昨年の上原和の講演以来ずっと、唐招提寺に行かなければと思っていた。やっと願いが叶い、9月の連休を利用して奈良、京都旅行に駆け足で行ってきた。21日朝、東海道を上ってくる台風15号に突っ込むように京都に向けて旅発った。日頃の行いがいいという証拠に私の乗った新幹線は浜松で5分ほど停車しただけで、ほぼ予定通り昼過ぎには奈良の西ノ京駅に降り立つことができた。あと2時間東京を出るのが遅ければ新幹線は運航休止になっていた。西ノ京駅を降りた時に降っていた小雨も、唐招提寺の南大門をくぐるころには、すっかり上がり青空ものぞきはじめた。南大門から”天平の甍”鴟尾(しび)を頂く金堂の写真を撮った。金堂内には、本尊の盧舎那仏を挟んで、薬師如来像と千手観音像が安置されているが、関心は脇を守る梵天、帝釈天と四天王に向かう。唐招提寺には塔がない。その代りなのかどうか鑑真廟がある。井上靖の”天平の甍”を顕彰する記念碑は天平の甍がブームになったころに建てられたのだろうが、今は顧みる人も稀なのか案内板もなく鑑真廟内にひっそりと苔に覆われている。
下の写真は鑑真和上像が納められた御影堂と芭蕉の”御目の雫(しずく)”の句碑である。上原和が御影堂の中で一日中対座し、”御目の雫”を数えたという鑑真和上像を見たかったが、鑑真和上像の開扉は毎年6月の数日に限られる。その日は見物人の長い行列ができ何時間も並んだあげく鑑真像と対面できるのは須臾の間しかないらしい。鑑真和上像写真は唐招提寺のWeb siteより拝借した。
台風の所為だろうかその日唐招提寺を訪れた人は少なく、寺の奥まで来る人はさらに減って御影堂から鑑真廟までは静寂に包まれていた。鑑真廟には当時中国首相だった趙紫陽が訪れたためか中国風の鼎と花瓶が飾られていた。
前にも書いたが、松本清張は鑑真の足跡を記した”大唐和上東征傳”の内容は信用できないと言ったらしいが、鑑真渡来から100年後に唐に渡った円仁の日記に鑑真の旅を記録する寺に立ち寄ったことが書かれており、鑑真の苦難の旅は疑うべくもないのである。確か松本清張は、邪馬台国の所在地を探すことに時間を費やすのは無駄だからもうやめようと言ったり、”写楽・考”での写楽は誰かという推理も論理性に欠け、”ハテ?”という印象だった。切れ味鋭い推理をこの著名な推理小説家に期待して、かつて彼の古代もの歴史ものを数多く読んだが、のちに出会った上原和や梅原猛の著書とはほど遠いものだった。