夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

作家・立原正秋(たちはら・まさあき)氏に、私は圧倒的に熱愛していた頃の思いで・・。

2011-08-08 22:23:29 | 真摯に『文学』を思考する時
私は過ぎし4月の下旬に、家内に手伝って貰いながら、本の整理をした。
居間は17畳前後の洋間であり、本棚は3本と小さな本棚が1本あり、
和室の奥の書庫に3本あり、2階の洋室に1本あるが、
収納出来なかった本は、押入れ等にあった。

たまたま若き頃に、映画・文学青年の真似事をした体験もあったので、
小説、随筆、歴史書、現代史など本は5000冊前後あり、
この際、老後に向かうこともあり、徹底的に処分しょう、と決意したのである。

小説・文学評論が圧倒的に多く、、
石川達三、丹羽文雄、三島由紀夫、安部公房、大江健三郎などの各氏の作品も多数あり、
そして福永武彦氏の本は、殆ど所有していたが、
この方たち作家の作品は、今後は読むこともないだろう、と処分した。

こうした中で、ある作家だけは、どうしても捨てきれず、書庫に残すことに決めたのである。


私は東京オリンピックが開催された昭和39年(1964年)の頃,
大学を中退し、映画・文学青年の真似事を始めた・・。
そして翌年の夏、立原正秋・著の『剣ケ崎』(新潮社)の短編集を購入し、
深く魅せられて、過去に発売された単行本の『薪能』(光風社)を古本屋で買い求めたりした。

この頃の私は、文学に関する月刊誌は、
純文学として、『新潮』、『群像』、『文学界』、
中間小説として、『小説新潮』、『オール読物』、『小説現代』を精読していた。
そして、欲しい小説の単行本があったならば、
たとえ一食抜いても、買い求めていた時期であった。

私は作家・立原正秋に関しては、これ以降は作品、随筆が発表されるたびに、
買い求めて、熱愛し、精読していた・・。

この当時の私は、アルバイト・契約社員などをしながら、小説の習作に専念していた。
確かな根拠はなかったが、私には独創性がある、と独りよがり自信にあふれて、
純文学の新人コンクールの小説部門に応募したりした。

しかし当選作の直前の最終候補作の6作品に残れず、
三回ばかり敗退し、もう一歩と明日の見えない生活をしていた。
結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗北宣言を心の中でして、やむなく安定したサラリーマンの身に転向した。

その後は35年ばかり音楽業界のある会社の情報畑・管理畑などのサラリーマン生活をして、
2004(平成16)年の秋に定年退職を迎えた。


この間、昭和55年(1984年)の夏、立原正秋氏は無念ながら亡くなわれたが、
これ以降も追悼などで、立原正秋氏の綴られた未刊の小説、随筆が出版されたり、
或いは立原正秋氏の友人、知人らに寄る氏に関する随筆が出版され、
私は買い求めていた・・。

その後、三周忌記念出版として、『立原正秋全集』全24巻が角川書店から、
昭和59年(1980年)から発刊され、私の書棚には単行本が少なくとも30数冊はあったが、
心新たにの思いで購入したのである。
そして、愛惜を重ねながら、毎月配本されるたびに改めて精読したのである。

私は拙(つたな)い読書歴なかで、小説・随筆に関して、
明治以降の作家の中で、最も影響を受けたのが、立原正秋氏となった。

作品はもとより、文体、そして庭園、茶事、食べ物、日本酒、焼き物など、
私の青年期から30代の終わりの頃まで、多大に教示された人であった。


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たかが石川啄木、されど石川啄木、ときには齢ばかり重ねた私でも、思い馳せれば・・。

2011-07-31 14:55:24 | 真摯に『文学』を思考する時
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
たまたま昨夜より、歌人・石川啄木に関しての2冊の本を再読している。
一冊目は、三枝昂之(さえぐさ・たかゆき)・著の『啄木-ふるさとの空遠みかも』(本阿弥書店)の単行本、
あとの一冊は松田十刻(まつだ・じゅっこく)・著の『26年2か月 啄木の生涯』(もりおか文庫)の文庫本である。

この二冊の本は、昨年の夏の終りの頃の8月30日から9月4日まで5泊6日で、
家内と共に東北地方の太平洋に面した三陸海岸で、宮古市の海岸にある『浄土ヶ浜』、
そして盛岡市の郊外にある繋(つなぎ)温泉の奥地にある鶯宿(おうしゅく)温泉に訪れた時、
盛岡駅のターミナルビル内にある『さわや書店』で買い求めた本でもある。


私はこの旅行の時でも、その地を訪れる前には、岩手県の賢人を思い浮かべたりしていた・・。
無知な私は恥ずかしながら告白すれば、
宮沢賢治、石川啄木、そして金田一京助の各氏、
そして新渡戸稲造の一族、そして米内光政、原敬・・この各氏ぐらいしか浮かばないのである。

そして、旅立つ一週間前頃から、改めて関しては石川啄木氏のことを思索していた。

私は若き頃、東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年、
大学を中退し、映画・文学青年の真似事をした。
そして、中央公論の『日本の文学全集』(80巻)で、
石川啄木の作品を読んだことがあるが、氏に関してはこの程度の読者であった。

そして手元にある山本健吉・編の『日本名歌の旅』(文春文庫ビジュアル版、1985年)を見ていた時、
近代日本文学・専攻の岩城之徳(いわき・ゆきのり)氏の『歌人 その生と死 石川啄木』を読み、
深く考えさせられたのである。

《・・
明治31年、啄木13歳のとき、
彼は合格者128名中10番の好成績で岩手県・盛岡尋常中学校に入学した。
しかしその後上級学年に進むにつれて、文学と恋愛に熱中して学業を怠り、
明治35年の秋、あと半年で卒業という時期に中学校を退学し、
文学をもって身を立てるという美名のもとで上京した。
しかしこの上京は結局失敗に終り、翌年2月帰郷し病苦と敗残の身を故郷の禅房に養うのである。

啄木は美しい魂とすぐれた才能の持主であったが、
正規の学歴を身につけなかったことは、その生涯を決定する痛ましいできごとであった。
学歴のないために下積みの人間としての悲惨な運命から逃れることは
啄木の才能をもっても不可能だったからであった。
・・
明治41年の春、啄木は北海道の生活に終止符をうって上京、創作生活にはいった。
正規の学歴のない文才の持ち主が社会的に恵まれた地位を獲得する随一の方法は、
東京に出て小説を書いて流行作家になることであった。

北海道時代の彼が異常なほどの熱心さで東京での創作生活にあこがれ、
生活を捨て家族を残してまで上京したのも、
その随一のチャンスをみずからの手でつかもうとしたからにほかならない。
しかしその願いも努力もむなしく東京での創作生活は失敗に終った。
・・》
注)解説の原文にあえて改行を多くした。

このようなことを改めて深く感じたり、
或いは『日本の名歌150首を選ぶ 近代』に於いて、
5名の選者から石川啄木は下記の一首が選定されている。

呼吸(いき)すれば、
胸の中(うち)にて鳴る音あり。
  凩(こがらし)よりもさびしきその音!

                《悲しき玩具》

この5名の選者のひとりである詩人の村野四郎(むらの・しろう)氏が、
解説されている。

《玄人(くろうと)の歌人たちが、啄木の歌を素人(しろうと)筋の歌としてしりぞけることはやさしい。
しかし、あの大衆的魅力の芸術性について語ることは、
そんなにやさしいことではない。

彼は、けっして単純なセンチメンタリストではなかった。
実存意識を日常的な悲哀感によって比喩することの名手であった。

そういう作品は、彼の名歌においても枚挙にいとまない。
この歌にしても、彼の胸中の孤独と寂寥とは、
木枯しの風音によって、素早く諷喩(ふうゆ)されている。

誰でもよく考えれば、その音の寂しさを感じることができるはずなのに、
誰もそれに気付かないか、
それを表現する勇気を持てなかった。

しかし啄木はあえてそれをした。
ただそれだけの話である。
そしてそれが啄木の天分であり、啄木の魅力でもあった。
・・》
注)解説の原文にあえて改行を多くした。

私は村野四郎氏の解説文を数度読み返したりし、更に深く考えされた・・。


このような心情のあった私は、この旅先で、
盛岡駅で、山田線に乗り換える間、
駅構内の一角にある本屋で、啄木の本を探し求めて、購入できたのが、今回の二冊であった。

改めて再読しているが、啄木の人生、そして遺〈のこ〉された作品に、深く思いを馳せている。
そして生前には生活に困窮する中で、これだけの歌を遺され、
死後に多くの人たちから愛読され、やがて名声が高まる軌跡に、圧倒的な感銘させる確かな歌人のひとり、
と認識させられている。


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その昔、ひとりの無名な詩人の死後、やがて宮沢賢治として蘇〈よみが〉えり・・。   

2011-07-27 23:42:44 | 真摯に『文学』を思考する時
私は机の中の引き出しに、一冊のノートがあり、
8月27日 詩人・童話作家の宮沢賢治の生誕の日、と綴られている。
そして、この下段には、
 ==>嵐山光三郎・著の『追悼の達人』(新潮文庫) 最重要
と記している。


私は宮沢賢治が遺(のこ)された作品の多くは、
45年前頃、文学青年の真似事をしていた時代、人並みに読んだりしていたが、
それ程、感銘を受けない人であったが、何かしら気になる人であった。


2004〈平成16〉の秋に定年退職の数年前、
雪の降る時節に、花巻温泉に2泊3日であったが滞在して、
その時に、宮沢賢治記念会館に行ったり、付近を散策し、
遺(のこ)された偉業は実感できたが、何かしに不可解な面が残ったりしていた・・。


その後、2005〈平成17〉年の秋に、
遅ればせながら嵐山光三郎〈あらしやま・こうさぶろう〉・著の『追悼の達人』(新潮文庫)を読み、
私は嵐山光三郎氏に導かれ、私なりに宮沢賢治氏の人生の軌跡を学んだのである。

