夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

瀬戸内寂聴・著の『秘花』    

2008-09-24 18:14:08 | 読書、小説・随筆
          序章

日本の中のひとつとして、瀬戸内山脈があるが、
50数年前に突然に隆起して形(かたち)づくられた山なみである。

ひとりの女性が小説家を目指し、少女小説や童話を発表されながら、
ひたすら純文学の世界を目標とされていた。

こうした折、純文学の雑誌に佳作を発表されたが、
文壇の有力な文藝評論家から、手厳しい批判にさらされ、
大衆文学を公表しながら、発表のあてない純文学の作品を書き続けていたのである。

そして、純文学のふたつの作品を発表され、
文壇はもとより、多くの文学青年・少女から高い評価を得て、
著名な文学賞を獲得した後は、地下水脈から溢れる泉水のように、
精力的に作品を発表され、次々と本が発刊され、
またたくまに流行作家として地位を確立された。

こうした人気もあり、流行作家として確固たる人が、
突然に仏門に入り、修行しながら、作品を発表され、
文壇以外の多くの人々を驚ろかせた。


その後、大衆文学を主軸とした流行作家を自ら捨て、再び純文学に回帰し、
岩手の天台寺で青空説法と称せられた法話をされ、
この寺の境内で、この方の法話と言動を多くの人たちに感動を与え、
うらぶれていた寺を再興させたのである。

そして法話はもとより、講演、随筆などで、各地の多くの人びとに、
心の救済、そして生きがいを導いたのである。

この間、文壇の大家の証(あかし)のひとつとされている『源氏物語』の
現代語訳の大作を発表されたりしていた。

そして、近年に文化勲章も受章され、数多くの国民から賞賛され、
現代に至っている。


このように平地に住む年金生活の無名な男は思って、
そびえる瀬戸内と命名された高き峰峰を眺めてきたのである。



               第一章


このような足跡を残しているお方が、中世に能の大成者と知られ、
一世を風靡した世阿弥の生涯を表現すると、
私は雑誌、新聞などで知り、本音としては驚いたのである。

10数人の著名な国文学を専攻とされた学者はもとより、
私の拙(つたない)い知識からは、数人の小説家が世阿弥について、
発表されている、と少しボケた脳裏がよぎったのである。

大家となり、文化勲章を受賞された後、
あえて栄達、栄華をきわめ、そして失墜感を歩まれ中、
中世の文化史上に確固たる業績を遺された世阿弥の世界を小説にする、
熱意に正直な所、驚嘆したのである。


作者は、85歳の今だから、「最後の作品」として、
世阿弥の特に晩年の佐渡島の時代を表現したい、
と公言されていた。
佐渡に流刑となり、72歳の時から80歳過ぎまでの中、
逆境をどのように受け止めながら、迫り来る老いといかに向き合って、
どのように死を迎えたのか、
関心を示された、とも付言されたりしていた。


作品が発刊された後、版元の新潮社の『波』(2007年5月号)に於いて、
【瀬戸内寂聴『秘花』刊行記念対談】と題し、
作者の瀬戸内寂聴と小説家・川上弘美が対談され、席上で、
世阿弥について今まで書かれた研究書や資料を全部読まなくちゃいけなかったし、
佐渡島に取材として4度ばかり訪れたり、
作品として完成するまで4年を要した、
と発言されていた。

私は作者自身はご高齢の身でありながら、情熱を感じながらも、
何より執念のような一途の深い思いに圧倒されたのである。



             第二章

私は遅ればせながら、9月の中旬の深夜のひととき、瀬戸内寂聴・著の『秘花』を読み終えた・・。

その直後、本棚から、新潮日本古典集成のひとつ『世阿弥芸術論集』を取り出し、
少しばかり読んだりしながら、世阿弥の心情に思い馳せたり、
瀬戸内寂聴・著の『秘花』の作品に思いを重ねたりした。

日中のひとときも、寝不足ながら、思考した上、
この作品の論評を考え出したのである。

私はもとより能に素養もなく、学生時代は国文学を専攻していなく、
文学も愛好家のひとりであるので、
正統な文学論評は表現できる才能も持ち合わせていないので、
困苦したのである。

