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夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

佐野眞一氏に『沖縄の・・戦後史 』を教示され・・。

2008-11-25 18:23:34 | 読書、小説・随筆
私は11時過ぎに、晩秋の陽射しの中、郵便局、スーパーの二店を廻り、
買物や散策をした。
モミジが朱色や朱紅色、そして紅色に色合いを深めた中、歩いたりしたが、
晩秋の情景が心に染めらるようであった。

帰宅後、我家のモミジは、まだ淡い朱色であることに眺めたりした後、
午後のひととき、ここ数日熱中している佐野眞一・著の
『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』を読みはじめたのである・・。

私のこれまでの沖縄と奄美本島との関係を何かの本で学んできたのは、
アメリカ軍が奄美本島は山間部が多く、戦闘し占領しても利用価値が少なく、
こうした状況下で過酷な戦地から免れたこと。
その後、敗戦後の沖縄本島で沖縄人の下で、奄美人が冷遇され働いた・・
この程度の拙(つたな)い知識であった。

佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』の中、
私は遅ればせながら教示されたのである・・。

【・・

軍政下の奄美はいわば日本とは”異国”となり、
鹿児島などへの渡航はすべて密航扱いとなった。
奄美住民の目はいきおい、同じ米占領下にあった沖縄に向かわざるを得なかった。

ましてや米軍基地建設ラッシュに沸く当時の沖縄は、
働く場所にもありつけず食うや食わずの状態に置かれた奄美住民にとって、
願ってもない働き口となった。

北に行けば密航者として裁かれ、
南に行けば基地ブームで一旗揚げられる。
沖縄のように熾烈な戦闘もなかった奄美を占領したのは、
安価で豊富な基地建設労働力を狩り出すため、
アメリカがあらかじめ仕組んだ高度な植民地政策だったともいえる。
・・


注)著作者の原文より、あえて改行を多くした。


私はこうした本書の一節を読むと、しばらく唸(うな)ったのである。

そして私は佐野眞一氏に導かれて、午後のひととき次節を読んだりしている。



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再び、佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』・・。

2008-11-24 09:26:24 | 読書、小説・随筆
私は昨夜、10時過ぎに布団にもぐり、1時間ばかり、
佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』を読んでいたが、
日中の庭の手入れの疲労感の為、眠ってしまったのである。

今朝は、5時過ぎに目覚め、再び本を開き、
7時過ぎまで読んでいた・・。
第一章の『天皇・米軍・沖縄県警』しか読了していないが、
やむえず本を閉じたのである。

先ほど、短くなった庭の樹木を眺めたりし、
私の沖縄の原点は・・と思考したのである・・。


私はこのサイトに、【私の沖縄問題の原点・・。】と題して、
2007年6月20日に投稿している。

再掲載は少し気が引けるが、私なりの沖縄の深い思いがあるので、
つたない私なりの沖縄の思いを連載投稿する。

【・・
私の手元に、1冊の本がある。
『沖縄問題二十年』である。
この本は、中野好夫・氏と新崎盛輝・氏のお二人による共著であり、
岩波新書で1965年6月21日 第一刷発行と記されている。

この頃の私は、大学2年で中退し、映画青年の真似事をしていた時であった。

高校時代以来、時事に興味を抱き、
ベトナム問題と同様にまとわりのない問題に思考が整理できず、
深く悩んでいた・・。

そしてこの本に出会ったのは、21歳の時だった。


この本のまえがきに書かれている、


なぜ私達がこんな本を書いたかという動機については、
私達本土の日本人は、戦後、そして現在、
沖縄が置かれている実情について、
もっとよく身近に知らなければならない、
そしてまた、我々自身の問題として考えなければならない、
いわば義務をもっていると信じるからである。
一種の道徳的責任といってもいいと思う。

こうした言い方をすることを、
最近はなにか感傷的偽善といった風に考える風潮も出ているように見えるが、
少なくとも沖縄に関する限り、私達はそうは考えない。

沖縄同胞の祖国復帰運動を語る本土日本人の声の中に、
それは「母なる本土」への復帰をねがう悲願、
「母鶏の翼の下を求める雛鶏」の願い、
というような表現を見かけることがある。

事実、沖縄返還の運動に精力を傾けている人達の中にあってさえ、である。
善意を理解するにはやぶさかでないし、
また美辞麗句としてならともかくだが、
もし少しでも客観的に、冷厳に、
本土と沖縄との過去の歴史を顧みるならば、
どんな意味でもこんな感傷的な言葉は出ないはずである。

ここで、藩制時代の島津藩が行なった経済的収奪、
更に明治期に入っての沖縄に対する差別的処遇、等々の
そういった古い歴史まで遡のぼろうとは思わない。

だが、最近、太平洋戦争末期の沖縄戦、
そしてそれ以降、サンフランシスコ条約に至る経過だけを考えて見ても、
果して私達「本土」は、沖縄に対して「母なる本土」であったろうか。


戦後日本の「奇蹟的」復興とやらにつけても、
私達は、爆撃の災禍はさておき、
とにかく本土が戦場にならなくてすんだ幸福を、
今更のように思う。

だが、それにひきかえ沖縄はどうであったか。
わずか3ヶ月の戦闘に20万近い犠牲者を生んだ沖縄戦、
しかもその半ば近くが実に非戦闘員の県民であった。
意図的にそうしたとまではいわないが、
少なくとも結果的に見れば、ある意味で私達は、
沖縄同胞の犠牲の上において、
本土戦場の不幸は免れたともいえるのではないか。


そして最後には、サンフランシスコ条約の第三条である。
沖縄同胞は、しばしば「売り渡された」という言い方をする。
県民の意志は何ひとつ問われることなく、きずいた時には、
祖国から引きちぎられ、不沈の軍事基地という運命を
背負わされていたというのである。

もし「母なる本土」であるとすれば、重ね重ね、
随分ひどい仕打ちを繰り返した母親といわなければならぬ。


正直に言うが、少なくとも私達は、
戦後の沖縄県民の間から、祖国復帰の運動が起きる等とは、予想しなかった。

歴史的な収奪、差別的処遇があった上、
更に最後に沖縄戦という犠牲を強いられた人々が、
もはや祖国に愛想をつかして、日本から離脱を考えたところで、
私達としては、到底一言もなかったからである。

だが、事実はその後まもなく強い祖国復帰への動きが、
脈々として盛り上りつつあることを知らされて、正直にいって驚いた。

これは絶対に応えなければならない義務と責任があることを直感した。
沖縄出身でもなければ、沖縄の土を踏んだこともない
《もっと正確にいえば、踏むことを許されない》私が、
柄にもなく沖縄に関心を持ち出したきっかけである。

     (略)
        


以上、著作者の中野好夫・氏が綴っている。

注)原文より、私は勝手ながら改行を多くさせて頂きました。



私は21歳の感受性が豊かであったので、
年長者の暖かいアドバイスを頂いたようになった。
この言葉に導かれて、私は沖縄に対しての理論整然と観かたを教示され、
基軸となったのである。

それ以降、社会人となり、やがて定年退職後の生活を送っている現在、
沖縄、のことばを聴くと、何かしら今だに後ろめたい気持ちを引き摺(ず)っている。

私はこの一冊の本に寄り、安易な沖縄観光気分で訪れる避け、
30年後の50代の初めに沖縄諸島の土を踏み、
更に思いを深めたりした。

・・】

このようなことを投稿した後、昨年の10月下旬で8泊9日で、
私達夫婦は家内の母と3人で本島を周遊したり、
マスメディアの『沖縄』の記事を注視したりしてきた。

しかし、私は学者、評論家の本、新聞、テレビ、雑誌などのマスメディアしか知るよしもなかったので、
佐野眞一氏の題されたまぎれもなく『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』の明示された事柄は、
予期した以上に動揺させられたのである。

そして、私は現役時代の一時時期、
沖縄の名護市出身の女性が部署が一緒だったので、
私としては何かとこの若き女性に対しては、父親がわりのような思いで、
懇親をかさねたりしたのである。

