夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

中国のセクシーすぎる「国宝級美女」、齢を重ねた私でも微笑み・・。

2010-09-27 15:50:29 | 時事【社会】
私は年金生活の6年生の66歳の誕生日を迎えたばかりの身であり、
さきほど、プロ野球のソフトバンクがリーグ優勝したニュースの数々を読んだりした。

この中のひとつには、
《 孫正義氏がフェラーリをポケットマネーで奮発? 》
と題された記事を読んだりした。

そして右側には、《 中国のセクシーすぎる「国宝級美女」》と明記され、
ひとりの麗(うるわ)しき若き女性が微笑んでいたのである・・。

そして齢を重ねた私でも、思わずクリックしたのである。

この記事を紹介されたサイトは【YUCASEE MEDIA(ゆかしメディア)】であり、
私にとっては初めて拝見するサイトであり、無断ながらあるが、転載させて頂く。

《・・
      中国のセクシーすぎる「国宝級美女」

「知性派巨乳」「国宝美乳」というニックネームを持つ中国の人気女優ミュウミュウ・コン(鞏新亮)さん。
今年23歳になる彼女だが、実は金融業界から芸能界へと転身を遂げたばかりの異色の経歴の持ち主だ。

中国北西部・甘粛省出身のミュウミュウさんは、
母親の影響で16歳から金融界に関わっていた。
名門大学・清華大学の金融・資本投資人材育成部門を卒業し、
20歳になるころには金融界でちょっとした有名人に。

しかし、ちょうどその頃、
偶然にも中国の有名芸能プロダクションの社長、王中軍氏らと出会う機会がありスカウトされる。
彼女のルックスの良さと、生まれ持った歌声が、彼らの注目を引いたのだった。

プロダクションの強力なバックアップで、ミュウミュウさんは、
一気に金融界の有名人から今度はトップスターへの道を駆け上がっていくことになる。

2008年、中国で北海道旅行ブームを巻き起こした映画「狙った恋の落とし方」で映画デビュー。
この映画でミュウミュウさんは、豊満なEカップをちらつかせた投資家の秘書を演じた。
出演時間はわずか30秒、セリフも2、3語だったが、
そのセクシーさから彼女の登場シーンは印象的なものとなり、
爆発的な人気を集めることになった。

映画デビューの翌年には、歌手デビューも果たしている。
たった一本の映画で華麗に転身を遂げたように見える彼女だが、
少なからず心の葛藤もあったようだ。
「父は今でも映画の出演に賛成していません。
私の夢はやはりCEOになることです」と話すミュウミュウさん。

その夢はすぐには実現しないかもしれないが、
彼女は今、休むことなく新しい道を突き進んでいるように見える。
彼女のキャリアはまだ始まったばかりなのだ。

更新日:2010年09月26日
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://media.yucasee.jp/posts/index/4845?la=0012
☆【YUCASEE MEDIA】 中国のセクシーすぎる「国宝級美女」 ☆


やはり私は、中国の多民族の13億人の国民から選抜されたひとり方であるので、
まぎれなく知性派で美しく身体の方、と感じたりした。
そして23歳の容貌に相応しく、大人の麗しき女性とも思ったりした。

そして我が国の若き女性で、テレビなどで見かける女優、タレントの多くは、
年齢にしてはあどけないの表情、しぐさを感じ、
知性と大人の女性としての妖艶さを兼ね備えた方はいない、
と感じるのは私だけかしら、と読み終わった後、微苦笑をしたりした。

尚、【YUCASEE MEDIA(ゆかしメディア)】のサイトは、
《“最上級を刺激する”をテーマに、
上質とは何かを知り抜いた貴方へ相応しい情報をお届けします。
不透明で先が見えない時代にこそ、真実の情報が貴方の道しるべになります。》
と明記されているので、定年退職後の年金生活の私には、遥かに遠い世界かしら、
と苦笑している。


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近眼の私、メガネの深い思いは・・。

2010-09-27 12:29:53 | 定年後の思い
   前 章 退職後でも少しは

私は年金生活の6年生の66歳の誕生日を迎えたばかりの身であり、
近眼で少し老眼が増しているが、顔の1部と思いと感じ、少しのこだわりを持っている。

今、愛用しているメガネは、一昨年の2008(平成20)年の夏、
6年ばかり愛用してきたメガネのフレームが痛んでいるのに気付き、
やむえず、駅前のメガネ店に行き、新調したりした。

