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夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

あの日から、30数年過ぎれば・・♪  《初出2008.3.30.》

2008-06-09 12:37:01 | 現役サラリーマン時代の想いで
私が家内と結婚したのは、昭和51年3月30日であり、
30何年目かしら、と思っている。

最初の一年目は、結婚当日に宿泊した都心のホテルに泊まり、
背伸びして高級ワインを呑みながら、フランス料理を頂いたりした。

http://www.newotani.co.jp/tokyo/

翌年になると、銀座の食事処で夕食を頂き、
記念日をお互いに祝ったのである。

三年目になると、賃貸マンションから一戸建ちの引越し前後で、
慌しい中、結婚式場でキャンドル・サービスの際、
大きなキャンドル(蝋燭)を頂き、
これを新居で灯(とも)したのである・・。

この大きなキャンドルは、どうした訳か解からないが、
25年まで目盛りが付いていたのである。

私達は子供に恵まれなかったが、
数多くの夫婦は25年過ぎれば、子供達が成人し、やがて次世代となるからだろう、
と理解したのである。

私達夫婦は10年頃までは、
記念日の夕食の時は、キャンドルを灯して、
家内が改まった容姿で居間で食事を頂いたりした。
そして互いにプレゼントの品を渡しあっていた・・。

その後は、お互いの共通の趣味が国内旅行であるが、
私のサラリーマン現役時代は3月決算月は更に多忙期となったので、
2月に2泊3日で各地を訪ねて、記念旅行としていた。

ここ数年は、私は年金生活の4年生の身となったので、
家内からは旅行の宿泊数が多いのが良いわ、
との要望で、この記念日前後は5泊6日前後の旅行となっているのである。


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今宵は、雨も降り、花冷えとなり・・♪  《初出2008.3.28.》

2008-06-09 12:26:21 | 現役サラリーマン時代の想いで
東京郊外の調布市に住む私は、
5時過ぎから小雨が降りだし、ときおり風が吹き、
花冷えとなった・・。

私は玄関庭の軒下で、樹木・草花を眺めながら、
今宵お花見を予定されている方たちは、お気の毒と思いながら、
15年前頃の現役時代が思いだされた。


私は中小業のサラリーマンであり、業界内の会社間の合併で、
初めての春を迎えていた。

人事異動、新入社員の歓送迎も終えた時期であったが、管理部門畑の大半で、
会社の最寄の公園で、第二次の懇親会としてお花見大会を予定していた。

都心のビルの多い中で、それ程広くない公園であったが、
私なりに懇親会を楽しみにしていた。

金曜日の夜、7時に開催予定であったが、夕方の4時過ぎに、
雨が降りだして、風も吹いてきたので、
やむえず、お花見の懇親会は中止となった。

私は今宵は公園で酒、ビールを呑みながら、
懇親できる状態であったので、
私達はそれぞれのグループに別れ、最寄の居酒屋に行った。

私も10数人で居酒屋の2階で懇親したが、
窓辺から観える雨の降る中の満開の桜を、
ときおり眺めたりしていた・・。


このような時のことが思いだされ、
今宵お花見を予定されている方たちは、
月曜からの激務に耐え、解放された金曜日の夜のひととき、
せめて今宵ぐらいは、と思ったのである。

桜の咲く時節は、不安定な天気が各地で見舞われるが、
天上の気候の神々はご機嫌が悪いのかしら、
と私は夜空を見つめていたりした。


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白木蓮、そして紫木蓮の想いで・・♪  《初出2008.3.27.》