結果としては、庭の樹木、草花を眺めた後、
作品の一部が脳裏に残っていたのが思い起こされたのである。



申楽は万民に快楽を与える芸だという信条を、
観阿弥は死ぬ瞬間まで守り通したのであった。

『風姿花伝』の中の「奥義に云はく」の件にに、私も書き遺している。
・・・
能力も知力も秀れている上流の人々の鑑賞を受ける役者が、
芸も風格も申し分ない場合は問題がない。

しかし大体において無知な大衆や、遠国や田舎の卑しい庶民には、
こうした高級な芸風は理解し難い。
こういう場合、何とすべきか。

能という芸は、一般大衆に愛され支持されることを基礎として
座が成り立っている。
それでこそ座にとっては喜ばしいことになる。
あまりに高踏的な芸風ばかり研究していっては、
一般大衆の人気を受けることは出来ない。

能を演ずる立場としては、つねに初心の頃の新鮮な気分を忘れないようにして、
時節にふさわしい場所柄を心得て、
鑑賞眼の低い観衆の眼にも、「なるほどな」と納得出来るように能を演じること。
そうなってこそ、どちらにとっても寿福がもたらされることになる。
・・・
どれほど舞台で名人上手の芸を見せようが、
見物の多くがその芸に感動し幸福感を与えられないような場合は、
寿福増長の名人の役者とはいえないのである。
・・・


本書90~91ページより引用。
本書の原文より、あえて改行を多くした。


世阿弥が遺(のこ)された『風姿家伝』の一節を、
作者は、巧く現代文で表現されているが、
何より世阿弥の心情と作者の自身の足跡を投影させて、
加味しながら思いを深く表現された箇所である。


振り返れば、
世阿弥の父・観阿弥は父が猿楽師であり、
奈良時代の頃に大陸から伝承された軽業のような曲芸、物真似などを観せる芸で、
観阿弥は若き頃に結崎座を結成し、近畿地方の寺院の支援で一帯を巡業した。

観阿弥は猿樂の芸の向上心はもとより、
田楽と称される田植えなどで豊穣を祈願した
農村の歌や踊りなどをされる田楽座の良き芸も積極的に取り込み、
創意工夫を重ねて、その地域の好みも取り込んだりし、
各地域の観衆を熱狂させたりしていた。

そして、結崎座の芸に熱意のある人から人選し、『観世座』とし独立させて上、
自ら台本も書き、更に猿楽を向上させながら、観衆の拡大を図ったのである。

この後、中央の京都に進出し、醍醐寺の7日間公演も好評を得た後、
観阿弥は二年後に時の第三代将軍の足利義満の目前で猿樂能を演じ、魅了させ、
これ以降、観阿弥、そして子の世阿弥も絶大な寵愛を受けたのである。

近畿地方の片田舎から旗揚げし、時の最高権力者の支援を受けるまで、
それぞれの公演の場所により、
観衆の質、そして演目の内容、芸の披露の深みを、
たえず観る人に熱狂させる創意工夫をしたのである。

観阿弥は苦楽を伴う巡業を重ね、心身体験した表裏を、
我が子・世阿弥に伝承させ、能の稽古はもとより、
謡、その世界で著名な方から漢文、そして文学などを学ばせて、
中央の権力者に恥じない英才教育をほどこしたのである。

観阿弥の野望は達成されたが、死去した後、
残された世阿弥は義満から一心に寵愛され続けていたが、
まもなく義満公自身が近江の犬王の夢幻能の舞う
情緒もある上、格調高い芸に魅了され、
優遇しはじめ、世阿弥は次第に遠ざかれたのである・・。


このような私なりの世阿弥への思いも馳せながら、
作者の世阿弥の心情を重ねたのである・・。



            第三章

佐渡に渡った後の世阿弥の晩年の日常生活は、
作者の世阿弥の高齢に対する思いを、作者自身の命題とした
【逆境をどのように受け止めながら、迫り来る老いといかに向き合って、
どのように死を迎えたか】
作者自身の老いの心情を重ねながら、表現されている。