そして、【 無名な宮沢賢治が亡くなった後・・♪  】
と題して、あるブログ・サイトに、投稿したりしている。

特にこの中で教えを受けたのは、
宮沢賢治は追悼によって世に出た、と読んだ時は驚いたりした。

著作者の嵐山光三郎氏の格調たかい名文を無断であるが、引用させて頂く。

《・・
昭和8年、花巻で無名の詩人が急性肺炎で死んだ。

〈略〉

(宮沢)賢治の死は、詩人仲間の草野心平の手で友人たちに知らされたのみであった。

〈略〉

没後、唯一、次郎社より「宮沢賢治追悼」雑誌が出た。
草野心平が逸見猶吉と企画した同人雑誌「次郎」が形を変えて出版された追悼集で・・・

この薄い一冊の追悼文集に寄り、宮沢賢治への評価の起爆剤となった・・・
・・》


生前の彼は、『春の修羅』、そして童話集『注文の多い料理店』を自費出版したが
まるで出廻らず、殆どの人はこの詩人の名を知っている人は少なかった、
と記載されている。
これは文学的な評価の側面であった。


そして、もうひとつ驚かされたのは、宮沢賢治の人そのものであった。

《・・
賢治は花巻の富豪宮沢商会の息子である。

〈略〉

東京を嫌いつつ東京にあこがれて9回も上京している。
農民を大切にしつつも「農民から芸術は生まれない」と言っている。

〈略〉

理想主義者の裏に「お坊ちゃん」のわががまがある。
それらは賢治文学を理解するうえの条件であり、
賢治もまた矛盾だらけの人間である。
その「教育癖」ゆえに賢治を嫌う人もいる。

〈略〉

賢治にとって、生身の自分がさらされないことは幸運であった。

〈略〉

詩人にとって死は有効であり、虚構に生きようとした賢治は、追悼によって生き返った。
詩人は裏技の魔法を使い、死者をよみがえらせてみせる。
・・》
注〉原文にあえて改行を多くした。

そして、著作者の嵐山光三郎氏は、
いまの日本詩壇に、無名詩人を発掘する第二の草野心平がいるだろうか・・
と結びの文として綴っている。


私は著作者の嵐山光三郎氏の書物については、数多く発刊されているが、
殆ど読んできている愛読者のひとりである。
その上、現存されている作家の中で、圧倒的に感銘を受け、
信頼を寄せている作家の方でもある。


私は俳句を詠(よ)んだり、詩を綴ったりする素養はないので、
やむなく散文で綴っている。

散文の世界といっても、確固たる根拠もなく、
独断と偏見が多い中、屈折した日々の半生を歩んできたが、
拙(つたな)いなりに、表現者のひとりとして、ブログ等に投稿しているに過ぎない。


ときおり、私は宮沢賢治氏を思い浮かべたりする時、
私は定年後の3年過ぎた頃、ブログに準じたサイト【Cafe.OCN】に加入して、
偶然に、ある人の詩を思い馳(は)せる時もある。

私はこの人の詩を2年ばかり読み、感じながら、
励まされたり、表現者のひとりとして喚起されたりしたことがあった。

その人も孤独であると感じ、魂まで響きせながら自己格闘をされる中で、
ときおり、たぐい稀(ま)れ詩を表現する時もある。

http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/pikkipikki

私は無名で無力な年金生活の身であり、
拙(つたな)い感性と感覚の持ち主であるが、
少なくとも、この方からは、私は宮沢賢治氏の遺された作品以上に感銘を受ける時もあった。

尚、私は2年前に【Cafe.OCN】から去って、【gooブログ】に集中させているので、
昨今のこの方の詩は、拝読する機会をなくしているのが本音である。


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松本清張の『講演会』のひとつ、作家の人生経験派、書斎派の文学論を発露、私は学び・・。

2011-07-19 14:00:02 | 真摯に『文学』を思考する時
私は総合月刊雑誌の『文藝春秋』を少なくとも1970〈昭和45〉年の春から購読しているひとりであり、
過ぎし10日に発売された8月特別号を、読みかけていた本を中断して、その日から読んだりした。
もとより月刊誌なので、旬の記事が多いので、優先的に読んだのである。

今回の本誌の中に、特集のひとつとして、『心に灯がつく人生の話』と題され、
今こそ聞くべき名講演10、と副題が付き、作家を中核に10人の方が、
数多く『文藝春秋の講演会』が行われてきた中から、厳選された講演の内容が掲載されていた。

私はこの10名の方が講演で述べられたことを教示されたが、
特に10日近く過ぎた今でも、思考させられているのが、
作家・松本清張〈まつもと・せいちょう〉氏が1987〈昭和62〉年10月31に、
高松市・四国新聞社ホールで語らえた講演の内容である。

氏は菊池寛〈きくち・かん〉氏を信愛していることは周知のことであり、
私なりに少しは理解できていたが、

《・・
〈菊池寛〉・・ともかく人生の裏、人間の裏、あるいは悲喜、哀楽こもごも、
そういったものを全部彼は体験して、そして小説家になっております。

〈略〉

・・菊池寛の小説の作り方、これも大きな教訓であります。
もし私がもう少し早く生まれ、あるいはもう少し早く菊池寛と機縁をもつということがあったならば、
私は菊池先生の門下生になっていただろうと思う。

しかも門下生の中で、もっとも俊英をもって鳴る地位を得たと思う。
というのは、菊池寛の境涯と私の境涯はよく似ている。
したがって、感情がよく似ているからであります。
・・》
注〉本誌の276、278ページ引用。
 記事の原文にあえて改行を多くした。

ここまで松本清張氏が菊池寛氏に深く親愛していたことには、驚かされたのである。


そして松本清張氏は、夏目漱石、芥川龍之介の両氏の文学を語られているのに、
私は幾度も読み返したりした。

《・・
漱石は英文学の大家であります。
その英文学の知識から、小説を作っておる。

〈略〉

菊池寛は痛烈に批判をしております。
〈略〉・・要するに頭で考えたものだ。
非常に気の利いた逆説といいますかパラドックスというんですか、
普通の言葉でなくて、喩〈たと〉えが気が利いている、ということ。

身振りで読者の人気を集めようと試みているにすぎない、と菊池寛は書いている。


芥川・・〈略〉・・みんな書物の書物の上の知識で小説を作っている。
・・
芥川の小説は、絢爛たる文章がちりばめてあるために、
非常に文章の巧緻、機知、そういうものが主体となっている。
芥川の人気は、そういうとこにあると思う。

〈略〉

〈芥川は〉しまいに、自分の将来に不安を持つようになる。
「ぼんやりとした不安」であります。

・・〈略〉・・私は、もう種が尽きたんだと。
まだ年が若うございますから、これ以上生き延びていくのには、
相当な努力をしなければならないのに、すでに才能が枯渇していた。

枯渇の理由は、頭で考えたからであります。
生活から出た経験はひとつもないから。
そうすると、源泉であるところの知識が枯れると、作品も枯れてくる。
・・》
注〉本誌の276、277ページ引用。
  記事の原文にあえて改行を多くした。


このことに関しては、本誌の中で、
この講演を明治大学教授の齋藤孝〈さいとう・たかし〉氏が解説を寄稿され、
この菊池寛と松本清張、そして夏目漱石と芥川龍之介について、
《・・
「人生経験派・リアリズムの菊池寛・松本清張」対「書斎派の夏目漱石・芥川龍之介」
・・》
と短適に明記されていたので、私は感心させられたりした。


私は作家の講演会を一度も拝聴したこともないが、
かの松本清張氏が、ここまで真摯に文学論を発露されたことに、ただ敬服するばかりである。


私は1944〈昭和19〉年に東京郊外の農家の三男坊として生を受けて、
幼年期、家の中には本といえば、
農協から発行されていた『家の光』しか記憶になかった。

その後、小学、中学生の時は、劣等生であり、ただ小学3年の頃から独りで映画館に行き、
映画に圧倒的に魅せられ、これ以降は映画の愛好者のひとりとなった・・。
そして、高校になると、突然に読書に目覚め、小説も乱読し、習作の真似事もした。

この間、映画専門誌の『キネマ旬報』なども愛読し、シナリオにも関心をもち始めて、
シナリオライターになりたくて、大学を中退したのが、1964〈昭和39〉年の秋であった・・。

まもなく養成所の演出コースに入所して、映画青年の真似事をしたりした。
その後は講師の知人のアドバイスにより、小説の習作を書き始めて、文学青年の真似事をした。

そして、契約社員、アルバイトをしながら、習作に励んだりし、
純文学の新人賞に応募したが、最終予選の6編の直前で3回ばかり落選し、
あえなく敗退し、挫折した。

この後、1970〈昭和45〉年にある民間会社に中途入社し、35年ばかり勤めて定年を迎えた身である。


私は民間会社に入社して10年過ぎた1980〈昭和55〉年の頃に、
松本清張・著『半生の記』を遅ればせながら読んだ時、
私は自身が文学青年の真似事をしていた時、
単なる小説家にあこがれて、努力も欠け、うわべの習作だったかと思い知らされたのである。

この『半生の記』は、《・・金も学問も希望もなく、印刷所の版下工として
インクにまみれていた若き日の姿を回想して綴る〈人間松本清張〉の魂の記録である。・・》
と解説されているが、
生活の苦難の中、ひたすら読書を重ねて、真摯に文学をめざした状況を感じ合わせ、
私は甘く考えて対処していた、と大いに反省をさせられたのである。

そして多くの作家が発言している通り、
小説は実社会の体験を程ほどに経験をする必要があり、30過ぎてから・・、
と明言が、私は身に沁み、
若き20代の前半に習作した内容は、単に言葉を並べた散文で、構成力も弱いうわべの習作であった、
実感させられたりした。


私は1970〈昭和45〉年にある民間会社に中途入社してから、
小説を読むことは少なくなり、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などが圧倒的に多く、
定年後の年金生活でも読書が最優先としている。
そして、居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには勤めていた会社が音楽業界だったせいか、音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

しかし、生活費に気にすることのない愛好者のひとりであるので、身も心も楽であるが、
かって若き頃の映画・文学青年の真似事をしていた時代、
アルバイト、契約社員をしながら、ときには本を買うために一食抜いて、お金をためて、
購入して熱読した時もあった。