2008-06-09 12:22:09 | 現役サラリーマン時代の想いで
東京郊外の調布市に住む私は、買物、散策の折、
自宅の最寄の住宅街を歩くこともある。

3月の初旬の頃から、辛夷(コブシ)の花は少ないが、
純白の木蓮(モクレン)が数多くの家で咲きはじめ、
私は微苦笑しながら、通り過ぎる・・。


30年前頃、私は一軒屋を建てようと、住宅ローンの資金融資の依頼で、
駅前の大手の都市銀行を二行ばかり寄ったのである。

私なりの返済計画書を携えて、銀行の融資担当の方に懸命に説明し、
融資の依頼をしたのであるが、結果として断られたのである。

駅前の二行の銀行から去り、住宅街を落胆しながら、
さまよい歩いたのである・・。

このような時に、ぽっかりと純白の花が見知らぬ家の庭先で見えたのである。


その後、小さな地方銀行で融資を受けて、
私は一軒屋を構え、18年のローンの重荷となったが、
何とか返済ができたのである。

この間、家を建てはじめた後、実家にある紫木蓮があり、
その脇にあった小さな紫木蓮の幼樹を2本貰い受け、
一本は主庭に植え、もうひとつは玄関庭に私は植え込んだ・・。

頼りない幼樹であったが、5年過ぎた頃から、
暗紫紅色の花が咲きはじめた・・。
私は幼年期、実家にあった大きな紫木蓮があり、
この世で初めて美形と感じた想いで樹木であったので、
私はひとしお喜んだのである。


この10年、幹元も10センチ、樹高も高くなり、
私は剪定をしたりしている。

この時節、大きな莟(つぼみ)を数多く枝先があるが、
小鳥が定期便のように飛来し、啄(つい)ばんでいる。

私は半分程残してね、と小鳥を見つめているが、
玄関庭にある方は9割方食べつくしている。
主庭にある方は、私はときおり小鳥を睨(にら)んだりしているので、
2割ほど残っている。


2年前頃、駅前に出た時、融資を断られた大手の都市銀行の二行は合併し、
どうしてなの、と微苦笑している。

そして、私が融資を受けた小さな地方銀行は、
住宅ローンの返済が終えて、10数年になるが、
私はささやかな定期貯金をしている。

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31歳の時、お義兄(にい)さん、と呼ばれ・・♪  《初出2008.3.17.》

2008-06-09 10:50:10 | 現役サラリーマン時代の想いで
私は妹の嫁ぎ先の義父より、家内となる女性を紹介され、
交際しはじめた・・。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた三男坊で、妹の2人がいる。

兄2人、妹が2人でサンドイッチのように育てられたのである。

家内となる実家に結納後もしばしば訪ねた。
家内は両親の元で長女であり、妹の次女、弟の長男のいる5人家族である。

家内の両親は、私をXXさん、と名前で呼ばれていた。
次女の方は、あらぁ、いらしゃませ、
と挨拶をされる程度であった。


結婚し、新婚旅行からの新居となる賃貸マションに帰宅した時、
家内の母と次女が待っていてくれて、
それなりの懇親会とした・・。

私が和室に居る時、
台所にいる家内の母が、
『これから、お義兄(にい)さん・・と呼ぶのよ・・』
と次女に小声で云っているが聴こえた。

和室に私達4人がビールを呑みながら、
私は新婚旅行の失敗談などを話しかけていた時、
『お義兄さん・・それは大変でしたね・・』
と次女から突然に云われ、私は戸惑ったのである。

私は考えれば長女と結婚したのであるから、
三男坊の私が義長兄となったのであるが、
何かしらくすぐったいような心持となったのである。

これ以来、私は義長兄として、
少し責務を感じながら、さわやかなふるまってきたので、
お互いに良好な関係が続いている。



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蕗の薹(ふきのとう)の想いで・・♪  《初出2008.3.7.》

2008-06-08 20:06:48 | 現役サラリーマン時代の想いで
私の幼年期は、祖父と父が中心となって農業を営んでいたせいか、
2月頃に宅地の外れに蕗の薹を見かけたりしていたが、
取り残した蕗の薹が日増しに大きくなり、
4月の頃になると蕗の成長を驚いたりしていた。

