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夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

昨夜、『エディット・ピアフ ~愛の讃歌~』を観た後、私がシャンソンに魅了された頃を思いを馳せて・・。

2011-06-08 09:25:06 | 音 楽
昨夜、NHK BSプレミアムで10時より
放送された映画の『エディット・ピアフ ~愛の讃歌~ 』を視聴した。

私は見逃した映画であり、エディット・ピアフの伝記映画と知っていた程度であるが、
どのようにエディット・ピアフの生涯を切り取り表現するか、
と興味を持って、観賞したのである。

この映画は、監督・オリヴィエ・ダアン、製作・アラン・ゴールドマン、脚本・イザベル・ソベルマン、
そして主演のエディット・ピアフを演じた女優は、マリオン・コティヤールであり、
2007年2月に公開された作品、と解説されている。

伝記映画作品としての構成は好感したが、
やはりマリオン・コティヤールのピアフの16歳ぐらいから、47歳で亡くなるまで、
演じきった桁はずれの表現力である。
もとより選評に厳しいと定評のある第33回セザール賞主演女優賞、
そして栄誉ある第80回アカデミー賞主演女優賞を受賞したことに、
私は十二分に納得させられた。


この映画に感動した私は、深夜ぼんやりとエディット・ピアフに思いを馳せて、
やがて私が初めてシャンソンの底知れる魔力に魅了された頃を思いだしたりした・・。


私は東京オリンピツクが開催された1964年、に大学を中退し、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退した。

ある養成所に入所して、やがて講師のひとりから、
ある月刊誌の記事の取材、下書きを分けて貰い、
ノンフェクション・ライター気取りで取材し、指定された原稿用紙に綴り、
講師に手渡し、幾ばくかの金銭を受けたりし、シナリオの習作にも励んでいた。

私は確固たる根拠もないが、独創性があるとうぬぼれていた私は、
先の見えないあてどもない日々を過ごし、アルバイト、契約社員で生活をしていた。

やがて、小説の習作していたが、幾たびか小説新人の応募で最終候補作に漏れ、
ある年のお彼岸の懇親の折、親戚の叔父さんから、
『30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と結婚した時に家庭を築き妻子を養えるかと素朴に叱咤されると、
私は自身のつたない才能に自信を失くした。

そして、やむなくサラリーマンに転職しょうと、軌道修正をした。
コンピュータの専門学校に一年ばかり学び、これを梃子(てこ)にした上、
ある知人のご尽力もあり、この当時は大企業のある音響・映像メーカーに、
中途入社できたのは、1970年の春であった。

この後、まもなくしてこの会社の一部が、外資系のレコード会社として独立し、
私もこの新たに創業された外資系のレコード会社転籍させられて、
入社当時から、現場を学べ、と商品部門に配属されていたが、
翌年からは本社のコンピュータの専任者となり、恵まれた職場の一員となった・・。


夜、残業をしていた時、
夜の闇からつぶやくような神秘性のあるフランス語が聴こえてきた。

私は仕事の手を休め、煙草を喫いながら、聴き入った・・。

♪Il plent sur Nantes
  Donne-moi la main
  Le ciel de Nantes

私は洋楽販売促進課の誰かが掛けたのだろう・・、と感じた。

私はレコードプレイヤーに近ずくと、
レコードのジャケットがそばに置かれていた。

バルバラの『私自身のためのシャンソン』

とタイトルは綴られていた。


私はそれまでのシャンソンの知識としては、越路吹雪、岸洋子ぐらいは知っていた。
本場のシャンソンとしては、
ダミアの『暗い日曜日』は、私の先代の人たちが夢中になったり、
ジュリエット・グレコとか、やはりエディット・ピアフに尽きる、
とかはあくまで知識としての範囲であった。

このバルバラの『ナントに雨が降る』には、
私の屈折の多い青春と私の父親を小学2生に死去された想いが加味され、
瞬時に魅了されてたのである。
この歌は、父の死をしみじみバルバラ自身が綴り、唄ったものである。

この時のレコードから聴こえたのは、
もとよりフランスの原語であったが、何となく歌詞の概要は解り、
職場であったが、目頭が熱くなった・・。


そして、私はバルバラの魔力にとりつかれて、
アルバムを買い求めたりし、この当時12枚のアルバムから、盛んに聴いたりした。

この間、銀座の外れにシャンソンの殿堂として名高い『銀巴里』に通ったりし、
日本のそれぞれシャンソン歌手が唄われるのを、聴き惚れたりした。

そして、この行き帰りに、ヤマハの銀座店に寄ったりして、
数多くのシャンソンを唄われる方たちのレコードを購入したり、
数年過ぎると、私の自宅のレコード棚は、シャンソンのアルバムだけでも、
少なくとも百枚は超えていた。

やがて、バルバラ自身が、『黒いワシ』の異色作品を携え、日本に来日した。
日生ホールで公演され、私は駆けつれて、観たのである。

いずれにしても、このバルバラの『ナントに雨が降る』が
シャンソンに傾倒する10年の始まりだった・・。


このようなことを、深夜ぼんやりと思ったりしたのである。


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レディー・ガガ、『なんで私にお金がない、ってみんな言ってるの・・?』発言、私は大笑いさせられて・・。

2011-05-30 21:36:22 | 音 楽
夕方のひととき、ネットでニュースを見ようと【YAHOO! JAPAN】を開き、

《 ガガ、派手なツアーで大赤字 》

と題された見出しを見て、
私はレディー・ガガに好感しているひとりとして、クリックした。

無断ながら記事を転載させて頂く。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110530-00000026-flix-movi
☆【YAHOO! JAPAN】
   <==【シネマトゥデイ 】澤田理沙・著『レディー・ガガ、派手すぎるコンサート・ツアーが大赤字なことを告白!』☆


私はレディー・ガガに関して、遅ればせながら半年前の頃、
圧倒的に魅了された66歳の身である。

何かしらレディー・ガガが、
《・・2009年から2年にわたって「モンスター・ボール」ツアーで世界を周ってきたが、
300万ドル(約2億4,600万円)の借金を負うほどの赤字だった・・》

そしてこの間に、この状況に知らされていなかったレディー・ガガ本人が、
《・・「コンサートツアーにすべてを投じて、ツアー前半では実際に破綻状態だった。
でも、私はまったく知らなくて、関係者に電話をして
『なんで私にお金がないってみんな言ってるの? 
私はナンバー1シングルが5枚もあるのよ!
ないわけないでしょ!』
と聞いたら、
『借金が300万ドルになってるよ』って言われたの」と語った。・・》

このレディー・ガガの発言に、私は大笑いさせられた・・。

もとより日本の屈折の多くのアーティストのライブは、殆ど大赤字で、
グッズ関連の売上げ、そしてコンサートのライブ盤のCD、DVDなどの販売、
或いは音楽配信など収益で結果として黒字になっている、と私は風の噂で聞いたりしたことがあった。


私は過ぎし5月19日に、
《 ガガ、フォーブス誌の世界セレブ番付で1位 》
と知り、私はこのサイトに於いて、

【 『レディー・ガガ、フォーブス誌の世界セレブ番付で1位』、齢を重ねた私でも、絶賛し・・。】

と題して、嬉しげに投稿した身なので、
今回のニュースを微笑みながら、読んだりしたのであった。


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朝のひととき、せめて心の中だけでも優雅に、エルガーの名曲の『朝のあいさつ』を・・。

2011-05-16 07:52:05 | 音 楽
私は音楽の楽譜も読めなく、楽器もさわれない拙(つたな)い66歳の男であるが、
何よりも読書を優先するが、ときには映画を居間で観たり、そして音楽を聴くのも好きである。

このようなに年金生活を過ごしたりしているが、
定年退職後、多く聴いた曲は・・、と先程ぼんやりと振り返ったのである。

私は音楽に関してはオペラとジャズは苦手であるが、
クラシック、ハード・ロックから歌謡曲まで聴いたり、抒情歌も聴いたりしている。
そして、ときにはクラシックの珠玉のような数多くの名曲を聴くこともある。

このような珠玉曲を2分間ばかり思い浮かべと、やはりねぇ、と微苦笑したのである・・。

イギリスの作曲家のひとりでエルガーが『朝のあいさつ』と題した名曲を遺(の)こされているが、
この曲を特にサラリーマンを卒業した定年退職後の生活で最も多かったのである。

私は農家の三男坊として生を受け、小学低学年まで農家の児として育てられたが、
父が病死し、祖父も亡くなったので、生家は衰退し、一時は生活に困窮した時代もあったりした。

この曲を聴くと、イギリスの田園風景の中で、程ほど大きな邸宅の裕福な家で、
朝のひととき優雅な情景を私は重ねてしまうのである。

私は幼年期の劣等感、そして身過ぎ世過ぎの年金生活を過ごしている今、
せめて心の中だけでも優雅な裕福のひととき・・と思っているせいか、
この曲を聴く時が多いのである。

http://www.youtube.com/watch?v=BSv3iApK3DQ
☆EDWARD ELGAR: Salut d'Amour☆

http://www.youtube.com/watch?v=Ch8WwEAV3aI&feature=related
☆ELGAR - "Salut d'Amour"☆ ヴァイオリン

同じ曲があるが、演奏に関してはその日の思いで、聴いている。


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コブクロの『蕾(つぼみ)』の歌、ときには齢を重ねた私でも、心の中で唄いながら・・。

2011-05-15 22:17:23 | 音 楽
夕暮れのひととき、私は玄関の軒下で、ぼんやりとしていたら、
脳裏から突然にコブクロの『蕾(つぼみ)』歌が舞い降りて、
心の中で唄ったりし、やがて独り涙を浮かべたりした・・。