もとより根気と独創性も欠け、そして才能もなく、ただ熱望した時代であり、
敗退した身であるが、なぜか今の私には眩〈まぶ〉しく懐かしく感じることもある。


尚、昨今に於いて、風の噂によると、
大学の文学部の生徒の中には、夏目漱石の作品を読んだことのない生徒も一部にいる、
と聞いたりすると、
嘘だろう・・そういう人は文学部に入学志望をするはずがない、
と私は商学部を中退した身であったが、深く思ったりしている。


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作家・阿川弘之氏の講演iに於ける発言、文章を綴られる方たちへの銘言、と私は受けとめて・・。

2011-06-12 22:37:24 | 真摯に『文学』を思考する時
先ほど、ネットでニュースを見ようと、
読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を開き、
たまたま読売新聞が主催される『21世紀活字文化プロジジェクト』と題されたサイトにめぐり逢え、
この中で、『読書教養講座』の特設があり、各著名人が講演をされていた内容の記事が掲載されていた。

この中に於いて、私は敬愛している作家・阿川弘之(あがわ・ひろゆき)氏の講演された内容が掲載され、
思わず私は精読した。

この講演の後で、何か質疑応答の内容も掲載され、
私は読みながら、思わず襟を正したりした・・。

この質疑応答は、作家をめざす方はもとより、
随筆(エッセイ)、コラムを綴られる方たち・・文章を綴られる方の必読内容である、
と私は受けとめたりした。

無断であるが、転載させて頂く。

《・・

【質問】 なぜ小説家になろうと思ったのか。

【阿川】 志賀直哉先生の作品を読んで、自分もこういう優れた物語を作ってみたいという気持ちになった。
     志望者が大勢いて自信はなかったが。
     そのことに打ち込み、一生を棒に振るぐらいの気持ちで取り組んできた。


【質問】 どのように文章を磨いてきたのか。

【阿川】 関係代名詞がないなど日本語にはやっかいなところがある。
     明確に、しかもすっきり美しい文章を書くのは非常に難しく、いまだに悩んでいる。
     やはり優れた古典をよく読み、滋養分を吸収しなければならない。


【質問】 自分自身とは全く違う視点から物語を書きたいのだが。

【阿川】 どんな人でも、一生に一つの長編小説を書ける材料は持っている。
     ところが、ただ観念で作った人物が、いろいろな事件に巻き込まれるという話を書いただけでは、
     通俗小説になる。

     芸術作品を志すなら、チェーホフやトルストイ、あるいは鴎外でも漱石でも、
     立派な作家を手本にして、大変な覚悟で勉強する必要がある。

(2007/01/14)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://katsuji.yomiuri.co.jp/kyouyo/entry/20070114.htm
☆【YOMIURI ONLINE】<==『21世紀活字文化プロジジェクト』
     <==、『読書教養講座』 阿川弘之氏の『青春と読書』☆


私は東京オリンピックが開催された1964年に、映画の脚本家になりたくて大学を中退し、
ある養成所の演出科でシナリオの勉学に励んでいた。
こうした授業のひとつに『文学』講座があり、
特別講師として梅田望夫(うめだ・もちお)氏の父上である梅田晴夫(うめだ・はるお)氏から、
私たち生徒は教えを受けたりした。
氏はシナリオ・ライターよりも優れた散文を綴られる随筆家として名をなしていたが、
確か川端康成文学について、私たちは教示された、と今でも記憶がある。

氏はしゃいなで教養に満ち、おしゃれな方で、
たとえ映画の脚本家を志望であっても、
日本文学の作品ぐらいは最低限読んでおきなさい、と遠い廻しに私に言って下さった。

この後、新劇のある長老の方から、
これから映画で生活していくのは益々大変だから、とアドバイスを頂き、
私は高校時代に初めて小説の習作していたので、再びアルバイト、契約社員をしながら、
習作に孤軍奮闘をした。
この間、改めて日本の明治、大正、昭和の作品を精読したりした。

そして、純文学の新人賞の応募に投稿したが、最終予選の寸前で3度ばかり敗退し、
30歳を迎えた時、家庭を持ち妻子を養うことを想像した時、
とても自信がなく、挫折して、やがてサラリーマンの道に転向した。

このように遥か遠い昔に映画、文学青年の真似事をした私は、
今回の阿川弘之氏の質疑応答で発露された言葉の数々は、
たとえ今日であっても、作家をめざす方はもとより、
随筆(エッセイ)、コラムを綴られる方たち・・文章を綴られる方の確かな必読内容である、
と瞬時に感じたりした。

そして、少なからず明治時代からの名作は読まなくては、
人の底知れぬ情念の深淵もない単なるうわべの綴りになるのに、
と余計なことを思ったりしているのである。


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X JAPANの『The Last Song』、小雨舞い降る情景を眺め、思わずを心の中で唄えば・・。

2011-05-29 15:21:44 | 真摯に『文学』を思考する時
東京郊外は、一昨日より『入梅入り』となり、
今朝も朝から小雨が降って、小庭の樹木の枝葉はしっとり濡れ、
先ほど、庭のテラスのはずれで、ぼんやりと空を見上げたりしていた・・。

こうした時、突然に脳裏からひとつの歌が流れて、
私は心の中で唄いだした・・。


♪傷つくだけ 傷ついて 解ったはずの答えを
 どうしてまだ 問いかける

【『The Last Song』 作詞、作曲・YOSHIKI、編曲・X JAPAN 】


私はどうしてこの歌が思いだされたのか、
我ながら、どうしてなの、と少しばかり驚いたりしていた。

この歌は、ロック・グループのX JAPANの最後の頃の名曲であるが、
改めてどうしてなの・・、と私は思い返したりしていた。

私は昼前に、【『究極の節電 昭和の「非電化」製品に人気』のニュース、私は懐かしげに微笑んで・・。】
と題した投稿文を綴ったりしたので、
こうした昭和のことを思いだし、過ぎ去った私の軌跡を思い浮かべたのかしら、と思ったりした。


私は昭和19(1944)年に東京郊外で農家の児として生を受け、
小学2年の時、父に病死され、
東京オリンピックが開催された昭和39(1964)年に大学を中退し、
アルバイト、契約社員をしながら、映画・文学青年の真似事をしたりした。

その後、あえなく挫折し、25歳の時に企業に何とか中途入社し、
35年ばかり音楽業界のある会社に勤め、定年退職した。

私は中学時代の頃からは、表面は明るく振舞っていたが、
心の中で血みどれに自己格闘し、
ときおり確固たる根拠なく自信をもたげて独断・偏見の言動もあり、
ときには卑屈になったりして、屈折した半生でもあった。

このような心の軌跡があるので、
サラリーマンの家で生を受け、それなりの文化に育(はぐく)まれて、
大学を卒業し、大企業で勤めたエリートの人々とは、
最も遠い存在と思ったりしているのである。

このような心情を思い返してか、

♪終らない雨 抱きしめた 夜が朝を向かえる
 心はまだ濡れたまま
 傷つくだけ 傷ついて 解かったはずの答えを
 どうしてまだ 問いかけている

【『The Last Song』 作詞、作曲・YOSHIKI、編曲・X JAPAN 】

このような心の中で唄っているのである。

この心の根底には、つたない私でも命の果てるまで、
確固たる散文のひとつだけを書き遺(のこ)したく、もとより文章修行が必要であるが、
ときには自信が揺らぐ時もある。

多くの作家は、一流の大学の文学部の国文科を卒業しながら、
文学修行して、この中のごく一部が作家として、何とか筆一本の生計が成り立つのが、
ここ50年に多いと思われる。

私は場合は、独りよがりで独学であり、
かって若き日は、30代を迎えた時、とても妻子を養う自信がなく、
早々と敗退宣言をした苦い体験があるが、
現在は年金生活をしているので、生計だけは心配がないだけであり、
かっての感性と感覚の衰えは隠せないのである。


私の最後の目標は、人生と文章修行の果てに、
たとえば鎌倉前期の歌人のひとり鴨長明(かもの・ちょうめい)が、
遺(のこ)され随筆の『方丈記』があるが、
このような随筆のかけらが綴れれば、と念願している。

私にとっては、多少の人生経験を頼りに、
果たして確固たる散文のひとつを遺せるか、自信が揺らぎ、
独りよがりの思い込みをやめて、安楽な年金生活を過ごすことゆだねれば、
ともうひとりの私が誘惑するのである。

こうした迷いで弱気になった時、心の片隅みに揺れ動き、
このような歌が浮かび上がった、と私は苦笑している。


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編集者の達人の大村彦次郎、『ものを書くには、技術もさることながら、生まれついての天稟に負う。』

2011-05-26 18:15:08 | 真摯に『文学』を思考する時
私は数年前に、大村彦次郎(おおむら・ひこじろう)・著の『文壇うたかた物語』(ちくま文庫)を読み、
先ほど、ぼんやりとこの中の一節を思いだしたりしていた・・。


もとより大村彦次郎氏は、
長年『講談社』に勤め、編集の立場、出版社の重責を歴任された方であり、
こうした視線から私の敬愛している数多くの小説家に於いて、
作品から発露されていない言動を知る立場であったので、
私なりの関心があったので深く精読したのであった。


そして編集者と作家の立場の箇所を読むと、
《・・
編集者にとって、作家とは何だろう。
話をしているうちに、なんとなく原稿を書かせたい気分になる相手、
いや黙っていても原稿を注文したくなるような相手、
それが作家の愛嬌であり、魅力である。

銀座通りを素っ裸かであるく覚悟がなければ、小説は書けない、
といったのは、太宰治だ。
ものを書くには、技術もさることながら、生まれついての天稟(てんびん)に負う。
ナルシシズムとある種のマゾヒズム、それがたがいにからみ合って、芸は昇華する。

かって太宰や安吾にのめり込んでいった編集者たちは、
きっとそんな作家の底知れぬ魔力にとり憑かれいったのにちがいない。
・・》
注)ページ208から引用
注)原文にあえて改行を多くした。


こうした部分を読み込むと、私はテラスに下り立ち、
煙草を喫いながら、考え込んでしまうのある。
そして、若き世代で小説家をめざす人、或いは出版社で文藝の編集者をめざす人、
この人たちにとっては哲学書の一冊に相当する集約された明言、と確信をしたのであった。

私は『文壇うたかた物語』を二度ばかり反復するように読んだ限りであるが、
数多くの小説家、編集者の軌跡と言動が明示されているので、
この分野にめざす人の必読書と思い深めたりした。


