夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

またごあんそ、歴史のかたみに ④

2009-04-18 15:08:11 | 
    第4章 維新の人々に思い馳せれば

私は『仙厳園』を辞した後、カゴシマシティビューの観光バスで、
城山に向かった。

城山の展望台は、市内の街並みが一望でき、
私は見惚(みと)れながら数枚の写真を撮ったりした。
そして、下山するために遊歩道を歩き出し、タブ、シイ、クスなど照葉樹林の多い中、
新緑の葉に陽射しを受けて、時折きらめいたりする美麗に、思わず足を止めたりしていた。

街並みに出ると、『西郷銅像』の横道となり、
私は少し見上げたりし、微苦笑しながら、街の中を歩き出したのである。

そして、市電に乗り、加冶屋町で下車した後、『維新ふるさと館』を目指した。

この後、市民の方に道先を尋ねた後、
私たちの宿泊先の近くに甲突川が流れているが、橋の付近の小公園に、
『大久保利通銅像』があり、私はしばらく見つめたりした。
そして、この甲突川の川べりの遊歩道を歩いたのであるが、
桜花が終わった葉桜の樹の下は心身心地よかった。

この先に『維新ふるさと館』が見えたのであるが、
閉館時間は五時であり、わずか一時間ばかりで概要として拝見する程度となった。

この後、私は宿泊先に向かい、とぼとぼ歩きだしたのであるが、
なぜかしら無性にカツオなどの刺身が食べたくなったのである。
私は中央駅前の居酒屋を数軒廻ったが、開店前の時間であったり、
盛り付けの多い店であったりし、
やむえず東京でも見かけるチェーン店の『庄や』に入った。

私は朝食はホテルのバイキング形式で頂いた後、
『仙厳園』で抹茶を2煎と和菓子、そして城山の展望所でペットボドルの煎茶を飲んだだけであり、
とりあえずビールの大瓶をお通しで呑んだ。
そして焼酎の呑めない東京の田舎者の私は、
純米酒の辛口を五合ばかり呑みながら、カツオの刺身、たたき、
タコの刺身、からし蓮根、そして薩摩揚げを頂きながら、
日中に観たり散策した所を思い馳せたりしていた・・。

この夜、私はベットに横たわりながら、
芳 即正、毛利敏彦の両氏に寄る編著の『西郷隆盛と大久保利通』を深夜の二時まで読んだりした。

そして酒の酔いか、疲れたせいか定かではないが、
夢の中で、島津斉彬、大久保利通、西郷隆盛の人たちが出てきて、
私は西郷隆盛に苦言を言ったりしていたのである。

『貴兄は考えてもいない征韓論などで誤解されたが・・
西南の戦の前に政府の海軍中将が鹿児島に出向き・・
貴兄と面談したが・・決裂とした・・。
少なくとも貴兄は・・陸軍大将まで歴任した人であるから・・
政府の武器、弾薬はもとより、兵力の圧倒的な強さを認識していた・・

結果として、貴兄を慕う6千人余りの人々を死に追いやった・・』
と私は云ったりしたのである。

『おいどんは・・何も解かっていない・・』
と西郷隆盛は真っ赤な顔で私に言い切った。

『名誉とプライドを大切にする余り・・戦死された家族の人々を考えたことがあるのか・・』
と私は負けじと言い返したのである。


私は夢からさめて、冷たい煎茶を飲み、
窓辺により雨の降りしきる夜明け前の外景をぼんやりと眺めた。



《つづく》




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またごあんそ、歴史のかたみに ③

2009-04-18 11:31:56 | 
    第3章 島津公の威光の跡には

翌朝、私は独りで島津家の別邸で名高い磯庭園と称せられた『仙厳園』に向かった。
丸に十字の旗印の下で、鎌倉時代より明治の初期まで、
少なくとも薩摩地方を統治していた威光の残照は、この『仙厳園』に遺されている。

そして明治の維新後に、それまでの鶴丸城から追われ、
この『仙厳園』を本邸とした心中に思い馳せたりしたが、
もとより長年、この地の権力者としての集約した文化の一面も歴然として遺されているので、
こうした興味にあり、再訪した理由であった。

四年前に、家内と団体観光ツアーでこの『仙厳園』と隣接された『尚古集成館』を訪れた時は、
わずか二時間半ばかりで慌(あわ)ただしく拝見した程度であり、
何かと心残りがあったのも本心でもあった。