この女性の父親、母親の数10年の生活実態、これからの思いや、
この女性の幼児から近日までの軌跡を忌憚なく、話してくれたのである。
こうしたマスメディアに表面化しない話題こそ、
何より歴然とした事実であり、数多くの方たちを軌跡を積み重ねれば、
沖縄の戦後史、と思ったりしている。


私はこのような思いも重ね、
日中のひととき、再び佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』の次章を、
熱中し、読み続ける予定である。



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佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』、読みはじめ・・♪

2008-11-22 16:45:05 | 読書、小説・随筆
過日、遅ればせながら佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』を本屋で見かけ、
購入したひとりである。

著作者の佐野眞一氏に関しては、ここ数年、数多くの作品を拝読しながら、
作品の内容を深める執念のような取材力、構成力、
何より誰しも難題と思われる日本の光と影を帯びた問題に挑む力量に圧倒され、
愛読しているひとりである。

http://books.shueisha.co.jp/tameshiyomi/978-4-7976-7185-8.html

私は午後から、今回の作品を読みはじめている。
作品の主旨、概要は、著作者自身がネット上で明示されているので、
無断であるが転載させて頂く・・。

【・・

はじめに


戦後日本のありのままの姿を見ようとするとき、
私の視野にはいつも二つの国土がせりあがってくる。
一つは満州、一つは沖縄である。

世界史的にも類を見ない日本の高度経済成長とは、
失われた満州を国内に取り戻す壮大な実験ではなかったか。

私は長年抱いてきたそうした見方に基づいて、
満州を舞台とした作品を発表してきた。
その第一弾が、○五年夏に出版した『阿片王 満州の夜と霧』であり、
第二弾が、沖縄取材が終わった○八年五月に出版した『甘粕正彦 乱心の曠野』(いずれも新潮社)である。

戦後高度経済成長のシンボルである夢の超特急も、
合理的な集合住宅も、アジア初の水洗トイレも、すべて満州で実験済みだった。

日本は敗戦からわずか十年足らずで高度経済成長の足がかりをつかんだ。
それは、わが国がいち早くアメリカの核の傘の下に入って、
軍事防衛問題をほとんどアメリカという世界の警察国家にまかせっぱなしにし、
経済分野に一意専心することができたからにほかならない。

その反対給付の人身御供としてアメリカに差し出されたのが、沖縄だった。
沖縄は世界第二位の経済大国になる道を駆け上がった本土の繁栄をよそに、
東シナ海に浮かぶ日本最貧の島としての運命をたどることになった。

満州も沖縄も“還暦”を過ぎた戦後日本を検証する上で、
絶対に避けて通ることができない大きな宿題となっている。

日本の戦後社会を透視するため、満州という「時間軸」と、
沖縄という「空間軸」を立てる。
そしてその二つの軸がクロスしたところに結ばれた像こそ、
われわれがいま暮らす日本列島の掛け値なしの姿ではないか。
この仮説に、私はかなり前からとらわれていた。

満州を舞台にして暗躍し、“阿片王”と呼ばれた里見甫と、
“満州の夜の帝王”という異名をほしいままにした甘粕正彦。
日本近現代史上最も謎めいた二人の男の物語をとりあえず書き終えた私の目は、
自ずともう一つの仮説の立脚点の沖縄に向かった。


沖縄についてはこれまで夥しい数の本が書かれてきた。
だが私から言わせれば、ほとんどが“被害者意識”に隈取られた“大文字”言葉で書かれており、
目の前の現実との激しい落差に強い違和感をおぽえる。

沖縄本を覆う違和感とは何か。
大江健三郎の『沖縄ノート』に象徴される「本土から沖縄に怒られに行く」
「戦争の被害をすべて引き受けた沖縄に謝りに行く」という姿勢である。

渡嘉敷島の集団自決問題の論争で、
大江をエキセントリックに攻撃する漫画家の小林よしのりを擁護する気は毛頭ない。

だが、大江は沖縄県民を一点の汚れもない純粋無垢な聖者のように描き、
そうした中で自分だけは疚しさをもつ善良な日本人だと宣言し、
ひとり悦に入っている、という小林よしのりの大江批判にはそれなりの説得力がある。

沖縄県民を聖者化することは、彼らを愚弄することとほぼ同義だと私は考えている。
そこには、沖縄の歴史を一九四五(昭和二十)年六月二十三日の沖縄戦終結の時点に固定化させ、
この島にその後六十年以上の歳月が流れたことをあえて無視しようとする欺瞞と、
それにともなう精神の弛緩が垣間見えるからである。

大江や、これに同調する筑紫哲也の話題が出るたび、
心ある沖縄人たちから「われわれを“褒め殺し”するのも、もういいかげんにしてくれ」という台詞が出る場面に、
私は幾度となく遭遇した。


こうした跪拝意識に“大文字言葉”が加わって、沖縄は米軍に占領された被支配者の島である、
といった左翼宣伝ビラでもいまどき書かないようなプロパガンダ本が、
うんざりするほど生産されることになった。

“大文字言葉”とは何か。
いい機会なので、ここで私がよく便う[大文字」と「小文字」の違いについて、
少し噛み砕いて述べておこう。
「So what?」という英語の慣用句がある。
私流に訳せば「それでどうしたの?」という意味である。
私が言う[大文字」言葉とは、聞いたときにはわかったような気にさせるが、
あとから考えると「So what?」という疑問がわく言葉のことである。

テレビに登場するコメンテーターが口にする一見もっともらしい発言は、
だいたい[大文字」言葉だと思って間違いない。
私は彼らのおごそかな口調の割には無内容なコメントを聞くたび
「雨が降るから天気が悪い。悪いはずだよ、雨が降る」
という俗謡を思い出してにが笑いする。

彼らは同義反復しているだけで、実は何も言っていないのに等しい。
何かを言っているように聞こえるのは、彼らの顔や仕草を見て、
こちらが情報を補ってやっているからである。

これに対して「小文字」とは、
活字だけで世界がくっきり浮かび上がる言葉のことである。
それは小さい声ながら、有無をいわせぬ力で読者をねじふせる。

物事を「説くにには「大文字」言葉が便利だが、
物事を「語る」には「小文字」言葉を身につけなければならない。
「語って説かず」。
それがノンフィクションの最大の要諦だと、私は常々言ってきた。

私は里見甫を書くときも、甘粕正彦を書くときも、
[大文字」の“満州論”にはせず、彼らの魅力と魔力を、
どんな読者の胸にもまっすぐ届く「小文字」で書いてきた。

私は沖縄の知られざる戦後史を扱った本書でも、
読者がこれまで聞いたことも見たこともない「小文字」の物語だけを、
型通りの主人公を食う魅力的なバイプレイヤーたちを数多く登場させて書いていくつもりである。


本書は五つのジャンルから構成されている。

Iの「天皇・米軍・沖縄県警」では、
沖縄に対する私の立ち位置をあらためて明確にするとともに、
これまでの仕事を通じた沖縄と私の歴史的関わりや、
天皇と沖縄の微妙な関係、そして沖縄県警がたどった数奇な運命にふれた。

米軍問題も、基地問題一般を語るのではなく、
歴史に埋もれてしまった知られざる怪事件や、
この島に暗躍する米軍がらみのスパイたちの活動を通して描いた。


Ⅱの「沖縄アンダーグラウンド」では、
戦後沖縄ヤクザの発生から始まって現在の勢力図にいたる暴力団の消長のプロセスをあまさず描いた。

ここでは、現役のヤクザにインタビューするとともに、
苛烈な暴力団抗争の過程でヒットマンとなった男の痛切な告白もそのまま書きとめた。
このロングインタビューは沖縄そのものの身を切るような独白となっているので、
じっくり味わいながら読んでほしい。

また、これまでほとんど知られていなかった奄美大島の差別の歴史と、
そこからたくましく起ちあがった男が惚れる奄美のヤクザについても筆を割いた。


Ⅲの「沖縄の怪人・猛女・パワーエリート」では、
“沖縄の四天王”といわれる財界人たちにスポットライトをあてるとともに、
沖縄の戦後史に残る不撓不屈の政治家や、
左翼の枠組みにはおさまらない魅力的な組合活動家、
沖縄独立の夢に賭けた男たちにも言及した。