私がコブクロに、圧倒的に魅せられたのは、
2007(平成19)年11月中旬からであった・・。

確かNHKでプレミアム10『恋うた2007 autumn&winter』という番組を視聴し、
最近の若い方たちが、どのような音楽に魅了されているか、
視聴した時であった。


私は現役時代は音楽業界のあるレコード会社に勤めていたが、
制作畑でなく管理畑であったので、制作関連には全くの素人であり、
ただ私なりの感覚的好きな曲を聴くことが多いのである。

私は齢を重ねたせいか、2000(平成12)年前後に、
現役時代の56歳前後、圧倒的な歌唱力のある小柳ゆきを盛んに聴いたりした以外は、
若いアーティストからは感銘を受けた曲は、感性が衰えたためか少ない。

定年退職後の2004(平成16)年の秋以降は、
絢香の『三日月』には瞬時に魅了され、物狂いのように聴いたりしていたが、
私の日常生活の音楽は、私の音楽棚からCD、DVDから取り出して視聴しているが、
圧倒的に2000年以前の作品である。


『恋うた2007 autumn&winter』に出演されたコブクロに関しては、
ミリオン・セラーを獲得している最近では数少ない人達であることは、
ネット等で知っていたが、歌そのものをじっくりと聴いたことがなかったのである。

『赤い糸』は初めて聴く歌であったが、
恋情を真摯に綴られ、詩情がある作詞で、何より独創性がありながら余情があり、
その上に文学性もありながらも昇華された作品であるので、私は絶賛したのであった。

彼等のコメントに寄れば、
結成まもない9年前に路上、その後のライブで唄い、
好きな歌のひとつです、と語っていた。

作詞、作曲、そして歌声に、久々に歌の世界から感銘を受けたのである。

そして、彼らが無名の時、自分達を信じて、夜の路上で唄った時の心情を思い、
私なりに胸が熱くなった・・。

『赤い糸』は、私は当時63歳の身でありながら、数少ない心に沁みた名曲と確信した。

このようにコブクロは、私の心の片隅に確かな存在感を残して、
この年に発表された『蕾(つぼみ)』は、私のこの年の最も好きな曲となった。


その後、昨年の2010(平成22)年の10月7日に、
ワーナーミュージック・ジャパンの代表取締役社長兼CEOの吉田敬(よしだ・たかし)氏の
突然の自裁に私は衝撃を受けて、
幾たびか、このサイトに投稿をした。

この中の最後の投稿文をあえて掲載する。

http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/84f61a9ae6aa96957618722841b8a353
☆【 年金青年たわむれ記 ~かりそめ草紙】
11月20日:『「ワーナーミュージック前社長のお別れ会でコブクロ、絢香ら恩返し誓う 』☆

この中で、お別れ会に際して、コブクロのコメントを掲載している。

《・・
□吉田社長の思い出
ドラマ『東京タワー』の(主題歌の)書き下ろしのお話を持ってきてくださったのは、吉田社長でした。
その時、ツアーの真っ最中というスケジュール上の理由で、
致し方なく書き下ろしのお話をお断りせざるを得ませんでした。

ところが、お断りした一週間後
「この曲はコブクロにしか書けない。コブクロにしか歌えないんだ」と、
嘆願するようにもう一度僕らのところに来てくださいました。
その熱意に感銘を受け、曲を作り始めました。
やがてはレコード大賞をいただくまでに育った「蕾」が出来たのは、吉田社長のおかげだと思っています。

□印象に残っていること
「桜」がまだ、シングルになるずっと前から、「桜」をとても愛してくださっていました。
ご自身、新幹線の中で「桜」を聴きながら、涙が流れ、どうしてもこの歌を世に送り出したいという一心で、
コブクロを応援し始めたんだと、いつもおっしゃってくださいました。

□そして今の気持ち
「桜」「ここにしか咲かない花」、「蕾」etc…そして、「流星」。
数々の楽曲には、吉田社長とやりとりした沢山の思い出が詰まっています。

僕らに全力を注いでくださったことへの感謝の想いは、
これからの音楽活動でゆっくりとお返ししていきたいと思います。
どうか天国から、ご家族のみなさんの心を支えてあげてください。
・・》

私は改めて読むたびに、コブクロの心情、
そして音楽業界の烈風の中、亡くなわれた吉田敬(よしだ・たかし)氏に愛惜を重ねると、
涙がこぼれるのである。

このような思いが私の心の片隅にあるので、
ときおり、コブクロの『蕾(つぼみ)』の歌を心の中で唄ったりすると、
独りわびしく、はかなく、熱い思いになるのである。


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今は亡きZARDの坂井泉水さん、私なりのささやかな想いは・・。

2011-05-14 18:30:07 | 音 楽
午後の4時過ぎ、私は居間にある音楽棚から、
何を聴こうかと少し迷った後、一枚のCDを取りだした・・。

ポップス・グループのZARDのベスト盤の一枚であった。

一時間後、私は庭のテラスに下り立ち、
ぼんやりとZARDの作詞家、ボーカリストの坂井泉水(さかい・いずみ)さんのことに思いを馳せたのである。

私は坂井泉水さんの突然亡くなわれたことを知ったのは、
確か伊豆半島の下田にある観光ホテルで温泉滞在していた2007(平成19)年5月28日で、
ロビーにあるテレビのニュースであった。

そして私は少し動揺しながら、突然の訃報に接し、お若い身なのにと悲しみを覚(おぼ)えたが、
1990年代の女性ボーカリストの代表として活躍された坂井泉水さんに、
『大変でしたね・・ご苦労様・・ゆっくりとお休み下さい・・』
と心から冥福を祈ったりした。


私はこのお方には、残念ながらお会いしたことがないが、
私なりに一時は熱愛し、歌の数々に魅了させられた時代もあった。

1993(平成5)年の晩春、私は音楽業界のレコード会社の管理畑に勤めていたが、
あるレコード会社と事実上統合なった結果、
初めて音楽プロデューサーの長戸大幸(なかと・だいこう)氏の率いるビーイング系のZARDを知った。

これより少し前の時代として、新田和長(にった・かずなが)氏の率いるファンハウスが、
女性ボーカルとしては岡村孝子、辛島美登里、永井真理子などで全盛期でもあった。

私は素人(シロウト)なりに、ZARDの透明感ある甘い若き女性の歌声、
若い女性の思いの心情を託した作詞、
そしてビーイング系に多い馴染みやすいメロディーと感じたりした。

その上、ジャケットを拝見した限りであったが、恥ずかしいことを告白すれば、
さわやかな顔立ち、確かセミ・ロングより少し長めのヘヤースタイルで、
そして胸元がまぶしく、私は瞬時に魅せられたのであった・・。

『負けないで』、『君がいない』、『揺れる想い』のシングルCDが大ヒットとなり、
アルバムとしては、前年の『HOLD ME』に続いて、『揺れる想い』が直ちにミリオンとなり、
この年の女性ボーカルとしては、頂点を極(きわ)めた。

この後、ビーイングはビーグラム社として完全独立され、
私の務めていた会社から離れていったが、数年後まで私なりにアルバムを買い続けたりした。


結果としは、私は50歳前後の1993(平成5)年に、『負けないで』を初めて聴き、
その後、音楽業界としてはCDの売上げは1998(平成10)年でピークとなった。

この前後から各社はリストラ旋風となり、
私も出向となり、初め頃の1999(平成10)年の初春、
私なりに失墜感の中、ZARDの二枚目のベスト盤を購入した時、
豪華なジャケットを眺めながら、
あの時代は違法なダウンロードもなく、純粋にCDの売上げで勝負ができた幸福な時代だった、
と懐かしげに思い浮かべたりした。


坂井泉水さんの突然亡くなわれた後、
数ヵ月後に追悼盤のアルバムの二枚が発売されて、
音楽情報誌として名高い『オリコン』のランキングの1位、2位となったのを知った。


私は平素は自宅から近い川沿いの遊歩道を散策することが多いが、
坂井泉水さんが亡くなわれた前の2006(平成18)年の6月初旬に、
偶然に坂井泉水さんを見かけたような錯覚を感じたりした・・。

27度前後の初夏の陽気の中、私は夏用の長袖のスポーツ・シャツ、ストレッチ・パンズ、
足元はウォーキング・シューズであった。

遊歩道が狭まった時、前方から若い女性が帽子を深くかぶり、
黒のTシャツを召し、ポシエットをななめ掛けして、急ぎ足のウォーキングで近寄ってきた。

私は道を避(よ)け、若い女性が通り過ぎるの待った。
この若い女性は、少し微笑んで、目礼をして通り過ぎた。

『綺麗な顔立ち・・容姿も素敵・・』
と私は心の中で呟(つぶや)きながら、瞬時に魅了された。
そしてZARDの坂井泉水さんのデビューしてまもない時の顔立ちに似ている、
と遠ざかって行く後姿を見て、思ったりした。

この後、私はぼんやりと、

♪揺れる想い 体じゅう感じて
 君と歩き続けたい in your dream

【 『揺れる想い』 作詞・坂井泉水、作曲・織田哲郎、編曲・明石昌夫、唄・坂井泉水 】

と思わず心の中で口ずさんだりした。

その後、まもなくと、俺も齢を取った、と微苦笑させられたのである。


このようにささやかな思いがあり、
ときおり66歳の私でも、ZARDのアルバムの5枚を聴いたりしている・・。


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この時節の鼻歌は、若き頃は『五月のバラ』、先ほど心の中で唄った歌は『涙そうそう』となり・・。

2011-05-01 14:18:17 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり.
家内と遅い朝食を終えた後、改めてカレンダーを眺め、5月を迎えたのか、
とぼんやりと感じたりした・・。

