中野みどりの紬きもの塾

染織家中野みどりの「紬きもの塾」。その記録を中心に紬織り、着物、工芸、自然を綴ります。

着物は公共性を内在するもの

2019年11月02日 | 工芸・アート
前回のブログにも書きましたが、秋冬色の染色を終えて、次は秋冬向けの着尺に取り掛かり、巻き込みまで済ませたところです。上の画像の紫茶地の細かな縞です。

たくさんの染糸のストックから使う色の選定にはじまり、設計、糸巻、整経、たて巻き、経て継ぎ、織り付けまでは、緊張と集中力を要する大事なところです。
経て巻きを終え、今はどんな感じになるか、期待と不安とが入り混じった気持ちです。

宗廣先生の工房を独立してからでも紬の着物や帯ばかり350点以上制作してきましたが、整経の前には夜眠れなかったり、朝早くから目覚めてこの色、この糸でいいのか、この間隔でいいのか、シンプルなものほど糸一本一本を見つめながら、ギリギリまで勘を頼りに詰めています。
毎回新たなものを作りますのでとても緊張します。

織り物は経糸がとても重要で、布を見るときにもまず経糸を見るとよいのです(上質の織物、特に紬は経糸で決まります)。
織り物は紙の上にデザインを描こうとしても糸の1本1本を描ききれるものではないので、緯糸が入るまではわからないと言っても過言ではないのです(紬塾の織り実習でみなさんがそれなりに味わいのある良い布を初めてでも織れるのは、経糸の力によるところも大きいのです)。
そして、糸の太さの違うものを混ぜながら織りますので、景色、陰影、光沢感など、かなり複雑で微妙で、とにかく織って布にしてみないことにはわかりません。

人に着てもらうために作るわけですので、他の取り合わせの帯などとも合わせなければならず、独りよがりの創作物ではないようにしなければなりませんし、すべて人の手で引き出された糸を使いますので、失敗は許されません。制約も多く難しいです。

さて、少し話が飛ぶようですが、工芸評論の笹山央氏が発行する『かたち――人は日々No.4』に「アートにとって公共性とは何か――『表現の不自由展・その後』からの教訓」というタイトルの文があります。「あいちトリエンナーレ19」をめぐっての騒動が先々月来起こり、それに関連した内容ですが、公共性ということをめぐってのアートと工芸の違いということに言及しています。

私なりに読み解くと、アートの自己表現性は公共性ということとは折り合えない要素を含んでいて、公共的な空間に迎え入れられようとすると、「いくばくかは犠牲を払わなければならず、行き着く果てには公共性へのおもねりを胚胎していくことになりかねません」とあります。
ざっくり言えば、国からの補助金が交付されなくなっても、むしろ拘束されることなく、地方の活性化に貢献するような活動をしていくのがアートの本来の在り方だというような内容です。すご~くざっくりですが、、。

それに対して、「逆に工芸の場合は、公共性を内在化することによってモノとしての価値を高めるという性質を有しています」とアートと対比するように括弧付きで書かれている箇所があります。

着物、着るものは公共性を内在したものであり、モノの価値を高めるべく練磨していくことは社会への参加、貢献にもなります。自分や身近な人、公共の場で共有する時間に居合わせる人々の中で、着物はその人の精神や思想など様々なことを表し、周りの人たちにもそれによって様々な思いを抱く。衣の文化は人に与えられた高度な精神世界を持っています(日本の着物だけではありませんが)。

また、工芸も着物もアートも、すぐれた作品は、個人の創りたいという思いから始まりますが、公共へ放たれた時からは、だれが作ったとかではなく、普遍性を有したモノになって、公の場で気負いなく人々の中に存在していくのだと思います。

そんなことを上記の文章から日々の仕事に照らして考えました。
様々な工芸、アートのジャンルの作家を評論する『かたち――人は日々』の詳細はこちらをご覧ください。 


庭のツワブキも花を咲かせ始めました。蝉の羽化みたいに花びらはすぐにはピンとしないでクシュクシュしています。
秋から冬へ自然は移ろい始めています。間もなく立冬ですね。




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