備忘録として

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賢治の仏教

2012-07-14 12:53:27 | 賢治

 前回、賢治は法華経(日蓮宗)を最後まで信仰していたという田口昭典の説と、そうではなく特定の宗教にこだわっていなかったという山折哲雄の説を並べた。今回は、「宮沢賢治の仏教」から著者・須田浅一郎という人の説を紹介する。「宮沢賢治の仏教」は本人いわくエッセイ風で100ページ余りの論文様の著作で中身は濃く得るものが多かった。

 日蓮宗の檀家に生まれ日頃日蓮宗信者ともいうべき須田は、本の冒頭で、アンリアルボン著「仏教」の一節を引き、日蓮宗とは”ただ意味がわからなくても南無妙法蓮華経を繰返し”、”特に無学な人々の間に広がり”、”熱狂的信仰は日本の他の宗派の示す広い寛容さと調和しない。”などと述べ、日蓮宗の極めてネガティブな紹介から始め、徐々に賢治の仏教に迫ろうとするのである。端的に言えば、浄土真宗である実家を飛び出したときの不寛容な信仰から寛容の信仰へ変わっていく過程を論じた本である。

以下に、本の要約を示す。

  1. 賢治が浄土真宗の歎異抄礼賛から法華経崇拝に変わるのは18歳のころである。
  2. 筆者は賢治を日蓮宗という狭小なレッテルから解放する目的でこの本を書いた。
  3. 賢治は法華経を尊崇はするが、他の仏典も広く読み、法華経にない十善法語の不貪慾戒は「春と修羅」で、ジャータカ物語は書簡や童話「学者アラムハラドの見た着物」で確認できる。
  4. 大正10年、賢治は上野の帝国図書館で、パウル・ダールケの「仏教の世界観」を原書(独語)で読んでいる。
  5. ビヂテリアン大祭」にブッダの最後の食事は豚肉か蕈(きのこ)だったのかという論争が出てくるが、大パリニッパーナ経という仏典にこの話が出てくる。漢訳仏典にはないので賢治はパーリ語系仏典も渉猟した。
  6. 日蓮と国柱会を柱にした賢治の狂信的とも思える法華経敬信は、保阪嘉内宛ての書簡に見られるが、それは大正10年で終わり、賢治の創作活動は大正10年以降に活発化する。その変化の動因は「図書館幻想」に見られるハウル・ダールケの「仏教の世界観」を読んだことである。
  7. 「銀河鉄道の夜」では、”ほかの神様を信じる人たちのことでも涙がこぼれるだろう。”ととても寛容なのである。オッペルに虐待された白い像は、”南無妙法蓮華経”とは祈らず、”苦しいです。サンタマリア”と叫ぶのである。
  8. 文語詩「不軽菩薩」に賢治の仏教がある。「不軽菩薩」は鳩摩羅什訳の妙法蓮華経常不軽菩薩品第二十が元である。賢治は「不軽菩薩」を何度も何度も推敲し、法華経の原文にはない仏教哲学的解釈を施し改変している。
  9. 「狐の生徒の歌」は原始仏教からの戒律である八正道の正見が語られている。これは戒律重視のパーリ語系仏教を主体とする西欧仏教学を元にしている。
    • ひるはカンカン日のひかり
    • よるはツンツン月あかり
    • たとへからだをさかれても
    • 狐の生徒はうそ云ふな

筆者の須田は結論として、賢治は法華経尊崇はするが、それにはとどまらない自由で柔軟な仏教観、宗教観を持っていたとする。基本的に山折哲雄と同じ結論である。

 賢治の宗教観が変わったという大正10年、それは賢治が家出し、父親と上方旅行をし、父と和解した年である。最愛の妹トシが病に倒れ亡くなった年である。賢治が詩や童話の創作に入っていく年である。須田はハウル・ダールケの「仏教の世界観」を読んだことを賢治の仏教観を変える動因であるとしているが、一冊の本よりも、父との諍い、家出、旅行、和解、妹の病と死など大正10年前後に賢治の身の回りでおこったすべてが変化のきっかけだったと思う。特に妹・トシの死が大きかったと思う。


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