そして若き独身の1973(昭和48)年の頃は、
この時節の鼻歌は、尾崎紀世彦さんの『5月のバラ』を小声で唄ったりしていたことを思いだされた。

♪5月 この僕が帰る
 まばゆい5月

【『5月のバラ』 作詞・なかにし礼、作詞・川口真 】

私はこの当時たまたまレコード会社の管理系の情報畑を勤め、
奮闘していた28歳前後で、世の中は怖いもの知らず意気揚々として、
世間の怖さを知らない男であった。

そして恋もしていたが、何故かしら失恋の方が多く、
生涯の連れ合いの愛(いと)しき人に逢うことのない時期でもあった。

♪忘れないで 忘れないで 
 時は過ぎても

【『5月のバラ』 作詞・なかにし礼、作詞・川口真 】

http://www.youtube.com/watch?v=Fa2WK8yYs9Y
☆【『5月のバラ』 作詞・なかにし礼、作詞・川口真、唄・尾崎紀世彦 】

このような歌を唄ったりし、失恋を痛手を慰めたりしていた。


先ほど、家の中を整理していて、少し休憩ね、と家内に言った後、
煎茶を飲み、そして庭のテラスに下り立ち、しばらくぼんやりとしていると、

♪古いアルバムめくり ありがとうってつぶやいた
 いつもいつも胸の中 励ましてくれる人よ

【『涙そうそう』 作詞・森山良子、作詞・BEGIN 】

この歌を心の中で唄っていたのである。

この後、私はどうして『涙そうそう』なの、と戸惑ったりした。

昨日、書庫にある本箱の最下段に並べているアルバムを取りだして、
家内と久々に見たりした。

そして、私たち夫婦は36年の歳月を過ごしてきたが、
あの方にお世話になったねぇ・・あの人にご迷惑をかけた・・
古き写真の数々を見たりして、お互いに呟(つぶや)いたりした・・。


このようなことが脳裏の片隅に残っていたのか、と『涙そうそう』の歌を
唄ったのかしらと微苦笑したりした。

この後、この歌は夏川りみさん、森山良子さんが唄っているが、
やはり私は男性のひとりであるので、好きなBEGINを【YouTube】を検索したりした。

http://www.youtube.com/watch?v=lNG6phzQAII&feature=related
☆【『涙そうそう』 作詞・森山良子、作詞・BEGIN、唄・BEGIN 】


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敗戦後の『昭和の時代』、あまたの歌謡曲を思い浮かべて、あえてひとつの歌を選定すれば・・。

2011-04-29 21:51:13 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
先ほど、ぼんやりと敗戦後の『昭和の時代』に於いて、
歌謡曲の世界でも、満天の星空のように数多くの歌があるが、
あえて私の人生に影響を受けたひとつの歌を選定をしょうと思ったりした。

10数分ばかり思案したが、やはり敗戦後からの昭和の時代の終わりまで、
歌の数々を唄われ、この時代に身も心もささげて、そして殉死されたような歌手・美空ひばりさんを抜きにして、
この時代を語れないと確信さえしている・・。

このように思索すると、やはり『川の流れのように』(作詞・秋元康、作曲・見岳章)の歌かしら、
と思ったりした。
この歌は、周知の通り、1989(昭和64)年1月7日に昭和天皇が崩御され、
元号が「昭和」から「平成」へ移り変わって間もない1月11日に発売された名曲でもある。


この歌に決定しょうと思った後、敗戦後の昭和の時代を私自身の幼年期に重ねて、
思い馳せたりしていた時、ひとつの歌を思い浮かべて、微苦笑したのである。


私が小学校に入学したのは、1951(昭和26)年の春だった。
東京の郊外の調布市であるが、この当時は京王線の各駅の前は商店街があったが、
駅より5分離れると殆ど田畑、雑木林が圧倒的に多く、緑豊かな町村であった。

私の生家は農家で、祖父、父が中心となって程ほど広い田畑を小作人に助けられ耕し、
竹林、雑木林などを維持管理していた。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた三男坊で、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、私は幼児なりに何となく感じていたのか、
いじけた可愛げのない子の上、無口であった。


兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、
と担任の女の先生がため息まじりに云われたりしていた。


音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。

学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。
私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。

結果として、通信簿『2』であった。

こうした中で、小学二年の時に父が病死し、祖父も小学三年に亡くなり、
農家の要である大黒柱を失った我が家は没落しはじめた。

私はこの頃、ラジオから流れていた歌をうつろに覚え、私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、
或いは家の留守番をしている時は、

♪笛にうかれて 逆立ちすれば
 山が見えます ふるさとの
 わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし

【『越後獅子の唄』 作詞・西條八十、作曲・万城目正、唄・美空ひばり】


私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。

そして、私が気分が良い時は、
私は街の子、田舎の子・・、
と勝手に『私は街の子』を変更して、唄ったりしていた。

小学校の後年になると、私は映画を観ることが何よりも好きであったので、
母に百円を懇願して、独りで映画館にたびたび通った。
この当時は、電車賃は子どもで往復10円、映画館の入場料は殆ど三本立ちであったが子どもで40円で、
帰路にラーメン屋に寄り35円で、あとの15円は映画館の中にある売店で都こんぶ等を買い求めていた。


後年、この歌は『越後獅子の唄』であり、昭和26年に松竹映画『とんぼ返り道中』の主題歌として、
越後獅子の少年を美空ひばりが演じていた、
と解かった懐かしい映画のひとつとなった。

私が身勝手に孤独感を感じ、屈折した幼年期を過ごしたが、
この歌は心を癒(いや)して、慰めてくれた貴重な心の歌となっている。

http://www.youtube.com/watch?v=cvDqX5NhY9w&feature=related
【『越後獅子の唄』 作詞・西條八十、作曲・万城目正、唄・美空ひばり】


一昨年の2009年の3月下旬に、筒井清忠・著の『西條八十』(中公文庫)を読んだりし、
西條八十氏がこの歌の作詞された発想が描かれていて、私は驚いた・・。

《・・
昭和25年の春、西條八十が『山のかなたに』の打ち合わせるのため、
新東宝の撮影所を訪れると、
柳谷金語楼・主演の『続・向う三軒両隣り』のセツトがあり、
小憩中で、誰もいない中に一人の女の子がぼんやりと立っていた。

西條八十が元気づけようと、
「君も金語楼劇団に入っているの? 小さいのに感心だね」
と話しかけると、
少女は笑って、
「いやだわ先生、私コロムビアの専属歌手なのよ。
先生と同じ会社ですよ」と言った。

これが西條八十と美空ひばりの出逢いだと、森一和は著している。
西條八十は美空ひばりを知らなかったが、美空ひばりは西條八十を知っていたのである。


それ以来、西條八十は美空ひばりを興味をもって眺めていたのだが、
天才少女への世間の眼は冷たいものがあり、
新聞で「ゲテモノ!と叩かれたりしていた。


こうした中で、西條八十は会社から美空ひばりの正月用の作品を頼まれたのである。
西條八十は戦前に住んでいた柏木あたりに、
正月になると越後獅子が来ていたのであるが、
その子供達が芸をしながら、いつも怖い目つきの親方を恐れいた痛々しい様子を思い出し、
この曲を作ったという。

つまり、『越後獅子』とは当時、社会的に冷たい目で見られ、
大人の歌手の間で肩身の狭い思いをしていた美空ひばり自身のことなのであった。

この歌のテスト盤を聞いた斎藤寅次郎・監督が、
この歌を主題歌とした美空ひばりの主演映画『とんぼ返り道中』を企画、
26年の正月映画として大ヒットした。


浅草六区の直営館では、
満員の客をさばくためにフィルムを適宜カットし、上映回数を一回多くしたが、
美空ひばりの出る場面、歌う場面は残したので、客は満足して帰ったという。
しかし、この『越後獅子』が、美空ひばり自身を象徴していたことを
当時の観客の何人が察知していただろうか。
・・
(略)
・・》
注)本書の原文(425・6ページ)より、あえて改行など多くした。


このように作詞家としての西條八十氏の『越後獅子の唄』の発想としての秘話、
その後の斎藤寅次郎・監督の英知で『とんぼ返り道中』が上映されたのは、
私は無知であった。

私はラジオから聴こえたのを幼年心なりに覚え、
数年過ぎた頃、独りで三流の映画館で観ながら、涙を流したのである。

こうした創作の秘話などを読んだりし、具体的に教示されたのであるが、
こうしたことは本書のような本を読まない限り、
たとえネットの世界が広まり安易に知識が得られる今日でも、不明と思われ、
改めて読書は限りなく奥深く、思索させられる根幹かしら、と確信させられたのである。

尚、余談であるが、
《・・美空ひばりの歌った『越後獅子の唄』・・
後の名歌手・島倉千代子は少女の頃、
この歌を聞いて歌手になりたいと思ったという・・》

注)本書の原文(423ページ)より、あえて改行など多くした。

このような本書の一部を読むと、私は思わず微苦笑したりしたのである。


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サイモン&ガーファンクルのそれぞれの歌は、私の青年期の終わりと重なり、微苦笑しながら・・。

2011-04-20 17:36:29 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、
29面の最下段の右側に、

《 あれから40年・・。あなたは何処で何をしていましたか? 》

と詩のような文を思わず読んだりした。

そして、この下段に、

《 サイモン&ガーファンクル 

     『明日に架ける橋(40周年記念盤)』 》

と大きく明示され、私はソニー・ミュージックの広告だよねぇ、と瞬時に理解できた。

そして、この広告宣伝を見ながら、
この《 あれから40年・・。あなたは何処で何をしていましたか? 》は、
たぐい稀(まれ)なフレーズと私は感心した。

http://www.sonymusic.co.jp/Music/International/Special/sg/
☆【ソニー・ミュージック】サイモン&ガーファンクル『明日に架ける橋(40周年記念盤)』☆