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小雨舞い降る朝、『城ヶ島の雨』を心の中で唄い、詩人・北原白秋に思いを馳せたりし・・。

2011-05-24 08:29:44 | 真摯に『文学』を思考する時
私は東京郊外の調布市に住む身であるが、今朝6時半過ぎに玄関庭の軒下に下りると、
小雨降っていたので、やむなく樹木の枝葉を洗い清めてくれると思いながら、
煙草を喫ったりしていた・・。

しかし、一昨日の22日の昼下がりまで初夏のような暑さが3日ばかり続いた後、
突然に強い風が吹き荒れ、やがて本降りの雨となり、
昨日の23日は、小雨が降ったりやんだりし10度ばかり気温が低下し、
4月中旬のように気候に戻ったりして、私は戸惑ったりしていた。

早朝に地元の天気情報によれば、
本日は午前中まで小雨が降り、その後は回復して明日の26日までは晴れ間となり、
その後は長らく曇り時々雨となり、ぐずついた日々となります、と報じていた・・。

私の住む地域は本格的な『梅雨(つゆ)』は毎年6月中旬の頃であり、
その前に一時的に長い期間降る序曲のような長雨かしらと思い、『走り梅雨』と解かっていても、
またぁ・・雨かょ、と心の中で思ったりし、小雨舞い降る情景を眺めていた・・。


♪雨はふるふる
 城が島の磯(いそ)に
 利休鼠(りきゅうねずみ)の
 雨がふる

【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】


と私は心の中で唄っていたのである。

♪雨は真珠か
 夜明けの霧か
 それともわたしの
 忍び泣き

【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】


私はカラオケは苦手であるが、ときおり鼻歌を唄ったり、
心の中で唄うことが多い。
このような定年後の日常生活であるが、今日は『城ヶ島の雨』かょ、
と微苦笑である。

私は無念ながら北原白秋のようにこうした詩は、
とても書けないが、あの北原白秋の人生の軌跡も波乱に満ちた人だった、
と思い馳せたりしていた・・。

以前、文藝評論家・河盛好蔵の詩人・北原白秋の評論文を読んでいた時、
《・・
いよいよ旺盛な詩作活動を続けていたが、
明治45年7月、隣家の人妻・松下俊子との恋愛問題のため、
俊子の夫から姦通罪で告訴され、市ヶ谷未決監に二週間拘置、
無罪免訴となったが、深刻な打撃を受けた。

のみならず郷里の家が破産して一家の人々が上京し、
その生活を負担しなければならなくなったために一層困窮した。

大正2年4月、離婚した俊子と結婚。
5月に神奈川県・三崎に転居・・
『城ヶ島の雨』は、このころの作である。
・・》

こうしたことを思い浮かべると、

♪舟はゆくゆく
 通り矢のはなを
 濡(ぬ)れて帆あげた
 ぬしの舟

【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】

私は鼻歌などで気楽に唄えなくなる。

この後は、俊子は肺患療養となり、窮乏の末に、白秋は離婚し、
その後は江口章子と結婚したり、清貧生活の中で詩作を発表したのである。

そして江口章子と離婚してまもなく、佐藤菊子と結婚し、終生つれそった、
と伝えられている。


私の敬愛する作家・嵐山光三郎に寄れば、
《・・
最初の妻はフランス人形のような麗人て、
二番目のの妻は菊人形ような美人、
そして三番目の妻は婚期を逸して三十歳を過ぎ・・

(略)

白秋の名が広く知られるようになったのは、
童謡によるところが大きく、
悪魔的耽美世界から出発した詩人は、少年的抒情世界に転進しました。
これは、ひとえに菊子夫人あってのことで、
菊子との出会いがなければ、糸の切れた凧になって、
白秋は破滅の道を進んだかもしれません。
・・》
と嵐山光三郎・著の『人妻魂』(マガジンハウス)で明記されている。


私は創作者は作品の出来ばえが良ければ、その人の日常の言動は問わぬ、
という哲学じみた暗黙の了解は知っているつもりであるが、
小心者で無力の私さえ、詩人・北原白秋の軌跡に思い馳せる、
と改めてこの人生は大変だなぁ、苦笑したのである。

そして、私はかみ締めるような心の中で読んだりした・・。

♪雨はふるふる
 日はうす曇る
 舟はゆくゆく
 帆がかすむ

【 『城ヶ島の雨』 作詞・北原白秋、作曲・梁田 貞 】


今朝のひととき、雨降る情景を眺めながら、
このようなことを15分ばかり思ったりした。



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つたない私、定年退職直後から年金生活を始めた理由、その後の秘かな目標のひとつには・・。

2011-05-23 18:17:25 | 真摯に『文学』を思考する時
私は1944(昭和19)年9月に、
今住んでいる北多摩郡神代村入間(現・調布市入間町)近くの実家で生を受け、
祖父、父、母、そして父の妹の叔母2人、
長兄、次兄に続いて生まれたので、三男坊として乳児の時を過ごした・・。
敗戦の大戦の一年前の頃であるので、もとより戦争を知らないひとりである。

祖父と父が中心となり、小作人の手を借り、
程々の広さの田畑を耕し、宅地の周辺には竹林、雑木林があった。

長兄、次兄に続いて私は生を受けたが、跡取り候補の男の子は2人いたので、
祖父、父らは3番目は何かしら女の子を期待していたらしく、
私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私はなりに感じ取り、
いじけた可愛げのない劣等感のある幼年期を過ごした。

このした中で長兄、次兄は、優等生であったが、
私は小学校に入学しても、通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生であった。
父が私が小学2年3学期になると、黄疸で長らく自宅治療をした後、
42歳の若さで肝臓が悪化して、病死した。
この後、まもなくして祖父は胃がんで最寄の大学病院で亡くなった。

そして、大黒柱をなくした農家の我家は没落しはじめたのである・・。

母、そして父の妹の未婚の叔母、そして私達の兄、妹の5人の子供が残され、
私達子供は母と叔母に支えられ、そして親類に見守り中で、
貧乏な生活が始まった。

母は私が中学校に入学した1957(昭和32)年の春、
やむえず田畑を売り、駅の近くにアパート経営をしたが、
何とか明日の見える生活となったが、学業に何かと経費を要する5人の子供がいたので、
家計は余裕もなかった。

そして私が高校に入学した1960(昭和35)年の春、
母はラブホテルのような連れ込み旅館の経営に打って出て、孤軍奮闘したので、
私達の生活は何とか普通の生活になった。


幼年期の頃、本といえば、農協の月刊誌だったと思われる『家の光』しかなく、
小学5年の時に都心から引越してきた同級生の家には沢山の本があり、
愕然としたこともあった。
私は都心の私立の高校に通い、
地元から離れ、都心の空気と兄達の影響のない高校であったので、
私なりに純粋に伸び伸びとして育ち、
高校時代になって初めて勉学が楽しくなり、
遅ればせながら読書にも目覚めたり、文学、歴史などに深く興味を持ち、
小説らしき習作を始めたりした。

この後、大学を中退し、映画・文学青年の真似事をし、
幾度も小説新人の応募で最終候補作に漏れ、落胆し、やがて挫折した後、
民間会社に中途会社にする為に、コンピュータの専門学校に学び、
これを梃子(てこ)とした上で、知人の強力な後押しのお陰で、
ある大手の民間会社に中途会社にできたのは、1970(昭和45)年の春であった。

そしてまもなくレコード会社に異動させられて、
六本木にある本社でコンビュータの専任者となり、時代の最先端にいると勘違いしたり、
この間、幾度も恋をしたが失恋の方が多く困惑したり、
結婚後の数年後に若気の至りで一軒家に茶室まで付け足して建てて、
住宅ローンの重みに耐えたりていた。

そして私は30代の後期になると、次兄が自営業していたのであるが、
経済的な理由で、突然に次兄は自宅の布団の中で、睡眠薬を過剰に飲み自裁された・・。

私は援助も出来なかったことを知り、さいなまれながら、
たとえどのようなことがあっても、少なくとも父の死の42歳を乗り越えなければ、
という思いが強く意識した。

この後、私が54歳を迎える頃、レコード業界はピークから下降しはじめ、
各社が合併、大幅な業容の見直し、組織の改定、そして人員整理が行われ、
リストラ旋風となった。
私の勤めていた会社は外資で、早期退職優遇制度と称され退職の奨励、人事異動が行われ、
私も翌年の早春に同じ業界の関連会社に出向勧告をされた。

私は30年近い本社勤務から、出向となり、都落ちの失墜感の中、
家内と退職後の生活設計を改めて話し合い、
定年後の私は年金生活に入り、残された歳月を趣味の時間で過ごそう、と決意した。

私は出向を受けて業界内の関連会社に5年勤め、定年退職日を迎えた。
この間も私の先輩、同僚、後輩の一部の方達は業界から去っていった。


このように私は大手企業のサラリーマンの一部に見られるエリートでなく、
屈折した日々の多い半生を歩み、定年を迎え、
半生記は自慢史が多いと云われているが、私は程遠い存在である。

私は確固たる実力もないくせに、根拠のない自信があり、
感覚と感性は人一倍あると思いながら、独創性に優れていると勝手に思い込み、
ときには独断と偏見の多い言動もしたりしてきた。
そして、ある時には、その分野で専門知識があり優れた人の前では、
卑屈になったりした・・。
このように可愛げのない男のひとりである。


私は定年退職時の5年前頃からは、
漠然と定年後の60代は五体満足で生かしてくれ、
これ以降の70代は余生だと思ったりしている。

昨今の日本人の平均寿命は男性79歳、女性86歳と何か本で読んだりしているが、
私は体力も優れていないが、
多くのサラリーマンと同様に、ただ気力で多忙な現役時代を過ごしたり、
退職後も煙草も相変わらずの愛煙家の上、お酒も好きなひとりであるので、
平均寿命の前にあの世に行っている、確信に近いほどに思っている。

世間では、よく煙草を喫い続けると五年前後寿命が縮じまるという説があるが、
身勝手な私は5年ぐらいで寿命が左右されるのであるならば、
私なりの愛煙家のひとりとして、
ときおり煙草を喫ったりしながら、思索を深め日々を過ごす人生を選択する。
そして、昨今は嫌煙の社会風潮があるので、
私は場所をわきまえて、煙草を喫ったりしている。