さらに、これまでまったく書かれてこなかった封印された沖縄の戦後メディア史や、
米留組といわれるアメリカ帰りのパワーエリート、
沖縄を実質的に支配する軍用地主、女傑といわれる女たちの群像をスケッチする一方、
○六年十一月に行われた沖縄知事選の舞台裏や、沖縄の知られざる金融事情についてもふれた。


Ⅳの[踊る琉球・歌う沖縄」では、
大阪でリバイバルした琉球民謡の復活から始まって、
ベトナム戦争下のコザで花開いた本格的ロックの発展まで、
沖縄の戦後史に重ね合わせながら、
この島を走破する形で沖縄芸能の全貌をルポした。
また、ここでは沖縄の芸能を支配しようとする本土の芸能プロダクションの動きも追った。


Vの「今日の沖縄・明日の沖縄」では、
米海兵隊のグアム移転にまつわる防衛省スキャンダルや、
また繰り返された米兵による少女暴行事件、
本土復帰に関わる沖縄密約問題などにからめながら、
沖縄が現在かかえる問題と将来の問題を総合的に展望した。


・・】

以上、ネットで掲載されていた。
注)著作者の原文をあえて改行を多くした。


私は昼過ぎに、本書でこの原文【はじめに】を拝読したのであるが、
少なくとも日本の敗戦後の政治、社会までに関心のあるお方、
このサイトで日本の政治、外交、軍事などを綴られる方たちは、
必読書のひとつかしら、と齢を重ね、政治に疎(うと)い私さえ、確信しはじめている・・。




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思わず、微笑させられる名コピーは・・♪

2008-11-21 07:48:40 | 読書、小説・随筆
私は日頃、新聞、雑誌などで、企業宣伝用の広告を見たり、
読んだりするのが好きである。
その企業の商品などを凝縮した上で、
さりげなく読ませられるのが最も好感したりしている。

昨日の深夜、布団の中で中間小説の月刊誌『小説新潮』を読んでいたのであるが、
特集として、鉄道百景がある。
この中で、鉄道紀行作家・酒井順子・女史が『こだま号の女』と題し、
東京から博多までをこだまを乗り継いでスロー旅の紀行文である・・。

この綴りの中で、豊橋に停車した後、三河安城を過ぎると、

《 なくしてわかるありがたさ 親と健康とセロテープ 》

とセロテープを製造されているニチバンの工場に巨大な看板が観える、
と綴られて折、
私は読んで、数秒後に微笑させられたのである。

人生の苦楽をさりげなく込められたコピー文・・
巧(うま)いなぁ、と感心し、まぎれなく名コピーと思ったのである。

そして、社内の企業コピーの応募コンクールに於いて、
この工場に勤めいる人生の苦楽が解かりはじめた男性社員の発想かしら、
その上で、感性のある会社の首脳部のひとりが、認定されたのかしら、
と思ったりしたのである。


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小雨の降る午後は、『文藝春秋』を読みながら・・♪

2008-11-12 20:00:00 | 読書、小説・随筆
東京郊外はどんよりとした曇り空の朝を迎え、
ここ1週間ぐらい秋日和の陽射しから遠ざかっているので、
私は陽射しが恋しくなっている。

昼前に買物、散策を帰宅し、まもなく小雨が降りだしたのである。

昼食後、暖房している居間で、ソファーに座りながら、
読み残こしている総合月刊雑誌の12月号の『文藝春秋』を
読んだりしていた・・。

私は年金生活の5年生の身であり、
現役時代は数多くの人と同様に多忙な時を過ごしたので、
このように自在な時を過ごせるのが、
何よりの贅沢なひとときと思ったりしたのである。

その後、寝室にこの本を持ち込んで、
布団にもぐり、読んだりしたのである。

そして、たった一冊の総合月刊雑誌の『文藝春秋』でも、
思いがけないことを教示されることが多々あるのである。

たとえば、【21世紀図書館~必読の教養書200冊】と題され、
評論家・立花 隆、起訴休職外務事務官で作家・佐藤 優の両氏に寄る対談の中で、
佐藤 優・氏が刑務所に服役していた時、
知能犯の日常の処遇などを発言されて、私はため息しながら、
驚いたりしている。

赤坂太郎氏の『麻生が「解散見送り」を決意した夜』を読んだりすると、
昨今、麻生首相が夜のひとときホテルの高級会員バーに毎晩通っている、
とマスメディアで騒がれるいるが、
実態は・・学び、やはりね、と受け止めたりしたのである。

この後は、一時間ばかり昼寝をし、
目覚めた後は、ふたたび読み出したりした・・。

午後5時半過ぎに起き出して、少しぼんやりとしている。


このように小雨の降る午後、読み残した記事を読みながら、
たった一冊の総合月刊雑誌の『文藝春秋』であるが、
私は学ぶことが多いのである。

尚、この雑誌は10日発売の雑誌であり、
多彩な特集記事が掲載されることが多く、
私が社会人となって以来、40年近く愛読している月刊雑誌のひとつである。


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年金青年も流行月刊情報誌『日経トレンディ』、遙か遠くに・・♪

2008-11-11 05:31:48 | 読書、小説・随筆
過日9日の日曜日、霧雨が降る中、
買物にスーパーに行き、雑誌コーナーに寄ったりした。
そして、懐かしい流行月刊情報誌『日経トレンディ』を見つめた・・。

私は年金生活の五年生の64歳の身であるが、
現役時代には、この『日経トレンディ』を愛読していたひとりである。
定年退職後は、数度購入していたが、ここ2年間は購読していなかった。

小説、随筆、歴史書、現代史などを日々読んでいる身であり、
テレビもニュース、ドキメンタリー番組を視聴する程度である。

久々に眺めた『日経トレンディ』であり、
表紙に大きな文字で、

http://trendy.nikkeibp.co.jp/trendy/

【2008 ヒット商品ベスト30】

【2009 ヒット予測ランキング】

と明示されているのであった。

そして、少しボケた私でも、最近の流行は何かしらと興味を覚えて、
購入したのである。


帰宅後、居間のソファに座って、読み出したのである。
最初に【2008 ヒット商品ベスト30】を見たのである。

☆1位
『PB(プライベートブランド』
このくらいは、私は日常の買物を担当しているので、
スーパー、ドラッグストアーに通いなれているので理解はできた。

☆2位
『EccPC』
横文字のこの名称は解からないかったが、
解説文を読むと、モバイルノートパソコンで、格安のシリーズと解かった。

☆3位
『Wii Fit』
私は初めて見る用語で、解説文を読むと、
ゲームで健康管理する新スタイル・・
これだったら、私は遊歩道を散策し、季節のうつろいと麗しき女性のしぐさ
見ていたほうが健康的・・!?