そして私は、この広告を見ながら、
サイモン&ガーファンクルの『明日に架ける橋』が日本で発売された頃は、
私にとっては青年期を終わりを告げるような時期と重なり、
このアルバムとそれ以前に愛曲した歌が思いだされた・・。


私が地元の調布市立の小・中学校を卒業して、
都心にある私立の高校に入学したのは、1960(昭和35)年の4月だった。
小・中学校時代は兄2人が成績が良く、何かしら気後れと劣等感にさいなまれ、
劣等生のグループに属していた。

兄たちの全く関係のない高校に入学し、
都内の中学校を卒業したクラスの生徒の多い中で交流を重ねたりし、文学、歴史、地理、時事に興味を持つ生徒となり、
写真部に所属し、風景写真に魅せられていた。

そして、初めて本気で勉強に励んだり、高校の2年ぐらいまで優等生のグールプの一員となった後、
安堵したせいか、小学高学年からたびたび映画館に通った習性が復活したり、
女子部の生徒と新宿御苑で木陰で手を握りドキドキしながら付き合ったり、
或いは友人の宅に泊りがけで遊んだりしたので、
成績はクラスで10番め程度に低下したのである。

この頃の私は、写真、映画へのあこがれが強かったのであるが、
日大の芸術学部には、ストレートで入学できる自信がなかったのである。


担任の先生に、進学の相談事を話した折、
『一浪して・・もう一度、真剣に勉強すれば・・合格はできると思うが・・
だけど、映画、写真を専攻し卒業したところで・・
この世界で食べていくのは大変だよ・・つぶしのきかない分野だからね・・』
と私は云われたのである。


結果として、私は安易な二流大学の潰(つぶ)しのきく商学部に入学したのは、
1963(昭和38)年4月であった。
体育系のワンダー・フォーゲル部で山歩きをしたりしたが、映画館には相変わらず通っていた・・。

秋になると、授業をさぼり、クラブも退部し、
映画館に通い、シナリオの習作、評論の真似事をしたりした。

そして、翌年になると、都心は東京オリンピックの開催年で、
日増し毎に都心の景観は、大きく変貌した・・。

私は9月下旬で二十歳となった時、
母と長兄の前で、大学を中退し、映画の勉強に専念する、と通告したのである。

東京オリンピックの開催中、私は京橋の近代美術館に於いて、
昭和の初期から戦前までの邦画の名作が上映されていたので、通い続けて観たしていた。

ある時、渋谷駅に乗り換えた時、街中から
『日本女子のバレーボール、金メダル・・』と聴こえてきた。


東京オリンピックが終り、翌年の1月から、専門養成所に入学した。
この養成所は、銀座のあるデパートの裏口に近いビルにあり、
『ララミー牧場』、『ボナンザ』などのアメリカ・テレビ劇を輸入・配給している会社で、
俳優・演出・シナリオ等の養成所も兼ねていたのであり、
確か俳優コース、演出コースに分かれていた、と記憶している。


指導の講師は、俳優・早川雪州を名誉委員長のような形で、
各分野の著名な人が講師となり、夜の7時過ぎより2時間の授業であった。

私は演出コースであったが、
日本舞踊で花柳流の著名な方から指導を受けたり、
白人の美麗な女性から英会話を習ったりしていた。

もとより、シナリオを学ぶ為に、文学の授業もあり、
著名な方から、川端康成の文学などを教えを受けたり、
シナリオ基本を学んだりし、同期の人と習作をしたりしていた。

この間に、アルバイトとして、養成所から斡旋をして頂き、
アメリカ・テレビ劇に準主役として撮影所に通ったりし、
この当時のアルバイトとしては破格の出演料を頂いたりしたが、
しかしアメリカ・テレビ劇の日本語訳の声優の真似事の採用試験には失敗していた。

こうして養成期間の一年は終ったが、
俳優志望の男性、女性にしろ、私のようなシナリオ・ライター志望にしても、
夢のような時間であったが、
これといって誰しもが一本立ちには程遠かったのである。

この後、ある総合月刊雑誌の契約している講師の方から、
取材、下書きを仕事を貰い、
私はノンフェクション・ライターの真似事を一年半ばかりした。
そして、この講師から、新劇の世界の人々と紹介を受けたりし、浅い交遊をしたりしていた。

こうしてアルバイトをしながら、講師のお方から新劇界方たちと交遊したりしていると、
映画界は益々衰退し、スタッフの方たちはもとより、ましてシナリオ・ライターの世界も先々大変であると、
改めて教示させられた。


私は文学であったならば、独り作業の創作なので、
小説習作に専念する為に、これまでの交遊のあった人から断ち切り、
ある警備会社に契約社員として入社した。

この警備会社の派遣先は、朝9時にビルに入り、翌日の10時に退社するまで、視(み)まわり時間以外は、
警備室で待機すればよい職場の勤務状況であった。

そして2人で交互にする体制で、
私が朝の9時に入室し、相手方より1時間ばかりで相互確認し引継ぎ、
翌日の朝の10時に退室できる25時間システムである。

私はこの間に、秘かに小説の習作時間と決め、働きはじめたのである。

こうした生活を過ごしながら、
私は文学月刊雑誌に掲載されている新人応募コンクールに3作品を投稿した・・。

私は根拠のない自信で、独創性と個性に満ち溢れている、と思っていたのであるが、
いずれも最終候補6作品には残れず、寸前で落選したのである。
私は独りよがりかしら、と自身の才能に疑ったりし、落胆したのである。

学生時代の友人達は社会の第一線で出て、私は社会に対しまぶしく、
根拠のない自信ばかり強くかったが、内面は屈折したりした。
そして学生時代の友人達は、社会に出て、逢う機会も次第になくなり、
何かしら社会からも取り残されたようになってきた。

このような折、親戚の叔父さんから、
『30代の時・・きちんと家庭を持てるの・・』
とやんわりと云われたのである。

私は30代の時、妻子をきちんと養い家庭生活を想像した時、
ため息をしながら、小説はじっくりと時間をかけて書けばよい、
と進路を大幅に変えたのである。


やはり定職に就いて、いずれは・・と思い、
新聞広告で就職募集の中途採用欄を見て、
ある大手の家電会社の直系の販売専門会社の営業職に入社の受験した。

この試験の帰りに、映画館で『卒業』を観た・・。
この頃、ラジオから『サウンド・オブ・サイレンス』がよく流れていた。
映画はこの曲を中心に流れ、私は魅了させられ、
初めてサイモン&ガーファンクルの歌声、メロディーに酔いしれた。

家電の営業職の中途採用は、その後は面接を2回ばかりした後、
幸いに2週間後に採用通知を頂いた。

このような時、近所の家電販売店の店主が、実家にたびたび来宅していた。
『あんたなぁ・・家電の営業・・といってもなぁ・・
余程の覚悟でならないと・・使い捨て・・消耗品なるよ・・
同じやるなら・・手に職を持った・・・技術だょ・・』
と私は忠告された。

私は社会に対し、中途半端な身であったので、技術職といっても皆目検討が付かなかった・・。
このような時に、本屋の店頭でダイヤモンド社のビジネス雑誌で、
付録として『三週間でわかるコンピューター』と題された小冊誌があった。

購入して読んだが、理工関係にも弱い私は理解出来ない方が多かった。
ただ漠然として、これからの企業ではコンピューターが伸長する、と理解していた程度であった。

この後、私はコンピューターのソフトコースの専門学校に1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょうと思った。
同期の生徒は、高校を卒業したばかり理工方面に優秀な若い男女が多く、
私は遅れた青年のひとりとして、学んだ。

私は積分、微分には苦慮したが、授業を受けていく中、
コンピューターを操作していても処理時間に相当掛かるので、
空き時間があり、企業に入ったら、この時間を創作時間に当てようと思ったりした。

そして、近所の家電販売店の店主の紹介で、
この当時は、ある大手の音響・映像メーカーの会社の首脳陣のお方を知り、紹介されて、
このお方のご尽力もあり、1970(昭和45)年4月、私は何とか中途入社が出来たのである。

そして、現場を学べと指示されて、商品部に配属されたが、
まもなく企業は甘くないと知り、私は徹底的に管理部門のひとりとして鍛えられた。

この頃は、他社のCBSソニーからサイモン&ガーファンクルの『ミセス・ロビンソン』、『スカボロー・フェア』、
『サウンド・オブ・サイレンス』等が収録されたLP『サイモンとガーファンクルのグレーテイス・ヒット』をよく聴いていた・・。

そして究極のアルバム『明日に架ける橋』が発売され、レコードが擦り切れるくらい聴いたりした・・。

♪Sail on silvergirl、
 Sail on by
 Your time has comev to shine

【『明日に架ける橋』 song by Poul Simon】

私はガーファンクルの声でこの部分に触れると胸が熱くなり、思わず涙ぐんだりした・・。

私の彷徨した時代に終わり、遅ればせながら社会人としてスタートを切り、
そして海の彼方のアメリカの混迷した社会も思いながら、この曲を聴いたりしていた。

まもなく私の勤める会社の音楽事業本部の中のひとつの大手レーベルが独立し、
私はこのレコード会社に転籍させられ、企業の1年生として業務にのめり込んだ。

この年の夏、他社のCBSソニーのサイモン&ガーファンクルの『コンドルは飛んで行く』が流行し、
そして晩秋には作家・三島由紀夫が自裁され、私の青年期の終わりを確実に感じたのである。


まもなく私は、本社でコンピュータの専任者となり、改めて企業のサラリーマンは、甘くないと悟ったのである。
一人前の企業戦士になるために、徹底的に鍛え上げられる中、私なりに孤軍奮闘したりすると、
休日に小説の習作をする気力もなくなったのである・・。

