備忘録として

タイトルのまま

いざ鎌倉

2015-11-22 19:38:00 | 中世

中国の正史『元史・巻二百八・外夷一・日本』によると、元の世祖(フビライ)は至元3年(1266年)以降、高麗を通じて何度も日本に使者を送り、国交を結び朝貢するように促すが、その都度無視されるか使者が大宰府に留め置かれ進展がなかった。至元11年(1274年)、世祖は船900艙を仕立て1万5000の兵士を乗せ言うことを聞かない日本を攻撃させた。

「冬10月、其の国に入り之を敗る。而れども官軍整わず、又矢尽きて、唯だ四境を虜掠して帰る。」 

これが『元史・日本』に記録された文永の役の記録である。文永の役もその後の弘安の役も神風が吹いて元軍は敗れたと思っていたが、この記録から文永の役は日本側が矢が尽きた元軍を追い返したように読める。

翌、至元12年に再び国書を送ったが返事がなかった。至元17年に日本は元の国使を殺した。至元18年(1281年弘安の役)、元は十万人の遠征軍を日本に送るが、全軍を失った将軍たちが還ってきて、「日本に至り、大宰府を攻めんと欲せしに、暴風、舟を破る。猶も戦いを議せんと欲せしが、(配下の将たちが)節制を聴かず、すなわち逃げ去る。」ので、自分たちは、残った兵を連れ帰ったと報告した。ところが、その後まもなく敗軍の兵卒が戻り、将軍たちの報告がうそだったことが暴露される。五竜山(平戸の東の鷹島とされる)で暴風雨に会ったあと将軍たちは10万の部下を捨て、自分たちだけが逃げたというのだ。

「官軍、六月海に入り、七月平壺島(平戸)に至り、五竜山(鷹島)に移る。八月一日、風、舟を破る。五日、(范)文虎等の諸将各自ら堅好の船を択びて之に乗り、士卒十余万を山下に棄つ。衆議して張百戸なる者を推して主師と為し、之を号して張総管と曰い、其の約束を聞く。まさに木を伐りて舟を作り還らんと欲せしに、七日、日本人来たりて戦い、尽く死す。余の二、三万、其の虜となりて去る。九日、(日本人は)八角島に至り、尽く蒙古・高麗・漢人を殺し、新附軍を謂いて唐人と為し、殺さずして之を奴とす。閶輩是也(私たちがその例です)。」

八角島は博多のことだとされている。10万以上の兵からなる元軍は、平戸の近くの島で暴風雨にみまわれ船を失くした。戦意を喪失した上層部だけが逃げ帰り、残された兵卒たちはそこに来た日本軍に惨敗し多くが捕虜になったというのが弘安の役の真相であった。

この1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)の元寇のときの第八代執権が北条時宗で、元の国書を無視し、使者を追い返したり殺したりしているように、元に対して強硬姿勢を貫いている。国難を説く日蓮を佐渡に流したのも時宗である。下写真の円覚寺は時宗が1282年に元寇の戦没者を追悼するため創建した臨済宗の寺である。円覚寺の開山(寺院を創始すること)である中国僧の無学祖元は時宗の招きに応じ1279年に来日する。

昨日11月21日(土)は、JR北鎌倉で電車を降り、まず近くの円覚寺に行った。円覚寺はもみじの紅葉で有名だということだったが、見頃はまだ少し先だった。右の三門の扁額は”圓覚興聖禅寺”とあり伏見上皇の直筆によるという。伏見上皇は第92代天皇で、あの『とはずかたり』の後深草天皇の第2皇子である。時宗は満32歳で死去しここ円覚寺に埋葬されている。

円覚寺から駆け込み寺の東慶寺に行き、そこから鶴岡八幡宮へ行く途中、下の写真の建長寺に寄った。建長寺は、時宗の父である第五代執権・北条時頼に招かれた中国僧の蘭溪道隆(らんけいどうりゅう)により1259年に創建された。円覚寺の開山である無学祖元は1279年に没した蘭溪道隆の後継として招かれ建長寺の住職も兼ね、1289年にここで没した。894年遣隋使は廃止されたが、鑑真以来、仏教界の交流は続いていたのである。写真の三門の下でお坊さんから有り難い法話を聞いた。昭和の初めに臨済宗に山本老師という盲目の僧がいた。山本老師が僧になる前、四国八十八か所を回り何順目かの冬、とある臨済宗の禅寺の前で行き倒れになる。山本老師はそこの住職に助けられ寺男となり、その後偉い僧になった。大東亜戦争終戦の時、山本老師は、「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び」ということばを首相の鈴木貫太郎に進言し、その言葉が天皇の終戦の玉音放送に採用されたという。この山本老師の話と臨済宗の開祖の語録を記した臨済録に書かれた「だまされるな」という言葉とのつながりがよくわからなかった。右下写真は、柏槇(びゃくしん)というヒノキ科の大木で、木の前には開山の蘭溪道隆が中国より種を持ってきて蒔いたという案内板が立っていた。樹齢760年、樹高13m、周囲6.5mである。

 建長寺から鶴岡八幡宮へ行き、参道を逆に由比ガ浜まで歩いた。鎌倉大仏へは行かず由比ガ浜を西に向かい、由比ガ浜駅から江の島まで江ノ電に乗った。江の島の片瀬海岸の沖合には無数のウインドサーフィンの帆が浮かんでいた。11月でもサーファーは熱いのだ。帰路は江の島から小田急に乗った。歩き疲れて乗ったロマンスカーでは新宿まで爆睡だった。

 


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