goo blog サービス終了のお知らせ 

ウィトラのつぶやき

コンサルタントのウィトラが日頃感じたことを書いていきます

第3世代移動通信の標準化(2) WCDMAに決まる

2010-10-20 10:32:17 | 昔話
1994年秋に始まった無線方式検討会は約2年間継続した。
当初26提案あったが議論を重ねるうちに、システム全体ではなく部分的な技術提案は他の提案に取り込まれたり、取り下げたりして1年後にはTDMA方式2提案と、CDMA方式4提案に集約されていった。更に1年間、実験結果を提出したり、議論を重ねたりして、1996年末にはWCDMA方式とすることが合意された。

それまでの日本の通信技術の標準化はNTTが主導して他の会社が一部の要素技術を盛り込む、と言うやり方だったのに対して、この時は初めて色々な会社が方式提案をして、それを議論を続けながら絞りこんて行く、というプロセスを踏んだのだが、初めてにしては非常にうまくいったと思う。やはりシステム構築経験のあるドコモの存在は大きかったが、他の会社にも機会を与え門戸を開いたことで業界全体の意識が上がったと思っている。

これはこの会議のリーダであった当時のドコモの取締役と、事務局であった当時ARIBの佐々木秋穂氏(故人)の貢献が大きかったと思う。私自身は最初の1年間はNEC方式を推す発言をしていたのだが後半は話をまとめるために他の方法を攻撃する発言が多くなっていった。攻撃は嫌われるものだが、一つにまとめたいという意図は伝わっていたと思う。

96年末までの無線方式検討会は非公開の議論だったが、合意を受けて正式にARIBとしてITU-Rに提案する日本案を作成すべく、公式の標準案作成プロセスが動き始めた。その際に、佐々木さんから私に無線伝送方式を作成するグループの議長をやらないか、という打診が入った。合意したと言っても基本的な方式を決定しただけであり、標準仕様として作成するにはまだまだ長い道のりである。これを動かすには相当のエネルギーをつぎ込まないといけないので「必要なら上司に話をつけてあげる」と言われた。

以前、書いたと思うが当時の私の上司は殆ど私の活動に関しては任せてくれていたので、特に口添えの必要はなかった。むしろ、私の仕事上のスポンサーであり、製品開発をする事業部の了解が必要だと考え、事業部のキーパーソンに話を入れてもらって、私自身の社内向けの活動が手薄になる分、事業部側の体制を強化してもらった。

これ以降、私は佐々木さんの指導を受けながら本格的に標準化活動に乗り出していくことになった。

第3世代移動通信の標準化(1)

2010-09-28 09:21:31 | 昔話
これから何度かに分けて私の人生に大きな影響を与えた第3世代移動通信の標準化への取り組みについて、私個人の観点で書こうと思う。このブログは解説が目的ではないので気持ちの動きを中心に書こうと思う。

 
移動体通信はアナログ方式が第1世代、日本ではPDCと呼ばれたデジタル方式が第2世代、現在主流になっているWCDMA方式が第3世代である。アナログ方式のサービスが始まったのは1979年であるが一般に知られるようになったのは1980年代後半あたりからだろう。

大学に講義に行って、「私が入社した時にはインターネットも携帯電話も無かった」というと驚かれるが、通信の業界はそれだけ技術革新が速いということである。ちなみに固定通信での光通信も入社当時は無く、技術的には光通信の進歩が通信分野では一番早く、かつ革新的だったと思っているが、産業的に成功したのは携帯電話である。

私が移動通信の分野に入ったのは1983年で、第2世代のPDCがサービスを開始したのは1993年で、技術標準が決まったのは1991年なのでPDCの標準化にもかかわるチャンスがあったのだが、この時は私の上司が提案書を出したり、音声符号化のグループが音声の圧縮率と音質のトレードオフを考えて方式を提案するコンペに参加したりしていたのを横目で見つつ、自分は標準化には参加していなかった。