祖父、父たちは、蕗の薹などで晩酌をし、
蕗になった料理は幼児の私には苦手な食べ物のひとつであった。


私が40代は、民間会社で情報部門に勤務していたので、
4月からの新管理体制など対応で開発・運営などに、
ほぼ毎年一月の頃から多忙な身となっていた。

日曜日に休めればよい期間が多く、睡眠不足もさることながら、
果たして上層部の要請に答えられるかと必死に面持ちで過ごした。

節分を過ぎた頃の日曜日、
昼前に庭に下り立ち、蕗の薹がわずか地上から、
こんにちは、といった表情で小指の先程度の大きさで、
10数個見つけたりする・・。

私は蕗の薹になる前の莟(つぼみ)のような蕗を採り、家内に手渡していた・・。

昼食の前、私は弐合徳利をお燗している時に、
家内に味噌味などで蕗の薹の幼期を簡素に調理して貰い、
私は早春の陽射しの射しこんでる庭を眺めたり、
家内と他愛のない話をしたりして、純米酒を呑んだりしていた。

ほろ苦い蕗味噌を口に含むと、香り、風味はまぎれもなく早春の息吹、
と味わっていたのであった。

昼食後、少し酔った睡眠不足の私は、2時間ばかり昼寝をしたりしている。


私は定年退職後の年金生活の4年生の身としては、

芭蕉を敬愛しじきじきに弟子入りに懇願した
ひとりの俳人の名句が思い出したしている。


思ひ出し 思ひ出し蕗の にがみかな

         詠み人・路通


私は江戸時代の前期に残された名句を呟(つぶや)き、
微苦笑をしたりしている。

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深夜タクシーの想いで・・♪

2008-06-07 10:16:08 | 現役サラリーマン時代の想いで
ここ数日、官公庁の職員による深夜に帰宅する際、タクシーを利用するが、
この時にタクシーのドライバーにより『居酒屋タクシー』と称された問題が露呈されている。

そして私は微苦笑しながら、
ニュースを視聴したりしている・・。


私は中小業の民間会社を定年退職後、年金生活の4年生の身であるが、
私が現役時代は・・、と思いを馳せた・・。

私が40歳前後、社内の大幅な改革の一端として、
情報部門が設立されて、コンピュータ委託処理から自社処理となり、
私を含めて奮闘していた。
開発業務を終電が過ぎ真夜中になっていたが、
始業時の9時半を配慮し中断し、
やむえずタクシーを利用して帰宅した。

私はぐったりとしながらも、帰宅するまでの車内で、
タクシーのドライバーの方と世間話などをしていて、
『悪いけれど・・タバコ・・喫わしてょ・・』
と私は云いながら、
後部座席の付近の窓を10センチばかり開けたりし、
信号待ちで停車した時は、限りなく窓を開けたりしていた。

そして、自宅の付近に到着すると、領収書を貰い、
月1回の交通利用費を精算していたりした。

その後、グループ会社との物流合同となり、
システム対応に追われ、二ヶ月ばかり毎夜深夜1時過ぎに
退社することが多かったのである。

連日深夜に帰宅するので、首脳部の方から、
『タクシー・チケット券』を私は預かり、
我々はこの券を利用させて貰い、交通費精算時まで自己負担代用がなくなった。

勤務地の六本木であり、明治神宮球場を通過する時、
野球観戦する為に徹夜で多くの待機する人々には驚いた。

『お客さん・・阪神タイガーズのファンなの・・
それにしても今年の阪神は良く打ち・・バースなどは、凄いですよ・・』
と私は教えられた・。

その後、『昭和』から『平成』に変わった時、
まもなく消費税の導入された時などの多忙時もあったりして、
深夜タクシーを利用したりしていた。

私の勤めいた会社の管理部門は、
朝の9時半から夕方の6時までが固定された勤務時間帯であり、
平常時の多くは夜の9時前後には殆ど業務を終らせていた。

この後、ときには仲良しグループと居酒屋に寄ったりしていたが、
終電に間に合うように11時頃に解散した。
私はもうひとつの最寄の『乃木坂』駅まで歩き、
途中に防衛庁の正門を通り過ぎる時、5台前後のタクシーが待機して折、
『防衛庁の方たちも・・深夜まで大変なんだなぁ・・』
と感じたりしていた。

