夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『青い眼の人形』の歌、幼年期の私は限りなく誤解して、解釈し・・。

2012-06-05 15:02:58 | 音 楽
私が1966〈昭和41〉年の若き22歳の前後、文学青年の真似事をしていた時、
たまたま詩人、童謡の作詞家と名高い野口雨情(のぐち・うじょう)氏の遺(の)された作品を読んだりした。

そして大正時代の後期に『十五夜お月さん』『七つの子』『赤い靴』『青い眼の人形』『シャボン玉』
『こがね虫』『あの町この町』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』などの童謡の名作品を読んだりした後、
特に『青い眼の人形』に関して、私の幼年期に聴いたりしていたが、
私は限りなく誤解して、解釈していたと気付き、思わず赤面した下を向いたりした。

私は東京の郊外に1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けた。
祖父、父が中心となり、程ほど広い田畑を小作人だった人のご厚意に助けられながら耕したり、
竹林、雑木林を維持管理していた。

そして、この実家から一キロぐらい歩いた先に駅があり、その付近に小学校があり、
1951〈昭和26〉年の春に私は小学校に入学した。

こうした中で、翌年の頃に、生家のラジオから、『青い眼の人形』の歌も盛んに流れて、
幼年ながら鮮明に心に残った。

日本の著作権保護期間が過ぎたと思われるが、名作『青い眼の人形』を転記させて頂く。

♪青い眼をした お人形(にんぎょ)は
 アメリカ生まれの セルロイド

 日本の港へ ついたとき
 一杯(いっぱい)涙を うかべてた
 「わたしは言葉が わからない
 迷子(まいご)になったら なんとしょう」

 やさしい日本の 嬢(じょう)ちゃんよ
 仲よく遊んで やっとくれ
 仲よく遊んで やっとくれ

【『青い眼の人形』 作詞・野口雨情、作曲・本居長世 】

この歌を聴いて、まもなくした後、小学2年生の私はいつものように小学校に通学し、
下校の時に付近にある甲州街道に行った。

この当時の1952〈昭和27〉年の頃は、ときおり自動車、トラックが走るぐらいであったので、
幼年の私としては、物珍しい自動車を見たりしていた。
こうした中で、たまたま進駐軍のジープが府中にある基地から都心に向けて走ってきた。

先頭のジープには、四人の兵士が乗り、後部座席の二人の兵士はカービン銃を右手に掲げていた。
そして大きな自動車が続き、最後のジープも兵士はカービン銃を右手に掲げていた。
いずれの三台もスピードを上げて、疾走した・・。

こうした情景を見惚れていた私は、この時に『青い眼の人形』の歌が甦(よみがえ)り、
日本を占領した進駐軍であるが、日本人に対し、アメリカ人と仲良くしてほしい、
と敗戦後に作られ宣伝工作の歌だと、思い込んでしまったのである。

『ちぇ、しんちゅうぐん(進駐軍)の連中、巧(うま)いことを言って、誤魔化している』
と私は心の中で屈折の多い多感な幼年であったりして思ってしまった・・。


日本は1945〈昭和20〉年8月15日に、世界第二次大戦のひとつの太平洋戦争に敗退した。
そして日本の戦争のの終結に際して、
ポツダム宣言の執行のために日本において占領政策を実施した連合国軍の連合国最高司令官総司令部が配置され、
「連合国軍」の名の下で、多くの職員はアメリカ合衆国軍人とアメリカの民間人、少数のイギリス軍人で構成されていた。

そして、こうした占領軍は、日本の国民の多くは進駐軍と呼び、ひたすら恐れ慄(おのの)き
その後の1952(昭和27)年4月28日、日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効されるまで、
続いたのである。

こうした進駐軍の圧政下、日本人の大人はもとより子供まで感じとっていた社会風潮の時代であった。
このような状況下であったので、幼年の私でも、
『ちぇ、しんちゅうぐん(進駐軍)の連中、巧(うま)いことを言って、誤魔化している』
と何かと感じ取ることが多かった・・。


後年、1966〈昭和41〉年の若き22歳の前後、文学青年の真似事をしていた時、
野口雨情の『青い眼の人形』を調べた時、1921(大正10)年12月、童謡雑誌「金の船」に発表と知り、
私は動顚してしまった。

大正リべリズムの下、「国際愛を歌った」と野口雨情は語っていて、
野口雨情は、キューピーから思いついたのは、青い眼の人形であり、
アメリカ生まれのセルロイドは、キューピー人形のことである、と学んだりした。

そして、おもちゃのキューピー人形、青い眼の人形は、
アメリカから親善使節として、日本の子ども達にたくさん送られてきたが、第二次大戦により焼かれる運命を迎えた、
と知ったりした。

人は誰しも誤りがある、と古来より伝えられているが、
幼年期の私は『青い眼の人形』の歌は、敗戦後に作られ進駐軍の宣伝工作の歌だと、思い込んでしまったのは、
もとより大きな誤りで、遥か以前の1921(大正10)年12月、童謡雑誌「金の船」に発表した作品であり、
初めて気付き、無知ほど怖いものは無い、と大いに反省させられながら、赤面して下を向いたりした。


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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
私もよろしくお願い致します。 (masamikeitas)
2012-06-05 20:51:24
夢逢人さん、こんばんわ。

>心配りのある団塊世代の好男性♪

ブックマークにこのような過分なメッセージを添えて頂き恐縮です。

私もこの機会に私のブログへのブックマークに、夢逢人さんのブログを掲載させていただくことをご了承願います。
ただし事前にお詫びしますのは、夢逢人さんと違い、今まで無断で掲載させて頂いた方のプロフィールを載せていません。
私だけが夢逢人さんに過分なメッセージを添えて頂いていて申し訳けございませんが、夢逢人さんにもノーメッセージで掲載させて頂くことをご了解願います。
我儘を言ってすいません。
私こそ、これからもよろしくご指導願います。(笑)
返信する
思い込みの激しいタイプ、ときには困りものです♪ (夢逢人)
2012-06-05 18:56:09
masamikeitasさま。

私は幼年期の頃から、思い込みの激しいタイプで、今回の『青い眼の人形』の歌でも、
悪しき例でした。

正確に判明した22歳の時、
無知ほど怖いことはない、冷や汗をかいた次第です(笑)

別件
私のブログサイト上のブックマークに於いて、
貴兄のブログサイトを貴兄に無断ながら、
掲載させて頂きました。
改めて、今後ともよろしくお願い致します。

返信する
フランス人形のような人形だとイメージしていました。 (masamikeitas)
2012-06-05 17:11:54
夢逢人さん、こんばんわ。
『青い眼の人形』が、おもちゃのキューピー人形だとは、思いもしませんでした。
てっきりセルロイドで出来たフランス人形のような人形だとイメージしていました。

>『ちぇ、しんちゅうぐん(進駐軍)の連中、巧(うま)いことを言って、誤魔化している』

この時代の世相では、幼い夢逢人さんが勘違いされるのもむべなるかなと思います。
返信する

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