1994年秋、第2世代のPDC方式がサービスを開始して間もなくであるが、第3世代の移動通信方式の世界標準を作るべく、日本案を議論しよう、という無線方式検討会が呼び掛けられた。この会は自由闊達の議論を促進して、お互いに相手のアイデアを取り込んで自分のイメージするシステムを完成させるようなことを奨励していた。

NECからも提案書を出したが、全体で26提案が提出された。その中にはシステム全体ではなく、ごく一部の要素技術を提案しているようなものもあり、事務局が狙ったように相手のアイデアを取り入れて、自分の提案に不足している部分を補うというようなことが、次第に行われていった。この時、私はNECを代表して参加していたのだが、既に開発研究所に移っていたので、NEC案の作成は中央研究所に依頼していた。

この会議の中で、他の会社の提案で良いと思うところを取り入れたり、相手のおかしい点を指摘したりしてシステムとしてまとめていくのが私の役割だった。これは学会の議論よりはるかに手応えがあって面白く、私はどんどん引き込まれていった。

アメリカのCDMA開発チーム

2010-09-21 08:25:59 | 昔話
QualcommがCDMA方式を提案して2年も経った1992年頃にはCDMA方式が実用化され、少なくともアメリカでは存在感のある方式になることが確実になってきた。1993年になるとNECの事業部もCDMA開発に向けて動き始め、私が異動した開発研究所での仕事の内でCDMA方式の動作検証が最重要のアイテムになった。

NECの基地局部隊は国内のチームで開発に取り組んだが、端末のチームはアメリカのダラスに開発チームを作った。トップはアフリカから来た黒人のドクターの人だったが、チームの7割は中国人だった。これは一人優秀な人材を採るとその人が次々と友人などに声をかけて集めたからである。アメリカの中国人ネットワークの強さを感じた。CDMAは最先端の方式だったので興味を持っている人が多く、頭の良い優秀な人材が集まったが、開発経験のあるような人はなかなかとれず、事業部の開発チームとしては商用のセンスには乏しかった。

このチームは私の率いる開発研究所のチームとは密接に連携を取り合っていた。ある時私がダラスに行った時に週末をダラスで過ごすことになった。ゴルフをやらない人にとってダラスでやることはあまりない。私が囲碁と卓球が趣味だと言うと黒人のトップの人がチームメンバーに「囲碁と卓球をやるやつはいないか」と声をかけてくれた。

驚いたことに、中国人のメンバーで自宅に卓球台を持っている人や、囲碁がすごく強いという人が現れた。卓球をやる人はかなり多く、皆で卓球台を持っている人の家に行った。私は中学・高校と卓球部だったので日本人で私とまともに卓球ができる人は100人に一人くらいだと自負していたが、中国人では10人に二人くらいがいい勝負になった。

囲碁のほうは自分ではもっと強く、アメリカのアマチュア選手権でいいところに行くくらいで無いと勝負にならないと思っていたのだが、NECのアメリカのモバイル開発チームに結構良い勝負をする人が居て驚いた。勝つには勝ったが大変手応えのある相手だった。相手もまさかこんな所で自分に勝つ相手が出てくるとは思っていなかったと大変驚いていた。

中国人社会の懐の深さ、と言うと言いすぎかもしれないが、多様性を感じた時だった。

QualcommのCDMA提案を知る

2010-09-07 11:52:39 | 昔話
私がまだNECの中央研究所に居た頃、アメリカのQualcommという会社がデジタル移動体通信の方式としてCDMA方式を提案した。この方式はその当時提案されていたTDMA方式よりも圧倒的に性能が良い、という触れ込みだった。
   