この時の心情を記載すると、
もとよりフレームは、その人なりの顔立ちの表情を表わし、
それなりの個性が感じられるので、
展示品の中から、私が魅了された3種類は数分で決まったが、
最終選定には30分を要したのである。

結果として、程々の品位が感じられるフレームに決定したのである。

店内にあるカタログの一面に於いては、
《・・
1991年には新しいローデンストックの哲学、
『眼鏡は人間の個性を強調するものである。
現在のフレームコレクションは斬新かつ軽量、機能的になっている。』
というブランドイメージとブランド思想のもと、“R”マーク付きの新しい
ローデンストックのロゴを採用。
・・》
と掲載されていた。

この解説文と私のこだわりが一致して、確信を得ながら、決定した要因である。

そして、もう1度、少し照れながら、鏡を手前に引き寄せて、
フレームを掛けたりした・・。



   第一章 初めて近眼と気付いた時

私は1960(昭和35)年の中学3年の終りの頃、
私は職員室で担任の先生から呼ばれ、
『XXくん・・あなた眼・・悪いわね・・0.3って・・』
と先生は、健康診断書を見ながら、私に云った・・。

『・・どうして・・今まで黙っていたの・・
メガネを掛けないと・・黒板の字も見えないでしょう・・』
と先生は云った。

私は教室の後部に座って、黒板の字もかすれていたが、
皆もこのようにと思い、信じていたのである。
兄達、妹達もメガネをしていないので、それなりに思い込んでいたのである。

帰宅後、亡き父の妹である叔母に、
『・・今日、先生から云われたのだけれど・・
眼が悪いので・・メガネを掛けなさい・・と云われたの・・』
と私は云った。

母は外に働いていたので、
未婚の叔母に私達の兄妹は、料理、洗濯、掃除などで、甘え、育ってきたのである。

結果として、高校の入学から、私は生まれて初めて、メガネを掛けたのである。

宅地の丘の外れから、遠望の丹沢の山並み、富士山を観た時、
くっきりとした景観が観え、行く先々の情景も余りにも明確に見えて、
私は驚き、ため息をした・・。


中学に入学し、野球部の練習に明け暮れていた。
レフト付近に3人で守備位置に付いて、外野フライのノックを受けていたのであるが、
何かしら私だけが打球の判断がのろいのである。
私は運動神経が悪く、練習すれば、打球の飛んで来る判断も良くなると、
思っていたのである。


高校時代は、授業時間以外は、メガネを掛けるのが恥ずかしく、
通学バックに仕舞い込んでいた。
そして、文学と歴史に興味を持った私は、文庫本などを読み耽り、
映画を観るために盛んに映画館に通いつめたりした。
そして布団の中で、こっそりと好色本も読んだりしたせいか、
近眼の度数が悪化した・・。



   第二章 盲目への恐怖心に慄(おのの)き

私は東京オリンピックの頃、大学を中退し、
アルバイトをしながら、映画・文学青年の真似事をしていた。
この頃は、近眼の度数も一番上の検査表がやっと見える0.1となり、
布団に入る時以外はメガネを付けていた。

