備忘録として

タイトルのまま

韓非子

2011-12-24 22:48:16 | 中国

 今日はクリスマスイブ。キリスト教徒でもないのに神聖な気持ちになるとは、どこまで世間の風潮に流されてしまっているのだろうと自己嫌悪を覚えるのは、天(神)、神秘主義、奇蹟をまったく信じない現実主義者の冨谷至著「韓非子」を読んだばかりだからだ。韓非は人間の理性さえも信じていなかった。

 高校の漢文に出てくる「守株」や「待ちぼうけ」の歌で有名なアホな猟師がラッキー(奇蹟)がまた起こると信じて待ち続ける話は、一度起こったことがまた起こるという不確実なことに依拠する儒家の思想を韓非が批判するための比喩である。絶対に貫き通せない盾と絶対に突き通す矛を売る商人の話「矛盾」もまた、昔が無条件に良かったとする儒家の尚古主義を批判する韓非の比喩なのである。

 韓非は、人間本来の性である悪を訓練と礼によって理性的な行動がとれるようになるとする性悪説の荀子の弟子だったので、訓練と儀礼に代わる方法として法律や刑罰による政治を考えたと思っていた。ところが、韓非の思想は極めて合理的で現実主義的であり、国を治めるには人の教化ではなく法と刑罰という客観的な基準さえあればいいというものである。冨谷至によると、韓非にとっては人間が理性的だとか性善だとか性悪だとかは考慮の対象でさえないのである。だから、韓非の刑罰に、被害者感情に基づく「目には目を」(ハムラビ法典)といった応報刑の考え方はなく、刑罰の目的は犯罪の予防と社会秩序の安定にのみある。

韓非の徳

儒家の徳と韓非の徳は意味が違う。儒家の徳は、徳治、仁徳の徳であり、仁愛に基づく人倫道徳を意味する。ところが、韓非の徳は、損得の得(=徳)であり、君主が行う打算的功利的な恩賞を指す。本来の徳は、荘子天地編や管子心術上編にあるように、”天上に源泉する生命力”を意味するという。孔子も”天、徳を予になせり”(天は私に力を与えてくれた)と、仁徳とは違う意味で徳を使っている。もともと天から賦与された力を、愛の力と解釈するようになったのが儒家であり、利欲や金の力としたのが韓非だったのである。

韓非と黄老思想

仙人のような無為自然の黄老思想(道家)と現実主義の韓非子の間に繋がりがあるのか。史記は老子と韓非を同じ章で扱っていて、司馬遷は”その思想(韓非)の根本は黄老の学によるものである。”と述べている。津田左右吉はここでも顔を出していて、道家が韓非子と同じく反儒教だったから、法家が自分たちの宣伝のために道家を取り込んだのだという説を述べている。韓非が理想とする法は、君主は何もしなくても(無為)、機械的に運用され、自然に限りなく近づくというものである。ここにおいて、理想の法治主義と無為自然が共存するのである。

韓非とマキャベリ

君主論、権謀術数のマキャベリはよく韓非子と比較される。君主権を確立するという目的は同じであり、臣下を信じてはいけないなど共通する部分はあるが、それでもマキャベリは完全に臣下の忠誠心への信頼を否定はしていない。マキャベリは韓非と異なり基本的に人間を理性的な存在とするのである。

泣いて馬謖を斬る

三国志の諸葛孔明は韓非子の信賞必罰の法治主義に従い、命令に違反した馬謖を斬った。

十七条の憲法

聖徳太子の十七条の憲法は、韓非子の影響を受けているという説があるが、冨谷至は否定的である。また、十七条の憲法は仏教、儒教など多くの影響を受けていて聖徳太子に作れるはずがなく後世の偽作だという説があるが、梅原猛は仏教、儒教、法家、老荘思想の影響を受けているが太子自身の思想が表れていて冠位十二階や太子の生涯と矛盾しないとする。

 韓非は統治の対象である人間を凡庸な集団と考え、個性や個人の感情や能力を認めず無機的な刑罰を制定した。韓非は、皮肉なことに自分の作った法律を破り刑を受けて死んだ。法家思想を根本とした秦帝国は、あまりに刑罰が苛酷だったため、召集時間に遅れそうになった人たちが、遅れて行っても逃げても同じ死罪だからと反乱を起こしたことをきっかけに滅んでしまう。統治される側の人間には心があり、個人の人間性や感情を無視した統治はできないということだろう。秦のあとの漢帝国は法治主義に懲りて儒教で国家を運営したと思っていたが、実は官僚統治の基本には韓非子の法治主義があり、それによって400年の長きにわたり帝国を保持することができたのである。

 現代は法治社会だが、刑罰は機械的でなく、各事案固有の個人の事情や人権に配慮した運営が必要だと思う。荘子の言うように絶対不変の完璧な刑罰などはなく、一切は変化するのである。刑罰は、裁判員制度などで一般市民の視点を加えたりしながら、時代時代の価値観に適合したものに修正し続けなければならないと思う。秦は苛酷な刑罰のため2代で滅んだが、厳格な統治で3代目に入った国はこのまま存続できるのだろうか。そう言えば秦も末子相続だった。


最新の画像もっと見る