備忘録として

タイトルのまま

清少納言

2008-11-22 08:30:45 | 中世
2008年が源氏物語の執筆が始まって1000年ということで様々なイベントが開かれている。学生時代に買った円地文子のほか谷崎潤一郎、与謝野晶子の訳本を本屋で横目に見ていたが、海外を含め多くの人々が訳本を出しているのを新聞の特集記事で知って驚いた。

私と源氏物語との関わりは、中学や高校の古典の授業でさわりを勉強したことに始まり、大学のとき同い年の従兄の面白いという評価に乗せられて買い込んだ円地本を上巻の途中で投げ出したこと、長女が小学4年生のとき“いづれの御時にか、女御・更衣数多さぶらひける中に、いとやんごとなき際にはあらぬが-----”と暗唱してたのに合わせていつのまにか自分も唱和していたこと、2年ほど前に読んだ“私の好きな古典の女たち”の中で瀬戸内寂聴が六条御息所や女三宮や朧月夜などの寂聴好みの女性を取り上げて紹介し、そのあまりに偏った人間観察に辟易としたこと、梅原猛が自著の中で何度も絶賛していること、などが主なもので、結局通読したことがない。

枕草子も同程度で、古典の授業で最初の数巻を読んだが通読したことがない。清少納言も枕草子も梅原猛著“古代幻視”の中の「清少納言の悲しみ」を読むまで何も知らなかったといえる。梅原猛は自著の中で、紫式部に比べ清少納言が不当に評価されているとし、当時の清少納言と紫式部の境遇を比較し清少納言を擁護している。

後世、清少納言が紫式部に比べ過少評価された理由は、紫式部が日記の中で清少納言を批判していることや宮中を下がったあとの落ちぶれた伝承などが一因となっているらしい。
紫式部の清少納言評(梅原による大意をさらに意訳)
「清少納言は賢ぶって学識をひけらかすが、たいしたことはない。こんな人は末は没落するに違いない。この人はささいなことでも”をかし”とか”あわれ”と感動ブルが軽薄すぎる。そういう人の末は決していいものにはならないだろう。」
と極めて厳しい。しかし紫式部は清少納言が宮中を去った後に宮中に入ったので、直接二人が接触したことはなく、枕草子と周囲の評判による評価なのだろう。
伝承
「自宅前を通りかかった馬車が軒先を壊したときに、簾を上げて鬼のような形相でにらみつけた。」古事談・清少納言零落秀句事
「比丘尼の姿で阿波里浦に漂着し、その後辱めをうけんとし自らの陰部をえぐり投げつけ姿を消し、尼塚という供養塔を建てたという」徳島県鳴門市里浦町坂田 伝墓所
すさまじいかぎりである。

これに対して、梅原猛は、当時の政治情勢を見て、清少納言は零落した藤原道隆の娘で中宮の定子に仕えた女官であり、紫式部は道隆を追い落として権力者の座についた道長側の女官という恵まれた立場にあったことを考慮すると、清少納言への評価は過酷過ぎるという。道長は定子に様々な嫌がらせをしたらしい。清少納言は、人々が定子を見限って去っていく中にあっても、定子が24歳で死ぬまで仕えた。枕草子は零落し宮中を下がったあとに書かれたものだという。
枕草子という題は、古今集にある平貞文の歌
”枕より 又しる人も なきこひを なみだせきあへず もらしつるかな”
の枕から取られていることは明らかである。枕草子321段に、草子を書いたが「隠していたものが露見し涙がとまらない」と貞文の歌と同じ心境が述べられている。枕草子には定子への思慕や道隆一家の置かれた状況、道長の横暴が抑制された形で隠されているという。

悲惨な境遇にあっても「をかし」、「あわれ」と何事も前向きに捉え様とする清少納言の気持ちはいじらしく、その心境を思うと涙せきあへずだ。権力者側の恵まれた立場にいる紫式部の清少納言評は厳しすぎる。清少納言の才能に対する紫式部の嫉妬ゆえだろうと梅原はみている。

徳島に清少納言の零落ぶりを伝える伝承があるということは初めて知ったが、徳島には、空海、写楽や邪馬台国に関する奇説も多く、キワモノ好き・流行りもの好きは県民性なのだろうか。

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