このような状況で私は30年前後の本社勤務であり、
その後、出向となり様変わりした勤務時間帯となったが、
このことは度々このサイトで綴ってきたので省略する。


私は日頃、国家・国民に奉仕する官公庁の1部の真摯な方や、
勤務実態が過酷な自衛隊、警察、消防に係わる人たちには、
尊敬の念さえを抱いている。

このような心情の私が、
今回の『居酒屋タクシー』のニュースを視聴したりすると、
『官公庁はいいよなぁ・・
深夜に帰宅する時、タクシーの車内で・・無料でビールにおつまみ付き・・』
と私は中小業の民間会社に勤めていた私は苦笑している。

そして、官公庁の一部の甘受した方は、多くの公務員に悪影響を及ぼした上、
何より国家公務員としての心の節度、
そして国民に信頼を失墜させた罪を重い、
と感じたりしている。


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『私を忘れないで・・』・・!?   《初出2008.1.10.》

2008-06-04 13:33:07 | 現役サラリーマン時代の想いで
東京の郊外は、週末の12日の土曜日、
雨のち雪、と天気予報が報じられているので、
私は少し驚いている。

平成10年に母が亡くなった時に近い日であり、
母のお通夜の当日は、この地域としては珍しく15センチ前後の風まじりの大雪となった。
公共の交通機関も支障が出たり、
ご近所のお方の尽力で、実家、周辺の雪かきをして頂いたりした。

翌年の1周忌の法事の日には、
粉雪が舞い、私達兄妹は、親戚、知人の方達には来て頂くのに、
と心配したりしていた。

お墓のあるお寺で法事が終り、ふるまいの会場に向かう時、
相変わらず粉雪が舞い降りていた・・。

叔母と妹の2人で私は歩いていたが、
『お母さん・・私を忘れないで・・と降っているのかしら・・』
と私は不謹慎ながら云った。

『そうよねぇ・・義姉さん・・苦労が多かったから・・
天上の神様・・覚えていたのよ・・』
と叔母は私に微笑んだ。

私と妹は微苦笑し、粉雪舞降る空を見上げ、そして会場に急いだ。


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年末・年始の国内旅行の想いで・・♪  《初出2007.12.28.》

2008-06-03 11:42:03 | 現役サラリーマン時代の想いで
私達夫婦は、実家の近くに家を建てたのは、
昭和53年(1976年)の春であった。

この年以来、大晦日に家内が作った御節料理を母の住んでいる処に私が届けた後、
家内の両親に来宅して頂き、御年取りと称した大晦日の酒宴で宿泊して貰い、
元旦の昼下りまで共に過ごし、
3日は長兄宅で私方の親族で新年会が恒例となっていた。

この間、家内の妹が結婚された5年前後は、
家内の妹の主人と子供、そして家内の両親と私達夫婦は、
元旦より1泊2日で、湯河原、銚子、富津地域に宿泊したり、
自宅に来宅して貰ったりしたこともあった。

このような形で年末年始となっていたが、平成10年(1998年)の新年間もないときに、
私の母が亡くなり、私達の年末年始は変貌した。

この年の12月の初めに喪中の葉書を出した後、
恒例の御節料理も不要となった。

そして私は父に小学2年生の時に死去されたので、
50代の初めの私でも、何かと母の存在が大きく、
母に去られた後は失墜感があった。

家内の父も体調に自信なくし、
病院に入退院を繰り返し始めた頃であり、暖かい時節に旅行を共に、
ということになったのである。

このような状況となり、私は現役のサラリーマンの多忙な時代であったが、
私達夫婦は初めて年末年始に旅行に出かけることとなった。

秋田県の山里にある秋の宮の稲取温泉に年末の30日より3泊4日、
これ以降の年、29日より山形県の湯の浜温泉に4泊5日、
29日より能登半島の輪島に4泊5日、
大晦日より北海道の北部の紋別、稚内の周遊し2泊3日、
大晦日より宮城県の秋保温泉に2泊3日などを年末年始に出かけたのである。

