極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

I am grateful that I can freely write my daily thoughts

良心は、まだ生きています。

2016-02-02 11:15:15 | 道徳等

現在、世界人口は72億7200万人、有色人種は約52億人、その中の黒人の人達は約13億人位です。世界では人種差別はしてはいけないと言われていますが、現実は全く変わっていません。

以下の文は、実際に担当したBA(英国航空)のCAが友人に送った文です。
世界には、人種差別に対して、まだ良心は残っていることを示しているように思えます。私達に人種差別について考えさせる機会を作ったかも知れませんね。

下に日本文があります。(原英文は、メロンパン社長のプログからのコピーで、誤訳があるかも知れません。)

This is a true story
This scene took place on a BA flight between Johannesburg,
South Africa and London, England.
A white woman, about 50 years old, was seated next to a black man.
Obviously disturbed by this, she called the air hostess.
"You obviously do not see it then?" she responded.
"You placed me next to a black man. I do not agree to sit
next to someone from such a repugnant group. Give me an alternative seat."
"Be calm please.", the hostess replied.
"I will go to see if another place is available."
The hostess went away and then came back a few minutes later.
"Madam, just as I thought, there are no other available seats in Economy Class.
I spoke to the captain and he informed me that there are also no seats
in Business Class. All the same, we still have one seat in First Class."
Before the woman could say anything, the hostess continued.

"It is not usual for our company to permit someone from the Economy Class
to sit in the First Class.
However, given the circumstances, the captain feels that it would be scandalous
to make someone sit next to someone sooooo disgusting."
She turned to the black gentleman, and said,
"Therefore, Sir, if you would like to, please collect your hand luggage,
a seat awaits you in First Class."
At that moment, the other passengers, who'd been shocked by
what they had just witnessed, stood up and applauded.
This is a true story.

英国の航空会社、BA(英国航空)の機内で本当にあった話です。

南アフリカのヨハネスブルグからイギリスのロンドンに向かう出発時、BA(英国航空)の機内で起こりました。

50歳位の白人女性が黒人の隣に座ることになりました。
信じられないことにその白人女性は、CAを呼び出して、見ればわかるでしょう?
私を黒人の隣の席にしているのよ・・・
不快な人の横に座るなんて、私は承知できません。他の席に変えて!

CAは、その白人女性に、どうか静かにお願いしますと言いました。
唯今、席があるかどうか確かめてまいりますと応え、CAは数分後に戻って来ました。
そして白人女性に返事をしました。

お客様、あいにくエコノミー席に空席がございません。
機長にも相談しましたが、ビジネスクラスにも空きは無いとのことでした。
お差支つかえなければですが・・・ファーストクラスに一席だけ空きがございます。
CAはその白人女性客が返事する一瞬の間も与えず、CAは話し続けました。
私どもの会社、BA(英国航空)は、このような理由でエコノミーのお客様にファーストクラスへお移り願うことは滅多にいたしません・・・けれども、お客様が不快なまま機内にいる事は言語道断であると、機長が申しております。

そして、CAは黒人紳士に向かって言いました。
お客さま・・・という訳ですので、ファーストクラスにお席をご用意してお待ちしております。どうかお手荷物をおまとめください。

近くに居た乗客はこの事態に心を痛めていました・・・そして、この瞬間、近くに居た乗客は立ち上がって喝采を送りました。
本当にあった話です。


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子供達に修身を!

2015-11-24 12:17:41 | 道徳等
今日、小中学校で週に1回行われている道徳の時間は正式教科ではなく、道徳の教科書はなく、資料等?で教育が行われていると言われています。幸い、昨今安倍内閣は教育再生を目標にしており、道徳教育が課題の一つとして取り上げられています。
戦前の日本には道徳に相当すると言われる修身という教科があり、努力、親孝行、公益、正直等々、内容を偉人、有名人の言葉、エピソードを分かりやすく子供達にに教え、子供達は物事の基準としていたように思います。終戦後、修身は軍国主義教育だとされ、残念ながらGHQによって廃止されました。

道徳が位置づけになったのは1958年と言われていますが、教科とはならなかったようで、理由は道徳教育は心の問題等である、他の教科のように採点が難しいことが主な理由となっているそうです。

長く教科ではなかった道徳が、どうして今になって教科化される動きが出てきたのか・・・大きなきっかけは2011年に大津で起きた、いじめ自殺事件(2011年10月11日、滋賀県大津市内の中学校の当時2年生の男子生徒が、いじめを苦に自宅で自殺した事件)と言われていますが、他にも重大な少年犯罪の増加等、安倍内閣はいじめ対策の一つとして、道徳を強化に位置付けることを決定されました、遅まきながらも良策と思います。
戦前の子供達にもいじめがあったのは間違いないでしょうが、子供達の対応が現在と違ってるのは当然と思えます、何故なら修身等を学ぶことにより、子供達はそれなりの物事の基準を持っていたからでしょう。
全国では、今も多くの子供がいじめを受けてるのは間違いないでしょう、いじめと言う理不尽さを跳ね返すことが出来ない心優しい子供達です。いじめる方も善悪が曖昧で、本能的に行っているように思います・・・はっきりした善悪を子供達に示す基準等を教えるのには、修身に勝る教育はないように思います。

修身では努力、友情、親孝行、公益、正直等、25項目に及ぶ徳目を日本人にとって馴染みの深い過去、現代の偉人、有名人の言葉やエピソードをふんだんに用いて教えていたと言われています。

以下の、3つの物語りは修身では有名だそうです。
二宮金次郎、毛利元就、山内一豊の物語で、当時の子供達は、これらの物語により物事の基準を自分なりに作ったと思います。子供達にこんな分かりやすい、興味をそそる物語が戦後消えてしまいました、本当に残念です。

1 親や先祖を大切にしましょう。「父母ニ孝ニ」

二宮金次郎(幕末の貧しい農民で、苦労しながら学んで成功した人です。努力して武士の身分にまでになった彼は、明治時代、農地改革に尽力をつくした人です。)

 二宮金次郎は、家が大そうびんぼうであったので、小さい時から、父母の手助けをしました。
 金次郎が十四の時、父がなくなりました。母は暮らしにこまって、金次郎と次の子を家におき、すえのちのみごをしんるいにあずけました。しかし、母は、その日から、あずけた子のことが気にかかって、夜もよく眠れません。「今ごろは、目をさまして、ちちをさがして泣いているであろう。」と思うと、かわいそうでならなくなり、いつも、こっそり泣いていました。金次郎は、それに気がついて、 「おかあさん、どうしておやすみになりませんか。」
と聞きましたが、母は、 「しんぱいしないでおやすみ。」というだけでした。金次郎は、「これは、きっとあずけた弟のことをしんぱいしていらっしゃるのにちがいない。」と思って、 「おかあさん、弟をうちへ連れてかえりましょう。赤んぼうが一人ぐらいいたって、何でもありません。私が一生けんめいにはたらきますから。」といいました。 母は、大そう喜んで、すぐにしんるいへ行って、赤んぼうを連れてもどりました。親子四人は、一緒に集まって喜び合いました。


