備忘録として

タイトルのまま

環境と精神論

2008-12-15 23:07:11 | 他本
梅原猛の”百人一語”後半にも注目する一語はたくさんあったが、中でも南方熊楠、田中正造、新井白石の巻に展開される環境論が面白かった。宮沢賢治では真の共生について考えている。
明治末に発令された神社合祀(神社の統廃合)は、鎮守の森をつぶす環境破壊であるとして、南方熊楠はただ一人合祀に反対し、「ドン・キホーテのようにこっけい」に「森をつぶして何の伝統ぞ。何の神道ぞ。何の日本ぞ。」と絶叫する。仏教と神道の信者であった熊楠は、神道は森の生んだ宗教であり、神々は森に坐すゆえに、伐採は許されないと反対運動を起こす。今、私たちが見る神社の楠、松や銀杏の大木は熊楠に救われたのである。世界遺産の熊野古道も彼のお陰なのである。
有名な足尾鉱毒事件は、日本の近代化の途上で起こった最初の公害訴訟である。田中正造は、民を困苦に陥れて「何が国家の発展か」と農民とともに抵抗運動を続ける。梅原は、公害を容認する思想は近代化と営利の精神であり、これに対抗するには、田中正造のように正義を貫き悪に屈しない人間が必要だという。
新井白石は、イタリアの宣教師と接見した後、キリスト教の植物や動物に霊を認めない教説を批判的に言及している。明治以降、日本は韓国などに比べキリスト教の導入は著しくはなかったが、近代化の過程で「キリスト教は近代思想にもそのまま受け継がれ」、白石の拠り所とした儒教や仏教を忘れ、結果として地球環境の危機を招いた。梅原は、自然保護より経済発展を優先するキリスト教的西洋思想に対し、「現代ほど新しい形の宗教批判が必要な時はない」と厳しい。
本の最後は、宮沢賢治の「おお小十郎、おまへを殺すつもりはなかった」で締めくくる。熊の猟師である小十郎は、熊を何頭も殺してきたが、最後は熊が小十郎をあの世へ送る。人間は食う側にいて何の反省もしない。宮沢賢治は人間を食われる側に置いて、人間のエゴイズムを反省し、熊と人間の真の共生を描いた。コンクリートと鉄の技術に頼った形だけの共生ではなく精神的な共生である。

温室ガスの抑制のために、炭素クレジット(Carbon Credit)による二酸化炭素削減目標値が国ごと、企業毎に設定され、このクレジットは売買できる仕組みになっている。二酸化炭素を削減しきれない分を、目標以上に削減した企業や国から余剰分を購入できるという仕組みである。もともと環境破壊は人間の営利活動が最大の原因であるのに、対策としてクレジットという営利的な仕組みを用いるとは何と言う皮肉であろうか。これを合理的とか実利的とかいうのだろうが、自然を大切にする精神や賢治の言う真の共生からは、はるか遠くにいる。精神論や理想論では何も変えられないということか。悲しいことに梅原の訴えが虚しく響く。しかし、今こそ信念の思想家で行動する南方熊楠や田中正造が必要なのだ。



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