備忘録として

タイトルのまま

高山ユスト右近

2013-01-26 15:39:52 | 中世

正月明けからシンガポール、ジャカルタ、フィリピンを廻っている間にアルジェリアで天然ガス工場が襲われる事件が発生し他人事とは思えずブログに触れる気力がわかなかった。昨日、シンガポールに戻ってきた。

約1週間のフィリピン出張に合わせてH・チースリク著「高山右近史話」を携行して読んだ。正月に”今年もブッダ探求の年になりそうだ”と言った舌のねも乾かないうちに異教に手を出してしまった。

高山右近のことは戦国キリシタン大名で禁教令により国外追放になりフィリピンで死んだという程度の知識しか持っていなかった。本は聖母の騎士社が出版し聖母文庫と名づけられたシリーズであり、著者は日本に布教で来たドイツ人神父であることから、宗教色が強いことを覚悟で読み始めた。しかし、日本の古文書と文献、イエズス会文書やフロイス書簡などを広く引用し、高山右近の信仰と生涯を客観的に著述しようとする著者の姿勢が明瞭に伝わってきた。良著だと思う。

高山右近の生涯を本書から抜き出す。

  • 1552 摂津高山に高山飛騨守の長男として生まれる
  • 1564 12歳で受洗 クリスチャンネイムはユスト 父飛騨守はダリオ、母はマリア、妻ユリア
  • 1573 信長の配下荒木村重に属し高槻城主となる
  • 1578 荒木村重が信長に叛旗したとき、父ダリオは村重に従うが、右近は信長に味方する。
  • 1582 本能寺の変 山崎の合戦では秀吉の先陣となる。
  • 1583 賤ヶ岳の戦いで柴田勝家方との局地戦に敗れ敗走する
  • 1585 秀吉の紀州、四国征伐に従軍し、功を上げ明石に移封される
  • 1587 キリシタン禁令下り領地を没収され追放される。小西行長の所領・小豆島に匿われる。
  • 1588 前田利家に預けられ金沢に住まう
  • 1590 前田家に属し小田原攻めに参加する
  • 1591 千利休切腹
  • 1592 朝鮮出兵の際、名護屋で秀吉に引見し茶会にも招かれる
  • 1596 サン・フェリペ号事件
  • 1598 秀吉没
  • 1600 関ヶ原の戦い 東軍家康に味方した前田利長に属し北陸の西軍大聖寺攻略
  • 1614 徳川禁教令により国外追放 加賀を去り長崎からマニラへ到着
  • 1615 マニラ到着後40日目、2月3日に熱病のため64歳で死去

キリスト教と茶の湯

右近は千利休の弟子7哲とされ、同じく7哲の細川忠興や蒲生氏郷とは茶道によって結ばれた友人だった。忠興の妻は有名な細川ガラシャ(明智光秀の娘)で右近の影響でキリシタンになったという。7哲のうち蒲生氏郷、牧村政治、瀬田掃部がキリシタンであり、茶道に造詣の深い黒田如水と小西行長もキリシタンである。千利休の時代は茶の湯の黄金時代であるとともにキリシタンにとっても最も華々しい時代であったが、それは偶然ではなく、茶の湯の”和敬静寂”の精神とキリストの説いた清貧、貞潔、愛(アガペ)は相通ずるところが多いからではないかと筆者は言う。茶室に会する人々は強い精神体によって融和することから、キリスト教的な個人と神との一致に繋がるというのである。

セミナリヨ

若い信徒を教育し布教のリーダー、キリシタンのエリートを養成することを目的とする学校をセミナリヨといい、最初のセミナリヨは九州の有馬に建てられた。京都にも建設を計画していたが、右近の提案で信長の城下町・安土に建てることになった。安土のセミナリヨは本能寺の変が起こったため活動期間は短く、変後、高槻に移された。セミナリヨでは、キリスト教だけでなく、ラテン語、日本文学、日本の他の宗教学、オルガンやヴィオラなどの音楽の授業もあったという。

禁教令

秀吉は1587年と1596年に禁教令を出す。1987年の禁教令は宣教師の国外追放だったが、政治的圧力で高山右近は地位を捨て、対照的に黒田如水は棄教する。しかし、小西行長や有馬晴信はキリシタン大名のままだったようにこの時の禁教令は不徹底だった。1596年の禁教令では京都にいたフランシスコ派の教徒が捉えられ処刑された。

1614年の徳川禁教令では京都・長崎の教会が破壊され、伴天連(ポルトガル語のパードレ=司祭)は国外追放された。最後のキリシタン大名の有馬晴信は前年に切腹させられている。まだ南蛮貿易は続いていたので禁教は当初徹底的ではなかった。1616年に幕府は鎖国令を出し、それとともにキリスト教弾圧は強まる。島原の乱が起こったのは1637年のことである。

殉教

1587年の禁教令で、右近は秀吉か信仰のどちらを選ぶかを迫られるが、「2人の主に仕えることはできない」というキリストの教えをわきまえ即座にキリストを選ぶ。高山右近の信仰心は強固で1614年徳川禁教令でも”転ぶ”(背教)ことはなく、富も名誉もすべてを捨て信仰に生きる決心は揺るぎもしなかった。良心に従いKingdom of Conscienceを選んだのである。これは宗教そのものであり、それに比べると人間がいかに生きるべきかを説いたブッダの仏教は道徳であり哲学であるということが良くわかる。仏教が宗教になるのはブッダが神格化されてからなのだと思う。

右近夫婦は孫5人を連れ、他の追放者や伴天連の司祭たちとともに長崎を出港し、1614年マニラに到着する。信者だった息子夫婦は1608年に共に死んでいて、マニラに行った5人の孫の最年長は16歳だった。右近はマニラで歓迎を受けるがすぐに熱病にかかり滞在40日で亡くなる(本では”帰天”と記す)。1616年夏に妻ユスタと孫1人が日本に帰ったと記録されているが彼らのその後はわからない。マニラには1977年に建てられた高山右近の銅像があるらしい。

フィリピンはキリスト教信仰が盛んでどんなに小さな集落にも教会が建っている。普通の家に十字架があるので教会だとわかる小さなものから、下の写真のように立派な教会まで様々である。ミンダナオの南部はイスラム教が支配的な地域もあるが、北部は基本的にキリスト教が極めて盛んである。ブトゥアン市の役所や私邸にもキリスト教関係の像や十字架が飾ってある。当地では、聖歌を聞いたり、神にお祈りをしてから会議が始まることもある。

左:マニラ空港前の教会、右:ミンダナオのブトゥアン市空港近くの教会

左:ブトゥアン市のある役所に飾ってある神父像 右:ブトゥアン市のある人の私邸庭にあったマリア像

 


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