2 きょうだい仲良くしましょう。「兄弟ニ友ニ」

毛利元就(室町時代後期から戦国時代にかけての安芸、現在の広島県西部の国人領主・戦国大名です。)
 毛利元就は戦国時代に中国地方を治めていた勢力のある武士でした。元就には隆元・元春・隆景という三人の子どもがありました。
 ある時、元就は三人の子どもを集めて、三本の矢を一つに束ねたものをそれぞれに渡して、それを折るように命じました。しかし、丈夫な矢が三本もしっかり束ねてあるのですから、いくら力を出しても子どもの力では折ることが出来ません。そこで元就は、束ねてあった矢を一本一本ばらばらにして、それを渡して折るように命じました。今度は一本だけですから三人ともたやすく折ることが出来ました。元就は三人の子どもに向って、「兄弟もこの矢とまったく同じである。兄弟が仲良く協力一致すれば、どんな強い敵から攻められても、なかなか破れるものではない。反対に、兄弟がばらばらになれば簡単に敵に攻め破られることになる。この矢をみて、三人ともよく心に留めて省みなければならない。」と言って諭しました。

 また、三人の子どもが成人した時、元就は三人に一つの書き物を渡しました。それには、「三人とも、毛利の家を大切に思い、たがいに、少しでもへだて心を持ってはならない。隆元は二人の弟を愛し、元春・隆景はよく兄につかえよ。そうして、三人が一つ心になって助け合え。」
と書いてありました。また、元就は、隆元に別の書き物を渡しましたが、それにも、「あの書き物をまもりとおして、家の栄をはかるようにせよ。」と、よく行きとどいた戒めが書いてありました。
 書き物をもらった兄弟は、三人の名を書きならべた請書を父にさし出し、「三人は、心を合わせて御戒めを守ります。」と、かたくちかいました。
この三本の矢はJリーグ、広島のサンフレッチェのサンは、この三本の矢のさんをサンとして使用されているそうです。


3 夫婦はいつも仲むつまじくしましょう。「夫婦相和シ」
山内一豊の妻、見性院(戦国時代から江戸時代にかけての女性で、土佐国土佐藩初代藩主、山内一豊の妻です、本名は千代ともまつとも言われています。)

山内一豊が織田信長のけらいになったばかりのころ、大そうよい馬を売りに来た者がありました。これを見た人は皆ほしいとは思いましたが、何分にも値が高いので、誰一人買おうという者がありません。馬の主は馬を引いてかえろうとしました。 一豐も、ほしくてほしくてたまらないから、家へかえって、「ああ、金がないほど残念なことはない。武士としてはあのくらいな馬をもってみたい。」と思わずひとり言をいいました。妻はこれを聞いて、夫に向かって、「その馬の値はいかほどでございます。?」「金十両。」妻は立って、鏡箱の中から十両の金を出して、「どうぞ、これでその馬をおもとめあそばしませ。」一豊はおどろいて、「これは又どうした金か。これまで貧しい暮らしをしているのに、こんな大金を持っているなら、なぜあると一言いわなかった。」「さようでございます。このお金は私がこちらへまいる時、「夫の一大事の折りに使え。」と申して父の渡してくれた金でございます。人の話によりますと、ご主人織田様には、近いうちに京都で馬ぞろえをなさいますとのこと。さだめて皆様はごじまんの馬に乗ってお集まりのことでございましょう。あなた様にも、その折りにはよい馬にめして、主人のお目にとまるようになされるのが大事と考えまして、今日このお金を出しましたのでございます。」

 一豊は妻に礼をのべて、その馬をもとめました。やがて馬ぞろえの日となって、一豊の馬は、はたして信長の目にとまって、「ああ、よい馬、名馬々々。誰の馬か。」とたずねました。けらいのものが、「これは一豊の馬でございます。」
といいますと、「日ごろ貧しい暮しをしている一豊が、よくもこういうよい馬を買いもとめた。見上げた志のもの、りっぱな武士」と、信長は大そう感心して、これが一豊の出世のもとになったということであります。
等々・・・
現代の道徳等の時間で使ってもらい物語です。

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小さな親切、感謝の心

2015-10-31 20:49:53 | 道徳等
我々が社会、周りの人達に対し、今日から出来ること・・・まず身近な周りの人達に対する挨拶、親切、感謝等の言葉等が一番いいかもしれません。

米国にいた時、まず感じたことは挨拶、感謝等の言葉の使用回数が多いのには驚きました・・・全く初対面の知らない人でも公共の場等でも気軽に、グッモーニング(おはようございます)、サンキュー(ありがとう)、エクスキューズミー(すいません)、ユー・ウエルカム(どーいたしまして)、ハバ・ナイスデイ(いい一日でありますように)等・・・この5つの英語をびっくりするくらい多く使用します。日本では、面識がない人に挨拶等するには少し抵抗がありますが、本当に場が明るくなり益々アメリカ人に親しみを感じるようになります。
もう一つはレディー・ファーストです、日本では少し恥ずかしさ?もあり少ないですが、エレベーター、出入り口等で順番を譲って・・・とても素敵な美人からにっこり微笑み、サンキューと言われたらドキッ!としたものです、更に女性はサンキューと言うときは必ず(私の経験では100%)にこっとします。これらの行為には身分の差は無いように感じています。この二つの、ささやかな行為がどれほどアメリカの価値、評価を高めているか計り知れないと思います。

日本では何か文化等々の違いも有り、これらの行為は少し抵抗がありますが・・・これら以上の素晴らしい運動が日本にはあります、小さな黄金律(宗教、道徳や哲学で見出される、 他人にしてもらいたいと思うような行為をせよという内容の倫理学的言明)とも言える、「小さな親切運動」です。内容が易しく、誰にでも即実行出来ます。小さな行為ですが、明るい社会等になると思います。

東京大学の卒業告辞(卒業生に対し、あらたまって告げ知らせる言葉)から、小さな親切の芽が生まれました・・・昭和38年3月の東京大学卒業式において、茅誠司学長は卒業生に向けて次のような言葉を贈っています。

「さまざまな知識を持っているだけでは、百科事典を頭の中にかかえて歩いている人間にすぎません。

その教養を社会人としての生活の中に、どのように生かすかということが重要と存じます。

そして、その教養を基盤として人格をつくるために必要なこととして、エピソードを聞 かせ・・・小さな親切はなだれのように発達するものであるとともに、バラバラの知識を統合して立派な人間形成に寄与するものであります。」・・・茅誠司学長は、やろうとすれば誰でもできることから始められると諭しました。

     卒業告辞の詳細
小さな親切、八か条(茅誠司初代代表提唱)

1. 朝夕の挨拶を必ずしましょう。
2. はっきりした声で返事をしましょう。
3. 他人からの親切を心から受け入れ、「ありがとう」と言いましょう。
4. 人から「ありがとう」と言われたら、「どういたしまして」と言いましょう。
5. 紙くずなどをやたらに捨てないようにしましょう。
6. 電車やバスの中でお年寄りや、赤ちゃんを抱いたお母さんには席を譲りましょうう。
7. 人が困っているのを見たら、手伝ってあげましょう。
8. 他人の迷惑になることはやめましょう。
 