こんなある日、自動車の普通車免許があれば、
何かと便利、将来に食べられなくなった時は、タクシーの運転手になればよい、
と安易な思いで、教習所に通ったりした。

教習所の教習課程を終え、試験所で本免許の受験する為に、
教習所のマイクロバスで私達受験生10名は送って貰ったのである。

ご存知のように、普通免許の場合は、視力は0.7以上は必要であったが、
私はメガネを掛けた上でも、視力試験で落ちたのである。

そして私だけが、とぼとぼと試験場から去ったのである。


後日、1.0が確実に視(み)得るメガネを新調したが、
レンズは厚くなり、それなりに私は気になったのである。

この後、敗者復活戦のような思いで、試験場で合格し、
次兄や友人に助手席に座って貰い、指導を受けした後、
私なりに一人前のドライバーとなった。

しかし、心の奥底から、この先は一体どこまで近眼が進むのかと、
恐怖に慄いたのである。

後年、作家の曽野綾子・女史が随筆で、
盲目になりかけ、何とか手術で救われた、と読んことがあるが、
私は深く共感できたのである。



   最終章 私の現役時代の時は

私は25歳で、遅ればせながら企業に中途入社し、
年収より背伸びし、メガネだけは程々高価な品を買い続けた・・。

近眼が酷く、レンズも厚いので、
なるべく厚さの目立たない加工したレンズ、
そして厚さをカバーするフレームを限定して、選定してきたのである。


通勤用は0.7程度で、運転用には1.0前後の2つのメガネを所有していたが、
幸いに視力の低下は、20代の終りの頃、
0.07程度で横ばいとなり、安堵したりした。

そして50代のなかば頃からは、少し老眼を感じたが、
20代の近眼進度の悪化した時の思いを考えれば、
それなりに受け入れ微笑さえできたのである。


家内は結婚当初、視力は2.0と抜群に良かったが、
50代の初めに老眼となり、メガネに馴れていないので、
落ち着かないようすがしばしばである・・。
そして、ときおり老眼鏡を掛け、新聞、旅行雑誌などを読んだりしている。

この後、どこかに置き忘れて、探す時もあり、私は微笑みながら、共に探したしている。


このように私は近眼には、それなりに苦労し、
メガネの選定に多少のこだわりの半生でもあった。

そして、新たなメガネのフレーム選定の時、
数多くの国産、海外品を愛用してきたが、
再びローデンストックかしら、と微苦笑したのである。


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恥ずかしながら、満66歳の誕生日を迎え、高齢者2年生となり・・。

2010-09-27 09:49:06 | 定年後の思い
私は恥ずかしながら、満66歳の誕生日を迎えた。
昨年は初めて高齢者の入門を許されて、我が街の調布市から『介護保険証』が郵送されて、
私は微苦笑を重ねたりしてきた。

私は民間会社の中小業に35年ばかり勤め定年退職後、
残された人生の日々を自身の趣味で過ごしたく、年金生活とした。

数多くの人たちと同様に多忙だった現役時代であったので、
せめて人生の後半戦ぐらいは、読書と散策などをし、
ときには国内旅行で各地の四季折々の情景に心を寄せれば、
本望かしらと思っていた。

そして、私の何よりの望みは、こうした日常生活をし、
心の発露として散文を綴ることである。

幸い退職後まもなくして、ブログの世界を知り、
四つばかりのサイトに書き散らかしてきた。


私の根底には、退職後の1年を過ぎた頃、
亡き作家・城山三郎氏の『無所属の時間に生きる』の随筆集を読んでいた時、
『この日、この空、この私』の一節を教訓としている。

《・・
人生の持ち時間に大差はない。
問題はいかに深く生きるか、である。
深く生きた記憶をどれほど持ったかで、
その人の人生は豊かなものにも、貧しいものになるし、
深く生きるためには、ただ受け身なだけでなく、
あえて挑むとか、打って出ることも、肝要となろう。
・・》

年金生活の6年生の身であるが、
果たして振り返った時、私自身は深化したか、
或いは体力の衰えに甘えて、退廃したか解からない。

私は先ほど、自身の過去に綴った投稿文を読み返していたりした・・。


私は1944(昭和19)年9月に、
今住んでいる北多摩郡神代村入間(現・調布市入間町)近くの実家で生を受け、
祖父、父、母、そして父の妹の叔母2人、
長兄、次兄に続いて生まれたので、三男坊として乳児の時を過ごした・・。
敗戦の大戦の一年前の頃であるので、もとより戦争を知らない身ひとりでもある。

祖父と父が中心となり、小作人の手を借り、
程々の広さの田畑を耕し、宅地の周辺には竹林、雑木林があった。

長兄、次兄に続いて私は生を受けたが、跡取り候補の男の子は2人いたので、
祖父、父らは3番目は何かしら女の子を期待していたらしく、
私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私はなりに感じ取り、
いじけた可愛げのない劣等感のある幼年期を過ごした。

このした中で長兄、次兄は、優等生であったが、
私は小学校に入学しても、通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生であった。
父が私が小学2年3学期になると、黄疸で長らく自宅治療をした後、
42歳の若さで肝臓が悪化して、病死した。
この後、まもなくして祖父は胃がんで最寄の大学病院で亡くなった。

そして、大黒柱をなくした農家の我家は没落しはじめたのである・・。

母、そして父の妹の未婚の叔母、そして私達の兄、妹の5人の子供が残され、
私達子供は母と叔母に支えられ、そして親類に見守り中で、
貧乏な生活が始まった。

母は私が中学校に入学した1957(昭和32)年の春、
やむえず田畑を売り、駅の近くにアパート経営をしたが、
何とか明日の見える生活となったが、学業に何かと経費を要する5人の子供がいたので、
家計は余裕もなかった。

