知っている事業主の顔が浮かんだ。

日本にも売っていきたい、そういう伝手(つて)はないか? という気持ちであふれていた。
※なお、帰国後、ヤオコーに行ってみるとイタリア直輸入のワインがたくさんあって、ヤオコーなどと醸造所として契約すればそれも大いにあり得るのだ、と知った。)


      新しい樽の前で説明を受ける

その後、今度は、小さなぶどう農家が有機栽培をもって特色を出し、栽培、醸造と販売、レストラン経営の6次産業化している農園を訪ねて昼食をとった。

これなら、醸造所にぶどうの卸値をたたかれることもない。

値段も自分で決定できるし、高い。 好きな人が買いに来る。

日本にも通じる賢いやり方であった。

丘陵にあるブドウ農家     奥に畑 建物はレストラン


イタリア定番 ハムとパン

ジョルジョ・ボナードさんの複葉機製作工場見学


      ジョルジョ・ボナードさんによる熱い説明

ジョルジョ・ボナードさんはローマ東京ハンガーミュージアム協会の会員である。

生業は、アクリル工場を営んでいるデザイナーである。そして、3D複製なども仕事としている。

しかし、飛行機が好きであった。

奥さんはあきれているが、男のロマンはそれに勝って、製作工場では複葉機が昔のままに時間をかけて製作されている。

フェラーリンと同じSVA(ズバ)機を製作中で、それに乗って日本へ飛ぶことが夢である。

今は航空法で低空飛行が許されないが、フェラーリン当時は高度50mほどで海岸線を基本に目視で飛んだ。
大目に見てもいいじゃないか!?

ボナートさんは3年前に所沢の航空発祥記念館を訪れており、その時に、ローマ・東京間飛行の偉業をたたえる展示を見た。

日本でもフェラーリンの偉業を忘れずにいてくれたのか! 

そのことを知って、心底感動する。

ボナートさん製作のSVA式複葉機のパネルは、今、ジブリ博物館にも展示されている。 

ボナートさんも個人でセスナ機を持ち、操縦する伊達者であった。

翌々日には、トレント飛行場まで山越えの飛行に乗せていただいた。


これに乗って東京に飛び立つ! ローマ東京ハンガーミュージアム協会の方々も一緒にパチリ
             写真で私の右がボナートさん


フェラーリン飛行場での歓迎夕食会

ローマ東京ハンガーミュージアム協会による歓迎会。その前に、ミュージアムを見学する。

フェラーリン家が寄付した「フェラーリン飛行場」に併設されている小さな格納庫(ハンガー)。

会員の飛行機の格納庫も兼ねる。そして、ミュージアムも兼ねるのだ。

夕焼け漂う空の中、展示飛行が行われ、日の丸とイタリアの国旗がパラシュートで降りてくる。

夕焼け空に国旗がたなびく。

セスナ機が飛び、日本とイタリアの友好と歓迎をこれでもかと表す。

美しい演出と夕焼け空にここまで歓迎されているのだ、と実感する。

セスナが飛び 2人の落下傘隊員が国旗を持って舞い降りた

昨年挙行された「ローマ東京間飛行100周年記念事業」を紹介したビデオ上映、ジャンピ・ミケルージ市長のあいさつがあり、私も返礼のあいさつを送る。

フェラーリンの偉業とフェラーリン家の歴史を称え、両市の友好を約束した。

今までにお会いした方々が集結し、さらに家族が集まった、そんな感じの盛大なる夕食会である。

ここでは、市長の奥様ともお話しした。

高校からの付き合いだとか。さらに、市長と私はともに1961年生まれの同学年、奥様もということが分かった。

市長の歌がプロ並みにうまく、マイク使いも堂にいって、記念碑のデザイナーと2人で1時間ほど歌いまくっていた。

日本ならマイク泥棒と揶揄(やゆ)されるが、本当にうまいと歌いまくっても文句は出ないのだ。

30分過ぎても歌は終わる気配すらない

三々五々客が帰り始める。皆、歌っている市長にいとまを請い、それぞれ帰っていくのであった。

歓迎会終演は12時近く、我々がホテルに戻ったのはそのあとだった。

私の場合は、シャワーを浴びたり服を洗って干したり、やはり2時ころに就寝する。



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