鹿児島市内と周辺を観光周遊をするには、
『カゴシマシティビュー』と称されたレトロ調に装飾された観光バス、
そして市電も一日乗車券があり、何回でも乗降車できる割安なサービスがあり、
私も利用させて頂き、中央駅前より『仙厳園』に向かったのである。

仙厳園の受付から入園し、ツツジ、モクレン等を花を誉めながら、
私は歩き出した・・。

http://www.senganen.jp/menu.html


お土産所の『亀鶴荘』に寄り、店内で装飾品、大島紬を見たりしたが、
大島紬を婦人服に加工した品のふたつには魅了され、
思わず微笑んだりした。

辞して歩き出した時、あのような品々を拝見すると、
薩摩藩が江戸時代に於いて、奄美大島、沖縄の島々を制覇し、
過酷な程に収奪した状況を思い浮かべたりした。
そして、沖縄本島を通して、中国大陸との貿易の盛況も重ねたりした。

30数分歩き廻り、喉の乾きを覚えたので、
『竹徑亭』に寄り、抹茶を飲みながら、和菓子を頂き、
窓辺からはボタンの花がたわわに咲き、それぞれの色合いに染められ、
この時節を教示してくれた。

この後、中国の江南地方より移植された孟宗竹の竹林を長らく私は見つめていた・・。
そして、この地から孟宗竹は日本各地に広まった、と解説されていた。

私の幼年期、東京郊外でも竹林が数多く見られ、
実家でも竹林を整備し、筍(たけのこ)を青果市場に出荷したり、
竹細工の業者に竹を売ったりしていた時代もあったので、
私にとっては感慨深い光景であった。


この後、私が最も印象深かった『曲水の庭』を再見したが、
この庭の周囲の石組の配置、水の流れ、そして庭を眺めると、
まぎれない美の結晶でもあり、
私は羨望と嫉妬を感じながら、長らくたたずんでいたのである。

そして、『磯御殿』を拝見した折、
座敷前の廊下で正座して庭を眺めたのであるが、
桜島を築山に錦江湾を池にみたてた雄大な借景と称される庭園は、
誰しも実感されられる余りにも贅沢な光景である。
私はため息をしたりしながら、長らく見つめたりした。


私は『仙厳園』を去る前に、隣接された『尚古集成館』に寄ったのであるが、
もとよりよ私は、製鉄、造船、紡績なども無知なひとりであり、
この館の解説にすがるしかないのである。

【・・
幕末、時の薩摩藩主であった島津斉彬は、
アジアに進出して植民地化を進める西欧諸国の動きにいち早く対応するために、
製鉄、造船、紡績等の産業をおこし、
写真、電信、ガス灯の実験、ガラス、陶器の製造など、
日本の近代化をリードする工業生産拠点をつくり上げました。
それが集成館です。中でも慶応元年(1865)竣工の機械工場は操業当時の姿
をとどめる重要文化財。
その内部は大正12年(1923)、集成館事業とこれを進めた島津家の歴史を語り継ぐ博物館となり、
「尚古集成館」の名で親しまれています。
・・】
このように解説されていた。

http://www.shuseikan.jp/

私は数多くの展示品を拝見したが、無念ながら理解できる能力に乏しく、
たったひとつだけ感心できたのは、『昇平丸』の模型であった。
あの当時、洋式船の技術を取り入れた実験船として、
小さいながらも洋式の軍艦を完成できたことに驚いたのである。

この後、売店の本のコーナーで数多くの書籍があったが、
ひとつの本を買い求めたのである。

芳 即正、毛利敏彦の両氏に寄る編著の『西郷隆盛と大久保利通』(河出書房新社)であり、
薩摩藩のそれぞれの島津公、西郷隆盛、大久保利通を中核に、
幕末から明治の初期までを解かりやすく解説された本であった。


私は『仙厳園』と隣接された『尚古集成館』を辞する時、
五時間ばかりであったが、昼食も食べず、
『竹徑亭』に二回ばかり寄り、抹茶を飲みながら、和菓子を頂き、
そして各所の喫煙コーナーで煙草を三本喫ったりしていたが、
それなりに心を満たされたひとときでもあった。




                                《つづく》




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