このように身勝手で屈折の多い人生を過ごしたのであるが、
この地球に生を受けたひとりとして、私が亡くなる前まで、
何らかのかけらを残したい、と定年前から思索していた。
あたかも満天の星空の中で、片隅に少し煌(きらめ)く星のように、
と思ったりした・・。

私はこれといって、恥ずかしながら特技はなく、
かといって定年後は安楽に過ごせれば良い、といった楽観にもなれず、
いろいろと消却した末、言葉による表現を思案したのである。

文藝の世界は、短歌、俳句、詩、小説、随筆、評論などの分野があるが、
私は無念ながら歌を詠(よ)む素養に乏しく、もとより小説、評論は体力も要するので、
せめて散文形式で随筆を綴れたら、と決意した。


私は若き日のひととき、映画・文学青年の真似事をした時代もあったが、
定年後の感性も体力も衰えたので、
ブログ、ブログに準じたサイトに加入し、文章修行とした。

何よりも多くの方に読んで頂きたく、あらゆるジャンルを綴り、
真摯に綴ったり、ときには面白く、おかしく投稿したりした。
そして苦手な政治、経済、社会の諸問題まで綴ったりしたが、
意識して、最後まで読んで頂きたく、苦心惨憺な時も多かった。


私の最後の目標は、人生と文章修行の果てに、
たとえば鎌倉前期の歌人のひとり鴨 長明が遺され随筆の『方丈記』があるが、
このような随筆のかけらが綴れれば、本望と思っている。


こうして定年後の年金生活の身過ぎ世過ぎの日常生活で、
家内とふたりだけの生活の折、買物の担当をしたり、
散策をしながら、四季折々のうつろいを享受し、
長年の連れ合いの家内との会話も、こよなく大切にしている。

そして時折、何かと甘い自身の性格と文章修行に未熟な私さえ、
ときには総合雑誌の『サライ』にあった写真家の竹内敏信氏の連載記事に於いては、
風景写真を二葉を明示した上で、文章も兼ね備えて掲載されていたが、
このような形式に誘惑にかられ、悩んだりする時もある。

私が国内旅行をした後、投稿文に写真を数葉添付して、旅行の紀行文の真似事をすれば、
表現上として言葉を脳裏から紡(つむ)ぐことは少なくすむが、
安易に自身は逃げる行為をしていると思い、自身を制止している。

そして、言葉だけによる表現は、
古来より少なくとも平安時代より続いてきたことであるので、
多くの人の心を響かせるような圧倒的な文章力のない私は、
暗澹たる思いとなりながらも、まだ修行が足りない、と自身を叱咤したりしている。


そして拙(つたな)い才能には、
何よりも言葉による表現、読書、そして思索の時間が不可欠であり、
日常の大半を費(つい)やしているので、年金生活は閑だというのは、
私にとっては別世界の出来事である。

このような思いで今後も過ごす予定であるので、
果たして満天の星のひとつになれるか、
或いは挫折して流れ星となり、銀河の果てに消え去るか、
もとより私自身の心身によって決められることである。


しかしながら、いつの日にかは命(いのち)果てる時がある。
ある日、川沿いの遊歩道を歩いていた時、
この遊歩道は片側が帯状に小公園となり700メートル前後あり、
樹木、草花が四季それぞれに彩(いろ)っている場所で、
私の散策の好きなひとつのコースでもある。

木のベンチに私は座り、煙草を喫いながら、少し休息をした・・。

この時に、どうした思いが、いつの日にか命が果てる時は、
晩秋の午前のやわらかな陽射しの中、
ポックリと死を迎えられたら本望である、と脳裏をかすめたのである。

この遊歩道で、独りで歩き、
桜(サクラ)、モミジ、ドウタン躑躅(ツツジ)等の朱色を誉(ほ)めたり、
白梅、公孫樹(イチョウ)、コナラ等の黄葉の彩(いろど)る錦繍の中、
木漏れ陽を受け、ときおり舞い散る葉を眺め、
好きな本を抱(かか)えて、突然に命が果てる、といった状況を願ったのである。

5年先か10年先か、或いは数10年先か判からないが、
いずれいつの日にか、命は絶えるのであるが、
亡くなる時は、こうした思いもあることは確かである。


尚、私は葬儀は家族葬とし、死者は土に還るという意味あいから、樹木葬にと、
私達は子供に恵まれなかったこともあり、寺院の墓地は不要である、
とここ6年ばかり家内に云ったりしている。


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阿川佐和子・著の『あんな作家 こんな作家 どんな作家』、創作者をめざす方には、玉手箱でもあり・・。

2011-05-16 16:54:20 | 真摯に『文学』を思考する時
私は一ヶ月前に、たまたま古本屋に寄り、
阿川佐和子・著の『あんな作家 こんな作家 どんな作家』(講談社文庫)が目に止まり、
カバーの裏を読みと、何かしら著名な作家の57名の方にインタビューされた本と解った。

そして、私は『文庫あとがき』を読んだりした。

《・・
本書は1986年初頭から1991年秋まで講談社『IN★POCKET』に連載し、
そののち単行本『『あんな作家 こんな作家 どんな作家』として上梓した
作家のインタビュー記の文庫本である。

1986年初頭といえば、私がテレビの仕事を始めて2年あまり経った頃のことで、
活字の連載はこの『IN★POCKET』の仕事が初めてのものであった。

(略)

作家のインタビューをし、それを自分がまとめ上げるなど、
とうていできるとは思えなかった。・・
(略)
書けない、わからないと、進まない、泣き言を並べる私に対して・・
・・》
注)原文にあえて改行を多くした。

私は昨今、阿川佐和子(あがわ・さわこ)さんは、精力的に多作を発刊されているが、
この作品が活字としては処女作であったと知り、
そして、担当の編集者に、
《・・書けない、わからないと、進まない、泣き言を並べる私に対して・・》
このような時代があったのだ、と私は微苦笑して、
たとえ古本であったも、購入し、精読することにしたのである。


私は阿川佐和子さんの作品は、5冊ぐらいしか読んだことがないので愛読者とはいえないが、
父上の作家・阿川弘之(あがわ・ひろゆき)氏の小説、随筆は私なりに愛読し、感銘を受けたりし、
40数年が過ぎようとしている。

阿川佐和子さんに関しては、一昨年の10月初旬に、
確かNHKのテレビの朝の番組【生活ほっとモーニング「この人にトキメキっ!】に於いて、
出演されて、
《・・
大学を卒業後、人生に彷徨(さまよい)いながら、
テレビの副司会者として起用されたのは、父上の阿川弘之氏からの親の七光り・・
その後は筑紫哲也氏などの番組の副司会者として出演でき、親の七光り・・
ですから親の14光り、かしら
・・》
このような意味合いの言葉を発言されたりし、
私はこのお方の感性に、瞬時に魅了されたのである。

もとより阿川佐和子さんはが多くのエッセイ、小説を発表されているが、
初期の頃は父上の阿川弘之氏の文章の手ほどきを受けたりし、
その後も文章を綴ることの労苦を味わっていたのである。

この番組で、《・・父が母と子供4人を、筆1本で家族を養ったこと・・》
と感謝しながら発言された感覚に、
改めて私は阿川佐和子さんのこれまでの軌跡を思い重ね、
この方の素敵な言葉、笑顔、しぐさに私は魅了され増したのである・。


この以前に、阿川佐和子さんの対談集のひとつ
『阿川佐和子の会えばなるほど ~この人に会いたい 6~』(文春文庫)を購読し、
対談の達人、と私は感じたりしていた。

そして、阿川弘之、阿川佐和子・共著の『蛙の子は蛙の子 ~父と娘の往復書簡~』(ちくま文庫)は、
ここ10年、再三に私は愛読している本でもある。

父は1920(大正9)年、娘は1953(昭和28)年生まれの社会背景の中、
父から娘、娘から父への想いが真摯に綴られている。
父の阿川弘之氏は、戦後の文学風潮の中、小説家としての自己の文学の悩みなど発露され、
敗戦後から平成の8年までの、単なる家族関係でなく、
社会風潮も根底に秘められ、私なりに学ぶことが多いのである。


本書は、カバーの裏に作家の57名の方にインタビューされた内容であるが、
それぞれの作家の発露された言葉・・
創作者をめざしている方には、まるで玉手箱、或いは宝石箱のように、
作家のそれぞれの思いが発露されているので、未読の方は必読書と私は確信する。

推薦した責務を感じるので、映画の予告編のように、少しだけ引用させて頂く。


【杉本苑子(すぎもと・そのこ)】
《・・
作者・杉本苑子さんは、『滝沢馬琴』の作品を書き上げて、
昭和53年に吉川英治文学賞を獲得した。

「馬琴には非常な弱さと強さが共存している。
矛盾撞着(どうちゃく)したものが、めぎあっていた人ですよ。
自尊と卑下との間で、揺れ動くような感情の持ち主だったですね」

自分の書いたものが恥ずかしいと思うと同時に、誰にも侵させないという自信もある。
それは作家というものに共通する特徴だとおっしゃる。
自己満足やうぬぼれの傾向が強い反面、ひどい自己険悪感を持っている。
・・》
注)原文にあえて改行を多くした。


【澤地久枝(さわち・ひさえ)】
《・・
「原稿を書くときは、いつもアーアって後悔しているの。
なんでこんな分相応なテーマを選んじゃったのかしら。
もう二度と大変なことはしないぞって決心するわけです。
でも気がつくと、またやっているのね。
その繰り返し」
・・》
注)原文にあえて改行を多くした。


このように創作者の根底にある本情を発露し、
阿川佐和子さんは、57名の作家にインタビューされ、
担当の編集者に、
《・・書けない、わからないと、進まない、泣き言を並べる私に対して・・》
苦心惨澹しながら、纏(まと)め書き上げたのが本書でもある。

尚、余談であるが、
阿川佐和子さんが、著名な作家にインタビューすることができる機会、出版の機会も、
父上の阿川弘之氏の賜(たまわ)りと思える。
しかしながら、何とか創作者の秘められた心情も数多く学びながら、
そして父上の秘かな期待にも応(おう)じられたのが、
もとより阿川佐和子さんであり、功績でもある。


