備忘録として

タイトルのまま

デクノボーになりたい

2009-02-13 22:40:19 | 賢治

山折哲雄の宮沢賢治論である。

雨ニモマケズ 風ニモマケズ
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ミンナニ”デクノボー”トヨバレ
ホメラレモセズ
クニモセズ
サウイウモノニ ワタシハナリタイ

の”デクノボー”である。

1.賢治は日蓮宗だけを信じていたわけではない。

一般に宮沢賢治は18歳のときに法華経を読んで感動し日蓮宗に帰依するようになったと言われているが、賢治は父親が熱心な信者であった浄土真宗を学び、またキリスト経カソリックとプロテスタントの神父さんたちと同時に親交があり、これら複数の宗教が矛盾なく賢治の心の中に入っていた。日本の風土は多神教的、汎神論的でさまざまな宗教に心が開かれていたと考えられ、賢治の目も広い世界に開かれていたと考えるべきだという。

2.賢治は他界から聞こえてくる声を聞くことができた。

賢治の内面には宗派や宗教を超えた自然や宇宙に対する独特な鋭い感覚がはたらいていた。星や天体に霊気が宿り、とりわけ風の中に精霊が宿っているという感覚を持つ。”永訣の朝”では、あふれ出る言葉を形にすることで、とし子の魂を呼び下ろそうとしている。

3.賢治は捨身飼虎図を知っていた。

なめとこ山と熊の猟師である小十郎は、熊の前に我が身を投げ出して死んでゆく。人間も自然界の食物連鎖の環の中に入っている。上原和は捨身飼虎は仏教ではなく狩猟民族的な生活習慣が影響を与えたとする。賢治の童話”二十六夜”に捨身菩薩という名のフクロウが登場し、食うか食われるかの日常を生きている。

4.共に生きるものは共に死ぬしかない。

賢治は共生と共死を当然の前提として生きていた。今、人は環境を論じるとき「共生、共生」と言うが、なぜか共生の一方通行である。共に生きる者は、共に死ぬべきであり、人間論・環境論は共生共死を原点に考えるべきである。

5.賢治につながる狩猟民的な感覚を伝えるもの

柳田国男「遠野物語」「山の人生」、千葉徳爾「人獣交渉史」、折口信夫と千葉徳爾による食うか食われるかに生きる武士論、万葉集の「ほかいびと」の世界、こじきの生活、新渡戸稲造「武士道」、写真家星野道夫の死(カムチャッカで熊に襲われる)、藤井日達のインドで虎が人間を襲う話

6.風が吹いて物語が始まり、風が吹いて終息する

春と修羅、風の又三郎、銀河鉄道の夜、注文の多い料理店など、賢治の作品にはみんな風が吹いている。
どっどど どどうど どどうど どどう、青いくるみも吹きとばせ(風又三郎)
ジョバンニが草の上に寝転がっていると、丘の草がそよぎはじめ、そして汽車の音が聞こえてくる。(銀河鉄道の夜)
風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。(注文の多い料理店)

7.中原中也の詩にも賢治と同じ風が吹く

中也は春と修羅を愛読していた。賢治がそうであったように、名辞以前の世界に注目し、知識以前の、いわば生の言葉を編んで詩を作ろうとした。中也の”永訣の秋”に賢治と同じ風が吹く。
僕は此の世の果てにいた。陽は温暖に降り酒(そそ)ぎ、風は花々揺(ゆす)っていた。
”永訣の朝”で賢治は、妹とし子の死にあって「此の世の果て」にいたのである。


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