極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

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戦後日本を支えた、駐日大使

2017-01-02 18:55:23 | 日米

以下文は、日本への自称伝、ウィキペヂア等々を主に参考にしていますが、個人的な見解が多々あり、疑問箇所があるかもしれませんが、雑文と言う事で。

 

私達が忘れてはならない米国人の一人は、元ライシャワー駐日大使と思います。

ライシャワー大使は昭和36年から5年間、駐日大使を務め、日米間の難問に対し日本に助言し、時には厳しく批判し多くの難問を解決しました。一部の方は非核3原則等々で評価されない方もおられるようですが、戦後、敗戦国であった日本がライシャワー氏の日本への想い、リーダーシップ等々により、十分とは言えないかもしれませんが、米国と対等になったとも言われ、大きな功績でもあると思います。米国との対等は米国のみならず、欧米等との対等を意味し、日本にとって戦後日本の大きな前進であったと思います。

日本に関した著書が多くありますが、「ライシャワーの見た日本・日米関係の歴史と展望」、「ザ・ジャパニーズ」、「日本への自叙伝」がお勧めです。特に「日本への自称伝」(昭和57年)はお勧めします。

文献から、ライシャワー氏はアメリカ人の誰よりも日本を理解していますが、日本軍部を非難しています。やはり日本人を理解したがゆえに、日本軍部を憎んでいたと思います。

ライシャワー氏は明治43年10月15日、キリスト教長老派教会宣教師で東京女子大学創立に関わったオーガスト・カール・ライシャワー氏の次男として、東京府東京市芝区白金台町の明治学院内宣教師住宅で生まれています。ライシャワー家はオーストリア系移民で、南北戦争(北軍)に祖父参加しています。父は宣教師として日本に派遣されました。

少年時代は多くの在京アメリカ人子弟と同様、小学校と中学校をアメリカ人向けナショナルスクールである築地のアメリカンスクール・イン・ジャパン (ASIJ) で学び、兄弟とも日本生まれから「ボーン・イン・ジャパン (BIJ)」と呼ばれ、後に自らを「たまたま日本に生まれたアメリカ人」と語っています。

昭和31年には、アメリカンスクール・イン・ジャパンの後輩である松方ハルと日本において再婚されています。披露のパーティーは父母が創設に尽力し、そのキャンパスに住んだ東京女子大学で行われています。結婚時ハルは40歳、5歳年上のライシャワー氏は再婚だったので、ハル夫人には1度に3児の母親となりました。

当時、ハル夫人は社交界が嫌いだったため、ライシャワーに駐日大使の要請があったときには猛反対したと言われています。

ライシャワー氏が、当時日本を理解、更に理解しようとしていた、ケネディ大統領の要請で駐日大使に起用されると、日本では日本人の妻を持つライシャワー大使を歓迎しました。日本語を話し、日本を愛し、日本のために助言を述べ、鋭い批評をして日本のために尽力されています。現ケネディ駐日大使は、ケネディ大統領の子供さんで父親同様、日本への想いは大きく、記事等でも日本への想いを見つけることが出来ます。

ライシャワー氏が大使に任命された理由は、日米間に大きな亀裂を残した安保闘争、昭和35年、ハーバード燕京研究所所長として日本を訪れたライシャワーは、損なわれた対話「The Broken Dialogue with Japan」と題した論文を、外交専門雑誌「フォーリン・アフェアーズ」1960年10月号に発表しています・・・「欧米は日本の閣僚、与党議員、財界の指導者層だけでなく、野党、右翼、左翼活動家、知識人とも異端視することなく対話を重ね日本の主流から外れた人々の実態や抱える不満を把握するべきである」と主張しています。現在もこの論文はフォーリン・アフェアーズにあります。英文ですが日本人と視点が違う見方でもあり、興味ある内容です。時間があれば訳文を載せます。