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山田 順・著の『出版大崩壊 ~電子書籍の罠~』、私は日本の電子書籍の実態を学び、憂い・・。

2011-05-09 16:44:48 | 真摯に『文学』を思考する時
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
過ぎし4月20日に、ここ6年ばかり愛読している藤原正彦(ふじわら・まさひこ)氏の作品、
新たに『日本人の誇り』(文春新書、書下ろし)の発売日と知り、
駅前の本屋に出かけて、買い求めたのであるが、
この書棚の並びに『出版大崩壊 ~電子書籍の罠~』と題された文春新書の一冊があり、
私はタイトルに魅せられ、思わず手に取った。

そして著作者の山田順(やまだ・じゅん)氏は、私は未知の方であったので、
氏のプロフィールを読み、長年に出版社の光文社でご活躍された方と知り、購入した。

http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784166607983
☆【文藝春秋】ホームページ <==【文春新書】
              <==山田 順・著の『出版大崩壊 ~電子書籍の罠~』、☆

氏は圧倒的な筆力で、現状の出版社、卸店、書店、作家などの実態、
そして電子書籍をめぐり著作権などを含めたの現状の問題を含めて、多々教示された・・。


私は1964(昭和39)年の東京オリンピックが開催された頃、
大学を中退し、アルバイト・契約社員などに従事し、
映画・文学青年の真似事をしたりした時期があった。

確かな根拠はなく自信ばかりで、純文学の新人コンクールに応募したりしたが、
当選作の直前の最終候補作の6作品に残れず、三回ばかり敗退し、もう一歩と明日の見えない生活をしていた。
結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ安定したサラリーマンの身に転向し、
35年ばかり身過ぎ世過ぎのサラリーマン生活をし、2004(平成16)年の秋に定年退職を迎えた。

このように、拙(つたな)く苦闘しながら敗退した私の軌跡があり、
ここ30年ぐらいは殆ど小説を読むことなく、
随筆、ノンフィクション、近代現代史などの読書が多くなっているが、
何かしら小説の世界で創作者をめざして、孤軍奮闘する30、40代のお方には、
思わず敬意してしまう習性がある。


昨今、電子書籍のブームと知り、才能のあると思われる方は電子書籍の世界で、
純文学、中間小説の文藝作品を世に問えやすいかしら、と私は感じたりしていた。

ただ危惧することは、従来の編集者のまなざし、アドバイスを受け、第三者の怜悧な視線で指摘されない限り、
独りよがりの作品となり、読者にも感動すら与えることが出来ない創作となることが多く、
たとえ発信しても、読んで下さる方が少なく、地球の彼方に消えてしまう、
このような思いで私は過ごしてきた・・。


今回、本書を読み終わった後、
私は高校生以来、何よりも読書を出来うる限り最優先としてきたひとりとして、
氏の導きで、現状と近未来を学び、愕然とし、ここ一ヶ月は憂いの日々を過ごしてきた。

たまたま私は、音楽業界のあるレコード会社の管理畑に35年ばかり過ごし、
氏の第11章の『コンテンツ産業がたどった道』で明確的に指摘された通り、衰退の体験をした身を重ね、
出版業界の現状、そして近未来を学べば学ぶ程、憂愁な心情であった。


何よりも驚き、深くため息をさられたのは、
日本に於ける電子書籍をとりまく現状であった・・。

第6章の『日本市場の特殊性』に於いて、
《・・日本の電子書籍の売上げを支えているのは、ほとんどがケータイ配信なのである。・・》
    (略)
 ケータイ向けの電子書籍のジャンルを、電子コミック、電子書籍(文芸系)、電子写真集の3つに分け・・
 圧倒的にマンガしか売れていない・・
 
 ケータイで配信される電子コミックは、全配信の83%を占めている。・・
 この電子コミックをジャンル別にして・・
 上位3つが成人用コミック、ボーイズラブ、ティーンズラブであり、
 いずれもエロ系コンテンツなのである。・・
 ・・(略)・・
 日本では電子書籍は、20代向けのエロ系マンガが圧倒的に主流である。
 しかも、それを担う電子書籍端末が、ほぼ携帯電話だという点は、
 アメリカとはまったく違う点である。
・・》

私は携帯電話が使えないので、もとより無知である上、
成人用コミックは想像できるが、ボーイズラブ、ティーンズラブは不明であった。

氏の解説によれば、
《・・
BLというのは、ホーイズラブ(Boys Love)の略。
つまり、男同士の同性愛を題材としたマンガで、主に10代の少年(特に美少年)同士の間の恋愛を描いたもの・・

TLは、ティーンズラブ(Teens Love)の略で、
・・主に10代の少女の恋愛マンガ・・

恋愛マンガといっても、ほとんどがセックス中心のストーリーであり、
ときにはレイプや近親相姦、援助交際も描かれている。
どちらも、読書はほとんど10代後半から20代の女性・・

「いまの市場で、BLやTLなどの女性向け以外のコンテンツが売れるなんて考えられない・・」
・・》

こうしたことは、私は仰天させられたのである。
その上、何よりも落胆させられたのは、

《・・
ケータイ小説も同じだ。
ケータイマンガもケータイ小説も、それを支えているのは7割が女性で、
はっきり言って、本などほとんど読んだことがない若者たちである。
・・(略)・・
この分野は、作家のネームバリューなんて関係ないし、ストーリーが幼稚でも関係ない。
いま、ケータイコミックを読んでいるのは、本屋なんかにめったに行ったことがない子たち。

だから、大作はダメ。スポ根ものもダメ。教育ものなんて、もっとダメ。
BLやTLに尽きる。
それから、読者は20代の女性だから、劇画はダメ。・・
・・》

こうしたことには、私は驚き、ため息をしたのであった。


私の20歳前後は、血気盛んな若者だったので、
総合月刊雑誌の『世界』から週刊誌の『平凡パンチ』までの広範囲を読んだりし、
小説の世界は純文学、中間小説を読んだりし、ときには妖艶な好色本も読んできた。
もとより本屋に行き、買い求めたりしてきた単行本、文庫本、雑誌であった。

あの頃の私たちの世代は、教養を高めようと、少し背伸びした本も小脇に持ち、
盛んに悪友と同世代の女性と、
あの本は・・、あの作家は・・と喫茶店などで議論を重ねていた・・。

たとえ時代が大きく変貌しょうと、青年期は大人の一歩前の貴重な時代であり、
自身のために教養を高めるのが、若者の命題のひとつでもあるのに・・
と私は昨今の若者の一部に失望したのである。


この本書で私は心の深淵まで学んだのは、氏の長年の編集者の体験をした発露のひとつ、
《・・
私の経験から言うと、
作家志望者のほとんどが実際には印税や名声を望んでいるだけである。
彼らが作品を書くのは、それを得るための手段に過ぎない。
ほとんどの作家志望者は、社会に伝えたい明確なメッセージや思想を持っていないし、
それを裏付ける経験もない。
・・》
このように明言され、今後も創作者をめざす人には、貴重な哲学のような銘言である。

そして、私の若き頃に文学青年の真似事をし、敗退した体験もあったので、
深く受けとめている。


このように私は本書から多々学びながら、憂愁な日々を過ごし、
こうした思いをこのサイトに投稿しょうか迷い、ためらいながら、過ごしてきたが、
やはり心の発露をしなければ、私の心に魚の骨が突き刺さったようなので、
今回投稿したのである。


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文学の道を夢見る39歳の女性の『人生案内』の記事を読みながら、私は微苦笑させられ・・。

2011-02-27 22:37:27 | 真摯に『文学』を思考する時
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
今朝、いつものように読売新聞の朝刊を読んでいて、思わず精読させられた記事があった。

21面の『くらし』に掲載されている『人生案内』で、

《 文学が夢、楽な仕事望む公務員 》

と題された『人生案内』の問いあわせされた方の見出しであった。

私も若い時に文学青年の真似事をした時期もあり、挫折した体験があったので、
心痛に思いで読んだりしたのである・・。

たまたま、この記事と同一が読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】にも掲載されているので、
無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・
        文学が夢、楽な仕事望む公務員

39歳独身女性、地方公務員です。
電子化が進んで効率がよくなるはずなのに、なぜか仕事量は増えて苦しくなっています。
これではまるで映画のチャプリンです。
勤務態度を定めた接遇マナーも厳しくなるばかり。
まさに管理社会といった感じで、萎縮してしまいます。

私の夢は文学の道に進むこと。
読書や執筆の時間を増やしたいので、勤務日数や仕事量が少なく、難易度も低い職に就きたいのです。
けれど今の仕事を一度辞めてしまうと、
もう職は得られないのでは、という不安もあります。
辞めても賞は取れず、仲間もなくて引きこもる無職の自分が見える気がします。

親も公務員を辞めるのには反対で、
「仕事をしながら書くのでは駄目なのか」
「今は文学で食っていける状況じゃない」と言います。

でも、仕事が忙しくて消耗し、自分の趣味を侵食するような生活は、
しんどい。公務員を辞められないなら、せめてサボれる仕事をしたいです。
     
                              (I子)

回答に応じられた方(高橋 秀実・作 家)

実際に作家生活をしている私から言わせていただければ、
文筆業で生計を立てるのは極めて難しい。

原稿料は安いし、本の印税も微々たるもの。
ひたすら書き続けるしかなく、毎日締め切りに追われます。

職場が「まるでチャプリン」とのことですが、私などは頭の中が常にチャプリン状態で、
あなたのように職場のせいにできないので、自分で自分を追い詰めることになる。
クレームもじかに来るし、あなたのように萎縮する余裕もありません。
比喩ではなく本当に明日をも知れぬ我が身なのです。

お手紙を読む限り、あなたの文章からは
「楽な仕事で趣味を楽しみたい」という安易な思いしか伝わってきません。

これは公務員の心得としてもゆゆしき問題だし、
単なる愚痴話としても相手にされない内容で、これでは文学にはなりません。

本を買っていただくなど人を動かしてこその文学で、
今のあなたの文章にはその片鱗(へんりん)さえ見えません。

この際、職場の実態を作品のネタとしてじっくり観察してみてはいかがでしょう。
文学修業のつもりで。
そしてあなた自身のことも「いまだ夢見る39歳」として冷静に掘り下げてみては。

