夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『「土にかえる」…樹木葬、人気の理由は?』の記事、私は厳粛した心情の中、微笑み返し・・。

2012-09-05 16:37:58 | 定年後の思い
先ほど、たまたま読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見ていたら、
【新おとな】のコーナーのニュースに於いて、
《 「土にかえる」…樹木葬、人気の理由は? 》と題された記事に思わず読んでしまった。
http://www.yomiuri.co.jp/otona/news/20120905-OYT8T00360.htm?from=yoltop
☆【YOMIURI ONLINE】
       <==【新おとな】<== 《 「土にかえる」…樹木葬、人気の理由は? 》☆

私は読み終わった後、《従来の墓に比べ、価格が安く、死後は自然にかえるという考え方・・
核家族化が進み、墓を作っても継いでくれる人がいない。・・管理などで迷惑をかけたくない・・》
このような深い思いに、確かにそうですよねぇ、と私の日頃からの思いと同じであったので、
思わず微笑んだりしてしまった。

このような私の真情は、このサイトに投稿したいる。
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/3571b409d1821d0a7ebdf439f0a10407
☆【夢逢人たわむれ記 ~かりそめ草紙~】
<== 8月30日《 ささやかな『お墓』、私たちの夫婦の秘かな願いは、樹の下で・・。 》☆

このような思いを秘めている・・。

たまたま私は若き日に映画・文學青年の真似事をしたせいか、
ここ20年ぐらい女優であった高峰秀子さんの随筆の本を数多く読んだりした。

私は高峰秀子さんが綴られた随筆は、
一昨年の2010〈平成22〉年の年末に高峰秀子さんの死去が公表される前に、
大半は読んだりしてきたが、
昨年の2011〈平成23〉12月初旬に、
松山善三、高峰秀子ご夫妻の共著の『旅は道づれアロハ・ハワイ』〈中公文庫〉を購読した。

ご夫妻が50代の頃からハワイ暮らしを夏季、冬季をされる中で、
ハワイの各地も周遊され、それぞれの地を深い想いを寄せられて、私は多々教示を受けたりした。

今回、お墓について、無断ながら引用させて頂く。

《・・人間の墓というものは不思議なものだ。
《略》
死んでしまった者にとっては、墓が大きかろうと小さかろうと知ったことでなく、
墓が立派だろうが貧弱だろうと、もはやカンケイのないことある。
その上、死んだ自分を実際に墓に入れてくれるのはいずれ他人さまなのだから、
人間は死んでも他人さまの世話になるわけで、人間とは厄介な動物だ、と、つくづく思う。・・

引用元・239ページ

このような思いを抱いていた高峰秀子さんが、
ホノルルにある「パンチ・ボール」の墓地に魅了される。

《・・
真っ青な澄んだ高い空、広大な緑の芝生、そして見下ろせば美しい海が望めるパンチ・ボールの墓地は、
底抜けに美しく、そしてカラリと明るい。
明るすぎるくらい明るい。
あちこちの墓地に点々と供えられた花束も、赤のアンセリウムや黄菊、
ピンク色の蘭の花やオレンジ色のフェニックスなどとカラフルで、
日本の墓地の陰々減々たる印象などどこを探してもない。

私は、胸の広がるようなパンチ・ボールの眺めが好きなので、
今まで十回近くもこの丘に登った。
お供はダットサン、運転手は例のサトル君だ。
「このお墓に入れるのは、アメリカの兵隊さんだけなのね」
「ソウ。僕モ死ネバ、ココヘ来ル」
「ないしょで私も入れてくれないかな、はじっこのほうでいいから」
「ノウ、ダメ、出来ナイ。デコサン、コンナ墓スキ?」
「ほんとうに素晴らしいもの。ここは、どうせお墓に入るのなら、こんなとこがいいわよ」
・・》
引用元・242、243ページ
こうして松山善三、高峰秀子ご夫妻は、ハワイの三世のサトル君や友人に導かれて、
やがてある一角に墓地を購入する。