詳細の心の思いは、このサイトで綴っているので省略するが、
私達夫婦にとっては、その地の年末年始の街の情景が深く心に残り、
お互いに、あの時は、と話し合ったりしている。

私の定年退職の秋に、家内の父が死去し、
独り住まいとなった家内の母に大晦日の数日前に来宅して頂き、
新年の4日まで、私達3人と共に過ごすのが、
ここ3年の恒例行事となり、私達夫婦の年末年始の旅行は終わったのである。



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『サイレント・イヴ』の想いで・・♪   《初出2007.12.24.》

2008-06-03 11:19:05 | 現役サラリーマン時代の想いで
私は、定年退職後の4年生の身であるが、
この時節、ときおり辛島美登里の『サイレント・イヴ』がテレビ、ラジオで聴いたりすると、
苦く懐かしい想いでが甦(よみが)ってくる・・。

私の現役時代、あるレコード会社の情報管理畑に勤務していたが、
リストラの影響で不馴れな経理畑に人事異動させられ、
その上、レコード会社の統廃合が行われ、
私は当然睡眠時間を削り、奮闘していた時代であった。

そして、統廃合で社員の交流をお互いに深め、
目先の不馴れな業務に励んでいたので、
心身疲れきっていたのである・・。

こうした折、12月の初め、統廃合で知り合った後輩の人から、
私の机上に一枚のCDアルバムを置いていった。

『昨年に発売したのですが、よかったら聴いて下さい』
とメモが綴られていた。

『Keep Christmas With You』というアルバムのタイトルで、
CDのジャケットが洒落ていた。
初回限定 特製スノープレート付きと明示され、ジャケットを少し振ると、
森の中に拓かれ大きな樅(モミ)の樹の周辺に雪が降るのであった。

そして辛島美登里の『サイレント・イヴ』、稲垣潤一の『メリー・クリスマスが言えない』、
永井真理子の『ZUTTO~Xmaz Version~』等が収録されていた。

その後、まもなくお歳暮の挨拶を家内と数軒廻っている時、
疲れたので喫茶店で休息をしていた時、


♪真白な粉雪 人は立ち止まり
 心が求める場所を 思い出すの

【 『サイレント・イヴ』 作詞・作曲 辛島美登里 】


店内から流れてきた。

私は、もう少ししたらクリスマスかょ、と心の中で呟(つぶや)いて、
歳末の仕事納めの日まで、たわわな業務を思案すれば、
尚更ぐったりと心身の疲れが増してきた・・。


私にとっては、今でもこの曲を聴くたびに、
現役時代で一番労苦の多い時だった、と想いだしたりしている。



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私なりの『4当5落』の想いで・・♪   《初出2007.12.14.》

2008-06-03 10:12:05 | 現役サラリーマン時代の想いで
古来より大学受験に際して、『4当5落』という格言があった。
睡眠時間を4時間程度にし、5時間以上睡眠に貪(むさぼ)れば、
目指した受験校の合格には覚束ないと云われたりしてきた・・。

私は大学入試の際は、目指していた第一志望の大学に合格する自信がなくなり、
安易に入学が確実に入れるて大学を選定した。

その後、大学を中退し、映画、文学青年の真似事をした後、
企業に中途入社できたのは25歳の時であった。

企業に勤めれば、多くのお方と同様に、
上司を見習い勤務に励み、ときには土日の休日出勤などもあり、
そして開発業務などの期間は、当然として睡眠時間を削っていた。
但し、開発の業務は、一年以内であるので、
その後の勤務体制は通常となり、ほっとしたりしていた。