昭和38年に始まった「小さな親切」運動は全国に広がり、33道府県に県本部、141市町村に支 部が結成されているそうです。

我々が忘れかけていた、小さな親切、感謝等・・・より良い明るい、社会を作るには無理なく今日からでも出来ることから実行・・・小さな黄金律とも言える、八か条を実行することが一番かも知れませんね。

ネット等資料を一部参考にしています。

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二宮尊徳の心

2015-05-07 18:38:19 | 道徳等
江戸時代後期の代表的日本人、二宮尊徳(にのみやそんとく)、またの名を二宮金次郎、過去日本人等に与えた影響は、はかり知れないものがありますが、昨今では名前が出てくることは稀です。海外の国でも二宮尊徳は見習うべき大偉人として語り継がれていると言われています。
 
非常に貧しい農民出身で、家の農作業を手伝うために、朝から晩まで働きました。働くだけで、字も読めない人間にはなりたくないと考えた彼は、仕事の合間に・・・また薪を運ぶときに・・・または仕事が終わったあとに本を読みました。
 
深夜、油に火をつけて、その明かりで勉強しましたが、叔父は彼のその姿を見て、貴重な油をそんなに使うとは何事だ!勉強などして何の役に立つものか!と叱ったと言われています。当時は農民には勉強などいらないと考えられていました。
 
二宮尊徳は、そのために勉強を一時中止し、川の堤防の上に持ち主が分からない土地を見つけ、そこを開墾し油菜のタネを撒きました。休日のすべてを油菜栽培のために捧げた結果、一年の終わりには、大俵一俵の菜種を得ることが出来たと言われています。
 
彼の一生懸命の労働への報いとして、自然が与えてくれたと言う事が出来ると思います。その油菜のタネを製油場に持っていって数升の油と取り替えてもらいました。この油でランプを点し、勉強することが出来ます。叔父に面倒をかけることなく、自分の勉強が出来るようになり大変喜んだそうです。
 
自然は人の正直な一生懸命な勤労に対して真実に答えてくれることを学んだと言われており、自然はその法則に従う者に対し、豊かな恵みをもって報いてくれる!天地を経文すると言っています・・・天地自然は最高の教科書となりました。

*音もなく、香もなく、常に天地は見えざる経を繰り返しつつ*
 
この悟りは、彼の人生の大きな原動力となったと言われています。彼は一生懸命勤勉に働き、34歳のときには4町歩あまりの地主(当事の農民は、庄屋さんから借りている小作農ばかりで地域にもよりますが、平均1反~2反程度・・・4町歩は40反以上の農地となると思います。)になりました。
 
その手腕を大名、幕府等に買われ、貧しい農村の復興事業をまかされ、大きな成果を上げ、農民の生活向上に繋がりました。

 誠を尽くして生きる所では、天地も共に動く・・・これは彼の信念でした。こうして、各地域の村を「勤勉」と「仁術(じんじゅつ:他人に対する思いやりの心)」とによって復興、繁栄をもたらした二宮尊徳は、士農工商階級の人々に大変尊敬されたと言われています。農民のあいだに不満がつのり、どのようにしてもそれを抑えることができない一時期、二宮尊徳は、天は、誠の心の足りない私を罰しておられるのだと言い、21日間、寺(成田不動)にこもって断食をしたと言われています・・・それは民を導くために、なお多くの誠の心が与えられるようにとの祈りだったと言われています。

二宮尊徳の、この天への祈りは、無名の神への祈りと言う事ができると思います。
その神への誠の心は、古来より多くの日本人の根底に流れる崇高なな精神性を表していると思います。

「勤勉」と「他人への思いやり」、現代日本人が忘れてはならない言葉だと思います。

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古来の日本人の道徳観

2015-04-27 09:23:48 | 道徳等
 古来の日本人の道徳観は何処から来てるのだろうか・・・
3世紀末に書かれた中国の魏志倭人伝(西晋の陳寿著、俗挙事行来)には、倭国人はウソを言わない、泥棒がほとんどいないと記しています。
 
 656年に書かれた中国の隋書倭国伝(当時の倭国と、その王多利思北孤や朝鮮半島にあった高句麗、新羅、百済と琉求について記述されています。)では、人はとても落ち着いており、争いごとは稀で、盗賊も少なく、百済・新羅は倭国を尊敬していたとの文があります。
 
 1549年、日本にやってきたフランシスコ・ザビエルは本国に送った手紙では、この国の人々は今まで発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人々は異教徒の間では見つけられない。彼らは親しみやすく一般に善良で悪意が見られません。武士達は、貧しくとも、武士以外の人々がどれほど裕福であっても、貧しい武士達は金持ちと同じように尊敬されています。名誉は富よりもずっと大切なものとされていました。
 
 イギリス人女性旅行家で紀行作家のイザベラ・バード(Isabella Lucy Bird, 1831年10月15日 - 1904年10月7日)は、イギリスの女性旅行家、紀行作家、明治時代東北地方、北海道、関西等を旅行し、その旅行記"Unbeaten Tracks in Japan"(日本奥地紀行)を書いています。特に日本人の一般庶民の道徳観の高さを記しています。ヨーロッパの国の多くや、所によっては我が国でも、女性が外国の衣装で一人旅をすれば現実の危険はないとしても、無礼や侮辱にあったり、金をぼったくられたりするものだが、私は日本で、一度たりともそのような目にあわなかったと書いています。

 古来から礼儀正しく、正直で、勤勉とされた日本人、高い評価は内外の数多くの文献等で見られます。

 先の戦争で敗れた日本は、GHQによる徹底した愚民化政策によって民族の誇りを失ない、今日の姿にまで堕落してしまいましたが、今もこれでもかと言う位、毎日流される芸能等々の低俗なテレビ等の番組・・・多くの日本人はこれらの事実にさえ気がついていません。

 過去に遡って適用される事後法によって、平和に対する罪、人道に反する罪等を作って戦争犯罪人を作り、日本を犯罪国家にした東京裁判・・・インドのパール判事が述べたように正義も何もありません。

 戦後、公職追放によって、約20万人以上の良識ある民族派等の人達が職場等から追放され、戦前の可笑しな左翼等が占めることになりました。この政策によって最も悪い影響を受けたのは学界、言論界と言われています。
 戦後、民主主義を標榜するGHQアメリカは、徹底した言論・思想統制によって日本人に自虐史観を植えつける事に大成功しました、この流れは現在も続いてるように思えます。

 独立国として特に大きかったのは、GHQ作成の日本国憲法によって軍を有する権利を失いました。日本は独立国家として最低限の権利である自衛権をも放棄させられ、自から国家を守ることが出来なくなりました、独立国家としての体を成していないと言うことが出来ます。こんな国は世界に見当たりません、政府も分かっているが、大きなジレンマ悩まされているのでは・・・

 戦前、美しい自然を有する我々と同じ地て育ち、同じ言葉を話した日本人は、貧しかったが礼儀正しく、正直で、勤勉で特に名誉を重んじてました。本当に心豊かな生活をしていました・・・

 戦後の我が国を取り巻く隣国を見た場合、日本の意思とは違う・・・国境問題等等々、全て対立を好くする人達により作られていると言うことが出来ます。
 靖国、従軍慰安婦、反日等々においても同様です、誰でも精査すれば原因を見つけることは容易だと思います。

 今こそ日本人は、誇りを取り戻すためにもどうしても、憲法を国民の手で作り直すべきです。日本を取り巻く大きな諸問題・・・精査すれば必ず核心部分に到達できるように思えます。

 日本には世界最高の道徳規範等の宝があります、世界の多くの国々は日本の道徳等資料を参考に精神教育等を行なっているといわれています。残念ながら日本国内では十分に活用されていないのは理解に苦しみます。未来の背負う子供達にこれらの道徳規範等を是非教えてほしいです。
日本は決して悪い国では有りません!