(2011年2月27日 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


『人生案内』に寄られた39歳の独身女性で、地方公務員に勤務する方であるが、
つたない私からしても、このお方の勤務に望む言動は甘い。

まして文学の道をめざす人は、もとより生活を含めた確固たる覚悟が必要であるし、
その上、余りにも昨今の数多く作家、出版社を取り巻く環境は烈風も十二分に配慮した上で、
初めて文学に挑戦の道と私は感じたのである。

この相談された方は、うわべだけの単なる文学の道を夢見る39歳の甘ちゃんの女の子、
と私は瞬時に感じたのである。


私自身のことであるが、文学青年の真似事をした時期、挫折した体験、その後の人生の軌跡、
そして文学に対する今後の思いなどは、このサイトに於いて幾たびか投稿してきたが、
この中のひとつとして、

【 我が心の発露は、言霊(ことだま)の力を何よりも信愛し・・。】

と題して、昨年の2010年11月16日に投稿していたが、今回あえて再掲載をする。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であり、
中小業の民間会社を2004(平成16)年の秋に定年退職して、まもない時にブログの世界を知った。
そして私は、ブログ、ブログに準じたサイトに加入して投稿をし初めて、6年目となっている。

私は定年直後から年金生活を始めたのであるが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことを表現する手段として、
写真に関しては高校時代に写真部で風景を専攻していたが、
やはり心の中の思いを発露するには、何より言葉の力を信じて投稿してきたのである。

古来、日本は人々の会話の伝達の時代が過ぎた後、
少なくとも飛鳥の時代から言葉を綴り, 日記、随筆、小説、詩、短歌、俳句、
川柳などは文字で表現してきたのである。

そして、その時代なりに数多くの人々により、
心を思いを満天の星空のように、数多くの遺(のこ)されて、現世に至っている。

私は確固たる根拠もないが、私なりの拙(つたな)い感性と感覚を頼りに、
随筆であるエッセイ風、そしてコラム風に綴ってみようと、投稿文としている。

その日に応じて、簡単に言葉を紡(つむ)ぐ時もあれば、
言葉がなかなか舞い降りてこなくて、苦心惨憺とすることも多いのである。

このような時、言霊(ことだま)に対して自己格闘が甘いのかしら、
或いは幼年期からの甘さの多い人生を過ごしてきたから、
このような拙(つたな)い文章を綴るしか表現が出来ない、
と深刻に考えたりすることがある。

このような時、私は文章を綴ったのは、少年期の何時頃であったのかしら、
そして、その後は・・と拙(つたな)い我が身を振りかえることがある。


私は1944(昭和19)年に、東京の郊外の農家の三男坊と生を受けた。

初めて文字を書いたのは、小学校に入学したからだった・・。
この頃は、私の住む村では幼稚園が出来たのは、私が小学校3年頃だったと思う。

私は最寄の託児所で2年ばかり通い、小学校に入学したが、
託児所は、文字などは教えることのない時代で、礼儀作法、お遊戯で過ごしていた。

小学校に入学すると、『こくご』の授業で初めて、文字を覚え、
真っ先にひらがなで、私の名前を升目の大きなノートに書いたりしていた。

そして、ひらがな、カナ字、そして漢字を学び、
3年生頃から『さくぶん』の授業で、今の時代で云うと粗雑な藁半紙(わらばんし)で書かされたのである。

この頃に家にある本と云えば、
農協の発刊する『家の光』ぐらい記憶していなかったので、
小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
書棚に本が並んでいたを見たときは、
子供心でも眩暈(めまい)を感じたのである。

夏休みには、宿題として作文があったが、苦手な私は苦心惨憺で綴ったのは、
今でもほろ苦く覚えている。

私が都心にある高校に入学してから、
突然に読書に目覚めて、高校二年の夏に小説の真似事の原稿用紙に習作をした。


東京オリンピックの直前に、私は大学を中退し、
映画青年、文学青年の真似事を4年ばかり過ごした。

養成所の講師から、ある月刊誌の記事の取材、下書きを分けて貰い、
ノンフェクション・ライター気取りで取材し、指定された原稿用紙に綴り、
講師に手渡し、幾ばくかの金銭を受けたりしていた。

そして、ときおりシナリオとか小説の習作していた。
私は確固たる実力もないくせに、根拠のない自信があり、
感覚と感性は人一倍あると思いながら、独創性に優れていると勝手に思い込み、
独断と偏見の多い言動もしたりしてきた。

こうした中、純文学、中間小説の新人賞に幾たびか応募したが、
最終候補の6作品に選定されず、落胆をしたりしていた。

ある年のお彼岸の懇親の折、親戚の小父さんから、
『30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤され、私は30代の頃を想像し、とても妻子を養う自信も失くし、
明日のみえない文学青年の真似事を断念した。

この後、大手の企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校のソフト・コースに一年通った後、サラリーマンの一員となった。


私はこの地球に生を受けたひとりとして、私が亡くなる前まで、
何らかのかけらを残したい、と定年前から思索していた。
あたかも満天の星空の中で、片隅に少し煌(きらめ)く星のように、
と思ったりしたのである・・。

私はこれといって、恥ずかしながら特技はなく、
かといって定年後は安楽に過ごせれば良い、といった楽観にもなれず、
いろいろと消却した末、言葉による表現を思案したのである。

文藝の世界は、短歌、俳句、詩、小説、随筆、評論などの分野があるが、
私は無念ながら歌を詠(よ)む素養に乏しく、もとより小説、評論は体力も要するので、
せめて散文形式で随筆を綴れたら、と決意したのである。

私はブログのこのサイトに於いて、
今後も随筆らしき散文、或いはコラムを綴り、投稿文を重ねながら文章修行している。

私の最後の目標は、残り許される歳月は今としては不明であるが、文章格闘の果てに、
たとえば鎌倉前期の歌人のひとり鴨 長明が遺され随筆の『方丈記』があるが、
このような随筆のかけらが綴れれば、本望と思っている。

こうした中でも、何よりも想像力の感性、独創性ある文体が必要とされるので、
果たして・・と思いながら、年金生活の身過ぎ世過ぎの中、過ごしている。
・・】

このように若き日に文学青年の真似事をし、敗残記でもあるし、
今後の死するまで意欲宣言でもある。


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創作者は自身のゆらめく魂を削りながら、孤独さえ友とし・・。

2011-01-06 18:35:46 | 真摯に『文学』を思考する時
私は東京郊外に住む年金生活の66歳の身であるが、
2008(平成20)年の12月の下旬に、北海道の札幌市に私達夫婦は4泊5日の滞在旅行をした。
この時、午前中のひととき中島公園にある『北海道文学館』を訪ねた時を思い馳せた・・。

この時の鮮烈な印象については、私は下記のようにメモ書きしていた。

【・・
『北海道文学館』が中島公園の付近にあると知り、
私達は地下鉄の駅でたったひとつ先の中島公園に向った。

公園は冬木立の中、積雪15センチばかりの清々しい景観で、
この一角に『北海道文学館』が見えた。

http://www.h-bungaku.or.jp/
☆『北海道文学館』ホームページ☆

私は館内をゆっくり廻り、やはり真摯に文学を表現する同人雑誌が多いのに注視したりした。
この後、受付の横にある即売コーナーで、
『北海道文学百景』とを題された一冊の本に魅せられ、購入した。
北海道文学館設立20周年記念として、北海道文学館が編集され、
昭和62年(1987年)5月30日発行と表記されていた。

私が何より魅せられたのは、道内の各地を基軸とし、
小説・随筆、短歌・俳句、そして詩が2ページで掲載されていた。
例えば,『小樽』であったならば、
右ページに上段が小樽の景観の写真、下段が伊藤 整の『若い詩人の肖像』、
左ページに上段に小樽を詠んだ歌人、俳人の短歌、俳句、
下段がひとりの詩人の詩が掲載されていた。

こうした道内の各地百景で編集されており、
私はたった定価2000円で北海道の代表的な文学に触れ、
そして各地の古来からの伝統美にも鑑賞できるので、
私のような道内が殆ど無知な人にとっては、最適な入門書の一冊と確信したのである。

(略)
・・】

私は、帰宅後に布団の中で読んでいたのであるが、
ひとつの詩を読みながら、思わず涙を流し、首に巻いたタオルで
頬をぬぐったりしたのである。

私は詩に関しては、無知であり、単なる私のつたない感性と感覚を頼りに
読んでいた・・。

無断であるが、転載をさせて頂く。


     立待岬               
                      作・三吉良太郎

ぼうぼうと草原に風はなびき
風をかきわけて少年は草の中をゆく
蒼々と広い空間にそれは影のようだ
しかも、海につき出た天と地の間の時間

ようやく突端にでて
身体(からだ)をささえるほどの石にすわれば
風はまっすぐに身体をぬけてゆき
目は流れる潮をのりこえて天につらなり
耳も、岩頭にくだける波とともに海に沈む

塩辛い霧は湧きあがり
少年は霧と風にぬれてじっと立っている

(後略)


この前後に、立待岬は函館山の東端の岬で、断崖を津軽海峡の波濤が洗う所、
と解説されていた。

私はこの後、この詩を詠まれた作者の略歴を読んだりしたのである。

三吉良太郎(みよし・りょうたろう)
詩人。明治40年、弘前に生を受け、昭和33年、函館で死去。
大正8年から函館に居住。
掲示作は詩集『虹の門標』(昭和30年、土曜詩学社)

このように紹介されていたのであるが、
このひとつ詩からは孤独を直感し、純粋な少年の魂の孤独を感じたのである。


このように思いながら、私は涙があふれた後、
ブログに準じたサイトで、ひとりのお方に思いを重ねたのである。

この人は中年男性の方と私は感じているが、
安楽な身過ぎ世過ぎの世渡りを軽蔑しながら、
烈風に立ち向かうように、自身の純粋な魂にもとづいて言動を重ね、
あえて苦難の多い職務に従事しながら、ときおり詩を投稿している人である。

http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/pikkipikki

私は1964(昭和39)年の東京オリンピックが開催された頃、
大学を中退し、アルバイト・契約社員などに従事し、
映画・文学青年の真似事をしたりした時期があった。

確かな根拠はなく自信ばかりで、純文学の新人コンクールに応募したりしたが、
当選作の直前の最終候補作の6作品に残れず、三回ばかり敗退し、もう一歩と明日の見えない生活をしていた。
結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ安定したサラリーマンの身に転向し、
35年ばかり身過ぎ世過ぎのサラリーマンをし、定年退職を迎えた。

