備忘録として

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中国の中世

2010-04-18 15:14:55 | 中国
 宮崎市定の「大唐帝国 中国の中世」を読んだ。
 はるか昔、この東洋史の巨人である宮崎の「科挙」を読もうとしたことがあったが、まだ自分にそれを読むだけの準備(知識、意欲、根気など)がなかったため数ページで断念したことがあった。「大唐帝国」を古本屋で見つけたとき、断念したことが頭の隅をよぎったが、本が安価だったので”とにかく買っとけ!”と本箱に放り込んでおいた。しばらくして読み始めると、これが読みやすくて面白い。それに史実の羅列に終わらず、比喩を多用して、ところどころ宮崎の史観や現代批判が散りばめられているのだ。
 
1.”古いことわざに、流れる水は腐らない、というのがある。春秋から戦国、秦にいたる時代は、まさに流れる社会であった。流動していく間に社会がみずから浄化作用を行うのである。ところが漢帝国はいわば溜り水である。”
2.”二十四孝の中に後漢の丁蘭の話が出てくる”丁蘭は死んだ父母を慕うため木像をつくり、それに仕えたが妻が木像を針でつついたのに怒り妻を追い出してしまった。これは”儒教の礼にもたえていわないことであり、ものずききわまりない行為であるが、そのために夫婦が別離せねばならぬとは笑えない悲劇である。ーーー当時のあまりにも苛烈な生活苦が人倫関係をゆがめてしまったのである。そしてそれがそのままながいあいだ、民国初年の思想革命に至るまで二〇〇〇年近くも中国庶民を苦しめてきたのである。”
3.”後漢にはいってから中国の社会は、不景気風におそわれてきたのである。厳密な意味では、景気ということばは資本主義社会にかぎって用いられるのだそうだが、そんなことはどうでもいい。”
4.関羽が董卓の武将華雄を切る場面は紙片を割いて三国志演義の文章をそのまま載せ、”『三国志演義』はもんくなく面白い。この場合なども、ちゃんちゃんばらばらをそのままに描写しないで、天幕をへだてて間接に記述しながら、しかも効果は百パーセントである。”
5.諸葛孔明の至誠を称賛し、”今日からみれば、特に若い人たちには、漢室の復興というような理想をこのように真剣に追求する心理は理解できないかもしれない。”ソ連の原爆に頼る威嚇的な外交を批判し、”国家というものにたいする考え方は、現今の世の中でもっとも時代に遅れたもののひとつであり、三国時代とじつはあまり変わっていないのではあるまいか。これは深く反省してみる必要がある。”(昭和43年刊行なので”ソ連”が出てくるが、核によるパワーゲームは当時と変わってない)
6.蜀が魏に降参するとき、呉に逃げて保護を求めようという意見があったのを「まけたときには思いきりいさぎよく降参するものです。」という重臣の意見を採用し無条件降伏を申し入れた。宮崎は、太平洋戦争の”責任者はだれひとり『三国志』の中のこの話を知らなかったとみえる。”こともあろうにソ連に平和の仲介を頼み、”さんざん翻弄されてひどい目にあい、物笑いのたねになった。ーーーどうしてこのような人たちが国政に参加するようになったかを三思する必要がある。”(三思=荀子のことばで、若い時には老後のこと、年をとったら死後のこと、豊かになった時は貧乏になった時のことを考えておくこと、やはり東洋史学者である。)
7.晋の末期、八人の王がかわるがわる武力を使ったことに、”一度武力が動き出すと、それがついには自分の力でとどまることができなくなるのである。それはちょうど、火薬庫に火がついたようなもので、つぎつぎに隣へ延焼しては誘爆し、全部爆発してしまわぬとおさまらない。他人事ではない。戦前に日本の蓄積した軍備がそうであった。現在世界各国が蓄積しつつある原子爆弾などが、そうでないと誰が断言しえようか。”