☆4位
『アウトレットモール』
我家は自動車がないので、東京郊外の調布市に住む私は、
新宿のデパート、専門店の方が45分以内で行けるので便利。

☆5位
『ZERO系飲料』
この用語は無知であったが、解説を読むと、
ゼロ系アルコール飲料とあった。
私は飲むなら、伊藤園の濃口のお~いお茶のペットボトルであり、
呑む場合はヒールの缶であり、中途半端なアルコール名称は困るのである。

☆6位
『鉄道博物館』
私は動かない電車などに興味がなく、
昔乗った列車の車両が懐かしい、と感じない人なので、
発言資格はない。

☆7位
『BBクリーム』
これも未知の用語であり、解説文に寄ると、
ファンデーション、化粧下地、保湿クリームなどの複数の機能を併せ持つ化粧クリーム・・
ここまで解説されても解かりません。
IKKOという女性が何かしらで発言し、拡大し、
美のトレンドはIKKOなくして語れない、と明記されているが、
恥ずかしながら私はIKKOという人の顔立ちも知らないのである。

☆8位
『H&M』
世界第3位の衣料専門チェーン店が銀座に開業し盛況、
とNHKのニュースで視聴したことがあったが、
私はスーツ系はダーバン、アウトドアの旅行着は登山専門店で、
30数年愛用しているので興味なし。

☆9位
『BDレコーダー』
私はVHSビデオレコーダー、何とかDVDレコーダーをここ5年で若葉マークを卒業した身の上、
ソフトの800作品を保有しているので、
ブルーレイ・ディスクといわれても戸惑ってしまうひとりである。

☆10位
『ケシポン』
未知の用語であり、解説を読んだりした上、
ハンコのような品で押すと記載された文字が消え、
個人情報保護に便利と解説されていた。

私は余り使うことがないので興味なし。


このようになってしまい、無念がら私にとっては、
現在の流行品から取り残され折、
来年度の【2009 ヒット予測ランキング】を見ていると、
ますます解からなくしまい、困惑しているのである。

そして現役時代は殆ど理解していたと、少しボヤきながら、
この雑誌は私にとっては、遙か遠い世界の出来事であり、
古人から云われている、猫に小判かしら、と苦笑したのである。


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私の魅了された【Waga Maga(ワガマガ)】・・♪

2008-11-08 09:10:54 | 読書、小説・随筆
昨日、日経に寄る【NIKKEI NET】ネットを検索していたら、
何気なしに【Waga Maga(ワガマガ)】を開いた。

『アタマとカラダを刺激する大人のためのコミュニティ』と称されたサイトであるが、
久々に見ていたのであるが、思いがけずに2つの掲載された記事に魅せられたのである・・。


ひとつは、『二女が語る「家庭人・城山三郎」(井上紀子)』と題され、
亡き作家・城山三郎氏を語られた記事である。

http://waga.nikkei.co.jp/hobby/study.aspx?i=MMWAi1000016102008

私は作家・城山三郎氏の小説、随筆を数多く愛読し、
特に随筆のひとつには、私なりの人生の信条に深く影響を受けた身であり、
このサイトに於いても、私は数多く投稿している。

今回、掲載された記事を拝読しながら、
このお方も家庭人の側面を知り、思わずこの人生の微笑みを頂いたのである。



あとのひとつは、『宮脇俊三の旅を愛娘がなぞる(宮脇灯子)』と題され、
亡き紀行作家・宮脇俊三氏に関してであった。
私は宮脇俊三氏の作品は殆ど愛読して折、人生の思考、
綴られた文体に影響を受けたひとりである。

そして、私はこのサイトに於いても、数多く投稿したりしている。


http://waga.nikkei.co.jp/travel/travel.aspx?i=MMWAc1000023102008

拝読した後、私は以前、ご令嬢が綴られた本を読み、
投稿していたことも重ねていたのである。

【宮脇灯子・著の『父・宮脇俊三への旅』・・♪】と題し、
私は2007年2月23日に投稿している。

拙(つたな)い綴りで恥ずかしくもあるが、掲載する。

【・・
東京の郊外は、小雨が降り続いていた・・。

昼過ぎに本を一冊携えて、布団にもぐり、読みはじめた・・。

昨夜から、読み始めた宮脇灯子・著の『父・宮脇俊三への旅』であり、
娘からの父親に対する視線で描かれて折、鎮魂歌のように表現されている。

私は今は亡き紀行作家としての宮脇俊三・氏の作品は、殆ど読んでいるので、
娘の愛憎には少し驚いたりしたが、単なる感傷にしたる父恋い記でない。
中でも《母と娘の後悔》は飛び抜けて表現力が優れている・・。
やはり、作家の血を受けた著作者と思ったりする。

本を読み終えた後、宮脇俊三・氏の作品の数々を想い返しているうちに、
眠り込んだ・・。

先程、目覚めると、雨はあがって、静寂な庭を眺め、
白梅の満開の花に宮脇俊三・氏の紀行文を重ねたりしている・・。
・・


このような投稿文で、少し照れながら再読している。


このように私は、思いがけずに敬愛する亡き作家のお二人に再会できた思いとなり、
【Waga Maga(ワガマガ)】から、享受されたので、
この後私は即急、お気に入りに登録したのである。



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ときには、文庫本を選べば・・♪

2008-11-06 16:31:06 | 読書、小説・随筆
昨日、駅前に買物に出かけた折、本屋さんに習性として寄ったのである。

私は今は読書中の本があり、未読の本も3冊あるが、
遅ればせながら高校生の時に読書に魅了されて以来、
本屋さんの店頭、各分野のコーナーの本棚を眺め、
読んで見たい誘惑心にさらされた本を数冊を買い求めたりすることが多く、
このような悪い癖が50年近く過ぎている・・。

小説、随筆はもとより、歴史書、現代史も読んだりすることが多いが、
ときおり変わった本を選定することもある。

昨日、単行本、文庫新書のコーナーを見たが、
魅了された本がなく、文庫本りコーナーで一冊の本を眺めたのである。

週刊新潮の編集部・編の『「週刊新潮」が報じたスキャンダル戦後史』(新潮文庫)であり、
買い求めたのである。

http://www.shinchosha.co.jp/book/131004/

解説文に概要は明示されているが、
私は人が日常生活を過ごす折、それぞれの人の深い思いが情念となり、
時として、平素のおだやかな日常の中から、
突如として、底知れぬ秘そんでいた情念が言動として露呈し、
社会的な事件となるのが多いと思ったしている。

平坦な日常が突然に破綻するのも、古今からの人の営み上、
好悪の単純な判断が出来ないのも、人の証(あかし)とも思ったりしているのである。

このような興味から、私は購入し、読みはじめている・・。


そして、このほかに2冊の文庫本を買い求めたりした。
ひとつは、藤原てい・著の『旅路』(中公文庫)であり、
亡くなわれた作家・新田次郎氏の奥方で、ご自身の半生記である。
私は作家・新田次郎氏、ご子息の大学教授・藤原正彦氏の軌跡を知りたく、
購入したのである。

あとの一冊は、瀬戸内寂聴、山田詠美の両氏の対談集『小説家の内緒話』(中公文庫)であり、
現代の作家として力量のある両女史の真摯な文学対談と思われ、
書かれる上での熱き思い、創作意欲などが少しでも学ぶことが出来たら、
と私の念願を込めて、買い求めたのである。


以上、文庫本を3冊購入したのであるが、私は少し分裂症かしら、
と私は独り苦笑しているのである。


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読んで見たい金胤奎(キムユンギュ)・著の『ある父子』

2008-10-27 18:25:27 | 読書、小説・随筆
先ほど、読売新聞の【YOMIURI ONLINE】の『文化』欄を見ていたら、

【 朝鮮半島生まれの作家・立原正秋に民族名の短編「ある父子」 】

と見出しを見つけて、遅ればせながら10月20日18時54分発信の記事であっが、
私は記事の内容を精読していたりしていた・・。

【・・
ベストセラー「冬の旅」などで知られた朝鮮半島生まれの直木賞作家、立原正秋(1926~80)が、
本格デビュー前に元の民族名で発表した作品があることが20日までに確認された。

この作品は、日本で刊行されていた「自由朝鮮」誌49年2月号に、
金胤奎(キムユンギュ)名義で掲載された短編「ある父子」。
連合国軍総司令部(GHQ)が提出させた出版前のゲラを集めた通称「プランゲ文庫」の中から、
早稲田大の山本武利教授のグループが発見した。
立原晩年の小説「冬のかたみに」ともエピソードが類似しているという。

立原は生前、両親とも「日韓混血」と話していたが、
2人とも朝鮮人であることが、その後明らかになった。
同グループの川崎賢子・早大非常勤講師は
「どこに自分を所属させるかという、
民族の揺らぎの中から作家立原正秋を作り上げていった過程が分かる」
と話している。
・・】