そして、私は遅れた社会人なので、
業務の熟練と年収に、早く同年齢に追いつこうと決意し、私の人生設計を考え始めたのである。


この後の私は、長らくあるレコード会社に勤め続けて、幾たびか異動し、最後の5年は出向となり、
2004(平成16)年の秋に、定年退職を迎えたのである。


このようにつたない青年期の時代を綴ったのであるが、
大学を中退を決意し、企業に中途入社出来るまでの期間は、
ときには観たい映画、欲しい本を買う為に、食事を何度も抜いたりし困窮したことがあったが、
私にとっては、まぎれない心身の黄金時代だった、と深く感じたりしたのである。

人生二度あれば、ときには思ったりする時もあるが、
こればかりは叶(かな)わぬ夢であるので、私は苦笑しながら、
名曲のひとつ『明日に架ける橋』を聴いたりしながら、ほろにがい青年期を振り返ったりしている。


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歌姫マドンナ、日本のために世界から支援の輪のひとつとして、ご活躍されて・・。

2011-04-12 08:22:22 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
先ほど、ぼんやりと時事通信社の基幹ネットの【時事ドットコム】を開いたら、
左側に【世界からの支援の輪 日本のために】の明記されていて、
この中にひとりの美女の凛とした表情の写真が掲載されていた。

私はどこかで見かけた人と思ったりしながら、
クリックしてしまった。

無断であるが、記事を転載させて頂く。

《・・
   チャリティ・アルバム「ソングス・フォー・ジャパン」
                     世界18カ国でチャート1位に

【3月31日 MODE PRESS】
東日本大震災の被災者支援のため、
世界のトップアーティストが楽曲を提供したチャリティ・アルバム
「ソングス・フォー・ジャパン(Songs For Japan)」が、
世界18カ国のiTunes Storeでチャートで1位に輝いた。

レコード会社の枠を越えて作られた同アルバムには、
U2、マドンナ(Madonna)、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ(Red Hot Chili Peppers)、
ケイティ・ペリー(Katy Perry)など計38組のアーティストが参加。
25日に発売され、これまでに日本をはじめ、アメリカ、ドイツ、フランス、スイス、オーストラリアなど
全18カ国で1位を獲得している。

価格は日本では1500円、アメリカでは9.9ドル(約820円)など。
アルバムの売上は、日本赤十字社に寄付され、被災者支援や被災地の復興支援などにあてられる。

なお、当初は音楽配信限定での発売を予定していたが、
あまりにも好評のため4月上旬にも2枚組みのCDで発売されるという。

(c)Bang Showbiz/MODE PRESS
・・》

こうした記事の右側に、

《・・
2011年03月31日 メキシコの首都メキシコ市(Mexico City)にオープンした
歌手マドンナ(Madonna)とニューエボリューション・ベンチャーズ(New Evolution Ventures)が
共同経営するフィットネスクラブ・チェーン「ハード・キャンディー(Hard Candy)」の
第一号店のオープニングに登場したマドンナ(2010年11月29日撮影)。

(c)PRPhotos.com/Solarpix
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

http://www.jiji.com/jc/f_brand?p=fwd20110331-2793497-7028247&rel=e
☆【時事ドットコム】<==【MODE PRESS】《チャリティ・アルバム「ソングス・フォー・ジャパン」・・》☆


マドンナの写真が掲載されて、やはりマドンナは世界の歌姫だ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

私は、この世の中にセレブと称される女性は苦手であるが、
知性を秘めて、それぞれの分野で活躍されている方たちには、
女神のような人、と私は思ったりしている。

歌の世界に於いて、マドンナはまぎれなく圧倒的な存在感のある方で、
私は絶賛しているお方でもある。

私は洋楽に苦手であり、圧倒的な存在感として、マドンナを知ったのは、
遅ればせながら、1996年のアラン・パーカー監督の映画『エビータ』を観てからである。


この『エビータ』は、アルゼンチンの伝説の大統領夫人の短くも激しい生涯を描いた感動作でもあり、
私は本来、ミュージカル映画は苦手であるが、この監督は私をねじ伏せてくれた。

完成まで監督候補はハーバート・ロス、リチャード・アッテンボロー、フランシス・F・コッポラ等の7人、
主役はメリル・ストリープ、ライザ・ミネリ等7人となったという。

最初、首都の大通りをエビータの葬儀で始まる・・
映像美と音楽でアラン・パーカーは期待された重責を押しのけ、
最良の演出を与えてくれた・・。

そして主役のマドンナは、民衆の前で大統領の官邸のバルコニーから、
民衆に呼びかける『泣かないでアルゼンチーナ』を歌う。
涙なくして視られないシーンである。

この映画はアラン・パーカーとマドンナの最良な面がでている。
他の方が担当しても、これ以上の作品は作れない、と確信している。

私はメリル・ストリープの大ファンであるが、この映画はマドンナが最適である。
歌手として、私はマドンナには余り感心を持っていなかったが、
見直したのである。


何よりもマドンナは、ローマで熱狂的な歓迎の中、
エビータについてこう語った、と語りづかれている・・。

『エバはアルゼンチンの労働者階級にとって聖母であり、
救世主として崇拝された。
でも一方で、女性の武器を使って次々に野心を満たしたのも事実。

私が彼女を演じたかったのは、
人々が作り出した偶像としてのイメージをだれよりも理解でき、
生身の人間である彼女の意志の強さ、
もろさをスクリーンで体現できると思ったからなの』

そして才女らしく、
『自分が何かをなすべき者てあるという運命を予感していた彼女に
強く共感したのであって、私自身の歩みが彼女に似ているからではなかったわ・・』

私はマドンナの理性に、感服したのである。


今回のチャリティ・アルバム「ソングス・フォー・ジャパン」のマドンナの選定された曲は、
私は知らないが、私としては、映画『エビータ』に於いて、
主役のマドンナは、民衆の前で大統領の官邸のバルコニーから、
民衆に呼びかける『泣かないでアルゼンチーナ』を秘かに選定したいと思っている。

今回の東日本大震災の被災者された方たちを励ます曲として、
つたない感性なりに、深く思ったりしているからである。

私は、この映画の『エビータ』のオリジナル・サンドトラックのCDアルバムも保有しているが、
無念ながらこのサイトに掲載する技量がないので、
【YouTube】の動画をお借りして掲載させて頂く。

http://www.youtube.com/watch?v=4Spy3Nd2D6w
☆ Madonna - 『Evita』(1996)
          『 Don't Cry for Me Argentina』 (泣かないでアルゼンチーナ) ☆


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森山直太郎の『さくら(独唱)』の歌、定年退職後の私が、ときおり心の中で唄うのは・・。

2011-04-09 14:28:16 | 音 楽
私は今朝、このサイトに於いて、
【 桜花の時節、染井吉野、山桜、そして八重桜を女性に譬(たと)えれば、と私は思いを浮かべ・・。】
と題して、戯(たわむ)れのような文体で投稿した。

この中で、
《・・
染井吉野(ソメイヨシノ)の桜が咲き始め、
その後に山桜(ヤマザクラ)、最後に八重桜(ヤエザクラ)が咲くのが、平年の慣(なわら)わしである。

こうした桜花を眺めながら、定年退職後の3月下旬から4月中旬を過ごす中で、
森山直太郎さんの『さくら(独唱)』の歌を心の中で唄いながら、歩くことが多い
・・》
と私は綴ったのであるが、
私が2004(平成16)年の秋に定年退職となり、
その後、ときおり私は森山直太郎さんの『さくら(独唱)』の歌を、心の中で唄ったしている・・。

こうした私の心情のことは、このサイトの中で、
【 私だけの森山直太郎の『さくら(独唱)』の深い想いで・・♪ 】
と題して、一昨年の2009年3月27日に投稿しているが、
今回一部を加筆して掲載をする。


【・・
(略)

今朝はいつものように日の出と共に起床し、
6時過ぎに玄関庭に下り立つ、樹木を眺めながら煙草を喫ったりしていた。

門扉の郵便受入箱の近くにある椿(ツバキ)が淡紅色の花がたわわな咲き、
恥らうように咲いている花を誉(ほ)めたりし、
平年より幾分寒く、花冷えとなって中、花持ちによいかしら、と微笑んだりした。

この後、花梨(カリン)の樹木を眺め、
芽吹きはじめ、萌黄色の彩(いろど)りの情景に心を寄せたりしていた。


このような情景を眺めていたら、


♪僕らはきっと待っている 君とまた会える日々を
 さくら並木の道の上で 手を振り叫ぶよ

【 『さくら(独唱)』 作詞・森山直太郎、御徒町凧、作曲・森山直太郎、唄・森山直太郎 】


この歌が突然に蘇(よみがえ)り、私は心の中で唄いはじめた・・。


私の現役時代は、中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に勤めていたが、
1998(平成10)年に業界のCDを中核とした売上げがピークとなり、その後は業界全体が縮小した。
この前後に、それぞれの会社が再構築がよぎなくされ、リストラなども行われた。

私たちの同世代は、定年退職時が60歳であり、
暗黙として、お互いに定年退職まで、頑張ろうとする意志は大半であった。
そして、もとより若き入社時代から人生設計の主軸として過ごしてきた・・。

こうした中で、私の知人の多くは50代となり、
組織の見直しによる人事配置転換の人事異動、出向、
そして早期退職優遇制度による退職などの烈風となった・・。
このような形で、同じ時代の空気を共にした上司、同僚、後輩などと別離があり、
業界から去った人も数多くあった。

私自身も1999(平成11)年の初春、55歳の前に出向となり、
出向先で定年退職を迎えたのである。


私の出向先は、通勤としては、ほど遠いの物流情報会社に出向となり、
この中のひとつの物流センターに配属された。

私の住む自宅からバスに乗った後の最寄り駅は、小田急線の成城学園前であり、
30年近く勤めた本社に勤務していた時は、
自宅を8時過ぎに出て、都心に向かって一時間で通勤していた。