私は高峰秀子さんに関しては、知人でもなく、敬愛を重ねてきたひとりであり、
たった一度だけ偶然にお逢いできたことがあった。

私が二十歳の時は、東京オリンピックの開催された1964〈昭和39〉年の秋の時であったが、
大学を中退し、映画の脚本家になりたくて、映画青年の真似事をしていた時期で、
オリンピックには眼中なく、京橋の近代美術館に通っていた。

戦前の邦画名作特集が放映されていたので、
数多くの戦前の昭和20年までの名作を観ることが出来た。

この中の作品の中で、山本嘉次郎・監督の『綴方教室』(1938年)、
そして『馬』(1941年)も観て、天才子役、少女と称せられた高峰秀子さんの存在を実感させられた。

私はこの当時の1964年に於いては、
少なくとも木下恵介・監督の『二十四の瞳』(1954年)、
成瀬巳喜男・監督の『浮雲』(1955年)、
木下恵介・監督の『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)、
松山善三・監督の『名もなく貧しく美しく』(1961年)等は当然のように鑑賞していた。

そして封切館で松山善三・監督の『われ一粒の麦なれど』(1964年)で観たばかりの年でもあった。

私は女優の高峰秀子さんの存在は、天上の女神のような存在であり、
『二十四の瞳』と『浮雲』がほぼ同時代に演じたこのお方には、ただ群を抜いた女優であった。

子役、少女、そして大人としての女優としての存在は、
私のつたない鑑賞歴に於いて、このお方以外は知らない。

その上、脚本家、ときには監督もされた松山善三さんには、
まぶしいようなあこがれの存在の人であり、秘かに敬意をしていた。


このような過ごしていた間、確か冬の日だったと記憶しているが、
私は成城学園の近くの砧にある東宝の撮影所で、
宣伝部の方と話し合っていた時、
たまたま高峰秀子さんがこちらに向かって来た時があった。

宣伝部の方が飛び出て、
『この青年・・大学を中退し、この世界に・・』
と話されていた・・。

『こんにちは・・でも・・もったいないわ・・大学をお辞(や)めになるなんて・・
でもねぇ・・大変ょ・・この世界は・・』
と高峰秀子さんは私に言った。

私はこの当時も大女優であった高峰秀子さんとは、
これが出会いであったが、これ以降はお逢いしたことがない。

この後の私は、映画青年の真似事、その後に文学青年の真似事もあえなく敗退し、
やむなく私はサラリーマンに身を投じ、音楽業界まあるレコード会社に35年近く勤めて、
2004〈平成16〉年の秋に定年退職となり、その直後から年金生活を始めた身である。

この間、サラリーマンの現役時代のいつの日が忘れてしまったが、本屋の店頭で、
高峰秀子さんの随筆の本にめぐり逢い、数冊の随筆集を読みはじめ、これ以降は本屋で見かけるたびに、
購読してきた・・。

そして一昨年の年末に高峰秀子さんの死去を知り、私も落胆したひとりであり、
もとより天上の花のひとつとなった高峰秀子さんにお逢いできるひとがないので、
せめて私は高峰秀子さんが上梓された数多くの随筆を読んだり、再読したり、
或いは出演された名画を鑑賞したりして、愛惜を重ねたりしている。


このように私は高峰秀子さんに思いを馳せたりし、
何かと苦闘の多かった半生後、安息できるハワイの地で定期的に30年ぐらい過ごされ、
ハワイのある一角に永眠された高峰秀子さんに、ご冥福を祈ったりしている。

もとより、お墓の思いは人それぞれであり、
つたない私は幼年期には農家の児として育ち、やがて小学2年の時に父は病死され、
土葬が許された時代であった。
こうした幼年期に体験した影響か、つたない私は死後は土に還る、と思いがあり、
樹木葬に強く関心があり、今日に至っている。

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