以上、全文の記事を無断で掲載させて頂いた。
注)記事の原文をあえて改行を多くした。


私は東京オリンピックが開催された昭和39年(1964年)の頃,
大学を中退し、映画・文学青年の真似事を始めた・・。
そして翌年の夏、立原正秋・著の『剣ケ崎』(新潮社)の短編集を購入し、
深く魅せられて、過去に発売された単行本の『薪能』(光風社)を古本屋で買い求めたりした。

この頃は、文学に関する月刊誌は、
純文学として、『新潮』、『群像』、『文学界』、
中間小説として、『小説新潮』、『オール読物』、『小説現代』を、
記憶に間違いなければ、精読していた。
そして、欲しい小説の単行本があったならば、
たとえ一食抜いても、買い求めていた時期であった。

私は作家・立原正秋に関しては、これ以降は作品、随筆が発表されるたびに、
買い求めて、熱愛し、精読していた・・。

そして昭和55年(1980年)の夏、立原正秋氏は無念ながら亡くなわれたが、
これ以降も追悼などで、立原正秋氏の綴られた未刊の小説、随筆が出版されたり、
或いは立原正秋氏の友人、知人らに寄る立原正秋に関する随筆が出版され、
私は買い求めていた・・。

その後、三周忌記念出版として、『立原正秋全集』全24巻が角川書店から、
昭和59年から発刊され、私の書棚には単行本が少なくとも30数冊はあったが、
心新たにの思いで購入したのである。
そして、愛惜を重ねながら、毎月配本されるたびに改めて精読したのである。

私は拙(つたな)い読書歴なかで、小説・随筆に関して、
明治以降の作家の中で、最も影響を受けたひとりである。

作品はもとより、文体、そして庭園、茶事、食べ物、日本酒、焼き物など、
私の青年期から、今日までの自己形成に多大に教示された人であった。

このような私なりの強い思いの軌跡があるので、
未発表の作品を読みたいと思ったのである。


尚、余談であるが、絶筆となった小説は、読売新聞に連載していた『その年の冬』なので、
亡くなわれた後の追悼などの記事に関し、読売新聞が多く掲載されると思い、
私はこれ以降、読売新聞を定期購読し、40年近く過ぎている。


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改めて、 『文字・活字文化の日』・・♪

2008-10-27 10:05:48 | 読書、小説・随筆
今朝、読売新聞を読んでいたら、

【10月27日は『文字・活字文化の日』】として、
読書の特集記事が3ページが掲載され、私は微笑んだりしていた。

私はこのサイトに於いて、3年前に関連した投稿をしていたので、
読み返していた・・。

【『文字・活字文化の日』と私のブログ・・♪】と題して、
2005年10月27日の3年前に投稿している。

・・
本日の読売新聞を見ていたら、
本日は『文字・活字文化の日』と綴られていた。
何故、この日がこうして制定されたのか解らないが、
多分、本日から11月9日まで読書週間にちなんで命名したと思う。

私は活字による文字を読む新聞、雑誌、小説、随筆、
教養の歴史学、現代史などを読むのが好きである。

言葉から文字へと人々の営みの中から、
文明が生まれ、その中の一部として、文化が発生している。

創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれの人々が読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
私はこの魔力から高校生の時から愛好している。

私はブログという伝達方法で、文字のみで投稿しているのは、
この理由に他ならない。

写真、飾りを付けられている方が多いが、
私は今後も文字のみで表現する手段としたい。
私の綴づった内容が充分に伝わらなかった時は、
私の文章修行が未熟であることに他ならない。
・・

このように投稿していたのであり、この時も思いは今でも変わらない。
私は定年退職後の4年生の身であり、相変わらず活字中毒のひとりである。

新聞に関しては、『読売新聞』を定期購読し、
現役時代よりゆっくりと読んで、ときには心の節度を失くした記事などを読んだりしていると、
『馬鹿なことを・・』
と呟いたりする時もある。

或いは、国内旅行に行ったりする時、宿泊先の観光ホテルで、
その地の地方新聞を出来る限り読んだりしている。

月刊誌に関しては、『文藝春秋』は昭和45年以来愛読して折、
そして『中央公論』、『新潮45』は特集記事に魅せられた時、
購読している。

そして新聞の出版社の広告を見たり、本屋の店頭で見かけ、
小説、随筆、歴史書、現代史など単行本、文庫新書などを購入したりしている。
その上、何かしら魅了させられない時、古本屋に寄ったりしているのである。
昨今の本屋の店頭の流通が早いので、
買いそびれた本や思いがけない興味のある本にめぐり逢え、
私の心は小躍りしながら、購入するが、
殆どは余りに廉(やす)いしので驚いたりしているのである。

退職後で一番変わったのは、ネットでニュース、興味のあるサイトを見て、
読むことが増えたことである。

『読売新聞』のオンライン・サイト
http://www.yomiuri.co.jp/

『日本経済新聞』のオンライン・サイト
http://www.nikkei.co.jp/

殆ど毎日読んだりし、この他は音楽業界の専門サイトを検索したりしている。

このように年金生活で自在の身といっても、
この上に、このサイトに綴り投稿したりするので、
ぐずの大忙しかしら、と微苦笑する時が多いのである。



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佐々木俊尚・著の『ブログ論壇の誕生』・・。

2008-10-19 06:36:38 | 読書、小説・随筆
過日、偶然に本屋で佐々木俊尚・著作の『ブログ論壇の誕生』(文春新書)を見かけ、
新書の帯の表には、
【新しい巨大な 言論の波
    マスコミを揺るがし 政治を動かし
         旧弊な言説を 一掃する】
と明記されていた。

http://www.bunshun.co.jp/book_db/6/60/65/9784166606573.shtml

そして、カバーをめくると、
【インターネットの世界に出現した巨大なブログ論壇。
その新しい言論は、古い言論を支配していた団塊世代と
激しく対立し超克しようとしている。
新たな公共圏生成のインパクトをレポート。】
と明記されていた。


著作者に関しては、『グーグル~既存のビジネスを破壊する』(文春新書)、
『次世代ウェブ~グーグルの次のモデル~』(光文社新書)、
そして『ネット未来地図』(文春新書)を読んできた・・。
私は年金生活の64歳の拙(つたな)い身であるが、
ITの世界に不明が多いので、この他の関連した本を10冊前後読んでいるが、
特に佐々木俊尚氏は解かりやすく綴られているので、
信頼できる著作者のひとりとなっている。


今回の『ブログ論壇の誕生』は、

Ⅰ ブログ論壇はマスコミを揺さぶる
Ⅱ ブログ論壇は政治を動かす
Ⅲ ブログ論壇は格差社会に苦悩する
Ⅳ ブログ論壇はどこへ向うのか

各章に於いて、教示されられことが多いが、
私としては、《Ⅲ ブログ論壇は格差社会に苦悩する》に
衝撃を受けて、ここ数日考えさせられたのである。

この中で、第8章として、『辛抱を説く団塊への猛反発』がある。

【『官僚出身教授に対する猛反発』

橋本久義・政策研究大学院大学教授が投稿したコラムで、
タイトル『我慢を知らない若者では勤まらない』と題して、
『日経ビジネス』のオンライン版に2007年10月9日号掲載された。

・・派遣社員やアルバイトのよう非正規雇用労働者は、愛社精神が薄い。
「若者の方にも問題がある。
清潔な職場で、仕事が楽で、給料が高くて、転勤がなくて、
誰もが名前を知っているような企業以外はお断り」
というような条件で仕事を探すから、希望の就職先が見つからないのではないか、と指摘である。

そしてコラムの結論として、
日本の将来のためには若者に「我慢」や「辛抱」を教え込み、
若者を正社員にしたくなるように鍛え上げなければならない、
と投稿された。


これに対して、インターネットの世界から猛烈な反発を受けた。

橋本教授に対する批判内容を大別すれば・・

①我慢をしないのは、我慢しても報われないからだ。
 若者たちを、非正規雇用に落とし、
 見返りも与えずに、「我慢をしろ」といわれても無理だ。

②そもそも現実の若者の多くは、
 「我慢を知らない」どころか、非正規雇用に耐え、
 過労死するほどに働かされているのが現状ではないか。

③技術が伝承されないのは、
 企業が短期的なコスト削減に目が眩み、
 に切り替えてしまったツケが回ってきているだけでないか。
 その責任をなぜ若者に帰するのか。
・・】