 日々の生活では、どんなに貧しくても日本人としての誇りを持って生活したいものですね。


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子供たちへの道徳、修身教育なくして、日本の未来は無い!

2015-03-13 00:22:49 | 道徳等

 昨今の日本を取り巻く諸環境、殺人、殺人未遂、既得権、格差、公金不正受給、いじめ等々突き詰めれば、人間としての道徳等の問題となるように思えます。
 世界の人々から尊敬、羨望等される皇室を頂点とした日本国・・・特に日本人の中に流れていた武士道、道徳心等、戦後GHQ(主にニューディラーと言われる、アシュケナージ・ユダヤ人「旧約聖書の中のユダヤ人とは違うユダヤ教宗教集団」、現世界を金融支配してる人々)により徹底的に取り払われ、極度な個人主義ばかりの追求・・・まんまとGHQにやられたと言うのが実感に思います。

 以後、特に一番多感な子供たちに対する道徳教育等は皆無に等しく、未来を背負う子供たちは、人間のあるべき姿、目標等々はことごとく剥ぎ取ってしまわれ・・・ゲームのみに講じる現代の子供達


 世界の人々は・・・海外のプログ等を見ると、今も日本は武士道、崇高な道徳が生きてる国だと思ってるのは間違いないように思えます。

 今こそ日本人は、GHQが武士道、道徳等を剥ぎ取った事実に気付くべきです、何故取り払ったかを・・・

 明治36年、文部省より国定修身教科書を発行、この教科書に基づいて修身教育が行われました。修身教育は、明治、大正、昭和と3つの世代を通じて長い間日本人の精神形成の中心的な役割を担ってきました。
 
 修身は、昭和20年日本の敗戦に伴い、同年12月31日の占領軍指令「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」で授業の終了と教科書の回収が決定され、残念ながら日本人の魂と言うべき修身等は日本の教育の現場から姿を消してしまいました。以後は、日本を支配しやすい日本国民に形作られて・・・

 修身の教科書には、吉田松陰、勝海舟、加藤清正、米国初代大統領ワシントン等、古今東西の偉人の話が分かりやすく記載されていました・・・具体的なエピソードを通して、正直、勤勉、正義、公益等の徳目を教えていました。修身の教科は多くの若者の人格形成に良い影響を与えてくれたと思います。

 戦後の教育は、個性を最重視し、修身で教えていた徳目や、日本の歴史、文化、慣習を蔑ろにしてしまいました、結果は、日本人の心は荒廃し、治安等々も悪化・・・現在は辛うじて一部修身等が生き残っています。

 戦前のことについては、いつの間にか日本人は否定的な見方をする国民になってしまいまし
た、全てが良いとは思いませんが・・・教育に関しては、親から子へと語り継ぎ、世代間で共通の道徳観を持つことが出来た戦前の教育の方が良かったのは事実と思います。

  修身の教科では・・・
「家庭のしつけ」「 親孝行」「 家族・家庭」「 勤労・努力」
「 勉学・研究 」「創意・工夫」「 公益・奉仕」「 博愛・慈善」
「 資質・倹約 」「責任・職分」「 友情」「 信義・誠実」
「 師弟 反省」 「正直・至誠」「 克己・節制」「 謝恩 」
「健康・養生」「愛国心」 「人物・人格」「 公衆道徳」
「国旗と国家」「 国際協調」等々

 どうして修身の教科が日本人の中で否定されるようになったのか・・・内容的に否定する理由が見当たらないように思えます。

 教育勅語は、1890年(明治23年)に発表された日本の教育の根幹と国民の培うべき徳行を説いた勅語です。正式には「教育ニ関スル勅語」と言われています。
 
 教育勅語には、日本人が祖先から受け継いできた豊かな感性と伝統的道徳観が込められており、人が生きてゆく上で心がけるべき徳目が、12の項目に別けられて簡潔に述べられております。年配者は、皆この教育勅語を暗唱出来、学校では修身を学び、道徳観を養っていました。

教育ニ関スル勅語

朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風を顕彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス
朕爾臣民ト倶ニ拳拳服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二十三年十月三十日
御名 御璽

徳目は、次の12の項目です。

1.父母ニ孝(こう)ニ         
 親や先祖を大切にしましょう
2.兄弟(けいてい)ニ友(ゆう)ニ   
 兄弟仲良くしましょう
3.夫婦相和(あいわ)シ       
 夫婦はいつまでも仲むつまじくしましょう
4.朋友相信(ほうゆう)ジ       
 友達はお互いに信じあいましょう
5.恭倹(きょうけん)己(おの)レヲ持(じ)シ  
 自分の言動を慎みましょう
6.博愛衆(しゅう)ニ及ボシ   
 広くすべての人に愛の手をさしのべましょう
7.学ヲ修メ業(ぎょう)ヲ習ヒ      
 勉強にはげみ技能を身につけましょう
8.智能ヲ啓発シ             
 知徳を養い才能を伸ばしましょう
9.徳器(とっき)ヲ成就(じょうじゅ)シ    
 人格の向上につとめましょう
10.公益ヲ広メ、政務ヲ 開キ    
 広く世の人々や社会のためにつくしましょう
11.國憲ヲ重ジ、國法ニ遵(したが)ヒ   
 規則に従い社会の秩序を守りましょう
12.一旦緩急アレバ、義勇公(こう)ニ奉(ほう)ジ   
 勇気をもって国難のときは世のためにつくしましょう

 詔勅で示されたことで終戦後廃止となりましたが、我々が学ぶべき内容が明確に示されている大切な教科です。

 教えの部分は、現代でも当然身に着けるべき内容だと思いますし、未来の子供たちへの最高のプレゼントになると思います。特に昨今の後を絶たない、いじめ問題等はなくなる可能性があります。

 「子供たちへの道徳、修身教育等無くして、今後の新しい日本、未来の日本は有り得ないでしょう!」

プログ、未来への提言等を参考にしています。


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人種差別と戦った日本

2014-12-16 06:19:58 | 道徳等
 牧野伸顕(まきの のぶあき:1861年11月24日、文久元年10月22日、薩摩国鹿児島城下加治屋町猫之薬師小路に薩摩藩士・大久保利通と妻・満寿子の二男として生れ、幼名は伸熊)と言っても殆どの人は誰かわからないと思いますが、1次大戦終了後、パリでの講和会議で欧米列強に対し、人種差別撤退日本提案を訴えた人です。
当時の世界情勢は弱肉強食の時代で、有色人種国からは搾取に次ぐ搾取で、有色人種は動物のごとく扱われていました。
 
