私は東京郊外の調布市で、昭和19年に農家の子として生を受けた。
この頃の私の住む地域に於いては、田畑、雑木林が圧倒的に多く、緑豊かな町村であり、
祖父と父が中心となって、程々に広い田畑を小作人の手を借りて、耕していた。
私は長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊で、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、私は幼児なりに何となく感じていたのか、
いじけた可愛げのない子の上、無口であった。
そして、私の下に2歳下の妹が生まれ、
祖父と父は溺愛し、私は疎外されたように感じで過ごしていたが、
父の妹である未婚の叔母の2人に可愛いがれていた。
このような時、私は3歳過ぎた時、
風邪をこじらせて肺炎となり、町の内科の医師に来て貰い、
診察を受けたのである。
父と母は、幼児を放置していたので、医師から叱咤を受けたりした。
しかし、あの頃は敗戦後のまもない時であり、
あの当時の私の地域の農家は、
富山の薬の販売員が各家々を2ヶ月に1度ぐらいで巡回し、
家庭置き薬として常備薬を配布していた時代であった。
まして、あの当時は専門の小児科などは私の住む地域にはなく、
昭和30年の頃から、住宅街に変貌して、
初めて小児科の病院を見かけることとなったのである。
私は医師から診察を受けたが、
熱が高く、やがて呼吸が困難となり、危篤の状態となった・・。
そして、医師から父と祖父に、
手遅れで治療のしょうもないので、残念ながら、まもなく・・
と宣言されたのである。
そして、祖父のひと言で、親戚、近くの人に、
3番めの男の子、危篤状態であるが助からない、
と伝達したのである。
私は次第に青ざめ心臓が止まったかのような状況が、
30分ぐらいした時、
祖父と父は断念して、ガーゼを水に浸したのを私の唇につけたのである。
私の住む地域では、古くから医師などにより死の宣告をされると、
家族はもとより兄弟姉妹などをはじめとした近親者が、
ガーゼなどで水に浸し、亡くなった人の唇につけてあげる習慣があり、
長老の言葉に寄れば、『末期の水』と称していた。
そして、母、叔母に続いて、長兄、次兄は、ガーゼを私の唇につけたのである。
この後は、『死に水』と称された、おのおの茶碗に少し水を入れ、
各自が飲んだのである。
このような状況の時、医師が、祖父と父、そして母に向かい、
『無念ながら・・まもなく亡くなると思われますが・・
この注射を最期の手段で・・試みて診(み)ます・・』
と云いながら、強心剤の注射をしたのである。
そして、30分過ぎた頃、私は赤味を取り戻した身体になり、蘇生したのである。
このことは、私が小学3年の頃、
父は小学2年、まもなく祖父も亡くなった後、叔母から教えて頂いたことである。
そして、長兄とか次兄に、
私が二十歳になるまで数度、
『XXXの・・死に水・・俺は飲まされた・・』
と苦笑しながら、私に云ったりしていたのである。
今の私は、64歳の年金生活の5年生であるが、
父が肝臓を悪化して42歳で亡くなったので、
せめて60歳のサラリーマン定年退職までは生きる責務を強く感じてきた。
そして、定年後10年間だけは何とか五体満足に生かして貰らえれば、
あとは余生と思っているのである。
この頃の私の住む地域に於いては、田畑、雑木林が圧倒的に多く、緑豊かな町村であり、
祖父と父が中心となって、程々に広い田畑を小作人の手を借りて、耕していた。
私は長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊で、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、私は幼児なりに何となく感じていたのか、
いじけた可愛げのない子の上、無口であった。
そして、私の下に2歳下の妹が生まれ、
祖父と父は溺愛し、私は疎外されたように感じで過ごしていたが、
父の妹である未婚の叔母の2人に可愛いがれていた。
このような時、私は3歳過ぎた時、
風邪をこじらせて肺炎となり、町の内科の医師に来て貰い、
診察を受けたのである。
父と母は、幼児を放置していたので、医師から叱咤を受けたりした。
しかし、あの頃は敗戦後のまもない時であり、
あの当時の私の地域の農家は、
富山の薬の販売員が各家々を2ヶ月に1度ぐらいで巡回し、
家庭置き薬として常備薬を配布していた時代であった。
まして、あの当時は専門の小児科などは私の住む地域にはなく、
昭和30年の頃から、住宅街に変貌して、
初めて小児科の病院を見かけることとなったのである。
私は医師から診察を受けたが、
熱が高く、やがて呼吸が困難となり、危篤の状態となった・・。
そして、医師から父と祖父に、
手遅れで治療のしょうもないので、残念ながら、まもなく・・
と宣言されたのである。
そして、祖父のひと言で、親戚、近くの人に、
3番めの男の子、危篤状態であるが助からない、
と伝達したのである。
私は次第に青ざめ心臓が止まったかのような状況が、
30分ぐらいした時、
祖父と父は断念して、ガーゼを水に浸したのを私の唇につけたのである。
私の住む地域では、古くから医師などにより死の宣告をされると、
家族はもとより兄弟姉妹などをはじめとした近親者が、
ガーゼなどで水に浸し、亡くなった人の唇につけてあげる習慣があり、
長老の言葉に寄れば、『末期の水』と称していた。
そして、母、叔母に続いて、長兄、次兄は、ガーゼを私の唇につけたのである。
この後は、『死に水』と称された、おのおの茶碗に少し水を入れ、
各自が飲んだのである。
このような状況の時、医師が、祖父と父、そして母に向かい、
『無念ながら・・まもなく亡くなると思われますが・・
この注射を最期の手段で・・試みて診(み)ます・・』
と云いながら、強心剤の注射をしたのである。
そして、30分過ぎた頃、私は赤味を取り戻した身体になり、蘇生したのである。
このことは、私が小学3年の頃、
父は小学2年、まもなく祖父も亡くなった後、叔母から教えて頂いたことである。
そして、長兄とか次兄に、
私が二十歳になるまで数度、
『XXXの・・死に水・・俺は飲まされた・・』
と苦笑しながら、私に云ったりしていたのである。
今の私は、64歳の年金生活の5年生であるが、
父が肝臓を悪化して42歳で亡くなったので、
せめて60歳のサラリーマン定年退職までは生きる責務を強く感じてきた。
そして、定年後10年間だけは何とか五体満足に生かして貰らえれば、
あとは余生と思っているのである。