出向先は、自宅を6時過ぎのバスの始発に乗車し、
成城学園前からは下り方面の本厚木駅に行った後、
バスに乗り換えて物流倉庫の多い所まで、一時間半ばかりで通った。

職場状況はもとより通勤状況も大幅に変貌したので、初めの半年ぐらいは、
都落ちしたような失墜感で気落ちしたのは、本心であった。

この後、私は職場の業務にも馴染み、
この間に、私の勤めていた出向先の物流情報会社も大幅なリストラがあったり、
かって勤めていた出向元のあるレコード会社も幾たびかリストラが実施され、
こうした中で、私なりに奮闘し、定年退職を迎えた。


私が勤めた物流センターは、CD、DVD等の音楽商品を保管・管理する部署であったので、
私は主要曲の出荷量を予測したりし、
契約社員10名前後、そして女性パート100名前後の中で、
効率よく迅速に出荷できるような業務も責務のひとつであった。

2003(平成15)年3月の初め発売された森山直太郎の『さくら(独唱)』は、
発売日の初回枚数がわずかで、新人のデビュー曲でもあったが、私は余り注視することがなかった。

桜の花が本州を北上するように、
この曲のCDが次第に上昇し、私は明日は3千枚ぐらいかしら、と予測して、
若手の男性契約社員に、商品を揃えるように依頼した。

しかし大半が私の当日出荷枚数を超えて、
私はCD5000枚のパレットを保管倉庫から出荷しやすい場所に移動させたり、
そして私が予測した以上の曲の数々の商品に於いても、
現場を駆けずり廻っていた。


この頃の私は、通勤時にCDウォークマンで数々の曲を聴き、
音楽専門雑誌を読みながら、それぞれの曲の出荷を予測の基礎としていたが、
30年間レコード会社で情報・管理畑で体験した身でも、需要予測は難しいのである。

特に数多い音楽商品の場合は、
人々の好みを予測し、この中の一部の方が、一枚を購入して下さるので、
まぎれなく生きた心の商品でもある。

結果として、森山直太郎の『さくら(独唱)』は
東北の北部に桜の咲く時期まで、活発に動き、
5月の初めの大型連休の頃、ミリオン・セラーと称せられる百万枚となった。


私にとっては、たまたま定年退職の前の年に、
この曲が、私の予測を遥かに超え、思いで深い曲のひとつとなった。


♪どんなに苦しい時も 君は笑っているから
 挫けそうになりかけても 頑張れる気がしたよ

【 『さくら(独唱)』 作詞・森山直太郎、御徒町凧、作曲・森山直太郎、唄・森山直太郎 】


私は花梨の萌黄色の新芽を眺めながら、
桜の咲く頃には、可憐なピンクの色した花びらが数多く彩(いろど)る光景に、
思いを重ねたりした。


♪今なら言えるだろうか 偽りのない言葉
 輝ける君の未来を願い 本当の言葉

【 『さくら(独唱)』 作詞・森山直太郎、御徒町凧、作曲・森山直太郎、唄・森山直太郎 】


私は小声で唄いだしたのである。


余談であるが、この頃のCDシングルは、何曲も収録されているのが、流行だった。

このCDシングルも『さくら(独唱)』、『さくら(合唱)』、『さくら(伴奏)』、
そして別の曲の『手紙』が入っていた。

私は『さくら』を3回ばかり聴いた後、『さくら(合唱)』が最も好きな曲となった・・。
何よりも女子高等学校の音楽部の方達が合唱に加わり、
より一層、哀切、惜別が醸(かも)し出されいる、と公言したりした・・。
・・】

このように私なりに体験をしたので、本社に勤務を含めた35年間でも、
数多くのヒット曲にめぐり逢えたが、とりわけ森山直太郎の『さくら(独唱)』の歌は、
思いで深い曲のひとつとなっている・・。


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【YouTube】、私が圧倒的に感銘させられた音楽の映像作品は、『X JAPAN』 の・・。

2011-03-31 18:51:03 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
日常の私は、買物と散策をする以外は、殆ど読書をすることが多く、
ときには居間で映画を鑑賞したり、音楽を聴いたりしている。
そして日々感じたりしていることを心の発露として、文章に綴り、
このサイト等にほぼ毎日投稿している。

たまたま若き頃に、映画・文学青年の真似事をした体験もあり、
小説、随筆、歴史書、現代史など本は5000冊前後、
ビデオ・DVDの映画作品は1000本前後ある。
そして現役時代に音楽業界のある会社に35年ばかり勤め、製作畑ではなく、
管理畑の片隅に勤めていたが、少しづつ買い求めた結果として、カセット、CD、DVDも3000枚前後ある。


午後のひととき、パソコンで【YouTube】を開き、色々な曲を視聴していたのであったが、
久しぶりに私の好きだったハードロック・グループの『X JAPAN』を数曲を視聴し、
偶然にある投稿された作品を視聴して、私は動顚させられながらも、
視聴後はここ4年ぐらいの【YouTube】の音楽の映像作品として、最もを感銘させられた・・。

投稿者の方は、X JAPANの名曲のひとつ『Rusty Nail 』を採り上げて、
1997年の大晦日に東京ドームで行われたLAST LIVEの音声で、
これまでの1994年~2008年のLIVE映像から、構成力のある編集がされ、
優れた感性のある作品となっている。

1997年の解散時を現在とたとえるならば、過去への1994年まで、
そして再結成の2008年と、小説の作品をみられるように、回想の取り入れ方に技巧があり、
私は動顚させられたのである。

そして私は、この投稿者された方の確かな熱情を感じ、圧倒されたのである。

私はこの間の1994年~2008年のLIVE映像に関しては、
1997年の大晦日LAST LIVEまでのビデオテープ、DVDの映像作品、
そして音声のCDは殆ど所有してきた熱愛者のひとりであったが、
今回、この投稿された《bonjovijova》方に、脱帽した。

66歳の私が感銘受けた作品を添付させて頂くが、
もとよりハードロックの作品で音量が大きいので、再生にはご配慮の程を。

http://www.youtube.com/watch?v=zfzv8-gT7FM&feature=related
☆【X JAPAN】の『Rusty Nail 』 (Live Digest 1994-2008) ☆

尚、私は遅ればせながら『X JAPAN』を知ったのは、53歳頃からであり、
この後の数年間は、物狂いのように熱愛し、殆ど毎晩CDで聴いたり、
ビデオテープ、DVDの映像作品を視聴したりした。
そして定年後の今でも、ときおり聴いたりし、このサイトにも投稿している。


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松田聖子ちゃんの『風立ちぬ』を思わず心の中で唄い・・。

2010-09-10 08:50:19 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨日の朝、前日の台風9号の影響で久々の雨となったので、
真夏の熱い日々が過ぎさり、樹木、草花、地面もしっとりとし、
曇り空の中、微風を心身受け止めると心地よいのである・・。

私は暑さに苦手な身なので、
『XXちゃん・・軽井沢か蓼科高原みたい・・』
と私は家内に云ったりした。

この後、私は主庭のテラスに下り立ち、樹木を眺めながら、
煙草を喫ったりし、朝涼のひとときを享受した。

このような情景を眺めていると、

♪風立ちぬ 今は秋
 今日から私は 心の旅人

☆【『風立ちぬ』 作詞:松本隆、作曲:大瀧詠一 】

と私の心の中で、唄いだしたのである。

朝の10時過ぎに晴れ間となったが、
一週間前の燦燦と照らす35度に近い陽射しより明確に和(やわ)らぎ、
微風も初秋の香りを感じて心地よいのである。

この後、私は買物と郵便局に向ったが、
住宅街の道を歩きながら、

♪風のインクで したためています
 SAYONARA SAYONARA

☆【『風立ちぬ』 作詞:松本隆、作曲:大瀧詠一 】☆

と私の心の中で、唄ってしまったのである。

帰宅後、温度計は29度を明示し、
台風で被害を受けられた方には不謹慎なことであるが、
ひと雨ごとに初秋に向っている、と実感させられたのである。

こうして今、主庭の樹木を眺めながら綴っているのであるが、
朝の6時は24度の曇り空で、昼過ぎに晴れ間となり30度前後、
そして夕暮れの6時は27度前後が予測されている。
そして鈴虫の鳴き声を聴きながら、月を眺めるのに最適かしら、
と私は微笑んでいる。

http://www.youtube.com/watch?v=ayjoV1vY7QY
☆【『風立ちぬ』 作詞:松本隆、作曲:大瀧詠一、編曲・多羅尾伴内、唄・松田聖子 】☆


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GLAY、私なりの懐かしき深い想いで・・。

2010-08-24 17:17:38 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昼食後、燦燦と照らす熱い快晴の中、散髪屋(理容店)に寄った後、スーパーに買物に行った。

店内で家内から依頼された生鮮食品を見極めていた時、


♪誰かの錆びたあのイノセンス 木もれ日に揺れている
 生まれた街の片隅に 遠い日の忘れ物

【『グロリアス』 作詞、作曲・TAKURO、編曲・GLAY、佐久間正英 】

と歌が店内から流れて、
私は思わず『GLAY(グレイ)だぁ・・』と心の中で呟(つぶや)いたりした・・。


私の現役時代のサラリーマンの時代は、あるレコード会社に35年ばかり勤めていた。
音楽を制作する部門でなく、管理畑で情報、経理、営業などの部署であったが、
それなりに音楽を聴く機会が多かったのである。

確か1994(平成6)年の春過ぎ、私が経理畑に所属していた頃、
ロビーの掲示板に数多くのポスターが掲載されていたが、
この中のひとつが私には解からなかったのである。
女のような若き男で長髪の4人が写しだされていたポスターであった。
『GLAY』と明示されていたが、私の心からは、ほど遠い存在であった。