 我々がヨーロッパを旅行すると豪華絢爛な城等を見ることができますが、この裏にはアジア、アフリカ等々の植民地での搾取した利益により造られていることを知るべきです、アジア、アフリカ等々血と涙が流れています。植民地支配の根底には人種差別が存在しています。
1次大戦終了後(1919年)1月14日、講和会議のためフランス、パリに到着した日本全権団は「人種差別撤廃提案」成立のため、牧野伸顕らは各国と交渉を開始しますが、特にイギリスとの交渉は難航、イギリス帝国内の自治領であるオーストラリア、カナダが強く反対、オーストラリアは白豪主義体制を国是としていました、労働問題等もあり、選挙が目前に迫っていたこともあり、この提案はとても受け入れがたいものであったようです。
 
 イギリスのロバート・セシル元封鎖相、アーサー・バルフォア外相は、個人的には日本の立場に賛成だが、人種差別撤廃という問題を連盟規約で扱うのは妥当ではないと回答、バルフォアは特定の国において、人々の平等というのはありえるが、中央アフリカの黒人がヨーロッパの人間と平等だとは思わないと述べています。
当時のパリ講和会議において、日本代表は自国の利害が絡む山東問題・南洋諸島問題以外は積極的な発言を行わずサイレント・パートナーとさえ揶揄されていました。米ウィルソン大統領の悲願であった国際連盟設立に関しても、日本は消極的態度に終始し、各国の失望を買っていたと言われています。

 1月の五大国会議で牧野伸顕が連盟設立に関して意見を留保したことは、米大統領ウィルソンやデビッド・ロイド・ジョージイギリス首相の不興を買ったと言われており、日本側提案の採択は極めて難しいと見られていましたが、日本側は正否はともかく、本問題に関する我主張を鮮明することは、日本のみならず有色人種の将来のためにも極めて緊要という判断から、提案を行うことになったと言われています。

      最初の提案
 2月、国際連盟委員会において、牧野は連盟規約21条の宗教に関する規定・・・各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り締約国は成るべく速に連盟員たる国家に於る一切の外国人に対し、均等公正の待遇を与え、人種或いは国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す、という条文を最後に追加するように日本側が提案します。
牧野伸顕は、特に「人種・宗教の怨恨が戦争の原因」となっており、恒久平和の実現のためにはこの提案がどうしても必要であると訴えました。

 この提案によって即座に各国における人種差別政策撤廃が行われるわけではなく、その運用は国家の為政者の手にまかされると述べ、受け入れやすいよう柔軟性を持たせていました。
ベルギー代表は日本案の条文に反対、ブラジル・ルーマニア・チェコスロバキアの代表が日本の主張に理解を示す発言を行い、中華民国代表は本国の訓令を待つとして意見を保留しました。
その後、宗教に関する規定そのものを削除するべきと言う意見が多数となり、21条自体が削除されました、牧野伸顕は人種差別撤廃提案自体は後日の会議で提案すると述べ、次の機会を待つこととなりました。
 
 人種差別撤退提案は、海外でも大きく報道され、様々な反響を呼ぶことになりました。西洋列強の圧力に苦しんでいたリベリア人やアイルランド人、全米黒人地位向上協会(NAACP)等々から人種的差別撤廃提案に感謝の言葉を受けています。
2月アメリカに一時帰国した米大統領ウィルソンは、人種差別撤廃提案が国内法の改正に言及しており、内政干渉に当たるという国内の強い批判に直面することとなりました。アメリカ合衆国上院では人種差別撤廃提案が採択された際には、アメリカは国際連盟に参加しないという決議が行われており、ウィルソンもこの反対を抑えることはできませんでした。
3月、牧野はオーストラリアのビリー・ヒューズ首相と会談しましたが、ヒューズ首相は国内事情から賛成できないと述べ、その後のイギリス帝国各国代表を交えた会議でも強硬に反対しました。イギリス・ニュージーランド・カナダは牧野の説得で賛成に傾きつつあったが、ヒューズの強硬な態度はこれらの国も反対に回帰させてしまいました。

     2回目の提案
 4月、夜の国際連盟委員会最終会合において、牧野伸顕は連盟規約前文に国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す、との文言を盛り込むという修正案を提案しました。イギリスのセシル元封鎖相は、このような文句の挿入は全く無意味であり、意味があるとするなら、重大な反対をしなければならない。この問題は国際連盟成立後の活動に待つべきである。日本は現時点において五大国のひとつである事実をみれば、待遇の優劣は国際連盟においては問題にならないと猛反対しました。
 
 牧野伸顕は日本修正案はあくまで理念をうたうものであって、その国の内政における法律的規制を求めるものではないにも関わらず、これを拒否しようというのは、イギリスが他の国を平等と見ていない証拠であるとし、修正案の採決を強く求めました。
 その後イタリア、フランス、ギリシャ、中華民国、ポーランド等の各代表が賛否を述べ、討議が行われました。議長であった米大統領ウィルソンは、この問題は平静に取り扱うべきであり、総会で論議することは避けられないと述べ、提案そのものを取り下げるよう勧告したが、牧野伸顕は採決を強く要求しました。
 
 議長、米大統領ウィルソンを除く出席者16名が投票を行い、フランス代表・イタリア代表各2名、ギリシャ・中華民国・ポルトガル・チェコスロバキア・セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国(後のユーゴスラビア王国)の各1名、計11名の委員が賛成、イギリス・アメリカ・ポーランド・ブラジル・ルーマニアの計5名の委員が反対

 ウィルソンは「全会一致でないため提案は不成立である」と宣言、牧野伸顕は「会議の問題においては過去多数決で決定されている」と反発したが、ウィルソンは本件のような重大な問題については全会一致、少なくとも反対者ゼロの状態で採決されてきたと回答しました、牧野伸顕は日本はその主張の正常なるを信ずるが故に、機会あるが毎に本問題を提議せざるを得ない・・・また今晩の自分の陳述および賛否の数は「議事録に記載してもらいたい」と述べ、ウィルソンも応諾し、議事録記載となりました。こうして日本が列強ヨーロッパに対し求めた、人種差別撤退提案は実現しませんでしたが、議事録に記載されたことで、後世多くの有色人種国が日本が有色人種の平和繁栄に努めるために努力した証を知ることが出来たと言われており、日本は有色人種国から見れば希望の星でもあったと言え、現在も希望の星です!