この論文は就任間もないジョン・F・ケネディ政権の国務次官、チェスター・ボールズの補佐官のジェームス・C・トムソン・ジュニアの目にとまり、駐日大使への就任要請につながったと言われています。文献からケネディ大統領自身も論文を読んだようです。

ジョン・F・ケネディ大統領からの大使就任要請を受諾したライシャワーは、昭和36年4月に駐日アメリカ特命全権大使として東京に赴任・・・

忘れてはいけないのは当時、日本政府は非核三原則の堅持を政策としていましたが、実際には核の持ち込みは行われていました。この矛盾した政策はライシャワー大使が筋書きを作ったとされています。昭和38年4月、大平正芳外相とライシャワー大使会談の際、大平外相が核搭載艦が日本に寄港、通過することは核の持ち込みには当てはまらないと認めた文書が米国立公文書館にあります。ライシャワー大使は日米のパートナーシップを力説し、新たな日米関係を築き上げることに尽力されています。

昭和39年3月24日、ライシャワー氏にとって不幸な事件が起こりました。

赤坂の大使館の裏玄関から乗車しようとした時、ナイフを持った少年に襲われ、右大腿を刺され負傷しました。少年はその場にいた書記官や海兵隊に取り押さえられ、駆けつけた赤坂署員に引き渡されました。止血の応急処置を実施し、虎ノ門共済病院に運ばれましたが、刺された大腿部の傷口が大きく出血量が大きく、1000ccの輸血が行われたと言われています。虎ノ門共済病院医師と横須賀米軍病院医師による手術は4時間の長時間に及んだと言われています。

私は日本で生まれましたが、日本人の血はありませんでした。日本人の血液を輸血してもらい、私は本当の日本人と血を分けた兄弟になれたと言っています。この事件が日米友好を傷つけないようにと何度も言ったそうです。犯人の少年は、静岡県沼津市に住む精神に障害を持つ19才の少年でした。少年は高校生の時から統合失調症を患っていました。犯行時は心神喪失状態だったとして不起訴処分、精神病院で治療を受けていましたが事件から7年後、少年は自殺しています。

ライシャワー大使は順調に回復、4月虎ノ門共済病院を退院後、リハビリのためハワイの陸軍病院に入院しましたが、輸血による血清肝炎を併発し、長い闘病生活を強いられることになりました。
輸血にはさまざまなウイルスが混入している可能性があり、輸血や血液製剤の投与によってさまざまな悲劇が生まれています。B型肝炎ウイルス、C型肝炎ウイルスの検査法が確立するまでは、輸血後肝炎は避けられないことであり、ライシャワー大使はその犠牲者となりました。ライシャワー大使はこの血清肝炎については自らは語っていません。

当時の輸血は大半が売血によって行われていました。血液銀行が売血者と呼ばれる半職業的血液提供者の血液を買い取るようになっていました。売血制度がライシャワー大使の血清肝炎を引き起こしました。事件後、マスコミは血清肝炎を取り上げ、売血廃止運動を行っています。

日本はライシャワー大使が日本人の血液によって血清肝炎になったことを深刻に受け止め、売血制度を是正する献血運動が盛り上がりました。売血制度批判キャンペーンの結果、献血運動が広がり、献血率は急速に上昇・・・政府は輸血の売血制度廃止を閣議決定しました。


ライシャワー氏は戦後、日本の近代化についての研究を行い、帰国後はハーバード大学教授に復帰されています。天皇、皇后両陛下が訪米された際はボストン郊外の自宅に宿泊されたと言われています。

晩年のライシャワー氏は、事件による血清肝炎に悩まされたと言われ、平成2年6月慢性肝炎が悪化しましが延命治療を拒否しています。平成2年9月1日、尊厳死を選択、79才で亡くなりました。

私の灰を日米を結ぶ海にとの遺言どうり、葬儀は行われず遺骨は太平洋にまかれました。
以後、ハル夫人は心臓発作のため平成10年9月25日にアメリカで亡くなりました、享年83才でした。

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