私が最初にこの話を聞いたのは1989年、まだ正式にCDMA方式として発表する前だったと思う。アメリカ西海岸で行われた通信理論の学会でビタビという符号理論の大家が、「移動通信にCDMA方式を使うと画期的に性能が上がる」という発表をした。多分これがCDMAの初めての発表だったと思うが、その時には方式の全貌は話さずに良いところだけを話していたので、聞いていた人は驚きつつも「本当にできるの?」という感じだった。

その時の議長はLuckyというベル研究所のトップだったがこの人でも半信半疑であったが、ビタビの言うことだから何かあるだろう、という受け止め方をしていた。私自身も数年前にビタビ復号器の設計をしたりして、ビタビの名前と実力は良く知っていたので、「何かありそうだ」という感触を持って帰ってきた。

帰ってきて報告をすると、周りの人たちは「遠近問題があると理論特性は出ない」とか「ハンドオフの時に反対側の基地局に迷惑をかける」とか色々と問題点を指摘され、そう簡単にはうまくいかないものなのかと思っていた。しかしQualcommは続けて遠近問題には精密な送信電力制御、ハンドオフ問題にはソフトハンドオフ、といったシステム上の解決策を示す論文を発表した。

私はこれはどうもものになりそうだ、という印象を持って直接Qualcommに話を聞きたくなった。事業部の人に相談したら、「彼らも広めたい時期だから、行けば話をしてくれるのではないか」というアドバイスだった。そこでビタビ氏に手紙を書いて、訪問したいと言ったらOKが来た。サンジエゴのQualcommに着くとビタビ本人が出てきて直接説明してくれた。私は感激した。

色々質問をぶつけると、大きな問題には解決策が見えているが、細かい点ではまだ検討すべき点は多々ある、と言ったことをフランクに話してくれた。会社内に見学コースができていて説明が一通り終わったときには出口、というような良くできた作りになっていた。

この訪問で、私はCDMAは研究所で取り組まなくてはならないと確信した。日本の学界でもCDMAに関する発表が急増していった。1991年にはQualcommはCDMAの屋外試験を公開し、私はこの時にも見に行った。驚いたのは電波の伝わり具合が眼に見えるような測定器を開発して、この測定器を車に積んでデモをしていたことだった。自分のところでは、こんなものを開発することはとてもできない、と感じた。アメリカのベンチャーが良いアイデアがあれば人と金とを集めて見る間に大きくなっていく様を体感した思いだった。

1990年前後のモトローラ

2010-08-25 14:12:17 | 昔話
1980年代に携帯電話が導入されて急成長するとともに、無線データシステムを日本に導入しようという話が持ち上がった。その時に、アメリカのモトローラ社が売り込みをかけてきた。当時、日本独自システムを作る方向で動いていたのだがモトローラのシステムを導入するのはどうかという議論になり、私は事業部の支配人と一緒にモトローラに見学に行った。正確な時期は覚えていないのだが1993年くらいではないかと思う。

当時のモトローラは、ベル研究所がセルラー・コンセプトを発表して、自動車に無線機を積んでどこからでも電話できる、と言い始めた時に、いち早く、このシステムを進化させて一人ひとりが電話機を持ち歩けるようにする、と言い始めて、携帯電話に投資した会社であり、無線の世界の巨人だった。モトローラは携帯電話端末で世界トップシェアで会っただけでなく、ページャ(ポケットベル)でも世界トップシェア、更に無線データシステムでも独自のシステムを開発して世界に売り込むという、無線技術の世界では世界で断トツの会社だった。

10日間くらいかけてカナダやアメリカシカゴの研究所などを見て回り、彼らが技術開発だけでなくビジネスモデルを含めてどうやって事業を立ち上げるか、アプリ、インフラ、端末を総合的に考えていることを見せられて大変感心したものである。今のように会社のインフラ部隊を身売りするような状態になるとはとても考えられなかった。