『激烈な世代間対立』

・・多くの若者は、我慢して辛抱しながら、
安い給料や非正規雇用に耐えているいるのが現実なのだ。

1990年代末、金融危機のさなかに
山一證券や北海道拓殖銀行などの大手の金融機関が次々と破綻し、
若者たちは「もう大企業に頼れる時代ではなくなった」
ということを実感させられた。

そしてほぼ同じ時期から、企業の徹底的な人材コスト削減が始まる。
グローバリゼーションの中で、台頭するアジアや南アメリカの企業と
競争していくためには、
コスト削減は避けられない方向性だったとはいえ、
しかしその結果として切り捨てられた若者たちにとっては、
それはあまりにも過酷な運命であった。

そして2000年代に入ると、事態はますます深刻化する。
小泉改革によって派遣労働規制が緩和され、
非正規雇用がさらに加速してしまったからだ。
この結果、ワーキングプアと呼ばれるような貧困層が激増し、
格差社会化はさらに進んだ。

この荒波をまともに受けてしまったのが、
ロストジェネレーション世代(注・引用者 1970年代~1980年代の初頭に生まれ、
就職時に雇用の機会が余りにもなく、就職氷河期の世代とも別称)である。

彼らが・・書き込みやブログのエントリーを見わたせば、
そこには将来への不安、人材を切り捨てている企業への怒り、
格差社会への絶望が渦巻いているのが、鮮烈に読み取れる。
・・
若者たちの怒りは、団塊をはじめとする上の世代へと向かいつつある。

これは激烈な世代間対立なのだ。

そしてこの対立は、メディアを巻き込んでいる。
・・中高年ビジネスマンを主たる読者層とするメディアでは、
「いまどきの若者はだめだ」
「われわれのころと比べると、辛抱が足りない」
といった若者観が幅を利かせている。
これはテレビのニュース番組や新聞も同様だ。

こうしたメディアの記事を読んで、
ロストジェネレーションの若者たちは・・
なかば絶望的な気分で冷笑するのみだ。
彼らの世代を代弁してくれるのはマスメディアではなく、
いまやインターネットの掲示板やブログになってしまっているのである。

一方で、団塊の世代の人たちは、
インターネットのことはほとんど知らないし、
掲示板やブログでどのような言論が展開されているのかも把握していない。
マスメディアが体現する団塊世代の言論空間と、
ネットで勃興しているロストジェネレーションの言論空間の間には、
深く暗い河が流れている・・


長々と引用させて頂いたのであるが、
このような著作者の綴られた内容に、私は衝撃を受けたのである。


私は昭和19年に生を受け、大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をしながら、アルバイトや契約社員をした後、
25歳よりある大手の企業に何とか中途入社できたのである。
そして、この会社の一部門がレコード会社として独立し、
中小業となり35年近く勤め、定年退職となったのは、平成16年の秋であった。

50代の初め、外資百パーセントの会社に変貌し、
業界、会社も盛んにリストラが行われ、私も50代のなかば、
出向となったのである。
物流情報会社のある物流センターに勤務したのであるが、
正社員は私を含めても4名で、若手の男性はアルバイト契約、契約社員が10名、
そして女性のアルバイト契約が100名前後の職場であった。

ここで特に若手の男性のアルバイト、契約社員の雇用実態、
安い給料、将来性のない職場の実態を知り、
私は彼らがなぜ将来性のある会社に移らないのか、
最初は不思議と思ったのであるが、本音でいえば希薄であったのである。
私も週刊の『日経ビジネス』を愛読していたので、
50代の初めの頃から、若い人は就職で大変と、就職氷河期の人たちを
思ったりしていたのであったが、漠然としていたのである。

そして、まもなく若手の男性たちと懇親を重ねるうちに、
少しつづ過酷な世界の現状を知ったのである。

私達の世代、少し後輩の団塊世代の多くは、
50代に於いて、リストラで早期退職優遇制度で退職させられたり、
或いは異色な人事異動があったにせよ、
私と同様に正社員として既得権のように勤め続け、
就職氷河期の彼らの就職の機会を奪ったのは確かなことである。

私は定年退職後、働くことをやめて、年金生活に入ったのである。
共に同じ空気を長きに共にした人が、定年前に無念ながら退社されたり、
再就職は就職氷河期の彼らの就職の機会を更にうばう、という心情も重ねたりし、
そして何より私自身が心身疲れきっていたのである。


このような軌跡もあったので、
この本で明確に提示した、団塊の世代の人たちと、ロストジェネレーションの言論空間は
単なるネットの問題を遙かに越えた社会問題の一冊と感じ、
確かに深く思考される日本の大きな問題のひとつである。

私は佐々木俊尚・著作の『ブログ論壇の誕生』から多く学び、
世代を超えて読んで頂きたい、と確信しているひとりである。
たとえ年金生活の方で、真摯に次の日本を背負う若者たちに少しでも理解をするならば、
彼らの汗の結晶の働いてくれた税金からの1部がやがて循環し、
年金となり受給しているのだから、少なくとも目は離せないのである。
このような思いになると、必読書かしら、と深く考えているのである。


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塩野七生・著の『ルネサンスとは何であったのか』に伴う、対談から・・。

2008-10-09 15:33:17 | 読書、小説・随筆
私はここ3日間、塩野七生・著の『ルネサンスとは何であったのか』(新潮文庫)を読み始めている・・。

http://www.shinchosha.co.jp/book/118131/

実はこの文庫本は、4月の下旬に買い求め、
あとがきのような著作者の塩野七生、文藝評論家・三浦雅士の両氏に寄る【対談】を読んで、
しばらく考えさせられて、
机の右上に置いていた本の一冊である。

私は塩野七生・女史の本は、
ここ3年で数々の本を拝読し、魅了させながら読んできたひとりであるが、
対談の中で三浦雅士の発言に瞬時に共感した後、
改めて襟を正して、過去に購入した塩野七生・女史の作品を改めて再読したので、
ここ数日でやっと本編を読み出したのである。

私としては、稀(まれ)なことであるが、
それだけ三浦雅士の発言が重く、正鵠であると深く感じたのである・・。


異例であるが、私が深く共感した文藝評論家・三浦雅士の発言を引用すると、


・・
戦後の日本文学には、松本清張、司馬遼太郎、藤沢周平という流れがありますが、
その中に、塩野七生をきちんと位置付ける必要があると思っています。

松本清張は、ご存知のように、
戦後の下層階級の孤児のような存在を描いてきた。
孤児が成り上がっていくプロセスの中での犯罪というのを取り上げた。
このことによって、戦後の混乱した占領軍から高度経済成長に至る時期を
うまく捉えた。

それに対して、日本が高度経済成長に乗った段階で、
経営者、管理者、指導者がモデルとすべき存在を
歴史上に求めて書いたのが司馬遼太郎ですよね。

そのあと、中間管理職の悲哀を江戸時代に仮託して
書いたのが藤沢周平です。

要するに下層、上層、中層の順です。


では、塩野さんは何を書いたのか。
まず、指導者の資質がどのようなもので、なければならないか、
という意味での指導者論を書いた。
『チェーザレ・ボルジア』もそうだし、
『ローマ人の物語』に登場してくるさまざまな皇帝もそうですが、
優秀な指導者は大変な経営手腕を持っている。

この経営手腕の最大の問題が、じつは民心を掌握するということなんですね。
だから、塩野さんは、
単に庶民を描いたというよりも、庶民がマス(大衆)になると、どう対応するのか、
なぜ大衆はヒーローを求めるのか、
さらには、大衆とヒーローとの緊密な関係とは、どういうものかを書いた。

そういったことを意識的に書き続けたのが、塩野さんだったと思います。

庶民の庶民性は、のどかな暮らしなんかにはない。
むしろ政治においても娯楽においても
ヒーローを求めるようなところにこそあるんだ。
松本清張も司馬遼太郎も藤沢周平も、そういうことは描いていない。