そして私が高校に入学した1960(昭和35)年の春、
母はラブホテルのような連れ込み旅館の経営に打って出て、孤軍奮闘したので、
私達の生活は何とか普通の生活になった。


幼年期の頃、本といえば、農協の月刊誌だったと思われる『家の光』しかなく、
小学5年の時に都心から引越してきた同級生の家には沢山の本があり、
愕然としたこともあった。
私は都心の私立の高校に通い、
地元から離れ、都心の空気と兄達の影響のない高校であったので、
私なりに純粋に伸び伸びとして育ち、
高校時代になって初めて勉学が楽しくなり、
遅ればせながら読書にも目覚めたり、文学、歴史などに深く興味を持ち、
小説らしき習作を始めたりした。

この後、大学を中退し、映画・文学青年の真似事をし、
幾度も小説新人の応募で最終候補作に漏れ、落胆し、やがて挫折した後、
民間会社に中途会社にする為に、コンピュータの専門学校に学び、
これを梃子(てこ)とした上で、知人の強力な後押しのお陰で、
ある大手の民間会社に中途会社にできたのは、1970(昭和45)年の春であった。

そしてまもなくレコード会社に異動させられて、
六本木にある本社でコンビュータの専任者となり、時代の最先端にいると勘違いしたり、
この間、幾度も恋をしたが失恋の方が多く困惑したり、
結婚後の数年後に若気の至りで一軒家に茶室まで付け足して建てて、
住宅ローンの重みに耐えたりていた。

そして私は30代の後期になると、次兄が自営業していたのであるが、
経済的な理由で、突然に次兄は自宅の布団の中で、睡眠薬を過剰に飲み自裁された・・。

私は援助も出来なかったことを知り、さいなまれながら、
たとえどのようなことがあっても、少なくとも父の死の42歳を乗り越えなければ、
という思いが強く意識した。

そして、55歳を迎える寸前に、業界はリストラ旋風の中、
私は30年近い本社勤務から、出向となり、都落ちの失墜感の中、
家内と退職後の生活設計を改めて話し合い、
定年後の私は年金生活に入り、残された歳月を趣味の時間で過ごそう、と決意した。


このように私は大手企業のサラリーマンの一部に見られるエリートでなく、
屈折した日々の多い半生を歩み、定年を迎え、
半生記は自慢史が多いと云われているが、私は程遠い存在である。

私は確固たる実力もないくせに、根拠のない自信があり、
感覚と感性は人一倍あると思いながら、独創性に優れていると勝手に思い込み、
ときには独断と偏見の多い言動もしたりしてきた。
そして、ある時には、その分野で専門知識があり優れた人の前では、
卑屈になったりした・・。
このように可愛げのない男のひとりである。


私は定年退職時の5年前頃からは、
漠然と定年後の60代は五体満足で生かしてくれ、
これ以降の70代は余生だと思ったりしている。

昨今の日本人の平均寿命は男性79歳、女性86歳と何か本で読んだりしているが、
私は体力も優れていないが、
多くのサラリーマンと同様に、ただ気力で多忙な現役時代を過ごしたり、
退職後も煙草も相変わらずの愛煙家の上、お酒も好きなひとりであるので、
平均寿命の前にあの世に行っている、確信に近いほどに思っている。

世間では、よく煙草を喫い続けると五年前後寿命が縮じまるという説があるが、
身勝手な私は5年ぐらいで寿命が左右されるのであるならば、
私なりの愛煙家のひとりとして、
ときおり煙草を喫ったりしながら、思索を深め日々を過ごす人生を選択する。
そして、昨今は嫌煙の社会風潮があるので、
私は場所をわきまえて、煙草を喫ったりしている。


このように身勝手で屈折の多い人生を過ごしたのであるが、
この地球に生を受けたひとりとして、私が亡くなる前まで、
何らかのかけらを残したい、と定年前から思索していた。
あたかも満天の星空の中で、片隅に少し煌(きらめ)く星のように、と思ったりしたのである・・。

私はこれといって、恥ずかしながら特技はなく、
かといって定年後は安楽に過ごせれば良い、といった楽観にもなれず、
いろいろと消却した末、言葉による表現を思案したのである。