定年退職の5年前より、社内のリストラ旋風の影響下、
出向となり、少し遠方の勤務先となった。

朝は4時45分に起床し、帰宅は夜の10時過ぎが圧倒的に多く、
消却法として睡眠時間は4時間程度となり、
こうした勤務体制を5年間続けて、定年退職時を向かえ、
私のサラリーマン生活は卒業したのである。

私は『4当5落』の言葉を聴くと、
安易に逃げた大学入試の受験期でなく、
社会人の最後のサラリーマン5年間の出向期間なのであり、
今となって微苦笑しているのである。



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私なりのボーナスの想いで・・♪   《初出2007.12.11.》

2008-06-03 09:49:12 | 現役サラリーマン時代の想いで
昨日のニュースで官公庁の冬季のボーナスが支給され、
民間会社の多くも既に支給された会社もある、と報じられ、
私は微苦笑したりしていた。


私は中小業の民間会社を卒業した年金生活の4年生の身であるので、
あの頃は、ボーナスを頂いた時が想いだされた・・。

20代の頃の独身時代は、スーツ、ワイシャツ、ネクタイ、通勤靴、通勤バックなどを買い揃えて、
母に幾ばくかを手渡し、そして呑み屋さんに通っても、程々の貯金が出来た。

30代の初め、結婚し、賃貸マンションに入居するまで、
無知な私は結構お金を要する、と実家の長兄から、ある程度の額を借用したので、
ボーナスの度に返済した。
この二年間の期間は、返済していても、多少の貯蓄は出来た。

この後、私は実家の近くに一戸建てをするのであるが、
土地、住宅建築まで多大な経費となり、
住宅金融公庫を根底とし、幾つかの金融機関からローンを設定した。

このローンが50代の初めの頃まで、
ボーナスを頂く度に30%前後を返済していた。

私達夫婦は子供に恵まれなかったけれど、
住宅に関する購入は、一介のサラリーマンとしては人生で一番高い買物かしら、
と心身実感させられた時代であった。

50代の初め、ローンの一括返済をした後、
老後の人生設計の基礎となす資金の為、貯蓄を大半し、定年退職を迎えた。

このようなボーナスを頂くたびの軌跡であったが、
どなたも同じと思われるが、サラリーマンの現役時代には大波、小波に遭遇し、
家内と何とか乗り切り、今日を迎えているのである。

私は築後30年の古惚けた家に住み、
程々の広さの庭で、樹木を眺めながら、あんな時代もあった、
と思いを馳(は)せたりしている。

尚、私は家内を戦友と思っている。
人生の過ごす時に公私共々何かと確執があったりするので、
私達夫婦は互いの欠点を補(おぎな)いながら寝食を共にし、
無条件に寄り掛かれる随一の人、と実感しているからである。


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今年も、あと三週間ばかりとなり・・♪  《初出2007.12.10.》

2008-06-03 09:45:19 | 現役サラリーマン時代の想いで
東京の郊外は、初冬の陽射しに恵まれ、
風なく、穏やかな朝を迎えている。

私は主庭に下り立ち、昨夜の風で、
朱紅色のモミジのたわわな葉が散りはじめたのを知った・・。

この1週間、白梅の淡い黄色、花梨(カリン)の樹木も昨日から散りはじめ、
樹木の周辺に落葉の彩(いろど)りとなっている。

先程、居間で見たカレンダーで、
今年も残すところ三週間ばかりとなったことを知った・・。

私は年金生活の4年生の身であるが、
昨今はともすれば曜日の感覚が薄れたりしている。


現役のこの時節であった時は、
サラリーマンの中小業に勤めていたので、
日曜日を除いて、朝は4時半過ぎに起床し、帰宅が10時過ぎが多く、業務に追われていた。
歳末の仕事納めの日まで、あと何日と心に言いきかせ、奮闘していた時期であった。
今年のカレンダーで表現すれば、
あと三週間頑張れば、ということである。