ヒーローの危険性やヒーローが理想主義から転じると、何が起きるのか、
といったポピュリズムの問題の描写に関しては、
塩野さんは圧倒的だと思う。

・・



この後の内容としては、歴史とは何か、等を対談されたり、
塩野七生・女史の文体の魅力を三浦雅士が具体的に発言されたりしている。

著作者の手前、多少の誉め言葉が有ったせよ、
文藝評論家・三浦雅士の塩野七生・文学の評価は余りにも正鵠で、
力量ある感性に優れた文藝評論家である、と深く共感し、
昨今に於いて、上質で濃い上質な対談で、私は圧倒されてながら感銘を受け、
そして思考させられたのである。



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私は独りの師に導かれて・・♪

2008-09-26 22:05:32 | 読書、小説・随筆
この1週間、瀬戸内寂聴・著の『秘色』(新潮社)を読み終えた後、
世阿弥、観阿弥、足利義満などの軌跡を学んだりしていた。
そして、世阿弥の『風姿家伝』を初めとし、
吉田兼好の『徒然草』、鴨 長明の『方丈記』を思いかえしたりしていた。

そして最後には、紫 式部は何故『源氏物語』は書けたのか、
と思索し、ある程度了解出来たりした・・。


私は学生時代に国文学を残念ながら専攻した身ではなく、
ただ近現代文学と称される明治時代から昨今までの小説、随筆に関心がある。

そして、深く読めば読むほど、ある作家たちの作品は、
やはり中世に遺(のこ)された作品に到達することが多いのである。

その上、作品の背景には、当然として人々の営みがあり、
この頃の政治、文化、風土、日常生活、風習などを思考したりしている。


このような思いを東京オリンピックの頃から思い、
私の拙(つたな)い脳裏で苦楽を友とし、今日に至っている。

私の師は、数多くの書物を頼りに独学で学んでいるが、
サラリーマンの多忙な期間を35年ばかりしてきたので、
断片的で、一貫性がなく、残念ながらほころびが多いのである。


若き40代の頃、私は人生は2度あれば、
大学で国文学を専攻し、やがて教授になり、
確固たる国文学の上で足跡を残す、
と苦笑しながら夢想することもあった。

しかし、古今東西の数多くの人が願うように、
無念ながら人生は2度なく、
今の自分を自苦自楽しながら、向上させるしかないのである。


この一週間の私なりの師は、
谷山 茂・編の『日本文学史辞典』(京都書房)である。
この辞典は、昭和56年の秋に、偶然に本屋で見かけ、
年に数回程度、私の本棚から取り出して学んでいる。
戦後の作家の解説などは、幼い解釈もあるが、
貴重な師となっている。


このように私は、現世の社会の混迷を離れ、
ひたすら中世などを思索しながら、
ときには午前中のひととき買物・散策に出かけたりしている。



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瀬戸内寂聴・著の『秘花』    

2008-09-24 18:14:08 | 読書、小説・随筆
          序章

日本の中のひとつとして、瀬戸内山脈があるが、
50数年前に突然に隆起して形(かたち)づくられた山なみである。

ひとりの女性が小説家を目指し、少女小説や童話を発表されながら、
ひたすら純文学の世界を目標とされていた。

こうした折、純文学の雑誌に佳作を発表されたが、
文壇の有力な文藝評論家から、手厳しい批判にさらされ、
大衆文学を公表しながら、発表のあてない純文学の作品を書き続けていたのである。

そして、純文学のふたつの作品を発表され、
文壇はもとより、多くの文学青年・少女から高い評価を得て、
著名な文学賞を獲得した後は、地下水脈から溢れる泉水のように、
精力的に作品を発表され、次々と本が発刊され、
またたくまに流行作家として地位を確立された。

こうした人気もあり、流行作家として確固たる人が、
突然に仏門に入り、修行しながら、作品を発表され、
文壇以外の多くの人々を驚ろかせた。


その後、大衆文学を主軸とした流行作家を自ら捨て、再び純文学に回帰し、
岩手の天台寺で青空説法と称せられた法話をされ、
この寺の境内で、この方の法話と言動を多くの人たちに感動を与え、
うらぶれていた寺を再興させたのである。

そして法話はもとより、講演、随筆などで、各地の多くの人びとに、
心の救済、そして生きがいを導いたのである。

この間、文壇の大家の証(あかし)のひとつとされている『源氏物語』の
現代語訳の大作を発表されたりしていた。

そして、近年に文化勲章も受章され、数多くの国民から賞賛され、
現代に至っている。


このように平地に住む年金生活の無名な男は思って、
そびえる瀬戸内と命名された高き峰峰を眺めてきたのである。



               第一章


このような足跡を残しているお方が、中世に能の大成者と知られ、
一世を風靡した世阿弥の生涯を表現すると、
私は雑誌、新聞などで知り、本音としては驚いたのである。

10数人の著名な国文学を専攻とされた学者はもとより、
私の拙(つたない)い知識からは、数人の小説家が世阿弥について、
発表されている、と少しボケた脳裏がよぎったのである。

大家となり、文化勲章を受賞された後、
あえて栄達、栄華をきわめ、そして失墜感を歩まれ中、
中世の文化史上に確固たる業績を遺された世阿弥の世界を小説にする、
熱意に正直な所、驚嘆したのである。


作者は、85歳の今だから、「最後の作品」として、
世阿弥の特に晩年の佐渡島の時代を表現したい、
と公言されていた。
佐渡に流刑となり、72歳の時から80歳過ぎまでの中、
逆境をどのように受け止めながら、迫り来る老いといかに向き合って、
どのように死を迎えたのか、
関心を示された、とも付言されたりしていた。


作品が発刊された後、版元の新潮社の『波』(2007年5月号)に於いて、
【瀬戸内寂聴『秘花』刊行記念対談】と題し、
作者の瀬戸内寂聴と小説家・川上弘美が対談され、席上で、
世阿弥について今まで書かれた研究書や資料を全部読まなくちゃいけなかったし、
佐渡島に取材として4度ばかり訪れたり、
作品として完成するまで4年を要した、
と発言されていた。

私は作者自身はご高齢の身でありながら、情熱を感じながらも、
何より執念のような一途の深い思いに圧倒されたのである。



             第二章

私は遅ればせながら、9月の中旬の深夜のひととき、瀬戸内寂聴・著の『秘花』を読み終えた・・。

その直後、本棚から、新潮日本古典集成のひとつ『世阿弥芸術論集』を取り出し、
少しばかり読んだりしながら、世阿弥の心情に思い馳せたり、
瀬戸内寂聴・著の『秘花』の作品に思いを重ねたりした。

日中のひとときも、寝不足ながら、思考した上、
この作品の論評を考え出したのである。

私はもとより能に素養もなく、学生時代は国文学を専攻していなく、
文学も愛好家のひとりであるので、
正統な文学論評は表現できる才能も持ち合わせていないので、
困苦したのである。

結果としては、庭の樹木、草花を眺めた後、
作品の一部が脳裏に残っていたのが思い起こされたのである。



申楽は万民に快楽を与える芸だという信条を、
観阿弥は死ぬ瞬間まで守り通したのであった。

『風姿花伝』の中の「奥義に云はく」の件にに、私も書き遺している。
・・・
能力も知力も秀れている上流の人々の鑑賞を受ける役者が、
芸も風格も申し分ない場合は問題がない。

しかし大体において無知な大衆や、遠国や田舎の卑しい庶民には、
こうした高級な芸風は理解し難い。
こういう場合、何とすべきか。

能という芸は、一般大衆に愛され支持されることを基礎として
座が成り立っている。
それでこそ座にとっては喜ばしいことになる。
あまりに高踏的な芸風ばかり研究していっては、
一般大衆の人気を受けることは出来ない。

