goo blog サービス終了のお知らせ 

夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

殆どの御方は、長らく住まわれた地域が、何よりも安楽な地、老ボーイの私は感じ深めて・・。

2017-05-29 16:48:45 | ささやかな古稀からの思い
私は年金生活13年生の72歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いに厚生年金とわずかな企業年金を頂き、程ほど貯金を取り崩しながら、ささやかに過ごしている。

私たちは東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、
住宅街が広がる中で、少しばかり広い雑木の多い小庭の中、築後39年の古惚けた戸建に住んでいる。

そして私の生家も近くにあるので、私自身としてはこの地域に住んで、早や67年が過ぎている。

最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分である。
或いは小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
そして私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

いずれの最寄駅までの路線バスの利便性は良い所で、たとえば都心の新宿のデパートに買物に行っても、
電車を利用すれば、我が家よりデパートの店内に45分ぐらい、
或いは東京駅でも我が家から一時間前後となっている。
                

私は民間会社の中小業のある会社で35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋、定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始めたが、平素の買物ぐらいと思い立ち、私は自主的に買物の担当となったりした。

そして家内から依頼された品を求めて、私は独りで歩いて7分前後にある最寄のスーパー2店か、
或いは最寄駅まで歩いて、数多くスーパー、専門店で買い求めたりしている。

最寄駅までは、利便性ある路線バスは頻繁に走行しているが、季節のうつろう情景を眺めたり、
歩くことは何よりの健康の源(みなもと)と信愛している私は、原則として路線バスに頼らず、
ひたすら歩いて往還している買物メール老ボーイとなっている。

そして買物メール老ボーイの責務を終えた後、帰宅後も私は独りで外出して、
自宅から3キロ以内の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

こうした根底として、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
いつの日にか認知症、或いは脳梗塞などの難病に遭遇したら、困窮するので、
ひたすら歩き、ときおり大股で歩いたり、或いは足早に歩くことが多くなっている。
       
そして70代の三年生して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、
ときおり願いながら歩いたりしている。
             
          
過ぎし私の40代の頃、ひとつの夢を漠然とし考えたりしたことがあった。

私たち夫婦が住んでいる住宅街のそれぞれ住宅が密集し、ともすれば何かしら息苦しい住宅街より、
解放感のある地方の山里に、と想いを馳せたりした。
       
たとえば八ヶ岳の別荘地の分譲地などで、のんびりと生活することを夢想したりした。

しかしながらこの当時の私は、都心に通いサラリーマンの身であるし、
住んでいる一戸建ての住宅ローンも多額に残っていたので、
もとより収入を別途に挙(あ)げる自信はなく、夢だよねぇ、断念した。
             

やがて50代の後半になると、山里に300坪前後の土地を求め、
落葉樹のクヌギ、コナラなどの中、平屋建ての30坪ほどに住むことも考えたりした。

この当時は住宅ローン等の返済を終えていたので、
定年退職する60歳になった時は、自宅を売却して買い求めて、
老後の生活資金を配慮した場合でも、何とか出来ると思ったりした。
          

こうした私の根底には、私の住んでいる近くに私の生家もあり、
私は1944年(昭和19年)の秋に農家の三男坊として生を受けた。

そして私が小学校に入学した1951年〈昭和26年〉の春の当時、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、程ほど広い田畑などを耕していた。

或いは祖父の所有していた広い田んぼの中には、小さな川が流れたり、
湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに土蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
はずれに小さな稲荷を保有して、この地域の旧家は、このような情景が多かった・・。

このような生家は、周辺は平坦な田畑、竹林、雑木林などが拡がり、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、国分寺崖、と学校の先生たちは称していた。

その後、私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。

そして1955年〈昭和30年〉の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957年〈昭和32年〉であるが、
この頃になると都心に勤める方のベットタウンとなり、新興の住宅街に大きく変貌した。
                    

私は消えてしまった故郷、失われてしまった時を求めてか、時代の変貌に戸惑いながらも愛惜感を秘め、
このような私の思い、漠然とした山里に平屋建ての生活を家内に相談したら、
日常生活の買物、交通・病院などの利便性から、反対された。

『貴方の好きな本屋さんだって、今は歩いて行ける範囲ょ・・まして、スーパーなどの買物だって・・』
と私は家内に言われたりした。

やがて具体的に指摘されれば、私は確かに好きな音楽CDとか、映画のDVDを購入する店、
或いは本屋に寄って、単行本、新書本、文庫本、雑誌コーナーを見て、興味を持ったのに手を取ったりして、
やがて買い求めたりする空気が好きで、ここ50年の習性のようになっている。

そして時折お洒落(しゃれ)た居酒屋に入店して、知人と談笑するも欠かせなくなっている・・。

『貴方、60代の心身元気なうちは良いけれど、70代頃からの身体が弱ってきた時の事も考えて・・』
と私は家内に言われたりした。

確かに山里に住めば、自動車は必須事項だし、買物も一週間まとめて購入し・・と思ってきたが、
身体の弱った時の通院、そして都心の外れの文化と利便性には勝てない、と断念した。
             

こうして私の淡き夢も消え、定年退職後の年金生活の中、住宅街の密集地から抜け出して、
我が家より3キロ範囲の遊歩道、小公園、公園などをひたすら歩き、
季節のうつろいを享受したりしてきた・・。

或いは家内との共通趣味のひとつの国内旅行で、各地域の観光ホテルに滞在して、
周辺の山里、街はずれ、街中を歩き廻り風土、文化を学び、
その地の景観に心身共にゆだねて、遊学したりしている。
                       

昨今、我が家の固定資産税は土地が毎月3万円ぐらい、老朽化した家は毎月5千円ぐらいと評価され、
四半期毎に納入しているが、
このまま住んでいたら、大切な老後資金が減る度合いが少なく済むので、
当面この状態で過ごしたいよねぇ、と私たち夫婦は話し合いながら、微苦笑したりしている。

私たち夫婦は、年に数回は都心のデパートに買物に行ったりしているが、
私たちは人出多い中、齢を重ねるたびに苦手意識となっている。

そして帰路、最寄駅のひとつ『成城学園前』駅で下車した後、
付近の食事処で遅い昼食を頂きながら、ほっとしているのが実感となっている。

何よりも安楽なことは、自宅の居間で小庭の春夏秋冬を明晰に表現する落葉樹を眺めながら、
私たちは談笑したりする時である。

このような心情を重ねてきた私は、殆どの御方は、長らく住まわれた地域が、
それぞれの出来事の思いもあり、愛惜も加味され、何よりも安楽な地、と老ボーイの私は感じ深めている。
             

しかしながら私たち夫婦は、いつ日にかどちらかが足か腰が衰えてきた時、
やむなく自宅を売却して、駅の近くにあるマンションのコンパクトサイズを買い求めて、
晩年期を過ごしたい、と思ったりしている。

或いは介護を要する身となった場合、漠然としながらも介護施設を話し合うこともあるが、
こうしたことに遭遇することは、自助努力も必要であるが、こればかりは神様か仏(ほとけ)さまの采配による、
と私は思い深めているひとりである・・。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする