夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

私は幼年期、『末期(まつご)の水』を体験し・・♪

2009-02-05 17:38:46 | 幼年・少年時代の想いで
私は東京郊外の調布市で、昭和19年に農家の子として生を受けた。
この頃の私の住む地域に於いては、田畑、雑木林が圧倒的に多く、緑豊かな町村であり、
祖父と父が中心となって、程々に広い田畑を小作人の手を借りて、耕していた。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊で、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、私は幼児なりに何となく感じていたのか、
いじけた可愛げのない子の上、無口であった。

そして、私の下に2歳下の妹が生まれ、
祖父と父は溺愛し、私は疎外されたように感じで過ごしていたが、
父の妹である未婚の叔母の2人に可愛いがれていた。


このような時、私は3歳過ぎた時、
風邪をこじらせて肺炎となり、町の内科の医師に来て貰い、
診察を受けたのである。
父と母は、幼児を放置していたので、医師から叱咤を受けたりした。

しかし、あの頃は敗戦後のまもない時であり、
あの当時の私の地域の農家は、
富山の薬の販売員が各家々を2ヶ月に1度ぐらいで巡回し、
家庭置き薬として常備薬を配布していた時代であった。

まして、あの当時は専門の小児科などは私の住む地域にはなく、
昭和30年の頃から、住宅街に変貌して、
初めて小児科の病院を見かけることとなったのである。


私は医師から診察を受けたが、
熱が高く、やがて呼吸が困難となり、危篤の状態となった・・。
そして、医師から父と祖父に、
手遅れで治療のしょうもないので、残念ながら、まもなく・・
と宣言されたのである。

そして、祖父のひと言で、親戚、近くの人に、
3番めの男の子、危篤状態であるが助からない、
と伝達したのである。

私は次第に青ざめ心臓が止まったかのような状況が、
30分ぐらいした時、
祖父と父は断念して、ガーゼを水に浸したのを私の唇につけたのである。

私の住む地域では、古くから医師などにより死の宣告をされると、
家族はもとより兄弟姉妹などをはじめとした近親者が、
ガーゼなどで水に浸し、亡くなった人の唇につけてあげる習慣があり、
長老の言葉に寄れば、『末期の水』と称していた。

そして、母、叔母に続いて、長兄、次兄は、ガーゼを私の唇につけたのである。
この後は、『死に水』と称された、おのおの茶碗に少し水を入れ、
各自が飲んだのである。

このような状況の時、医師が、祖父と父、そして母に向かい、
『無念ながら・・まもなく亡くなると思われますが・・
この注射を最期の手段で・・試みて診(み)ます・・』
と云いながら、強心剤の注射をしたのである。

そして、30分過ぎた頃、私は赤味を取り戻した身体になり、蘇生したのである。


このことは、私が小学3年の頃、
父は小学2年、まもなく祖父も亡くなった後、叔母から教えて頂いたことである。

そして、長兄とか次兄に、
私が二十歳になるまで数度、
『XXXの・・死に水・・俺は飲まされた・・』
と苦笑しながら、私に云ったりしていたのである。


今の私は、64歳の年金生活の5年生であるが、
父が肝臓を悪化して42歳で亡くなったので、
せめて60歳のサラリーマン定年退職までは生きる責務を強く感じてきた。
そして、定年後10年間だけは何とか五体満足に生かして貰らえれば、
あとは余生と思っているのである。



ブログランキング・にほんブログ村へ

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 訪れてみたい夢の『冬の糠平(... | トップ | ふたたび、『海苔(ノリ)の日... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

幼年・少年時代の想いで」カテゴリの最新記事