その後、私は営業本部の片隅に異動した後、
GLAYを意識したのは、3枚目のアルバム『BELOVED』であり、
確か1996(平成8)年の11月だったと思うが、
普遍的であるが感覚として私の好みの詞であり、そしてサウンドも抵抗なく溶け込めていった・・。
私が50代の前半の時であった。


その後、シングル盤の『口唇』の後に、
翌年の1997年の秋、べスト盤のアルバム『REVIEW』発売され、
この頃の業界として空前の500万枚近い売り上げとなり、私は最も勢いのあるGLAYに、
秘かに私が予測した以上に、ただ驚き、ため息をさせられたのである。

私はこの前後に『BELOVED』、『HOWEVER』、『ずっと2人で・・』、『軌跡の果て』を盛んに聴いたりした。

そして、NHKの『紅白歌合戦』に出場され、
ボーカルのTERUが、『HOWEVER』を唄いあげていた。

この年は最もCD、ビデオ等でセールスに貢献したアーティストに日本レコード協会の主催で、
翌年の1998年1月に第12回『日本ゴールドディスク大賞』のアーティスト・オブ・ザ・イヤーを獲得している。
こうした実績を残されたので、私は年賀状を受け取った中のひとつに、
ある営業所の所長から、昨年はGLAYの年でした、と書かれていた。

その後、1998(平成10)年の4月にシングル盤の『SOUE LOVE』、『誘惑』同時発売され、
相変わらずミリオン・セラーが続き、
確か7月だったと思うが、『pure soul』のアルバムを270万枚を出荷した後、
私はGLAYから離れた・・。

この当時の私は、X JAPANの数多くの曲に、遅ればせながら魅せられて、
無我夢中に熱中していたからである。


そしてこの当時の業界全体の売上げピークは1998(平成10)年で、
この前後は、各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われた。

そして激動の1998(平成10)年の前後、
先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、
早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、彼等の決断を見送っていた。

その後、1999(平成11)年の新春、
私は人事担当の取締役から、出向の話を打診された時、
《何で・・俺が・・》
と思いがあったが、私は物流情報会社に出向となった。

この中のひとつの職場は、音楽のCD、DVDなど商品を管理する商品センターであり、
CD、DVD販売店からの日々の受注により、出荷したり、或いは返品を受けたり、
製造会社より入荷したりする処であった。
もとより音楽商品は、それぞれ一枚一枚が激変し、多品種であり、曜日、季節の変動も加わり、
現場は多忙であった。

私はこうした商品センターに、センター長はじめ正社員4名と共に、
男性の20代の契約社員10名、パートの女性120名前後の中で、奮闘した。

しかし最初の頃は、30年近く本社に勤めていた私は、出向の身となった直後は、
まぎれなく都落ちで、失墜感が心身にあった。
この商品センターで大きな取り扱いの最初のCDは、
1999(平成11)年2月3日発売のひとつGLAYの『Winter、again』であり、
確か数ヶ月で177万枚を出荷した。

このCDシングル盤を最後に、GLAYは我が社から契約が切れ、
他社に移籍した。

そして私は商品センターのあるフロアーにある『pure soul』のアルバムの
大量な在庫を苦笑しながら見たりした。
このことは前作のべスト盤のアルバム『REVIEW』が空前に売れて、
570万枚を超えていたので、『pure soul』のアルバムを大量にプレスした結果であった。


この年、5月5日ら放映された『GLAY 奇跡と栄光の向こうに』
と題されたドキメンタリーの番組がNHKから放映された。
この番組はGLAYと命名したロックバンドの結成時の状況、5年後のメジャー・デビューするまでの苦節、
そしてブレイクするまでの実態、その後の4大ドームのライブ・コンサートを成功するまで、
結成から頂点に立つまでの10年間の軌跡を描いたドキメンタリーの良質作品である。


私は、この映像を幾たびか視聴するたびに、GLAYに熱中した曲と時代、
そして熱気帯びた観衆のシーンを想いだし、愛惜を重ねたりしている・・。

そして、思いだすように私はときおり、
保有しているメジャー・デビュー作品からアルバム『pure soul』までを取り出して、
聴いたり、手元の3本ばかりのビデオテープも視聴したりしている。

最後に、私が初めてGLAYに瞬時に魅せられた1996(平成8)年の11月の頃、
ひとつの歌を掲載する。
http://www.youtube.com/watch?v=yVT236Pkjuo&feature=fvst
☆【『BELOVED』 作詞、作曲・TAKURO、編曲・GLAY、佐久間正英 】☆


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『ガールズグループ 韓流旋風』、齢を重ねた私は学び・・。

2010-08-20 17:55:47 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の6年生の65歳である身であり、
殆ど毎日、買物をしたり、散策をしたりしている。

こうした日常生活の中では、やはり読書の時間が多いが、
綴ることが好きで、ブログ系のサイトなどに投稿したりしている。
そして、ときたま居間でビデオ、DVDの映画作品を鑑賞したり、
CD、DVDで音楽を聴いたりしたいる。

私の現役時代は、たまたまレコード会社に35年ばかり勤め、
制作に直接係わる部門でなかったが、管理部門の各部を体験してきたので、
それなりにカセット、CD、DVDをある程度は保有している。

2004(平成16)年の秋、定年退職後の年金生活になると、
その日の心情により、適当に聴いたりしているが、
オペラとジャズは苦手であり、これ以外のどの分野でも聴いたりしているが、
やはり中島みゆき、井上陽水、X JAPAN、ミーシャなどは、
現役時代から引き続いて多く聴いたりしている・・。

そして、年金生活になると、読書が最優先となり、投稿文を綴ったりしているので、
音楽の興味は薄れているが、年金生活で初めて知り、私なりに夢中になり、
少なくとも300回以上の歌を聴いたアーティトがいる。

絢香ちゃんの『三日月』、コブクロの『赤い糸』、そして徳永英明の『ハナミズキ』の歌に魅了されたのである。

この程度つたない身であるが、
現役時代は音楽専門誌の『オリコン』のベストテンは、
ヒット曲の指標として、出来る限り聴いたりしてきたが、
昨今の音楽事情は恥ずかしながらも判らないことが多い。


今朝、いつものように読売新聞を読んだりしていると、
15面の【文化】エンタ面に於いて、トピック(TOPIC)と題された定例特集に於いて、

《 ガールズグループ
 
      韓流旋風

      日本上陸 半年で4組 》

と大きく見出しされ、ぼんやりと私は読んだりした。

この記事とほぼ同一なのが、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に掲載されて折、
無断であるが、記事を転載させて頂く。

《・・
   ガールズグループ 韓流旋風
              日本上陸 半年で4組

韓国のガールズグループがこの夏、続々と日本に上陸する。
デビューを記念するイベントには大勢のファンが詰めかけ、人気は早くも過熱気味。
旋風を巻き起こしそうな韓流アイドルの魅力と、日本進出の背景を探った。(田中誠)

11日にシングル「ミスター」でデビューしたのが、
親しみやすさで人気の5人組、KARA。
動画投稿サイトでは、腰をくねらす「ヒップダンス」が話題を集めている。
同日、東京の「渋谷109」前で行われた記念ライブには、
事前告知をしなかったにもかかわらず約3000人(主催者発表)が訪れた。


韓国の音楽グループの日本進出は、
東方神起、BIGBANG(ビッグバン)など男性グループが先行していたが、
今年に入ってから、韓国でのブームが波及する形で、女性グループの動きが目立つようになった。

先陣を切ったのは、5月にデビューした5人組、4Minute(フォーミニッツ)。
ラップ担当もいるヒップホップ色のあるグループで、
先月早くも2枚目のシングルを発表した。

KARAと同じ8月11日には、来月デビューを控えた9人組、少女時代の、
これまでの音楽ビデオなどを収録したDVDが発売された。
すらりと伸びた脚を強調した衣装が特徴で、韓国では絶大な人気を誇る。
25日には、東京・有明コロシアムで1万人規模のイベントを開催する。

その25日には、「小生意気ダンス」で注目を集めた大人の色気を漂わせる4人組、
BROWN EYED GIRLS(ブラウン・アイド・ガールズ)がデビュー。
半年足らずで4組が日本に進出する事態となっている。


個性は少しずつ異なるが、流行の電子音楽で、
息の合ったダンスやセクシーな衣装を武器としているのが共通している。


「かわいさ」より「かっこいい」

獲得競争の末、3組と契約したユニバーサルミュージック合同会社の小池一彦CEO兼社長は
「男性グループの成功で、韓国のポピュラー音楽は日本に定着した。
次に何が来るかを考えたら、韓国でピークを迎えている女性のグループ」
と狙いを語る。

同じ社内の異なるレーベル(部門)からとはいえ、
本国で人気を分け合うグループが同時期にデビューすることについて、
「ライバルがいた方が市場を刺激する。
火が付くのは早いと思う」
と相乗効果を期待する。


相次ぐ日本進出について、
韓国で音楽専門チャンネル「Mnet(エムネット)」を放送する
CJメディアの日本法人の宣伝企画チーム宣伝広報パート長・金ミン廷さんは、
「Kポップ(韓国のポピュラー音楽)のグループは、海外進出を前提にしている」
と説明する。

「質の高いグループ、歌手を育成するためには高額の費用がかかり、
それを国内市場だけで回収するのは限界がある」
ためで、デビュー前から外国語やダンス、歌唱の厳しい訓練をしているという。

これまでの韓流ブームを支えてきたのは、
ドラマ「冬のソナタ」や東方神起のファンを始め、女性が中心だった。
「業界内では、日本で女の子のグループが受けるだろうかという意見が多かった」(金さん)が、
これまで開催されたイベントでは10~20代の男性ファンも目立つようになったと指摘する。