その時に感じたのは、プロジェクト運営の強さだった。日本だと各分野の専門家がいて、それぞれの専門家を集めてプロジェクトを作る。モトローラでも同じなのだが、モトローラのほうはプロジェクト志向が強く、一人の人が複数のプロジェクトを掛け持ちすることはない代わりに、一つのプロジェクトの中ではかなり広い範囲を任されている感じだった。日本ではこれに対して一人が得意分野を持って複数のプロジェクトにかかわるので、プロジェクトにかかわる人数は多くなる感じがした。

結局、日本ではテレターミナルという独自のシステムを立ち上げたが事業としてはうまくいかなかった。モトローラのシステムも事業としてはうまくいかなかった。無線データだけで全国網を構築するほどの需要がまだ無かったということだろう。無線データ通信が成功するのはドコモのi-Modeが最初だった。携帯電話端末でのデータ通信というように電話と組み合わせたのが成功の秘訣だと思う。

日本はi-Modeの成功で携帯電話の最先端を走っているといわれるようになった。

府中事業所への引っ越し

2010-07-26 08:42:59 | 昔話
私が溝口のパーソナル開発研究所に異動になってから1年ちょっとで開発研究所全体が京王線の分倍河原にあるNECの府中事業所に引っ越しになった。これはNECホームエレクトロニクスの業績がますます悪化し、溝口の事業所全体を引き払うことになったからである。

当時は、横浜市の鴨居にある横浜事業所が無線関係をやっており(現在はララポート横浜になっている)、コンピュータ関係が府中事業所だったのだが、開発研究所全体ではパソコン関係の仕事が多く、パソコン部隊のいる府中事業所になったものである。私自身は無線関係の仕事をしていたので横浜事業所で働く可能性が高いと思って、横浜線の十日市場駅からバスで行く若葉台団地にマンションを買っていたのだが、予想に反して府中事業所勤務となり片道100分の通勤となった。通勤時間が100分を超えると単身赴任の手当が出るのだが、単身赴任のつもりは無く、バスと電車を乗り継いで通った。夜遅くなったときなどは近くにある会社の寮に良く泊まったものである。

府中事業所に通うようになるとパソコン部隊との打ち合わせにも出るようになった。当時NEC のパソコンは国内シェア50%近くを持っていて絶好調であったが、マイクロソフトの力が強まるにつれてハードウェアの標準化が進みハードでは差別化が困難のなってきていた。それでどういうやり方で世界標準と合わせていくか、などの議論を良くやっていた。あるとき、マイクロソフトが携帯端末のOSの話を相談したいとNECの上のほうに持ちかけ、無線の専門家ということで私が呼ばれて話を聞くことになった。向こうもR&Dグループだったのだが、彼らは技術よりも事業シナリオから入っており、通信をずっとやってきた私にとっては非常な驚きだった。

それまで私は大学と似たような、技術動向を見ながら課題を見つけ新しい技術を見つけるとその使い方を考える、というアプローチだったのが、技術を部品として捉え、市場はどんな技術を求めているか、どの部品が事業をするうえで不足しているか、というものの考え方、アプローチは自分にとってとても新鮮だった。後にはマイクとソフトの本社を訪問して意見交換をしたりするようになったのだが、一連のマイクロソフトとの付き合いは私にとって技術の捉え方を変えるものだった。

溝口のパーソナル開発研究所

2010-07-15 08:18:35 | 昔話

私は、田園都市線の宮崎台にあったNECの中央研究所から溝口のパーソナル開発研究所に1992年に異動になったのだがその初めの頃について書こう。
以前書いたようにこの組織はNECホームエレクトロニクスの研究所を母体として作られており、私の部は研究所から私ともう一人、事業部から3-4人に加えて残りの人達はもともとホームエレクトロニクスの開発研究所の人達、それも新人が多かった。

研究所や事業部から移った人はそれぞれちょっと名の知れたような人たちだったのに対してホームエレクトロニクスの人は殆どが無線の素人であり、技術ギャップから若い人たちを教えるのには大変苦労した。特に事業部から来た課長クラスの人が苦労していた。