 フランス代表フェルディナンド・ラルノードは、この採決方式に疑問を呈しています。4月の国際連盟国総会議において牧野伸顕は人種問題の留保について演説を行い、人種問題に関する日本政府の立場を説明しました。成立は困難であると見られたため、総会での提案は行われませんでした。以降、日本は人種差別撤廃に関する提案を一時断念することとなりました。
当時の人種差別世界情勢の中で、堂々と独立国として、欧米列強国に対し日本の意思を表明したことは素晴らしいことです。

  参考
投票の内訳

・・・賛成・・・
大日本帝国 (2票)
フランス (2票) - 委員の一人はレオン・ブルジョワ元首相
イタリア王国 (2票) - 委員の一人はヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド首相
ギリシャ王国 (1票) - エレフテリオス・ヴェニゼロス首相
セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国(後のユーゴスラビア王国) (1票)
チェコスロバキア (1票)
ポルトガル (1票)
中華民国 (1票)
総計11票

・・・反対又は保留・・・
アメリカ合衆国(1票) - アメリカ代表委員の一人ウィルソンは議長のため投票に不参加
イギリス (1票)
ブラジル (1票)
ポーランド(1票)
ポーランドは倫理上の観点からではなく、条文に規定がない提案を前文に挿入することは規約の構成上問題があるという法理学上の観点から反対意見を述べています。
ルーマニア王国(1票)
総計5票

 提案の否決によって日本国内の新聞世論や政治団体は憤激し、国際連盟加入を見合わせるべきという強硬論も強まりました。外交調査会でも伊東、犬養、内田外相、田中義一が牧野を軟弱と批判しましたが、提案達成より米英との協調を図るべきと考えた原敬首相は牧野伸顕を擁護しました。

 1924年にはアメリカでいわゆる排日移民法が成立し、日系移民が全面禁止、日本国民の対米感情の悪化は決定的になりました。
1929年に世界恐慌が始まると、植民地が少ない日本は、第1次世界大戦後に植民地を喪失し、フランス政府による、歴史上類がない報復的なヴェルサイユ体制に反感を持つドイツ(日本が模範とした国家)への親近感を強め、植民地大国であるイギリスやフランスへの反感を強めました。これら一連の流れは、その後の太平洋戦争(大東亜戦争)への呼び水となりました。

 牧野伸顕・・・人種、宗教の怨恨が戦争の原因の一つ・・・
 自国の主張を堂々と列強欧米に述べる、根底には日本が世界平和を望んでおり、有色人種の平和繁栄を望んでいた、大東亜共栄圏に繋がるかなと思います・・・輝いていた当時の日本!
現日本も独立国として、輝きを取り戻すことは十分可能だと思います。

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世界に誇る日本の道徳規範

2014-09-25 12:43:33 | 道徳等
 昨今の日本の諸悪等の根源等は何であろうか、、、どうも道徳心等欠如によるところが大きく、特に道徳教育等を正しく受けて無い戦後世代の我々等は、単に利権、既得権、自己中心等になり、本来の日本人(義、惻隠の心、誠実等)からはかけ離れていると思います。

 是非、今後道徳、修身教育等を小学生位から実施したらどうでしょうか、、、賛否両論はあると思いますが。(戦中行き過ぎた面を指摘される方がいますが、その部分等は一部是正等すれば事足りると思います。)
 毎日のテレビ、新聞等の報道は、痛ましい殺人事件、法律違反等々の重大な不正行為等の話題ばかりです。昭和二十年の敗戦までは、江戸時代から諸外国では日本は犯罪が少なくて安全で、日本人は礼儀正しい、誠実、惻隠の心等を持った国民であると世界中の人達から評価されていたようです。
 
 今では、小学生でも防犯ベル持参で登校するという国に成り下がってしまいました。
潜在的な加害者は、日本の社会に無数に存在すると思います、マッカーサー(GHQ)に占領されて以来の倫理道徳不在の学校教育・社会教育等のツケが回って来たと思います。
 
 倫理道徳復活の方策は、教育勅語が特に参考になると思います。現在の公衆道徳の退廃と同様に、明治維新の際も大変な混乱がありました。欧米の文明文化崇拝で、日本古来の倫理道徳・武道精神等は、封建的で無価値なものだという偏見が横行し、学校、社会も国民道徳の規範が無くなって大混乱に陥ったといわれています。

 この非常事態を改善するために、全国の知事会・文部大臣・総理・明治天皇の側近の人々が知恵を結集して完成させたのが『教育勅語』でした。教育勅語の発布で乱れに乱れた日本の教育界等が正常化し、発展したばかりでなく、世界各国の学者・国家指導者等から絶賛され、全世界の国民教育の模範となりました。極当たり前のことを誰でも実践できる内容で、何らイデオロギーの問題ではありません。今でも世界の憲法、法律等草案の見本とされてるそうです、本当に素晴らしいことです。
 
 冷戦時代米国のレーガン大統領は米国社会、学校現場の崩壊等々、現日本の状況と同じでした、何とか米国の社会道徳荒廃等を止めようと、時の教育長官べネッタ氏を中心に、レーガン大統領、閣僚等が話し合いを重ね、一致した最終結論は道徳教育の必要性でした、あらゆる道徳教育資料を世界から捜し求め、行き着いたのが、「日本の教育勅語」でした。倫理道徳は世界共通で人種の隔たりはないと思います。

 教育勅語は米国版「道徳教本:The Book Of Virtues」(最終章のみ聖書の文が付け加えられていますが、本文は教育勅語です。)として国内教育機関、国内一般家庭等に広められ、内容が分かりやすく、誰でも素直に受け入れられるために、たちまち米国内で3000万部という驚異的な大ベストセラーとなり、聖書につぐ発行部数を誇り、今でも米国人の道徳規範となっています(現在でも本屋さんでも簡単に手に入れることが出来ます、是非米国旅行の際は本屋に立ち寄ってみては、、、)本当に素晴らしいことです、残念なことに、日本では教育勅語自体評価されず、米国内でのベストセラー報道はされることはありませんでした。
 
 道徳、修身教育等には時間がかかりますが、現日本の現状を打開するには、道徳教育によりまともな人間作りが必要だと思いますし、待った無しの状況だと思います。未来の子供たちのためにも、社会問題になっている、いじめ問題、格差問題さえ克服できる可能性があります、国益、国民の真の幸せ、世界平和のヒントを多く含んでるのは間違いなさそうですね。
 
    ーーーーーーーーーーーー参考ーーーーーーーーーーーーーー

第一回世界道徳教育会議
1908年(明治41年) 於ロンドン
 史上空前の大盛況だったそうです、世界の主要国20ケ国の文部大臣、首相・大統領代理、教育学者。17のイギリス連邦諸国。有名大学22校。教育当局(EducationAuthorities)52。協会(Associations)118の合計192団体が参加したそうです。
 
 サドラー会長は開会の辞において特別に『愛国的義務と自我の徹底的抑制を巌格に教え込んでいる日本人の訓練における、道徳上の名声と偉大な伝統の力を理解するのに力になってくれる人が参加しております』と述べ、日本政府代表の出席を歓迎しました。
 
 日本政府を代表して北条時敬(広島大学学長)が『日本の諸学校における徳育』と題し、小学修身教科書に頻出する二宮尊徳や楠木正成・正行の例話に言及する演説を行なったそうです。
 北条時敬の掃朝報告:「我が文部省よりは会議の資料として特に教育勅語及び図書図画、修身教科書、同掛図などを提出し、之を会議場に陳列したるが、各国代表者の中には是非之を買い受けたしと迫る者ありしが、部数に限りあるを以って之を果たさず……斯かる有様なるを以って、日本の国民教育に就いては大いに参列者の注目を惹けり。依って私は之に対して日本における道徳教育に関する実際上のことを印刷したるものを各国代表者に配布して之を説明して大いに喝采を博せり」とあります。