このように、拙(つたな)く苦闘しながら敗退した私の軌跡があるので、
何かしら創作者をめざして、孤軍奮闘する30、40代のお方には、
思わず敬意してしまう習性がある。

この後の私は、創作者は自身のゆらめく魂を削りながら、孤独さえ友とし、
心底から発露できる人しか資格がない、と思ったりしているのである。
そして、こうした人こそ芸術家とよぶのに相応しい、と確信したりしている。

このようなことを私は、ぼんやりと思い馳せていた。


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三島由紀夫、松本清張の両氏が対談し、この後の酒席の状況を夢想したならば・・。

2010-11-25 22:33:41 | 真摯に『文学』を思考する時
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
先ほど、【作家・三島由紀夫が自裁された昭和45年のこの日、私は青年期の終りを確実に感じ・・。】
と題して、このサイトに投稿した後、
ぼんやりと亡き三島由紀夫、松本清張の両氏が対談したならば、
どのような文学の話をされるのだろうか、と思ったりした・・。
そして、この後の酒席の状況となったならば、どのようなことを話されたのであろうか、
と夢想をした。

もとより私の知る限り、生前の三島由紀夫、松本清張の両氏が対談はなく、
互いに避けていたのだろう、と私は感じたりしている。

しかし酒席とならば、出版社の配慮で、秘かに一席設けられたと想像した時、
私はひとつの夢想を重ねたりした・・。


都心の高級な居酒屋の奥まった18畳ぐらいの部屋で、
亡き小説家の三島由紀夫、松本清張の両氏が酒席を共にし、
出版社の編集者の40代の方と出版担当の取締役の5人が隣席している。

この時、どうした訳か判らないが、
私は末席で小さくかしこまりながら、弐合徳利を傾けながら呑んでいたのである。

この後、三島由紀夫、松本清張の両氏が互いに罵(ののし)りあい、
『男の中の男の見本のようにふるまっているが、貴様は男の中のくずだ・・』
と松本清張が三島由紀夫に云ったのである。

隣席にいた出版社の諸氏は、驚きあわてふためいたが、
更に松本清張は三島由紀夫に云い放ったのである。
『小説が書けなくなったと悩んだ上、世間のことも判らない若き青年を集めて親衛隊を結成し、
その挙句・・道連れにしやがって・・』
と怒号のように云ったのである。

三島由紀夫は青ざめたまま黙っまま、反論する余裕もなかったのである。

出版社の諸氏はもとより私も動転したまま、しばらく呆然とし、
『先生・・今日はこれまでと・・いたしまして・・』
と出版担当の取締役は、松本清張を制しながら云ったのである。


私はこのようなことを夢想したのである。

私が夢想といえども、少しは根拠があると思ったりした。


私の記事を切り抜いた記事を数多く保存しているが、
私は夜の7時半過ぎに、ひとつの記事を眺めたりしていた。


昨年の2009年9月中旬に、読売新聞の朝刊の文化面に於いて、
【太宰と清張 生誕100年】が連載で掲載され、この中の一部を私は切り抜いて保存していた。

この保存した記事を無断ながら、転記させて頂く。

《・・
(略)
・・1964年、中央公論社(当時)が企画した80巻の全集「日本の文学」から清張が外れる“事件”があった。

当時、同社で清張担当だった宮田毬栄(まりえ)さんによると、
編集委員の三島由紀夫は
「清張には文体がない。文学じゃない」と収録に強く反対。

容認派の川端康成、谷崎潤一郎委員を押し切った。
清張は激怒した。
「高等小卒の清張にとって、本は学校。
中でも全集は、最も輝かしいものだったでしょう。悔しさは計り知れません」(宮田さん)。
・・
(略)
(2009年9月8日 読売新聞)
・・》

注)記事の原文に対し、あえて改行などを多くした。


私は中央公論社の80巻の全集「日本の文学」に関しては、
この当時、次兄が駅前の本屋から定期購入し、私の方が先に精読し
日本の近代・現代の文学として、あますところなく読んだひとりである。

この時になぜ松本清張は選ばれなかったのか、疑問に思ったひとりである。
少なくとも、、『西郷札』、『或る「小倉日記」伝』の作品は、
たとえ他の小説家の作品と共に、一冊の本として編集されてもよいのではないか、
と思ったりしていたのである。

この記事を初めて読んだ昨年の9月8日に於いて、
編集委員の三島由紀夫が、
《・・容認派の川端康成、谷崎潤一郎委員を押し切り、
「清張には文体がない。文学じゃない」
と収録に強く反対・・》
と私は初めて知ったのである。

私は三島由紀夫に関しては、家柄もよく、文学少年が文学青年となり、
純粋に文学の道を歩まれ、やがて文壇の寵児として出版社から奉(たてまつ)られ、
やがて読者にも伝わり、読者層を増やしたスター小説家と思ったりしている。
そして、他者からの批判を何より嫌う人で、青年のままに死去された人と感じている。

三島由紀夫の一番の欠点は、他の小説家の作品を小説家自身の軌跡や心情で険悪し、
判断するきらいがあり、大人になりきれない批評眼である。
もとより、作品の良き悪きは、たとえ小説家自身の信条なく、作品次第である。


このように私は確信していたので、つたない脳に蓄積され、
この中の一部が事実と異なり脚色されて、現実ではありえない夢想となったのかしら、
と思ったりしたのである。

余談であるが、想像力が欠如したならば、
小説の作品はもとより、たとえ随筆ひとつにしても綴れない、と私は思っているひとりである。


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真摯に創作をめざしている方・・、角川春樹(かどかわ・はるき)氏の銘言のひとつには・・。

2010-11-24 21:53:30 | 真摯に『文学』を思考する時
私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
日頃は読書が好きで、小説、随筆、ノンフェクション、現代史などを乱読するひとりである。

先ほど、私の切り抜いたひとひらの新聞の記事を見つめていた。

私は何かと気に掛かる記事を新聞、総合月刊雑誌などから、
切り抜いて整理箱と称した茶色の箱に入れている。

たまたま夕方、この中の数多く切り抜いたのを整理して、
今として不要な記事は捨てようとしていたのである。

この中の一枚は、しばらく読み返していたのである。

一昨年の2008(平成20)年12月16日の読売新聞の夕刊に於いて、
当時、『文化 こころのページ』で、
この中で月に2回ほど連載されている特集があり、【魂の一行詩】であった。

俳句を詠まれ、投句された方たちの選定、講評を俳人でもある角川春樹氏が担当されている。
私は無念であるが俳句、短歌を詠む素養はないが、
ときより読むのが好きなひとりでもある。

このコーナーで、何より魅了されるのは、角川春樹氏の序文である。

今回の記事にも、一句詠まれた後、いつものように格調高い文章を綴られている。


《・・

   花あれば 寂寥(せきりょう)といふ 詩の器

                    角川春樹

西行であろうが、実朝であろうが、
万葉集に遡(さかのぼ)れば大伴家持であろうが、
俳諧の芭蕉であろうが、
近代短歌の釈迢空に到(いた)る、古代から現代まで、
詩人は孤独の中で詩を詠みつづけてきた。

寂寥感は常に詩を生みだす根源である。
「永遠の今」を詠む時間意識も、
宇宙の中のたった一人の自分という認識があってのことである。

・・》

無断であるが、掲載させて頂いた。
注)原文より、あえて改行を多くした。


私は、《・・古代から現代まで、詩人は孤独の中で詩を詠みつづけてきた。
寂寥感は常に詩を生みだす根源である。・・》
こうした言葉の前に於いては、思わず襟を正してしまう。

こうした歴然とした言葉を、再び心の中で呟(つぶや)いて、
そして、深く読み返したりし、学んだりしているのである・・。


私はあるサイトに於いて、2007(平成19)年の5月末頃、
【 角川春樹氏は、豪刀のような人・・♪ 】と題し、と投稿したことがある。

やはり、読売新聞に於いて、【魂の1行詩】を読んだ後、
感銘を受けて私は投稿文として認めたのである。

【・・
角川春樹氏が一般の詠まれた俳句を選定され、特選された句には講評を明記している。

何時ものように、序文を表記されているが、
特に昨夜に明示した内容は、武士の刀で表現したなら、
造作に似た平穏時の観賞用に似た刀でなく、
まさに戦場で肉を切らせて骨を絶つ豪刀に感じたりした。

無断であるが、俳句に対する真摯な深い思いが、
熱く感じる鑑(かがみ)のような名文であるので、あえて転記をさせて頂く。

《・・
陶芸家の北大路魯山人は、「平凡と傑作は紙一重だ」と言ったが、
それを決めるのは鑑賞する人間の力量である。

句会に出席して感じることは、選者の力量の無さである。
概して、傑作を平凡と感じてしまう。
さりげないながら内容の深い句は、句会では見落とし、句集になって気づく、
ということもある。

しかし、プロともなれば、作品は勿論のこと、鑑賞力が必要だ。
だが、専門俳人の器量が狭く、たかが知れた自分の身の丈でしか計ることが出来ない。
良い1行詩を創ろうとするならば、真贋を見抜く選句力が重要である。
・・》

以上、無断であるが、転記させて頂だいた。


このことは俳諧に留まらず、純文学、短歌、詩などにも適合することと思っている。
中々、明記し難いことばであり、
それだけ角川春樹氏の俳人としてもとより、出版社の経営、映画プロデューサーなどを体験されて、
少なくとも俳人としても熱き深い思いが伝わってくる。

まさに、余人に変えがたい発露された銘言と私なりに感じ、
そして私は、しばらく溜息をしたのは事実である。
・・】

私はこのように拙(つたな)い綴りで投稿したりしていた。


ここ数年、私なりに数多くの随筆などで拝読した限りであるが、
その人の思想なりを明確に断言して発露させる人の中で、
私が圧倒的に深く感銘している方は、角川春樹と作家の嵐山光三郎、両氏となっている。


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