備忘録として

タイトルのまま

昭和史が面白い

2009-11-28 06:36:58 | 近代史
 半藤一利の「昭和史が面白い」を読んだ。1991~1996年の5年間に雑誌「ノーサイド」(廃刊)に連載された座談会が本になったもので、毎回二人のゲスト(歴史の生き証人、当事者)と半藤が昭和のその時、その出来事を語っている。以下、拾いもの。( )は私の感想。

”昭和史の化け物統帥権”杉森久英・村上兵衛
大正末期は軍縮時代で、左翼思想が幅を利かせ軍人の発言権利が奪われていく。その反動で昭和初年に満州事変が起こり一気に軍国主義になった。今平成3~8年はその状況に良く似ている。(以前、統帥権に触れて「国家の品格」を批判した。)

”少年倶楽部の懐かしの子供時代”加太こうじ・赤瀬川準
昭和初期は大仏次郎、江戸川乱歩や吉川栄治ら大作家が少年ものに全力投球し、児童文学者などいなかった。大人が読んで面白くなければ子供が面白いはずが無い。

”桃太郎の履歴書”鳥越信・俵万智
昔は、キビ団子を「やりましょう。やりましょう。」という歌詞だったのが、後に、「あげましょう。あげましょう。」に変わったころから日本語が乱れた。「花に水をあげる。」、「ネコに餌をあげる。」 (皇太子が幼いころ読んだというフレーベル館のキンダーブックは読んでいた。)

”世界史から見た日米開戦”土門周平・池田清
陸軍は昭和16年3月に対米英戦はできないという結論を出した。それが5、6月に強硬論に変わった。海軍軍令部総長の伏見宮をバックにした海軍が対米英強硬論を強力に推進し、7月に南部仏印に進行した。(以前、NHKで見た海軍軍令部の証言では陸軍の強硬論に海軍大臣が反対できなかったと言っていた。どちらが正しいのだろう。)

”出陣学徒の真実”田英夫・野原一夫
特攻隊の生き残り世代、学徒出陣を経験した世代は反戦、護憲が多い。(この回を読んだ日に田英夫が亡くなったというニュースが飛び込んできて驚いた。)

”「日本のいちばん長い日」の証人”岩田正孝・高木俊朗
日本が焼土と化してもなお、「本土決戦をやってこそ民族のほこりが保てた。」という岩田正孝(の意見には驚いた。映画「日本のいちばん長い日」は小学生のときに観たことは道後温泉の回で書いた。)

”『昭和天皇独白録』の空白部分”阿川弘之・大井篤
昭和16年夏の段階で、開戦の決定に反対したら、「国内は必ず内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証されない」と天皇は言っている。海軍軍令部永野総長は、開戦に「同意しないとクーデターの恐れがある」と言った。(これはNHKの軍令部の証言と一致する。)緒戦の戦果からシンガポール陥落(17年2月)までは、斎藤茂吉や高村光太郎はもちろん、平和主義者の武者小路実篤、里見じゅんら文士が感激興奮している。
石原完爾は田中智学の日蓮教義に心酔し、田中智学と理念が同じであるニーチェのいるドイツへ行き、その後、「世界最終戦争論」と「現代における国防論」において、日米衝突を予言し、日本は勝利すると書いた。日本勝利とする根拠は、日本が天皇制の国、神の国だからという。陸軍はドイツがイギリスに勝つのでアメリカは日本に向かってこないという理由で戦争に勝つと確信していた。
昭和18年4月に山本五十六は死ぬ覚悟で飛び立った。彼は戦争は終結させるべきだと思っていたがはっきり言わずに死んだ。その後の政府指導者たちも19年には終結すべきだと思っていたが決断しなかった。これは、老化して事態に敏速に対応できなかったからだ。(山本五十六が死んだというニュースが流れたとき満州にいた親父は、「日本は戦争に負けると思った。」そうだ。)

”「東京裁判」を裁判する”三好徹・袖井林二郎
日本側弁護団は連合国側の非をつくが、裁判官は「彼が泥棒したということは、おまえが泥棒したことの弁解にならない。ここは日本を裁く法廷であり、連合国を裁く法廷ではない。」といって却下した。
731細菌部隊と天皇は裁かれなかった。

”「引き揚げ」修羅の記憶”藤原てい・なかにし礼
満州に渡った民間の日本人の数は約160万人、そのうち開拓団は27万人。そして17万人以上の人が日本へ帰ってこなかった。8月15日以降、国家はこの人たちを何の保護もせず放り出した。今、何百万人もの在外邦人を引き揚げ者にしないためにも日本は加害者になってはいけない。(半藤)

”世界を魅惑した「グランド・カブキ」”河竹登志夫・永山武臣
外国人に評判の良かったのは、近松の「俊寛」と「隅田川」。あと忠臣蔵の4段目まで。(俊寛は、鬼界ケ島(Iwogashima)に流されているので気になっている。)

”東京五輪マラソン代表の日々”寺沢徹・君原健二
円谷選手は結婚指輪を買うような人がいたが、メキシコオリンピック前で自衛隊体育学校の校長に結婚を反対された。メキシコでメダルをという約束に縛られていた。真面目な男だった。(アベベに続き国立競技場に2位で入ってきた円谷がコーナーでイギリスの選手に抜かれる場面を応援していた自分を覚えているので、東京オリンピックのマラソンはリアルタイムで観ていた。と思う。「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。干し柿、餅も美味しゅうございました----」の遺書は痛々しく衝撃だった。成績が残せないことへの焦りだと思っていたが、婚約者との結婚も思い通りにならなかったことを知り割り切れない思いがする。)

”三島由紀夫 善意の素顔”徳岡孝夫・美輪明宏
アイヴァン・モリスに遺書を残し、「古き良き伝統のために我が身を捧げようという気になっている。」という。(三島が割腹自殺したのは高校1年の時だった。当時の首相佐藤栄作の「気が狂ったとしか思えない」という談話に対し、翌日の授業で国語の先生が三島事件を取り上げ「首相はばかだからな」と発言したことが忘れられない。その時点で三島作品は「潮騒」しか読んでいなかったし、映画で肉体美を見せた作家で盾の会を主催していたという程度の認識しかなかったので、国語の先生より佐藤首相のコメントのほうにより共感した覚えがある。その後、盾の会の活動内容を知り、「金閣寺」「沈める滝」「音楽」「永すぎた春」「豊穣の海(一巻のみ)」などいくつかの作品を読んだが、美輪明宏と徳岡孝夫の話を聞いても、自殺理由は理解できないままである。結局、事件発生時の自分から成長していないということか。)

姉妹誌の「日本史が楽しい」は必読だな。

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