 この会議の際には、英語教育勅語の外に、ドイツ語教育勅語・フランス語教育勅語・漢文教育勅語も関係各国に配布されました。その訳は、前年のロンドン大学における『教育勅語』の講演会で、英文訳の教育勅語を披露したのを知った英語圏以外の国々から、強くドイツ語訳やフランス語訳等の教育勅語の強い要望があって急遽文部省が作成して間に合わせることにしたそうです。

 このようにして日本の教育勅語等は世界中に拡がり、以来98年間、戦争中も戦後も、世界の道徳教育の模範となっております。 教育勅語と修身教科書の真価を理解出来ずに(GHQマッカーサー等により封印、真相は世界で通用する、正しい日本人の出現を恐れたからでしょう、、、)世界に誇る宝物を粗末にしているのは、情けないことに本家・本元の日本だけです。

    *教育勅語(口語文訳)です、、、

 私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を完うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、美事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。

 国民の皆さんは、子は親に孝養をつくし、兄弟、姉妹はたがいに力を合わせて助け合い、夫婦は仲むつまじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じあい、そして自分の言動をつつしみ、すべての人々に愛の手をさしのべ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格をみがき、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心をささげて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然のつとめであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、更にいっそう明らかにすることでもあります。

 このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、このおしえは、昔も今も変らぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行なっても、まちがいのない道でありますから、私もまた国民の皆さんとともに、父祖の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。 

    *修身の一部です、、、
1 父母ニ孝ニ   親や先祖を大切にしましょう
  二宮金次郎
 二宮金次郎は、家が大そうびんぼうであったので、小さい時から、父母の手助けをしました。
 金次郎が十四の時、父がなくなりました。母は暮らしにこまって、金次郎と次の子を家におき、すえのちのみごをしんるいにあずけました。しかし、母は、その日から、あずけた子のことが気にかかって、夜もよく眠れません。「今ごろは、目をさまして、ちちをさがして泣いているであろう。」と思うと、かわいそうでならなくなり、いつも、こっそり泣いていました。金次郎は、それに気がついて、
 「おかあさん、どうしておやすみになりませんか。」
と聞きましたが、母は、
 「しんぱいしないでおやすみ。」
というだけでした。金次郎は、「これは、きっとあずけた弟のことをしんぱいしていらっしゃるのにちがいない。」と思って、
 「おかあさん、弟をうちへ連れてかえりましょう。赤んぼうが一人ぐらいいたって、何でもありません。私が一生けんめいにはたらきますから。」といいました。 母は、大そう喜んで、すぐにしんるいへ行って、赤んぼうを連れてもどりました。親子四人は、一緒に集まって喜び合いました。
 孝ハ徳ノハジメ。


2 兄弟ニ友ニ   きょうだい仲良くしましょう
  毛利元就
 毛利元就は戦国時代に中国地方を治めていた勢力のある武士でした。元就には隆元・元春・隆景という三人の子どもがありました。
 ある時、元就は三人の子どもを集めて、三本の矢を一つに束ねたものをそれぞれに渡して、それを折るように命じました。しかし、丈夫な矢が三本もしっかり束ねてあるのですから、いくら力を出しても子どもの力では折ることが出来ません。そこで元就は、束ねてあった矢を一本一本ばらばらにして、それを渡して折るように命じました。今度は一本だけですから三人ともたやすく折ることが出来ました。元就は三人の子どもに向って、「兄弟もこの矢とまったく同じである。兄弟が仲良く協力一致すれば、どんな強い敵から攻められても、なかなか破れるものではない。反対に、兄弟がばらばらになれば簡単に敵に攻め破られることになる。この矢をみて、三人ともよく心に留めて省みなければならない。」と言って諭しました。

 また、三人の子どもが成人した時、元就は三人に一つの書き物を渡しました。それには、「三人とも、毛利の家を大切に思い、たがいに、少しでもへだて心を持ってはならない。隆元は二人の弟を愛し、元春・隆景はよく兄につかえよ。そうして、三人が一つ心になって助け合え。」
と書いてありました。また、元就は、隆元に別の書き物を渡しましたが、それにも、「あの書き物をまもりとおして、家の栄をはかるようにせよ。」と、よく行きとどいた戒めが書いてありました。
 書き物をもらった兄弟は、三人の名を書きならべた請書を父にさし出し、「三人は、心を合わせて御戒めを守ります。」と、かたくちかいました。
3 夫婦相和シ   夫婦はいつも仲むつまじくしましょう
  山内一豊の妻
 山内一豊が織田信長のけらいになったばかりのころ、大そうよい馬を売りに来た者がありました。これを見た人は皆ほしいとは思いましたが、何分にも値が高いので、誰一人買おうという者がありません。馬の主は馬を引いてかえろうとしました。 一豐も、ほしくてほしくてたまらないから、家へかえって、「ああ、金がないほど残念なことはない。武士としてはあのくらいな馬をもってみたい。」と思わずひとり言をいいました。妻はこれを聞いて、夫に向かって、「その馬の値はいかほどでございます。?」「金十両。」妻は立って、鏡箱の中から十両の金を出して、「どうぞ、これでその馬をおもとめあそばしませ。」一豊はおどろいて、「これは又どうした金か。これまで貧しい暮らしをしているのに、こんな大金を持っているなら、なぜあると一言いわなかった。」
 「さようでございます。このお金は私がこちらへまいる時、「夫の一大事の折りに使え。」と申して父の渡してくれた金でございます。人の話によりますと、ご主人織田様には、近いうちに京都で馬ぞろえをなさいますとのこと。さだめて皆様はごじまんの馬に乗ってお集まりのことでございましょう。あなた様にも、その折りにはよい馬にめして、主人のお目にとまるようになされるのが大事と考えまして、今日このお金を出しましたのでございます。」
 一豊は妻に礼をのべて、その馬をもとめました。やがて馬ぞろえの日となって、一豊の馬は、はたして信長の目にとまって、「ああ、よい馬、名馬々々。誰の馬か。」とたずねました。けらいのものが、「これは一豊の馬でございます。」
といいますと、「日ごろ貧しい暮しをしている一豊が、よくもこういうよい馬を買いもとめた。見上げた志のもの、りっぱな武士」と、信長は大そう感心して、これが一豊の出世のもとになったということであります。
等々続きます・・・

 こんな素晴らしい道徳規範、世界のどこに出してもおかしくない素晴らしい規範があるのに、日の目を見ることがありません!本当に残念で仕方ありません・・・未来の子供たちに対する最高のプレゼントに思えますが・・・

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武士道の復活を!

