備忘録として

タイトルのまま

ザビエル

2013-03-31 22:28:41 | 中世

 フランシスコ・ザビエル(1506~1552)はスペインのバスク地方に生まれた。司馬遼太郎は「街道をゆく~南蛮のみち~」でザビエルが生まれ育ったバスクのザビエル城を訪問する。10代の終わりにザビエル城を出たザビエルは1525年にパリ大学に入学し11年間そこで哲学を学ぶ。ザビエルは大学生活の後半にイグナティウス・デ・ロヨラ(1491?~1556)に出会う。1534年28歳のとき、モンマルトルの丘でロヨラ以下6名はイエズス会結盟の誓いをし、その後ザビエルはインドのゴアを本拠地としてアジアでの布教に乗り出す。

ザビエルは1549年に鹿児島に上陸し、平戸、博多、山口、京都、豊後などを巡り2年ほど日本に滞在し布教活動を行う。司馬遼太郎の「街道をゆく」から、ザビエルが立ち寄ったであろうと思われる街道で、司馬遼太郎がザビエルやイエズス会の事を書いたであろう思われる場所を探した。

島原・天草の諸道

ザビエルは鉄砲伝来の6年後1549年8月に鹿児島に上陸した。ザビエルは、”東インド地方で発見された国々のなかで、日本の国民だけがキリスト教を伝えるのに適している。”とイエズス会本部に報告している。司馬は当時の日本には一神教を受け入れる土壌があったというのである。それは、”仏教の教義と言語は僧侶が独占し、民衆はただ僧と寺院と仏像を敬するにとどまり、たとえばインドのように輪廻が肉体化していなかった。”という理由によるという。観音信仰に阿弥陀信仰が加わり、ただひたすら如来の救済を待つと日本の土壌がキリスト教的土壌と類縁しているのだという。”仏教は、万有の本体をもっとも豊かなゼロと見、みずからの精神をゼロにすることをもって究極の目的とする。中世の僧侶といえども、真にゼロになりえた者はまれである。”(空の理論)。このように中世の仏教は民衆には何も語りかけなかった。拠るべき規範のなかった民衆はキリストの教えに強い感激を持ったというのである。

 この司馬の解釈を否定する知識も材料も見識も持ち合わせてないのだが、仏教に対する偏見を感じるとともにキリスト教が受け入れられた理由も少し違うような気がする。フィリピンなどは国をあげてキリスト教徒になったが、日本ではそこまでキリスト教が広まったわけではない。日本人の精神性がキリスト受容に適していたと言うよりは、日本人の教養の高さがキリスト教の教説を理解するレベルにあり、そのため布教に適しているということをザビエルは言いたかったのではないだろうか。

平戸

イエズス会ほど異教に非寛容であった会はなさそうである。当時の宣教師は大名を入信させることに熱心でひとたび入信に成功すると領内の神社仏閣をことごとく取り壊させたという。このことが、後のキリシタン弾圧につながった。

横瀬・長崎

ザビエルといっしょに1549年に日本に来たトーレス神父は、その後21年間日本に滞在し、キリスト教の布教につとめた。1580年大村純忠は長崎をイエズス会に割譲し教会領とする。イエズス会は領内の神社仏閣をすべて焼き払い、ポルトガル人は長崎のことを、”ドン・バルトロメオ港”と呼んだ。これは大村純忠の洗礼名である。ポルトガルに力があり、秀吉の中央国家の力が弱ければ、長崎はマカオや香港のようになっていたかもしれないと司馬は記す。長崎が教会領だったのは7年間だけで、その後禁教令を経てイエズス会は追放される。写真の人形は1992年頃長崎で買った高さ5㎝ほどの伴天連(パードレ=宣教師)人形で首が赤べこ人形のようにふらふらと揺れる。同時に買ったビードロはいつの頃にか壊れてしまった。

長州路

ちょうど重臣の陶晴賢が主君の大内氏に対し叛乱を起こした1551年、ザビエルは大内義隆の保護を受けていて山口にいた。このとき義隆は自害し、ザビエルは家臣のナイトンドノ(内藤殿)の寺院に隠れて兵乱が納まるのを待った。

 司馬は「南蛮の道」の中で、日本のキリスト者の中には神と親鸞の阿弥陀如来を近いものと感じている人がいるが、それは正統的な考え方ではなく、”すべてが救われるという親鸞的な世界には、偽善がないかわりに、敬虔、崇高、高潔、あるいは純潔といった要素もすくなくないようであり、キリスト教とくらべ、美学的にはどこか寝ころんでよだれを垂らしている感じがしないでもない。”と、親鸞の教え(浄土真宗)に対し辛辣な言い回しをしている。しかし、山折哲雄や梅原猛の解説する浄土真宗の教えは、司馬が言うような寝ていても成就する受働的で怠惰な教えではなく、極楽往生した人は菩薩となってこの世に戻ってきて衆生を救済しなければならない(往相廻向と還相廻向)というものなのである。司馬の「空海の風景」は読んでないが、ある人の書評によると司馬の空海解釈は偏向したものであるといい、また梅原猛は「空海の風景」を批判して司馬と絶交したと言われている。「南蛮の道」で語る親鸞への偏った見方をみると、空海の思想に対しても偏った見方をしているのだろうと思わざるを得ない。

15年ほど前、司馬遼太郎の「街道をゆく」を読んでいた頃は司馬の意見を無条件に首肯していたが、今読み返すと”ほんとうかよ!”と声を上げたくなるようなところが多々あることに気づく。知恵がついてきたのか、ただものごとを批判的に見るようになっただけなのか、いずれにしても当時の自分とは違う新しい自分を発見できるようでかつて読んだ本を読み返すのも楽しい。


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