当時のモトローラは、ベル研究所がセルラー・コンセプトを発表して、自動車に無線機を積んでどこからでも電話できる、と言い始めた時に、いち早く、このシステムを進化させて一人ひとりが電話機を持ち歩けるようにする、と言い始めて、携帯電話に投資した会社であり、無線の世界の巨人だった。モトローラは携帯電話端末で世界トップシェアで会っただけでなく、ページャ(ポケットベル)でも世界トップシェア、更に無線データシステムでも独自のシステムを開発して世界に売り込むという、無線技術の世界では世界で断トツの会社だった。
10日間くらいかけてカナダやアメリカシカゴの研究所などを見て回り、彼らが技術開発だけでなくビジネスモデルを含めてどうやって事業を立ち上げるか、アプリ、インフラ、端末を総合的に考えていることを見せられて大変感心したものである。今のように会社のインフラ部隊を身売りするような状態になるとはとても考えられなかった。
その時に感じたのは、プロジェクト運営の強さだった。日本だと各分野の専門家がいて、それぞれの専門家を集めてプロジェクトを作る。モトローラでも同じなのだが、モトローラのほうはプロジェクト志向が強く、一人の人が複数のプロジェクトを掛け持ちすることはない代わりに、一つのプロジェクトの中ではかなり広い範囲を任されている感じだった。日本ではこれに対して一人が得意分野を持って複数のプロジェクトにかかわるので、プロジェクトにかかわる人数は多くなる感じがした。
結局、日本ではテレターミナルという独自のシステムを立ち上げたが事業としてはうまくいかなかった。モトローラのシステムも事業としてはうまくいかなかった。無線データだけで全国網を構築するほどの需要がまだ無かったということだろう。無線データ通信が成功するのはドコモのi-Modeが最初だった。携帯電話端末でのデータ通信というように電話と組み合わせたのが成功の秘訣だと思う。
日本はi-Modeの成功で携帯電話の最先端を走っているといわれるようになった。
私は、田園都市線の宮崎台にあったNECの中央研究所から溝口のパーソナル開発研究所に1992年に異動になったのだがその初めの頃について書こう。
以前書いたようにこの組織はNECホームエレクトロニクスの研究所を母体として作られており、私の部は研究所から私ともう一人、事業部から3-4人に加えて残りの人達はもともとホームエレクトロニクスの開発研究所の人達、それも新人が多かった。
研究所や事業部から移った人はそれぞれちょっと名の知れたような人たちだったのに対してホームエレクトロニクスの人は殆どが無線の素人であり、技術ギャップから若い人たちを教えるのには大変苦労した。特に事業部から来た課長クラスの人が苦労していた。
驚いたのは業績が悪く、研究所を維持できないような状況になりながら、前年度大量の新人を採用していた点である。こういうマネージメント力の弱さが業績のあったにつながるのかと思った。
職場に行ってまず感じたことは照明が薄暗いことだった。各個人のスペースは非常に狭く、そして殆ど席に居ない。事業部に出稼ぎに行っている人が半分以上いて、そうでない人も実験室にこもっているのだった。私は自分の部だけは違うという雰囲気を出すために、打ち合わせなどもできるだけ、出向かないで自分たちの居る場所でやって、組織としての存在感を高めようと思った。
当時はヨーロッパでGSMが始まる時期であり、日本では日本独自方式であるPDCを開発中、更にQualcommがCDMA方式を提案している、という技術が大きく変わる時期であり、事業部のトップはどの方式にどれくらいの開発人材を割くかで頭を悩ませていたことである。日本方式は目処が立っていたのでCDMA方式が実用化になるのかどうかを見極めようということで、新技術や方式は私の古巣の中央研究所にお願いして開発研究所は試作に注力した。
デジタル方式の黎明期であったので回路規模や消費電力が気になっており、これらを小さくするために色々な方法を考えて特許を出したりしたのだが、後の半導体技術の進歩を振り返ると細かい改善よりも大きな意味で本筋を行って、考え方をシンプルにすることが重要だった。その点では私よりも事業部から来た課長のほうが見識を持っており、彼の意見に影響を受けたものである。
中央研究所の無線グループは別の人が課長になっていたが、その人は無線の研究者では無かったため、私の依頼で研究者が動くことが結構あり、研究所の中では「早く自立しろ」とずいぶんプレッシャーを受けていたようである。
当時、私は通信研究部に属していた。私が入社した頃の通信研究部は通信方式全般に加えて、音声符号化、画像符号化などのメディア処理もやっていたが、課長になった頃にはメディア処理は切り離して別の部になっていて、通信研究部は伝送・交換・無線という通信全般を扱っていた。
私はそのうち無線グループのリーダだったのだが、会社内で次のステップにあがるとすると部長である。部長の守備範囲である通信全般は広すぎて、とても自分の守備範囲としてカバーできるとは思えなかった。事業の流れを見てどの分野に投資するか、どこのグループを大きくするか、といったことを考えるのが部長の仕事になるが、自分は無線分野ならかなり深いところまで口出しできると感じていたし、事業としても通信全般は大きすぎて動向把握も困難な感じがしていた。
自分としてはさらに技術分野を横に広げるよりも、研究からより事業につながる仕事までカバーして縦に広げるほうが好ましく、いわゆる管理職になるなら、研究管理ではなく、より事業に近い管理をしたいと感じていた。ほとんどの先輩たちはこのパタンで、関連する事業部に出ていくのだが、見ていると価値観の急激な変動で苦労している人が多く、自分も不安であった。
このような時期に会社内で大きな組織変動があり、NEC社内で「パーソナルグループ」を作ることになった。これは当時国内で50%程度のシェアを持っていたパソコンを中心に、まだ規模は小さいが成長著しい移動体通信、FAXなどの端末機器をまとめて、通信、コンピュータ、半導体に続く第4の柱としようという動きだった。その際に、パーソナルグループの「開発研究所」を作り、新技術をより実用化に近づける役割を担わせたい、という構想があり、そこの部長でどうか、という話だった。
ちょうど自分で将来を悩み始めていた時期だったので私はこの話に乗って、中央研究所からパーソナル開発研究所に移った。1992年のことで入社から18年が経過していた。
当時のNECではマイクロ波通信、衛星通信、移動通信といった通信事業、テレビの送信機のような放送事業、NECホームエレクトロニクスのテレビ受信機、工場の無線制御のような産業分野、宇宙通信、防衛通信、ITSのような自動車用の無線など様々な分野を行っており色々な話が入ってきており、相談には色々乗っていたので、ドコモなどの通信事業者だけでなく新日鉄の工場に行ったり、トヨタに打ち合わせに行ったりして色々な分野を見ることができた。
自主的な研究は移動通信を軸に、無線LANを含めておこなうようにしていた。当時(80年代の終わり)は「これからは移動通信」というのは明らかで研究者もマイクロ波、衛星通信と言った分野の人たちがどんどん携帯電話の分野に移ってきていた。PHSをやっている人もいた。ところがNECではマイクロ波衛星通信事業部という伝統ある事業部が中心的で、新規にできた移動通信事業部は人材不足に悩んでいた。私はどうしてもっと移さないのだろうと思っていた。
グループの人数が10-15人だとほぼ全員の研究内容を把握することができる。課長の下は主任、担当となっていたが担当者を含めて各個人の研究内容を把握してアドバイスすることができていたと思う。課長と言うと管理職で自分で研究自体は行わなくなるが、研究の現場から離れたという気分はなかった。
しかし、その上の部長になると研究内容を把握できなくなるのは目に見えていて、自分の進路をどうするかを考え始めたのもこのころである。