能を演ずる立場としては、つねに初心の頃の新鮮な気分を忘れないようにして、
時節にふさわしい場所柄を心得て、
鑑賞眼の低い観衆の眼にも、「なるほどな」と納得出来るように能を演じること。
そうなってこそ、どちらにとっても寿福がもたらされることになる。
・・・
どれほど舞台で名人上手の芸を見せようが、
見物の多くがその芸に感動し幸福感を与えられないような場合は、
寿福増長の名人の役者とはいえないのである。
・・・


本書90~91ページより引用。
本書の原文より、あえて改行を多くした。


世阿弥が遺(のこ)された『風姿家伝』の一節を、
作者は、巧く現代文で表現されているが、
何より世阿弥の心情と作者の自身の足跡を投影させて、
加味しながら思いを深く表現された箇所である。


振り返れば、
世阿弥の父・観阿弥は父が猿楽師であり、
奈良時代の頃に大陸から伝承された軽業のような曲芸、物真似などを観せる芸で、
観阿弥は若き頃に結崎座を結成し、近畿地方の寺院の支援で一帯を巡業した。

観阿弥は猿樂の芸の向上心はもとより、
田楽と称される田植えなどで豊穣を祈願した
農村の歌や踊りなどをされる田楽座の良き芸も積極的に取り込み、
創意工夫を重ねて、その地域の好みも取り込んだりし、
各地域の観衆を熱狂させたりしていた。

そして、結崎座の芸に熱意のある人から人選し、『観世座』とし独立させて上、
自ら台本も書き、更に猿楽を向上させながら、観衆の拡大を図ったのである。

この後、中央の京都に進出し、醍醐寺の7日間公演も好評を得た後、
観阿弥は二年後に時の第三代将軍の足利義満の目前で猿樂能を演じ、魅了させ、
これ以降、観阿弥、そして子の世阿弥も絶大な寵愛を受けたのである。

近畿地方の片田舎から旗揚げし、時の最高権力者の支援を受けるまで、
それぞれの公演の場所により、
観衆の質、そして演目の内容、芸の披露の深みを、
たえず観る人に熱狂させる創意工夫をしたのである。

観阿弥は苦楽を伴う巡業を重ね、心身体験した表裏を、
我が子・世阿弥に伝承させ、能の稽古はもとより、
謡、その世界で著名な方から漢文、そして文学などを学ばせて、
中央の権力者に恥じない英才教育をほどこしたのである。

観阿弥の野望は達成されたが、死去した後、
残された世阿弥は義満から一心に寵愛され続けていたが、
まもなく義満公自身が近江の犬王の夢幻能の舞う
情緒もある上、格調高い芸に魅了され、
優遇しはじめ、世阿弥は次第に遠ざかれたのである・・。


このような私なりの世阿弥への思いも馳せながら、
作者の世阿弥の心情を重ねたのである・・。



            第三章

佐渡に渡った後の世阿弥の晩年の日常生活は、
作者の世阿弥の高齢に対する思いを、作者自身の命題とした
【逆境をどのように受け止めながら、迫り来る老いといかに向き合って、
どのように死を迎えたか】
作者自身の老いの心情を重ねながら、表現されている。

そしてひとりの創作した女性・沙江を登場させ、
作者の筆は静かに高揚させ、美しい旋律として綴られ、
まさに瀬戸内文学の長所が表現されている。

私は『狂雲集』などを遺された一休宗純が、
齢を重ね老人となった時、盲目の若き女を身の廻りの世話を願い日常を過ごす中、
愛の交歓を思い重ねたのである。


私はこの『秘花』からは、思わず魅了された一節がある。
世阿弥が流刑と決り、娘婿の禅竹と会話しながら、
父・観阿弥と話しことを回想される箇所である。


・・
北山第の行幸の盛儀から外された屈辱と不満に、
自分の心のなだようもなく悶えていた時、
いつか父が何かの折に話された言葉がよみがえってきた。

「近江の大王は敵ながらあっぱれだな。
あれは生まれつきの天才だ。
はじめから幽玄を目ざして、物まねを次にして、かかりを本としていた。

われわれの得意とす物まねにこだわらず、写実より風情本位ということだろう。
あの芸風は、実に冷え冷えとして、自然に心が洗われるようだ。
芸人にとって、そういう好敵手が現われるほど、芸の励みになることはない。


いいか世阿、あらゆる芸は勝負だ。
勝つか、負けるか。究極は勝たねばならぬ。
秘技を盗んででも勝たねばならぬ。手段を選んではおられぬ。

幸いそなたは筆が立つ。
新しい能を書きことが出来る。その上、自分でシテが演じられる。

まだある。これから書こうと腹案を練っている芸論は、
そなた以外の誰にも書けぬ。


この世の時には男時(おどき)と女時(めどき)があるのだ。
男時はすべてが勢いづく上向きの時、
女時とはその反対の、すべてが勢いが衰え、不如意になる時だ。
女時の最中には焦ってはならぬ。自然の勢いには逆えぬ。

そういう時こそ、じっとわが心を抱きしめて耐えていることだ。
ふたたびめぐってくる男時の訪れを辛抱強く待つのだ」


本書15ページより引用。
本書の原文より、あえて改行を多くした。


作者は世阿弥が義満公から第一人者として寵愛を受けていたが、
やがて義満公は近江の大王の夢幻能に魅了され支援されたので、
栄華からの失墜の心情、思いを父の観阿弥の言葉として、綴っている。

これは観世流の盛衰もさることなから、観阿弥、世阿弥、そして作者自身の
今までの足跡を思い重ねて発露された、と私は感じたのである。


私は久々に本格的な小説を読んだのであるが、
文の力を改めて感じ、今後も文藝は最も有効な表現手段だ、
と行間からの作者の息づかいを熱く感じたのである。

尚、あえて私なりに苦言すれば、
晩年は佐渡の村人との淡い交流の中で、世阿弥が亡くなった後、
まもなく村人から能が演じられ、
後世の人びとから能の大成者として、確固たる業績に敬愛されようとは、
世阿弥は知るよしもなかった・・。

こうした一節も付記されたら、残り花の風情が増す、と余計な事を思ったりしている。


                             《終わり》


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早朝まで、『世阿弥芸術論集』を読み・・♪

2008-09-20 09:33:20 | 読書、小説・随筆
一昨日より読み始めていた瀬戸内寂聴・著の『秘花』(新潮社)を真夜中に読了後、
しばらくぼんやりとしていた・・。

http://www.shinchosha.co.jp/book/311222/

そして、玄関の軒下で煙草を喫いながら、
台風13号で私の住む地域は大雨、雷、洪水注意報が出されていたが、
雨が激しく降る程度である。


私は世阿弥の生涯を描いた瀬戸内寂聴・著の『秘花』を思い浮べたりした後、
ネットでこの本に関するサイトを調べたりした。

新潮社の『波』の2007年5月号に於き、
【瀬戸内寂聴『秘花』刊行記念対談】として、
著作者の瀬戸内寂聴は、小説家・川上弘美との対談が掲載されて折、
読了しながら著作者のこの作品の思いを、
改めて学んだりした。

http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/311222.html


この後、私は本棚から、『世阿弥芸術論集』を取り出して、
パラパラと開き、拾い読みをしたのであった。

私は東京オリンピック頃に世阿弥に興味し、
文庫本で『風姿花伝』などを読んだりした後、
昭和51年10月の初めに『新潮日本古典集成』(新潮社)で、
第4回配本として、この『世阿弥芸術論集』を入手とし、
愛読していた本であった。

『風姿花伝』はもとより、『至花道』、『花鏡』、『九位』、『申楽談儀式』が収録されて折、
私なりの世阿弥への思いを重ねたりしていた。

このような思索をしていた時、早朝の4時過ぎとなり、
私はときおり物狂いのような熱中する自身に微苦笑しながら、
寝室に行き布団にもぐったのである。

そして激しい雨脚の音を聴きながら、眠りについた・・。


目覚めると、台風は房総半島の先端の銚子市の海上の彼方を過ぎた、
と知りながら、私の住む街は急激に天候が回復し、
こうして綴っていると青空になってきたのである。


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