驚いたのは業績が悪く、研究所を維持できないような状況になりながら、前年度大量の新人を採用していた点である。こういうマネージメント力の弱さが業績のあったにつながるのかと思った。

職場に行ってまず感じたことは照明が薄暗いことだった。各個人のスペースは非常に狭く、そして殆ど席に居ない。事業部に出稼ぎに行っている人が半分以上いて、そうでない人も実験室にこもっているのだった。私は自分の部だけは違うという雰囲気を出すために、打ち合わせなどもできるだけ、出向かないで自分たちの居る場所でやって、組織としての存在感を高めようと思った。

当時はヨーロッパでGSMが始まる時期であり、日本では日本独自方式であるPDCを開発中、更にQualcommがCDMA方式を提案している、という技術が大きく変わる時期であり、事業部のトップはどの方式にどれくらいの開発人材を割くかで頭を悩ませていたことである。日本方式は目処が立っていたのでCDMA方式が実用化になるのかどうかを見極めようということで、新技術や方式は私の古巣の中央研究所にお願いして開発研究所は試作に注力した。

デジタル方式の黎明期であったので回路規模や消費電力が気になっており、これらを小さくするために色々な方法を考えて特許を出したりしたのだが、後の半導体技術の進歩を振り返ると細かい改善よりも大きな意味で本筋を行って、考え方をシンプルにすることが重要だった。その点では私よりも事業部から来た課長のほうが見識を持っており、彼の意見に影響を受けたものである。

中央研究所の無線グループは別の人が課長になっていたが、その人は無線の研究者では無かったため、私の依頼で研究者が動くことが結構あり、研究所の中では「早く自立しろ」とずいぶんプレッシャーを受けていたようである。


パーソナルC&C開発研究所

2010-06-22 08:11:24 | 昔話
1992年、私はNECの中央研究所からパーソナルC&C開発研究所に異動した。入社以来初めての人事異動だった。入社して18年間同じ部署にいたというのは振り返ってみれば長過ぎた感じがする。

パーソナルC&C開発研究所(パーソナル開研)というのはその年にできたパーソナルグループの開発研究所なのだが、実態で言うと業績の悪化していたNECホームエレクトロニクスの救済という側面が少なからずあった。NECホームエレクトロニクスには120人くらいの規模の開発研究所があったのだが、業績が悪化していて開発研究所を維持できなくなっていた。そこでパーソナル開研と2重組織にして全員を兼務とし、費用のかなりの部分を部分をパーソナルグループから出すことにしていた。パソコンと、モバイルという業績の良い事業を抱えていたからできたことであった。

パーソナル開研には3つの部があり、一つがパソコンの仕事をする部、一つが私の部でモバイルの仕事をする部、一つがホームエレクトロニクスの仕事をする部であった。
勤務地は中央研究所のあった田園都市線の宮崎台から溝口のホームエレクトロニクスの事業所に異動になった。「のだめカンタービレ」の撮影にも使われた洗足学園の近くだった。
私の部は40人ほどの構成だったが、中央研究所から私ともう一人ハードウェアに強い人、移動通信事業部から課長クラスが二人、と若い人一人、それ以外はホームエレクトロニクスの開発研究所の人、という陣容だった。言うまでもなく、ホームエレクトロニクスの人達は移動通信の素人である。しかも中堅社員が少なく、新入社員が非常に多かった。事業部からは優秀な人材を出してくれたので、ギャップが非常に大きく慣れるまでは大変だった。

勤務地がホームエレクトロニクスの事業所内だったこともあって、私が中央研究所からホームエレクトロニクスに飛ばされた、という見方をして、「かわいそうに」というような言い方をする人もあった。社外からもお誘いがあったが私自身はやる気満々だったのでもちろん断った。