そしてひとりの創作した女性・沙江を登場させ、
作者の筆は静かに高揚させ、美しい旋律として綴られ、
まさに瀬戸内文学の長所が表現されている。

私は『狂雲集』などを遺された一休宗純が、
齢を重ね老人となった時、盲目の若き女を身の廻りの世話を願い日常を過ごす中、
愛の交歓を思い重ねたのである。


私はこの『秘花』からは、思わず魅了された一節がある。
世阿弥が流刑と決り、娘婿の禅竹と会話しながら、
父・観阿弥と話しことを回想される箇所である。


・・
北山第の行幸の盛儀から外された屈辱と不満に、
自分の心のなだようもなく悶えていた時、
いつか父が何かの折に話された言葉がよみがえってきた。

「近江の大王は敵ながらあっぱれだな。
あれは生まれつきの天才だ。
はじめから幽玄を目ざして、物まねを次にして、かかりを本としていた。

われわれの得意とす物まねにこだわらず、写実より風情本位ということだろう。
あの芸風は、実に冷え冷えとして、自然に心が洗われるようだ。
芸人にとって、そういう好敵手が現われるほど、芸の励みになることはない。


いいか世阿、あらゆる芸は勝負だ。
勝つか、負けるか。究極は勝たねばならぬ。
秘技を盗んででも勝たねばならぬ。手段を選んではおられぬ。

幸いそなたは筆が立つ。
新しい能を書きことが出来る。その上、自分でシテが演じられる。

まだある。これから書こうと腹案を練っている芸論は、
そなた以外の誰にも書けぬ。


この世の時には男時(おどき)と女時(めどき)があるのだ。
男時はすべてが勢いづく上向きの時、
女時とはその反対の、すべてが勢いが衰え、不如意になる時だ。
女時の最中には焦ってはならぬ。自然の勢いには逆えぬ。

そういう時こそ、じっとわが心を抱きしめて耐えていることだ。
ふたたびめぐってくる男時の訪れを辛抱強く待つのだ」


本書15ページより引用。
本書の原文より、あえて改行を多くした。


作者は世阿弥が義満公から第一人者として寵愛を受けていたが、
やがて義満公は近江の大王の夢幻能に魅了され支援されたので、
栄華からの失墜の心情、思いを父の観阿弥の言葉として、綴っている。

これは観世流の盛衰もさることなから、観阿弥、世阿弥、そして作者自身の
今までの足跡を思い重ねて発露された、と私は感じたのである。


私は久々に本格的な小説を読んだのであるが、
文の力を改めて感じ、今後も文藝は最も有効な表現手段だ、
と行間からの作者の息づかいを熱く感じたのである。

尚、あえて私なりに苦言すれば、
晩年は佐渡の村人との淡い交流の中で、世阿弥が亡くなった後、
まもなく村人から能が演じられ、
後世の人びとから能の大成者として、確固たる業績に敬愛されようとは、
世阿弥は知るよしもなかった・・。

こうした一節も付記されたら、残り花の風情が増す、と余計な事を思ったりしている。


                             《終わり》


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思わず、松田聖子ちゃんの『風立ちぬ』を唄いだし・・♪

2008-09-24 10:01:10 | 音 楽
昨夜、12時過ぎの深夜に布団にもぐり寝たのであるが、
3時に目覚め、1時間ばかりぼんやりとしていた。

この後、再び布団にもぐり寝付いたのであるが、
目覚めると7時過ぎであり、家内は洗濯と掃除をしていたので、
『遅れをとった・・』
と私は家内に挨拶代わりに云ったした。


秋晴れの朝の陽射しの中、
私は主庭のベランダで煙草を喫っていたら、
樹木の枝葉は風で揺れて折、私の身体も風に身をまかせると、
秋風と感じたのである・・。

そして、私は思わず、


♪風立ちぬ 今は秋
 今日から私は 心の旅人

【『風立ちぬ』 歌詞・松本 隆 作曲・大瀧詠一 歌・松田聖子】


唄いだしたのである・・。

先ほどの天気予報は、私の住む地域に於いては、
秋晴れの爽やかな1日であり、
朝の6時は22度で、日中の最高気温も26度前後が予想され、
夕方の6時は22度前後が予測されています、
と報じられていたのである。

私は半袖にさよならし、長袖の季節かしら、
と感じたりしたのである。

そして暑さの苦手な私は、爽やかな秋の陽射しを受け気分爽快であるが、
風はまぎれなく秋色である。


尚、松田聖子ちゃんの『風立ちぬ』が街に流れていたのは、
昭和56年(1981年)の秋であり、この後の曲は『赤いスィートピー』もヒットされ、
私はレコード会社に勤めていたので、
他社の松田聖子ちゃんの曲も聴いていたのである。

苦手な松田聖子ちゃんであるが、良い歌は認める私の性格なので、
心の奥底に残っていたと思い、
私は年金生活の4年生の身であるが、微苦笑をしている。


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