私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の66歳の身であるが、
結婚前後の5年間を除いて、かれこれ60年を少し過ぎている。
私達夫婦は子供に恵まれず、たった2人だけの家庭で、
古惚けた一軒屋に住んでいる。
先ほど、4時半過ぎに昼寝から目覚めた私は、洗面し、着替えたりし、
ぼんやりと玄関の軒下で煙草を喫ったりしていた時、
市の公報を知らせる丘の高台にあるスピーカーから、音楽が流れてきて、
何かしら懐かしいメロディーが流れてきたのである・・。
この後、私は居間にもどり、
『XXちゃん・・今・・鳴っているメロディー・・何の曲だったっけ?・・
題名が思いだせないょ・・』
と私は家内に訊(たず)ねたりした。
『このメロディーは・・「夕焼小焼」ですょ・・いつも夕方5時に鳴っているわょ』
と家内は微笑みながら、私に教えてくれた。
『そうだったょねぇ・・「夕焼小焼」に間違いがないねぇ・・』
と私は照れながら、家内に云ったりした。
そして私は思いだすように、心の中で唄いだした・・。
♪夕焼小焼(ゆうやけこやけ)で 日が暮(く)れて
山のお寺の 鐘(かね)がなる
お手々つないで 皆(みな)かえろ
烏(からす)と一緒(いっしょ)に 帰りましょう
子供(こども)が帰った 後からは
円(まる)い大きな お月さま
小鳥が夢(ゆめ)を 見る頃は
空にはきらきら 金の星
【『夕焼小焼』 作詞・中村雨紅、作曲・草川信】
http://www.youtube.com/watch?v=WZjSwrR0UBo&feature=related
☆【『夕焼小焼』 作詞・中村雨紅、作曲・草川信】☆
この後、私の小学生の時は、確かドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」の一部のメロディーが流れていた、
と思いうかべたのである・・。
私は調布市で農家の三男坊として、1944(昭和19)年に生を受けた。
そして、1951(昭和26)年の春に地元の京王線の金子駅(現在・つつじヶ丘駅)の近くにある小学校に入学した。
この当時の情景は、駅周辺は商店街があったが、この街を過ぎると、田畑が広がり、
雑木林などで緑豊かな地域であった。
私の生家は金子駅より15分ばかり歩いた処で、
程ほど広い田畑、竹林、雑木林があり、祖父と父が中心となって農業をしていた。
田畑の中に1メートルぐらいの川幅のある小川が流れ、長兄、次兄たちに竹に針を付けたりして、
ときおり鰻(ウナギ)を釣り上げたりしていた。
私は小学校を下校する時、ときおり遠回りして帰宅した。
校門を出て新宿駅方面のひと駅は仙川駅であり、この間の周辺を歩いた。
校門から少し歩くと畑道があり、その先は田んぼのあぜ道であった。
そして前方に丘のように少し切立った国分寺崖があり、この高台に仙川地域となっていた。
この間の田んぼのあぜ道の近くに流れる小川を眺めたり、
或いは崖下の小道を歩き、湧き水を見つめたりしていた。
そして授業の図画の写生の時などで、先生に連れられて、
崖の周辺の丘陵にあった高射砲台の跡地の見晴らしの良い場所で、クレヨンで描いていた。
こうした時代に調味料のひとつのマヨネーズ・メーカーのキューピーの工場ができたのであるが、
仙川、金子の駅の周辺から15分前後の地域が、次第に都心のベットタウンに変貌するのは、数年後であった。
いつの頃か確かでないが、夕暮れになる頃、
何かもの悲しいが何か先が明るいような不思議なメロディーが、私の家の畑からも聞こえたのである・・。
学校の小学3年の級達とお互いに何だろうなぁ、噂をしていた時、
音楽の女の先生が、
『あの丘陵に建った工場から夕方に流れるメロディのことねぇ・・
あなた達には・・少し難しいけれど・・ ドヴォルザークという作曲家の『新世界』なのょ・・』
と先生は私達に教えてくれた。
『先生・・ドヴォル・・何とか云う人・・難しくて・・解かねぇけれど・・
何となく悲しいようで・・でも、明るいような・・』
と私は先生がかっこいいので、無理に言葉を重ねていた。
その後、周辺は都心のベットタウンと急速に変貌し、田畑が消えうせたのである。
http://www.youtube.com/watch?v=ZI-d96nZ-NI
☆ ドヴォルザークの交響曲第9番 「新世界より」 第2楽章 ☆
このように私なりのささやかな思いであり、
今でもドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」の第2楽章を聴いたりすると、
私の小学生の頃の情景を思い浮かべるのである。