日曜日は平日通りに起きて、午前中に庭の手入れをして、
昼過ぎに酒を呑みながら、注文した寿司をつまみながら食べたりしたのが、
定年前の10年の実態であった。

家内は大掃除を少しづつ進めながら、
年末・年始の料理の献立を思案、素材の購入しはじめる時期も加わっていたので、
家内なりに平常月より何かと多忙であった。

私は昼食後、寝室の布団で本を少し読んだ後、昼寝をした。

そして夕暮れ4時前後に目覚め、
1週間が終わった、と心身実感していたのである。

このような繰り返しをしながら、歳末を迎えていた。


私は庭の淡い黄色、朱紅色の落ち葉をいつ掃き清めるか、
と考えあぐねている・・。

落ち葉の彩(いろど)りを享受するのもよいが、
風が強く吹くと、庭の外れに吹き寄せとなったりし、困るのである。

かといって、落ち葉を掃き清め、黒土となった地表も少し淋しいのである。

現役の時代であったならば、
疲れ切った身体で日曜日の午前中に、待ったなしで掃き清めていた、
と微苦笑している。

このような思いで、私は庭に佇(たたず)んで、
白梅の残り少なくなった淡い黄色、
朱紅色に染まったモミジを眺めたり、
朝の陽射しを受けている庭を見つめたりしている。



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『勤労感謝の日』の想いで・・♪  《初出2007.11.23.》

2008-06-02 13:55:15 | 現役サラリーマン時代の想いで
私は民間会社を定年退職した4年生の身であるが、
年金生活をして折、ともすれば曜日の感覚が薄らいでいる・・。

カレンダーを眺めて、『勤労感謝の日』の祭日であったか、
と当日の朝に気付いたりしている。


私の30代は、会社の販売締切日がたまたま20日であり、
コンピュータの専任者であったので、
『勤労感謝の日』は電算処理の月次作業で追われていた。
経理の決算の担当者と休日出勤務し、
『働けるうちに・・こうしていられるのも・・幸せかも知れない・・』
と私は云いながら、疲れ切っていたが、元気良く社内で働いていた。

40代になると、システムの開発と運営を交差し、
たえず身体も張り、ときには週一回休めれば良い方で、
土日、祭日の休日もなくなって時期が多かった。

50代は他部門に異動したり、後半時期は出向となったりしたが、
相変わらず心身ギリギリまで業務に専念したりし、
サラリーマンを卒業したのである。


昨今、過重労働などと新聞、テレビで視聴すると、
私達の時代も同じであった、と思ったりしている。

ただ、私達の勤めていた40代までは、
日本の経済は躍進していたので、私は幸運な時代に恵まれていた、
と微苦笑しているのは事実でもある。


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『花の金曜日』の想いで・・♪   《初出2007.9.7.》

2008-05-30 13:31:35 | 現役サラリーマン時代の想いで
私は定年退職後の3年生の身であるが、最近はとみに曜日の感覚が薄らいでいる。
カレンダーを眺めると、金曜日だったと教えられる程度となったのである。

私の現役時代は数多くのサラリーマンと同様に、
月曜日の早朝から業務に精進し、睡眠時間を削り、
金曜日の夜になると、やっと安息が得られる、といった心情であった。


私は大学を中退し、映画青年、文学青年の真似事をしたりした後、
昭和45年の春、ある民間企業に中途入社し、遅ればせながら社会人となった。
この頃の勤務形態は、隔週の土曜日が午前中勤務となっていた。

