備忘録として

タイトルのまま

修羅

2009-01-24 12:58:26 | 賢治

 「金のためなら、なんでもするズラ!」今、ジョージ秋山の”銭ゲバ”が脚色されテレビ化されている。中学生の時に見たジョージ秋山の”アシュラ”は衝撃だった。乱れた髪を垂らし着物を引きずりながら餓鬼の世界を歩く主人公の姿は今も脳裏に焼きついている。

 阿修羅(アシュラ)は帝釈天と戦う仏教の守護者である。梅原猛の”地獄の思想”によると、仏教の発展に伴い地獄は細分化され隋の天台智(ちぎ)は世界を10分割し、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天の六つの迷いの世界と声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)、菩薩、仏の四つの悟りの世界を併せて十界とした。その十の世界にはそれぞれ十の世界があり、この百の世界にそれぞれ十の様相があるとする。十かける十かける十の千の世界にはさらに三世界があり、これで併せて三千世界という。一念三千とは一瞬で世界を観ずることである。
”往生要集”において源信は十界を詳述する。最下層の地獄は単純に苦の世界であり、餓鬼は欲張りで嫉妬深い人間すなわち餓鬼が落ちる世界である。次の畜生は獣の世界であり、ここは愚かで暗い。次の阿修羅は怒りの世界であり、戦いの世界であるという。娘を奪われた阿修羅は世界の王である帝釈天に絶望的な戦いを挑みつづける。人間の世界は不浄であるという。その次は天の世界で感覚的な喜びに満ちている。しかし喜びが大きいほど苦も大きいという。

 梅原は、”地獄の思想”の中で、「ダンテの神曲と往生要集の地獄の違いは、西洋文明と東洋文明の根本的違いに関わるため自信を持って答えられない」と言いながら、「ダンテは地獄に落ちた人間をザマーみやがれと見ているが、往生要集の地獄の苦は我々と無関係ではない」とし、この地獄を見る客観性と主体性の違いが両者の違いであるとする。思うに、梅原は、キリスト教を信じる人々(西洋人)は、信じない人々(他宗教の人々)が地獄へ落ちるのを冷ややかに見ていると言っているような気がする。

 宮沢賢治の詩集”春と修羅”の修羅は阿修羅と同じである。天台智は当時(600年ごろ)の仏教経典を整理し、華厳、阿含、方等、般若、法華の五つに分類し、最後の法華経こそが釈迦の正説だと考えた。その後、最澄も日蓮もこれを踏襲した。賢治は18歳のとき法華経、特にその中の”寿量品”を読んで感涙したという。仏は今もなお存在し、永遠の命はくりかえしくりかえしこの世に現われてくる。賢治にとって、動物も植物も山川も人間と同じ永遠の生命を持つ一体の宇宙であり、逆にそれぞれの個体の中に一体である宇宙(仏心)が存在するのである。これは、「山川草木悉皆成仏」と同じであり、天台智の言う「一念三千」に通じる。賢治の作品は、いかにして人間が動物をはじめとした自然の生命と親愛関係を持つかが語られている-----らしい。
賢治の童話や詩は、子供の頃から絶えず身近にあったが、結局何もわからずに読んでいたように思う。注文の多い料理店、なめとこ山の熊、よだかの星。
 「あめゆじゅ とてちてけんじゃ」賢治はきょう死んでゆく妹の頼みを聞き雪の中へ飛び出してゆく。天に旅立つ妹を見つめる賢治の目は悲しみでいっぱいなのである。賢治は悲しみに満ちた修羅を歩いている。修羅を歩く賢治は、捨身飼虎図の薩捶王子のように自己犠牲によって人々を修羅の世界から救い出し仏の世界に送り出そうとするのだが、その道は遠い。グスコーブドリは、凶作から人々を救うために火山を爆発させて死に、カムパネルラは溺れるザネリを助けるために死ぬ。賢治は、「雨ニモマケズ-----」のとおりに生きて37歳で早世した。


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