8.晋の貴族王衍(おうえん)が異民族の捕虜になった時にうろたえたことから、東京裁判に証人喚問された満洲国の溥儀の供述を引き合いに出し、「なんという性格の弱さだ。満州族の支配者もここまで落ちぶれたか」と慨嘆した人と、「なんという生にたいする執着の強さだ」といって驚嘆した人の二つの意見があったことを紹介する。
9.南北朝時代の軍人に対する貴族の自尊心は、一種のコンプレックスの裏返しとも見える。これは、現在の”ヨーロッパ人とアメリカ人との関係のようなものであって、もともと双方がコンプレックスをもっているのである。”
10.北魏の北辺に国防のために配置された軍閥と、満洲の関東軍を比較し、陸軍学校出の秀才は国内に残り出世するのに対し、鈍才組は辺境に派遣され唯一の望みは戦争を起こし手柄を立て勲章をもらうことであった。こうして中央の方針に違反して次々に事件を起こし支那事変はとめどもなく拡大し最後は太平洋戦争に突入した。これを中央のひょろひょろの秀才組はなすすべがなかった
11.唐では前朝(隋)の反省に立ち、天子の専横を防ぐため中央政府に三省を置き、政策決定から施行までを審議する制度が導入された。天子は責任を官僚と分かち合うことができるようになったが、自由を拘束され時間もかかるが過失は少なくなった。しかし、どんなにいい制度があっても運営がともなわなければ何にもならない。唐の政治は太宗の死後後退を始める。”暖かい春はけっして一時にやってこないように、新しい時代は急に出現するものではなく、一進一退ののちにやっと訪れるものなのである。”
12.唐の高宗がのちの則天武后である武氏を皇后にしたいと申し出た時、宰相の李勣は「陛下一家の家事であり、臣下が干渉すべきでない」と答えた。”この中に非情に封建的な思想がこもっている。封建制度とは、階級の上下が対立する社会であるがそれだけでは封建社会は成立せず、それぞれの縄張りを尊重する精神が並立する、大所高所から全体を優先すると封建制度は崩壊してしまう、という。
13.衰えた唐は困難を金銭の力できりぬけた。唐が新政策を採用できたのは古い勢力が一掃され新しい人材の登用が可能であったからだ。”この点は戦後の日本の状態と共通点がないでもない。敗戦後の日本の難局を背負わされた吉田首相は財務官僚を登用して、文化国家ならぬ財政国家を作り上げた。”
14.日本、中国の筋肉派の史学は、反乱さえ起きれば農民運動、王朝が滅亡すれば農民反乱と、なんでも農村へもちこむことを好む傾向がある。農民運動はいつも局地問題で終わっている。全国的な結社と結びついたときにはじめて大きな勢力になるが、そのときはもはや農民運動ではなくなっているのである。”(人間は大部分筋肉から成り立っているが筋肉の病気で死んだ人は少ない。社会は農民が圧倒的多数であるが、農民運動が王朝の命取りにまで発展することはない、と宮崎は批判する。)
15.唐の塩の専売に関し、”公定価格が高ければ高いほど、闇取引きはさかんになる。取り締まりが厳しければ厳しいほど闇取引きの利益は大きい。””取り締まりには官憲の数を多くする方法と、制裁を厳格にする方法がある。官憲の数を多くすればするほど、その費用が多くなり公定価格を引き上げなければ採算がとれない。法律を厳しくすればするほど、闇商人も対抗策を講じ、あるいは秘密結社を組織し、あるいは消費者と緊密に連絡するので摘発が困難になる。官憲が買収される機会も多くなる。”唐でも塩専売の反作用で反乱が起こるようになる。
16.中世は権力崇拝の時代であり、このような時代には宗教がもっとも受けいれられやすい。そういう時代の宗教にはそれだけの気概があった。玄奘、義浄、鑑真らの信仰は命懸けだった。

宮崎市定:1901-1995 東洋史学者、京都(帝国)大学文学部教授

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