その後、何時ごろか完全5日制となって、金曜日の勤務が終わると、何かしらほっとした・・。

どなたが名付けたのかは知らないけれど、
花の金曜日と称して、『花金』と省略し、
社内で花金だから・・と歓送迎会や懇親会を開催されたり、
仲良しグループで呑みに通ったりしていた。

業務が立て込んで夜の9時過ぎに会社にいると、
『忙しいのだったら・・明日の土曜日に会社に来て、じっくりと仕事をすればよいじゃない・・
ともかく・・いつものメンバーで待っているょ・・』
と気のおけない友人が電話を掛けたりしてきたので、
私は仕事を切り上げて、その場所に駆けつけたりした・・。

どなたも同じと思われるが人事異動のたびに、
歓送迎会が部課間で盛んに行われ、私も異動の折には開催してくれた。

50歳を迎えた頃から、人付き合いと体力も疲れ果てて、ある程度のつきあいとし、
私は自宅の最寄り駅の付近の居酒屋で、
毎週の金曜日の10時過ぎに、定期便のように独りでボケッと呑んだりした。

私は弐合徳利のその時に思いついた地酒を2本呑みながら、
板長の進めの単品を3品を食べたりした。
そして絣(かすり)を召した女将や仲居さん達にからかわれながら、
1時間半ばかり心の憩(いこ)いとしていた。

その後、55歳になると出向となってしまい、
勤務先が遠方の上、始業も早くなり、心身疲れきったので、
居酒屋に寄れる余裕もなくなった。
帰宅後、風呂に入った後、11時過ぎに家内と話し合いながら、
弐合徳利の純米酒を呑んだりした。


どの時代でもサラリーマンの方達は、
どなたも多忙な業務な勤務実態で成果を問われているが、
私は花金の夜のひとときは、秘かな息抜きで過ごしてきた。

退職後の今としては、遠い昔の出来事だった、と改めて感じている。

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『本日の主役は、僕なのですが・・』・・♪   《初出2007.8.24.》

2008-05-30 11:08:34 | 現役サラリーマン時代の想いで
私が結婚したのは、昭和51年の春だった・・。

結婚式の1週間前、
『やはり・・貴方・・羽織(はおり)、袴(はかま)にしなくては・・おかしいわよ・・』
と母は私に言った。

私はサラリーマンの5年生であり、和服を身に付けた少なく、
着慣れたスーツの代わりに、黒の礼服を着れば良いと思っていた。


結婚式の当日の朝、式場の着付け室で私と兄が着付けをして貰い、
3人の中年の女性が着付けをはじめてくれた。

兄がこの中のリーダー各と思われる人に寸志を手渡していた。
『お兄様・・良いお召し物で・・
やはりある程度以上のものですと・・』
とこの女性の方は、兄の衣装を誉(ほ)めちぎっていた・・。
兄は旧家であったので、日頃から着慣れて折、高価な紋付の羽織と袴を持っていたのである。

私の方は、借り物の《やや良い》の部類で、昔の通信簿だと『4』程度であった。

しばらくすると、兄の着付けに3人掛かりとなって、
私の方は誰もいなくなった。

『本日の・・主役・・僕なのですが・・』
と中年の女性達に聴こえる程度の小声で私は言った。

『あらぁ・・ご免なさい・・そうでしたわねぇ・・』
と2人の女性がきて、私の着付けをはじめた。

『主役の貴方・・スラっとしたお方ですので・・
タオルを当てましょうね・・』
とひとりの方が言った。

私はこの頃は、体重は56キロ程度で、身長は170センチであった。

その後、私のお腹周辺にタオルを2枚あてがって、着付けをしてくれた。

着付けが終わると、私を鏡の前に導いて、
『お似合いですわ・・』
とリーダー各らしい女性が言った。

私は不馴れな羽織、袴はそぐわなく落ち着きを失った上、
明(あき)らかに誉めたおされていると感じ、
『兄貴・・俺・・先に出て・・煙草を喫っているよ』
と私は兄に大きな声で言った。


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