中央研究所からパーソナル開発研究所へ

2010-06-09 08:37:23 | 昔話
課長になって2-3年すると私は研究所から外に出ることを考えるようになった。
当時、私は通信研究部に属していた。私が入社した頃の通信研究部は通信方式全般に加えて、音声符号化、画像符号化などのメディア処理もやっていたが、課長になった頃にはメディア処理は切り離して別の部になっていて、通信研究部は伝送・交換・無線という通信全般を扱っていた。

私はそのうち無線グループのリーダだったのだが、会社内で次のステップにあがるとすると部長である。部長の守備範囲である通信全般は広すぎて、とても自分の守備範囲としてカバーできるとは思えなかった。事業の流れを見てどの分野に投資するか、どこのグループを大きくするか、といったことを考えるのが部長の仕事になるが、自分は無線分野ならかなり深いところまで口出しできると感じていたし、事業としても通信全般は大きすぎて動向把握も困難な感じがしていた。

自分としてはさらに技術分野を横に広げるよりも、研究からより事業につながる仕事までカバーして縦に広げるほうが好ましく、いわゆる管理職になるなら、研究管理ではなく、より事業に近い管理をしたいと感じていた。ほとんどの先輩たちはこのパタンで、関連する事業部に出ていくのだが、見ていると価値観の急激な変動で苦労している人が多く、自分も不安であった。

このような時期に会社内で大きな組織変動があり、NEC社内で「パーソナルグループ」を作ることになった。これは当時国内で50%程度のシェアを持っていたパソコンを中心に、まだ規模は小さいが成長著しい移動体通信、FAXなどの端末機器をまとめて、通信、コンピュータ、半導体に続く第4の柱としようという動きだった。その際に、パーソナルグループの「開発研究所」を作り、新技術をより実用化に近づける役割を担わせたい、という構想があり、そこの部長でどうか、という話だった。

ちょうど自分で将来を悩み始めていた時期だったので私はこの話に乗って、中央研究所からパーソナル開発研究所に移った。1992年のことで入社から18年が経過していた。

研究所の課長時代

2010-05-29 13:04:33 | 昔話
研究所で課長になって私は無線グループをまとめることになった。私が入社以来教えてくれた上司や先輩は事業部に出たり大学に行ったりして、その時期には部長が同じ無線グループから出た人でそれ以外は皆研究所にはいなくなっていた。無線グループの人数は10人から15人くらいの範囲で増減していたが、研究所で無線を前面に出していたのは私たちだけだったので会社の色々な部門から相談を受けるようになった。

当時のNECではマイクロ波通信、衛星通信、移動通信といった通信事業、テレビの送信機のような放送事業、NECホームエレクトロニクスのテレビ受信機、工場の無線制御のような産業分野、宇宙通信、防衛通信、ITSのような自動車用の無線など様々な分野を行っており色々な話が入ってきており、相談には色々乗っていたので、ドコモなどの通信事業者だけでなく新日鉄の工場に行ったり、トヨタに打ち合わせに行ったりして色々な分野を見ることができた。

自主的な研究は移動通信を軸に、無線LANを含めておこなうようにしていた。当時(80年代の終わり)は「これからは移動通信」というのは明らかで研究者もマイクロ波、衛星通信と言った分野の人たちがどんどん携帯電話の分野に移ってきていた。PHSをやっている人もいた。ところがNECではマイクロ波衛星通信事業部という伝統ある事業部が中心的で、新規にできた移動通信事業部は人材不足に悩んでいた。私はどうしてもっと移さないのだろうと思っていた。

グループの人数が10-15人だとほぼ全員の研究内容を把握することができる。課長の下は主任、担当となっていたが担当者を含めて各個人の研究内容を把握してアドバイスすることができていたと思う。課長と言うと管理職で自分で研究自体は行わなくなるが、研究の現場から離れたという気分はなかった。

しかし、その上の部長になると研究内容を把握できなくなるのは目に見えていて、自分の進路をどうするかを考え始めたのもこのころである。