備忘録として

タイトルのまま

平凡と非凡

2014-06-07 13:34:41 | 話の種

今日の「花子とアン」で編集長が新作を読んで花にかけたことばが、”洗練された平凡は非凡につながる”だった。ところが、凡人にとっては平凡に磨きをかけることがむずかしいのだ。昔、プロ野球チーム阪急の西本監督が、”選手はみんなへたくそなので、練習でプロにするのがコーチや監督の仕事だ”という意味のことを言った。プロに入るくらいの選手だから潜在的な能力があり、そもそも素材が違うはずだと、そのときは思った。

洗練された平凡にはどのようなものがあるだろうか。

今日の花子の立場なら、料理家の栗原はるみはどうだろうか。ふつうの主婦の料理が今ではプロのわざになっている。栗原はるみは、たぶん日々の料理に人より少しだけ余分に時間を使い、少しだけ工夫することを心掛けているのだと思う。その少しだけをこつこつと繰り返しているうちに磨きがかけられ、いつのまにかその分野の先頭を歩いていたのではないだろうか。司馬遷は史記世家で張良について、老子のことばを引用し”困難なことを容易なことから考えていき、大きなことを小さなことから行っていった”(図難於易、為大於細)と絶賛している。司馬遷は張良を天才(非凡)だとは言っていない。列子の”愚公山を移す”の愚公は平凡な人である。山を削る行為も平凡そのものである。でも、山を移そうとする志と子孫は無限で山は高くならないという発想は尋常ではなく非凡である。”少しづつ、こつこつと愚直に志す”が、平凡を非凡に変えるキーワードかもしれない。

振り返れば、このブログも2005年12月に始めてからもう8年半になった。この間、記事をほぼ週1のペースで掲載し、チリが積もって500近くになった。このまま100歳まで続ければ、3000チリくらいになるので自分チリ史くらいは出版できそうな気がする。途上で命運尽きればそれまでのこと、その時は諦観するしかない。

ところで、男児はまず「赤毛のアン」を読まない。「トムソーヤの冒険」は読んでも「赤毛のアン」には見向きもしない。ところが、娘が二人いた所為で、ミーガン・フォローズ主演のテレビ映画「赤毛のアン」シリーズを横から観ているうちに、今ではアンの物語のファンである。それでも小説を読む気にはならないので、映画に映し出されたプリンスエドワード島の美しい四季がファンになった理由のような気がする。娘がカナダにいる間にプリンスエドワード島とGreen Gablesを見てみたいと思っている。

”赤毛のアン”は幼馴染のギルバートと結ばれる。花子は村岡印刷の村岡花子になることがわかっているので、幼馴染の朝市が今後どうなるのか気になる。兄の吉太郎が軍隊に入ると言い始め、蓮子が与謝野晶子の”君死にたまうことなかれーーー”を送ったときには、朝市も戦死し、花子とは結ばれないという勝手な筋書きを予想していたが、完全に外れそうだ。

上はIMDBより

  • 1作目「Anne of Green Gables」1985、★★★★☆
  • 2作目「Anne of Green Gables、The Sequel」1987、★★★☆☆
  • 3作目「Anne of Green Gables、The Continuing Story」2000、★★☆☆☆

シリーズものの通例どおり後編ほど減点となるが責任上見届けた。


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