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結婚前後の5年間を除いて、かれこれ60年を少し過ぎている。
私達夫婦は子供に恵まれず、たった2人だけの家庭で、
古惚けた一軒屋に住んでいる。
先ほど、4時半過ぎに昼寝から目覚めた私は、洗面し、着替えたりし、
ぼんやりと玄関の軒下で煙草を喫ったりしていた時、
市の公報を知らせる丘の高台にあるスピーカーから、音楽が流れてきて、
何かしら懐かしいメロディーが流れてきたのである・・。
この後、私は居間にもどり、
『XXちゃん・・今・・鳴っているメロディー・・何の曲だったっけ?・・
題名が思いだせないょ・・』
と私は家内に訊(たず)ねたりした。
『このメロディーは・・「夕焼小焼」ですょ・・いつも夕方5時に鳴っているわょ』
と家内は微笑みながら、私に教えてくれた。
『そうだったょねぇ・・「夕焼小焼」に間違いがないねぇ・・』
と私は照れながら、家内に云ったりした。
そして私は思いだすように、心の中で唄いだした・・。
♪夕焼小焼(ゆうやけこやけ)で 日が暮(く)れて
山のお寺の 鐘(かね)がなる
お手々つないで 皆(みな)かえろ
烏(からす)と一緒(いっしょ)に 帰りましょう
子供(こども)が帰った 後からは
円(まる)い大きな お月さま
小鳥が夢(ゆめ)を 見る頃は
空にはきらきら 金の星
【『夕焼小焼』 作詞・中村雨紅、作曲・草川信】
http://www.youtube.com/watch?v=WZjSwrR0UBo&feature=related
☆【『夕焼小焼』 作詞・中村雨紅、作曲・草川信】☆
この後、私の小学生の時は、確かドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」の一部のメロディーが流れていた、
と思いうかべたのである・・。
私は調布市で農家の三男坊として、1944(昭和19)年に生を受けた。
そして、1951(昭和26)年の春に地元の京王線の金子駅(現在・つつじヶ丘駅)の近くにある小学校に入学した。
この当時の情景は、駅周辺は商店街があったが、この街を過ぎると、田畑が広がり、
雑木林などで緑豊かな地域であった。
私の生家は金子駅より15分ばかり歩いた処で、
程ほど広い田畑、竹林、雑木林があり、祖父と父が中心となって農業をしていた。
田畑の中に1メートルぐらいの川幅のある小川が流れ、長兄、次兄たちに竹に針を付けたりして、
ときおり鰻(ウナギ)を釣り上げたりしていた。
私は小学校を下校する時、ときおり遠回りして帰宅した。
校門を出て新宿駅方面のひと駅は仙川駅であり、この間の周辺を歩いた。
校門から少し歩くと畑道があり、その先は田んぼのあぜ道であった。
そして前方に丘のように少し切立った国分寺崖があり、この高台に仙川地域となっていた。
この間の田んぼのあぜ道の近くに流れる小川を眺めたり、
或いは崖下の小道を歩き、湧き水を見つめたりしていた。
そして授業の図画の写生の時などで、先生に連れられて、
崖の周辺の丘陵にあった高射砲台の跡地の見晴らしの良い場所で、クレヨンで描いていた。
こうした時代に調味料のひとつのマヨネーズ・メーカーのキューピーの工場ができたのであるが、
仙川、金子の駅の周辺から15分前後の地域が、次第に都心のベットタウンに変貌するのは、数年後であった。
いつの頃か確かでないが、夕暮れになる頃、
何かもの悲しいが何か先が明るいような不思議なメロディーが、私の家の畑からも聞こえたのである・・。
学校の小学3年の級達とお互いに何だろうなぁ、噂をしていた時、
音楽の女の先生が、
『あの丘陵に建った工場から夕方に流れるメロディのことねぇ・・
あなた達には・・少し難しいけれど・・ ドヴォルザークという作曲家の『新世界』なのょ・・』
と先生は私達に教えてくれた。
『先生・・ドヴォル・・何とか云う人・・難しくて・・解かねぇけれど・・
何となく悲しいようで・・でも、明るいような・・』
と私は先生がかっこいいので、無理に言葉を重ねていた。
その後、周辺は都心のベットタウンと急速に変貌し、田畑が消えうせたのである。
http://www.youtube.com/watch?v=ZI-d96nZ-NI
☆ ドヴォルザークの交響曲第9番 「新世界より」 第2楽章 ☆
このように私なりのささやかな思いであり、
今でもドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」の第2楽章を聴いたりすると、
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