備忘録として

タイトルのまま

鉢木

2015-11-23 11:20:10 | 中世

一昨日21日、円覚寺の人出が想像以上だったので、混むのを嫌い早めの昼食をとろうとネットで調べていた東慶寺近くの”鉢の木”という精進料理店に急いだ。11時過ぎだというのに店の前にはもう行列ができていて、席に着けたのは12時ちょうどだった。私は入れ子膳(下写真)、妻は半月点心を注文した。普段口にしない上品なものだった。

店名の”鉢の木”は、元寇のときの執権だった北条時宗の父である北条時頼を主人公にした謡曲の題である。

ある大雪の夜、一人の旅僧が下野国佐野の庄のあばらやを訪ね一夜の宿を借りる。主人である武士は貧しい中、粟飯を出し身の上話などをして僧をもてなす。夜が更けて次第に寒くなるが焚火の薪がなく、武士はおもてなしに大事な鉢の木を切って焚火にしようとする。僧は止めようとするが、

シテ(武士) それがしもと世にありし時は、鉢の木に好きあまた持ちて侯へども、かやうに散々の体と罷り成り、いやいや木好きも無用と存じ、皆人に参らせて候ふさりながら、いまだ三本持ちて侯、あの雪持ちたる木にて侯、これは梅桜松にて、それがしが秘蔵にて候へども、今夜のおもてなしに、この木を切り火に焚いてあて申さう
ワキ(旅僧) 以前も申すごとく、おん志しは有難う候へども、自然またおこと世に出で給はん時のおん慰みにて侯ふ間、なかなか思ひも寄らぬことにて侯
シテ(武士) いや、とてもこの身は埋れ木の、花咲く世に逢はんことは、今この身にては逢ひ難し、
ツレ ただ徒らなる鉢の木を、お僧のために焚くならば、
シテ(武士) これぞまことに難行の、法の薪と思しめせ、
ツレ しかもこの程雪降りて、
シテ(武士) 仙人に仕へし雪山の薪、
ツレ かくこそあらめ
シテ(武士) われも身を

旅僧が名を尋ねたところ、武士は佐野の源左衛門という名で、一族の横領によって落ちぶれたことを明かす。しかし、落ちぶれたとはいえ

シテ(武士) かやうに落ちぶれては侯へども、今にてもあれ鎌倉におん大事出で来るならば、千切れたりともこの具足取つて投げ掛け、錆びたりとも薙刀を持ち、痩せたりともあの馬に乗り、一番に弛せ参じ着到に付き、さて合戦始まらば、敵大勢ありとても、敵大勢ありとても、一番に破つて入り、思ふ敵と寄り合ひ、打ち合ひて死なんこの身の、このままならば徒らに、飢えに疲れて死なん命、なんぼう無念のことざうぞ。

と、鎌倉のために死をかけて闘う決意を語る。年が明けて春になり、突然鎌倉から招集の触れがあり、佐野源左衛門も千切れた具足を身にまとい錆びた薙刀を持ち痩せ馬に乗って鎌倉に駆け付ける。

ワキ(旅僧じつは時頼) やあいかにあれなるは佐野の源左衛門常世か、これこそいつぞやの大雪に宿借りし修行者よ見忘れてあるか。今にてもあれ鎌倉におん大事出で来るならば、千切れたりともその具足取つて投げ掛け、錆びたりともその薙刀を持ち、痩せたりともあの馬に乗り、一番に馳せ参ずべきよし申しつる、言葉の末を違へずして、参りたるこそ神妙なれ、まづまづ今度の勢使ひ、まつたく余の儀にあらず、常世が言葉の末、まことか偽りか知らんためなり。

佐野源左衛門の「いざ鎌倉」がうそではなかったことを確認した時頼は、自分があの夜の旅僧であることを明かし、そのときの返報として、鉢の木の梅、桜、松にちなんだ領地を与える。

「鉢の木」は観阿弥・世阿弥の作と言われ、その後、歌舞伎の演目に取り入れられ誰でも知る有名な話となる。戦前は小学校の教科書にも採用されたという。ネットの日本語俗語辞書の「いざ鎌倉」の項を紐解くと、”現在では一部の中高年を除き、ほとんど使われなくなっている”とあり、死語あつかいである。一部の中高年に該当する自分は、この説明に悪意を感じた。

実際の北条時頼は、1227年に生まれ36歳で死去し、息子の時宗同様、早死である。1246年19歳で第五代執権となり、1256年29歳のとき執権を退き出家する。「鉢の木」は時頼が晩年諸国を遊行したという伝説から生まれた話で正史にはないらしい。


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