「かわいさ」や手に届きそうなところが魅力の日本のアイドルとは違い、
同性から「かっこいい」とあこがれられる存在という韓国のガールズグループ。
今年後半の音楽業界の台風の目となりそうだ。

(略)
(2010年8月20日 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行など多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/music/mnews/20100820-OYT8T00551.htm
☆【YOMIURI ONLINE】ガールズグループ韓流旋風 日本上陸 半年で4組☆

この後、新聞に掲載された4組のそれぞれの美麗な写真を見ながら、
私は『KARA』、
『4Minute(フォーミニッツ)』、
『少女時代』、
『BROWN EYED GIRLS(ブラウン・アイド・ガールズ)』
とグループ名を二度ばかり呟(つぶや)いたりした。


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『夏になったら聴きたい曲は・・』、齢を重ねた私が聴く曲は・・。

2010-07-30 17:03:16 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
先程、この【gooブログ トピックス】に於いて、
《 夏になったら聴きたい曲は何ですか? 》
と記載されていたので、齢を重ねた私が聴いたり、鼻歌で唄ったり、
心の中で唄う曲は・・と思い返したのである。

数分、思い浮かべていたら、

『長崎の鐘』サトウハチロー・作詞、古関裕而・作曲/昭和24年

『少年時代』井上陽水・作詞、作曲/平成2年

『さとうきび畑』寺島尚彦・作詞、作曲/昭和42年

『夏の思い出』江間章子・作詞、中田喜直・作曲/昭和24年

『浜辺の歌』林古渓・作詞、成田為三・作曲/大正5年

このような曲が出てきたのである。

私はこれらの歌に関しては、このサイトに綴っているが、
特に涙なくして聴けない歌は、『長崎の鐘』、『さとうきび畑』、そして『浜辺の歌』である。


今回、『長崎の鐘』に歌に関して、再掲載する。

【長崎のこの日には、私は永井隆氏の遺(のこ)された言葉を・・。】
と題して、昨年の2009年8月9日に投稿している。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
洗面した後、玄関庭に下り立ち、西の空の長崎に向かい黙祷したのは朝の7時過ぎであった。

過日の6日の広島に向って西の空の彼方に黙祷したが、
同じような深い思いで、手を合わせたりしていた・・。

かの大戦の終末時、アメリカは広島に8月6日午前8時15分に人類史上初めて原子爆弾が投下され、
少なくとも15万人の人が即死した。
そして、長崎は8月9日午前11時2分に投下され、8万人以上の人が即死した。

私は今年の2月中旬の折、
家内の母は、新潟の高田町(現在・上越市)で戦時中の青春期の時、
多くの同級生と共に軍事工場に働き過ごした身であるが、
生きているうちに一度は長崎の『原爆資料館』を観てみたいわ、
と要望されたので、私達夫婦と家内の母で長崎を訪れた。

私は家内たちとは別行動で、独りで長崎の各所を拝観したりした。
こうした中で、うしろめたいような心情で長崎の『原爆資料館』に初めて訪れ、
改めて過酷な実態を知り、その当時のことはもとより、
被爆された後からも、心身ともに苦痛な日々を過ごされている人たちを思うと、
私は『原爆資料館』を辞する時、涙があふれたのである・・。

この後は、未知の長崎医大の前を歩いたりしながら、
初めて訪れる『長崎市 永井隆記念館』を探し求めながら、
小春日和の中を独り歩いたのである。

このことについては、このサイトに於いて、
【『長崎』、『雲仙』よかとこ滞在記 ~歴史のかたみの中で~ 】
と題して、投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
(略)
    第5章 『長崎市 永井隆記念館』を訪ねて

私は永井隆氏の名を知ったのは、遅ればながら高校二年の時で、
昭和37年であった。

幼年期の5歳頃、ラジオから『長崎の鐘』の歌が流れ、
幼児の心なりに悲しみを覚えたりし、
この後には母に手を引かれて映画の『長崎の鐘』を観たりしたのである。

このような思いは、私はこのサイトに於いて、
【 『長崎の鐘』を聴くときには・・。 】と題して、
2007年8月27日で投稿しているが、あえて今回は再掲載をする。

【・・
私は昭和19年9月に東京の郊外で生を受けた。

昭和25年の頃に、自宅のラジオから『長崎の鐘』がよく流れてきた・・。

♪こよなく晴れた 青空を
 悲しと思う せつなさよ
 うねりの波の 人の世に
 はかなく生きる 野の花よ

【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】

私は5歳の幼児であったが、何かしら物悲しく感じたりした。

♪なぐさめ はげまし 長崎の
 ああ 長崎の鐘が鳴る

【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】

ここまで聴いていると、いじけた幼児の私でも涙があふれてきた・・。

翌年の夏、近くの寺院の境内で、映画が放映された。
この頃の時代は、学校の校庭とかで、スクリーンを張って、ときたま映画が放映されていた。
娯楽の乏しかった時代、ご近所の方達が集まって、
このような催しが行われた時代でもあった。

近くの寺院の境内で上映されたのは、映画の『長崎の鐘』であった。

母に連れられて、初めて観た映画だった。

帰路、満天の星空の中で、天の川も加わり綺麗だった、ということが今でも残っている。

映画のストリーは忘れてしまったけれど、幾つになっても、藤山一郎の歌声を聴くと、
私は涙ぐんだりしている。

私は後年になると、作詞はサトウハチロー、作曲方は古関祐而と知るのであったが、
肝心な『長崎の鐘』という原作を書かれた永井隆は無知であった。

その後、このお方の人生経路を知り、涙で曇った。

♪召されて妻は 天国へ
 別れてひとり 旅立ちぬ
 かたみに残る ロザリオの
 鎖に白き わが涙

【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】

ここまで転記させて頂いているが、著者の永井隆の人生を思い馳せると、
また瞼(まぶた)が熱くなってしまう。


国家の国益という怜悧の中、アメリカは広島に続き、長崎にも原子爆弾を投下した。

思えば、7月26日に於いて、アメリカ、イギリス、ソビエトの首脳により、
『ポッタム宣言』で日本に降伏を勧告したが、
日本政府と軍の首脳部が混迷し、黙殺した結果となり、
8月6日に広島に続き、9日に長崎に投下された。

こうした事実を少しづつ知りはじめると、
なお一層、この歌は悲劇を通り過ぎて、悲惨な過去の実態にうっすらと涙を浮かべる。

私は年を重ねた62歳の身であるが、
ここ10数年、8月15日の敗戦日になると、
昼のひととき『長崎の鐘』を聴いて、平和の大切さをかみ締めている・・。
・・】

このような思いもあったりしたが、
今回の旅行の旅立つ数週間前に、ネットで『永井隆博士の生涯』などを学び、
少なからず衝撃を受けたのは、長崎医大物理療法科の部長の時を含め、
この当時は劣悪なレントゲン機器の状況となった中で、数多く撮った結果、
当人の永井隆自身がラジウムの放射線で白血病となり、
昭和20年6月に余命3年と診断された、ということであった。

そして永井隆氏は、妻に告げるのであるが、
この時の心情を思うと、私は思わず涙を流したのである・・。

館内の展示品を拝見しながら、
この後の原爆投下後の状況、そして無念ながら亡くなるまでの軌跡に、
改めて感銘を受けたのであった。

http://park10.wakwak.com/~cdc/nagasaki/nyokodou/
☆ 長崎市永井隆記念館 ☆

そして館を辞する直前、私は書籍の即売コーナーで、
恥ずかしながら未読であった『長崎の鐘』(アルバ文庫)を購入して、
ホテルで深夜の2時半過ぎまで読み、敬意を重ねたのである。
・・】

このように私は綴ったりしていたのである。


こうしてぼんやりと私は読み返したりしているが、
館を辞した後、市電の駅に向う途中で、小公園の石のベンチに座り、
永井隆氏の遺(のこ)された言葉が深く思いだしていた・・。

『この子を残して』の書物の『父性愛』と題された一節に於き、
《・・
この子を残して・・・・・
この世をやがて私は去らねばならぬのか!

母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、
私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさない心のいじらしさ。

戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取りとめたものの、
それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか?
(略)
・・》

『平和塔』の書物の『如己堂』と題された中に於き、
《・・
如己堂は、2畳ひと間きりの家、北側の壁に香台、本だなを取りつけ、
その下に幅2尺長さ6尺の寝台を置いて、ここに私は身を横たえている。

西側は一面の白壁、何の飾りもない。
東と南はガラス戸で、草に埋もれる原子野を隔てて浦上天主堂に向かう。

この家を狭いと思うは、なまじ敷居で庭と仕切って、この部屋をわが物ときめた人間がみずから招いた窮屈。
(略)
如己堂・・・・己の如く他人を愛す、という意味を名にとったこの家は、
家も妻も財産も職業も健康も失って、
ただ考える脳、見る目、書く手だけをもつ廃人の私を、
わが身のように愛してくださる友人が寄って建ててくださった。

そして今にいたるまで、その数々の友の如己愛は絶えずこの家に注がれ、
それによって廃人の私は生命を確かにつないできた。
寝たきりの私と幼い2人の子とが、ひっそり暮らすにふさわしい小屋である。
・・》
注)著作の原文より、あえて改行を多くした。

私は、ときおり今でも永井隆氏の遺(のこ)された言葉をかみ締めている・・。

そして、余りにも多くの市民の方が犠牲となられた人にご冥福を、
今なお被爆の後遺症に心身ともに苦しまれている方にお見舞いを、
ただ私はこれだけしか言葉にできないのである。

せめて私は平和を祈念する時、原点としてひとつの歌を幾度も聴いたりしている。

http://www.youtube.com/watch?v=Z3AOUJdbRKs
☆【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】☆


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