備忘録として

タイトルのまま

合従連衡

2010-07-24 09:22:10 | 中国
 史記列伝はやっと蘇秦の合従、張儀の連衡まで進んだところである。太史公曰く、蘇秦と張儀は弁舌にすぐれ、”相手に応じ変化たくみなことですぐれている。人なみすぐれた智力の持ち主であったであろう。”と一応評価しておきながら、結語は”要するに二人はほんとうに危険きわまる男であったのだ。”として、二人に実がなかったと書いている。蘇秦と張儀列伝までに登場する韓非、孫子、伍子胥、孔子らが自分自身の思想、技術(軍略)、信念に忠実であったため、二人の実のなさが際立っている。

 韓非は自分が著した説難篇で、君主に説くことのむずかしさは、”説く相手の心を見抜き、いかにして自身の説き方をそれに適合させるかにある。”といいながら、自分自身は秦王に説きに行って失敗し殺される。しかし、法律を体系化するという業績を残した。韓非も孫子も伍子胥も孔子も不器用な生き方や死に方をしたが、孫子は兵法、伍子胥は熱い熱い信念、孔子は儒学を後世に残した。これに比して、蘇秦と張儀は口先だけで世の中を動かしたが、後世には人々の嘲笑以外何も残していない。

 「ネットの未来はどうなっていくのか」という対談の中で、「グローバル化する社会での必要なスキル」として、チームラボの猪子寿之がこんなことを言っている。
”英語なんてまったく必要ないと思う。会計なんてやっても売り上げは上がらないし(笑)。専門性が大事。現在は専門分野がさらに細分化されていて、そういう専門性は獲得するのは大変。コミュニケーション能力もいらない。むしろないほうがいい。コミュニケーションってエンターテインメントだから、その能力が高いと楽しい。だから新しいコミュニケーションのほうに行かないんです。コミュケーション能力が低い人のほうが新しいコミュニケーションのほうに行く。たとえば、コミュニケーション能力が高いと、女子大生とも共通の興味がなくても話せるわけ。それは楽しいことです。でも、コミュニケーション能力が低い人は、女子大生と話すことができないから、自分のすごく詳しい分野をブログなんかに書く。そうすると、自分が本当に詳しい分野に対して本当に理解してくれる人が集まってくる。いい人材もいいユーザーも集まる。進化論と一緒で、"前のコミュ二ケーション能力"が高い人は進化できない。(前時代的な)コミュニケーション能力の低い人のほうが有利になってくる。コミュニケーション能力の低い人が勝つんですよ。専門性は持ったほうがいい。でも、技術は客観的なものなので、いずれ先進国の優位性はまったくなくなると思っている。”
 猪子の言いたいことは、「グローバル化する社会」で必要なのは、韓非や孫子のような”引きこもりの専門バカ”だということなのである。

 一方同じ対談で、マイクロソフトの楠正憲は、
”仕事の幅が広がってきたとき、全部を自分が勉強できるかというと、コモディティ化されていない能力ほど勉強する機会がないんです。資格制度になっていたり、教科書になっていたりするものは、お金さえ出せば人材を確保できる。(IT業界が)ドッグイヤー、マウスイヤーになっていく中で、「模索しながらやりとげる能力」や「できるかもしれない人を見つけてリスクヘッジする能力」は必要だと思う。”
と言っている。
 楠のことばを要約すると、専門家は金で買えるし”引きこもりの専門バカ”には変化に対応するリスクヘッジ能力はない(?)ので、コミュニケーション能力だけで生きた蘇秦と張儀も必要だということになる。ということは、猪子と楠は全然正反対のことを言っているのか?コミュニケーション能力をひとつの専門性と見れば同じともいえる。

 いずれにしても、世の中、専門バカもコミュニケーションバカもいて、いろんな人で成り立っている。世の中で一歩抜きんでるつもりなら、専門に抜きんでる、コミュニケーションに抜きんでることが重要で、中途半端は役立たずである。秦が韓非や張儀を利用して中国を統一したように、こんなバカたちを抱えておく度量のある企業が生き残れるのである。

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