文藝の世界は、短歌、俳句、詩、小説、随筆、評論などの分野があるが、
私は無念ながら歌を詠(よ)む素養に乏しく、もとより小説、評論は体力も要するので、
せめて散文形式で随筆を綴れたら、と決意したのである。


私は若き日のひととき、映画・文学青年の真似事をした時代もあったが、
定年後の感性も体力も衰えたので、
ブログ、ブログに準じたサイトに加入し、文章修行とした。

何よりも多くの方に読んで頂きたく、あらゆるジャンルを綴り、
真摯に綴ったり、ときには面白く、おかしく投稿したりした。
そして苦手な政治、経済、社会の諸問題まで綴ったりしたが、
意識して、最後まで読んで頂きたく、苦心惨憺な時も多かったのである。


私の最後の目標は、人生と文章修行の果てに、
たとえば鎌倉前期の歌人のひとり鴨 長明が遺され随筆の『方丈記』があるが、
このような随筆のかけらが綴れれば、本望と思っている。


こうして定年後の年金生活の身過ぎ世過ぎの日常生活で、
家内とふたりだけの生活の折、買物の担当をしたり、
散策をしながら、四季折々のうつろいを享受し、
長年の連れ合いの家内との会話も、こよなく大切にしている。

そして時折、何かと甘い自身の性格と文章修行に未熟な私さえ、
ときには総合雑誌の『サライ』にあった写真家の竹内敏信氏の連載記事に於いては、
風景写真を二葉を明示した上で、文章も兼ね備えて掲載されていたが、
このような形式に誘惑にかられ、悩んだりする時もある。

私が国内旅行をした後、投稿文に写真を数葉添付して、旅行の紀行文の真似事をすれば、
表現上として言葉を脳裏から紡(つむ)ぐことは少なくすむが、
安易に自身は逃げる行為をしていると思い、自身を制止している。

そして、言葉だけによる表現は、
古来より少なくとも平安時代より続いてきたことであるので、
多くの人の心を響かせるような圧倒的な文章力のない私は、
暗澹たる思いとなりながらも、まだ修行が足りない、と自身を叱咤したりしている。


そして拙(つたな)い才能には、
何よりも言葉による表現、読書、そして思索の時間が不可欠であり、
日常の大半を費(つい)やしているので、年金生活は閑だというのは、
私にとっては別世界の出来事である。

このような思いで今後も過ごす予定であるので、
果たして満天の星のひとつになれるか、
或いは挫折して流れ星となり、銀河の果てに消え去るか、
もとより私自身の心身によって決められることである。


しかしながら、いつの日にかは命(いのち)果てる時がある。
ある日、川沿いの遊歩道を歩いていた時、
この遊歩道は片側が帯状に小公園となり700メートル前後あり、
樹木、草花が四季それぞれに彩(いろ)っている場所で、
私の散策の好きなひとつのコースでもある。

木のベンチに私は座り、煙草を喫いながら、少し休息をした・・。

この時に、どうした思いが、いつの日にか命が果てる時は、
晩秋の午前のやわらかな陽射しの中、
ポックリと死を迎えられたら本望である、と脳裏をかすめたのである。

この遊歩道で、独りで歩き、
桜(サクラ)、モミジ、ドウタン躑躅(ツツジ)等の朱色を誉(ほ)めたり、
白梅、公孫樹(イチョウ)、コナラ等の黄葉の彩(いろど)る錦繍の中、
木漏れ陽を受け、ときおり舞い散る葉を眺め、
好きな本を抱(かか)えて、突然に命が果てる、といった状況を願ったのである。

5年先か10年先か、或いは数10年先か判からないが、
いずれいつの日にか、命は絶えるのであるが、
亡くなる時は、こうした思いもあることは確かである。


私の葬儀に関しては、お通夜、告別式も家族葬とし、
死者は土に還るという意味あいから、樹木葬にと、
私達は子供に恵まれなかったこともあり、寺院の墓地は不要である、
とここ6年ばかり家内に云ったりしている。

このような身勝手な身ながら、ぼんやりとカレンターを見ていたら、
『先負』と明記されているので、
《午前中が悪いが、午後から良好》と古人から伝えられ折、
私の人生の後半戦は、恵まれることが多いのかしら、
と血液のB型にふさわしく私は微笑んだりしている。


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