2014-06-06 09:28:15 | 道徳等

 武士道について、初めて書物にして世界に紹介した人物、新渡戸稲造(にとべ、いなぞう)1899、英文で武士道を書きました、Bushido the Soul of Japan(武士道、日本の魂)です。新渡戸は、本書で武士道は日本人の道徳の基礎にあるものだということを欧米人に知らせました。

 幕末の1862年盛岡に武士の子として生まれ、武家の家庭教育を受けました。有名なクラーク博士の下で西洋科学等を学び、海外で活躍した国際的日本人でした。
著書「武士道」で新渡戸は、武士道を詳細に論じています。まず新渡戸は、「武士道は、日本の象徴である桜にまさるとも劣らない、日本の土壌固有の華である」と説いています。武士道の淵源・特質、民衆への感化を考察しています。
Bushido the Soul of Japanは、世界のリーダーの読書の一つになっていたそうで、今も多くの世界のリーダーに読まれてるそうです。
 
武士道とは、簡単に言えば、もろもろの「徳」から成っているものと解いています。

 武士道の渕源:武士道は知識それ自体を求むべきで無く叡知獲得の手段として求むべきとし実践窮行、知行合一を重視しました。

 義     :義は武士の掟の中で最も厳格なる教訓である。武士にとりて卑劣なる行動、曲がりたる振舞程忌むべきものはないと解いています。

 勇、敢爲堅忍:勇気は義の為に行われるのでなければ、徳の中に数えられるに殆ど値しない。孔子曰く、義を見てなさざるは勇なきなりと解いています。

 仁、即惻隠(そくいん)の心:弱者、劣者、敗者に対する仁は、特に武士に適しき徳として賞賛せられました。

 礼     :作法の慇懃鄭重(いんぎんていちょう)は、日本人の著しき特性にして、他人の感情に対する同情的思い遣(や)りの外に表れた者である。正当なる事        物に対する正当なる尊敬を、社会的地位に対する正当なる尊敬を意味すると解いています。
 
 誠     :信実と誠実となくしては、礼儀は茶番であり芝居である。…『武士の一言』と言えば、その言の真実性に対する十分なる保障でありました。武士に二言        はなし、二言、即ち二枚舌をば、死によって償いたる多くの物語が伝わっていると解きました。

 名誉    :名誉の感覚は、人格の尊厳ならびに価値の明白なる自覚を含む。… 廉恥心は、少年の教育において、養成せられるべき最初の徳の一つでありました。笑        われるぞ、体面を汚すぞ、恥づかしくないのか等は非を犯せる少年に対して正しき行動を促す為の最後の訴えであります。

 忠義    :中国では、儒教が親に対する服従を以って、人間第一の義務となしたのに対し日本では、忠が第一に置かれました。

 武士の教育及び訓練:武士の教育に於いて守るべき第一の点は、品性を建つるにあり。思慮、知識、弁論等、知的才能は重んぜられなかった。武士道の骨組みを支えた           鼎足は、知・仁・勇であると称せられました。

 克己    :克己の理想とする処は、心を平らかならしむるにありと解いています。

 武士道は「多くの徳」によって成り立っており、高い精神性をもつものだったことが分かります、新渡戸は分かりやすく解き明かしています。
武士道は本来、武士階級に発達したものでした。大和魂、すなわち日本人の魂は、究めるところ島国の民族精神を表すにいたった、それが武士だけでなく、日本人全体の道徳の基礎となっていることを新渡戸は述べています。

 欧米人から見たら、日本人には宗教がないと見られがちだが、武士道には、神道、仏教、儒教の影響が見られることを説き、日本精神には独自の深い宗教性があることを明らかにしています。そして、この精神は世界に間違いなく通じる精神であると唱えています。

 維新回天の嵐と渦の中で、日本という船の舵取りをした偉大な指導者たちは、武士道以外の道徳的教訓をまったく知ることのない人たちでした。
近代日本を建設した人々の生い立ちをひもといてみると、伊藤、大隅、板垣ら現存している人々の回想録はいうまでもなく、佐久間、西郷、大久保、木戸らが人となった跡をたどってみよ、彼が考え、築き上げてきたことは、武士道が基礎となっていることがわかるだろうと言っています。

 明治維新によって、社会的な階級としての武士は消滅したことを記していますし、西洋文明の導入によって、日本は新しい国に生まれ変わりつつありました。しかし、武士道は不滅であり、必ずや新たな形で生き続けることを確信していました。

確かに明治以降の日本のリーダーたち、経済人やジャーナリストや教育者などには、武士道から理想や信念を学んだ人たちが多くいます。武士道は姿形を変えて、日本人の生き方のなかに受け継がれてきたと思います。武士道は、今でも日本人の道徳心や規範意識を支えていると言えます。

 武士道が発刊されて、百年以上が過ぎました。現代日本では、道徳心は廃り、日本人から香り高い精神性は、残念ながら消えうせてるように思われますが、、、
武士道は「桜にまさるとも劣らない日本の土壌に固有の華」と新渡戸は述べていますが、そうした武士道の精神を忘れ去ってしまったならば、今後日本人は精神的に益々劣化していくでしょう。

 明治維新後、身分としての武士は消滅しました、四民平等・廃藩置県等の政策が断行され、武士階級の消滅とともに、それまでの武士道そのものは担い手がなくなりました。しかし近代国家建設を進める過程で、武士の道徳は全国民のものになりました。ちょんまげや帯刀は無くなりましたが、国を守る、主君を守るという意識が普及し、武士道が国民の道徳となりました。
 
 日本の敗戦後、日本は連合国によって軍事的に武装解除され、さらにGHQの占領政策によって、精神的なものも徹底的に解除されました。GHQは武士道に関する書籍等を禁じ、結果国民は国防の意識すら奪われました。日本的なものを守るという意識が著しく低下し、日本人は自国の領土を侵されても鈍感になり、自国の文化を奪われても抗議すらできないような、無抵抗・無気力の状態になり下がっている面が散見されます。
武士道を失った日本人は、アメリカ・中国・韓国等の圧力に対して、、、こうした状態が続けば日本人は、今後も一般国民は翻弄、利用され続くでしょう。


参考著書「武士道」新渡戸稲造等


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古来から続く「清き明き心」

2014-05-24 09:06:16 | 道徳等

 311等に見られるように、世界に例を見ない日本人の崇高な道徳心、数千年の悠久の歴史を秘め綿々と現在日本人の中に生き続いています。
清き明るき心、日本人が世界に誇れるものであることは間違いなく、今でも心ある全世界の人々が日本人を尊敬する所以であることは間違いないでしょうし、清き明るき心と共に武士道、天皇制を、後世に伝えることは日本だけでなく世界の願いに思えるときがあります。そうは言っても現日本は道徳心等で一部大きな歪みを生じてることも事実であり、一人ひとりの物質的な富の大小で図ることが出来ない崇高な心、「清き明るき心」を持ち続ける努力は今後益々必要と感じます。 
日本には古来、神道がありますが神道はユダヤ教に極似しています。この「神道」の中心的な伝統として、「清き明(あか)き心、清明心」・・・くもりなく、すがすがしい心、やましさのない、晴れ渡った心、邪心のない、二心でない、清らかな心です!神様の前にそういう心でいることが一番大切なのだ、という教えだと思います。
 この清き明き心は、日本人が美徳とする「正直」、「誠実」、「思いやり」、「忠実」などの土台となったものだと思います。卑怯(ひきょう)なことをしないなど、人間の様々な徳の基礎となるものです。「清き明き心」という神道の教えが、古来から日本人を作ってきたと思います。

 3世紀に、当時の中国の魏で書かれた魏志倭人伝という本の中に、当時の日本の生活や風習を記している箇所があります、その中に日本人は、窃盗をせず、訴訟も少ないという記述があります。日本人が古来、穏健で道徳的な生活をしていたことがわかります。逆に考えれば中国には窃盗や訴訟が多かったということでしょう。この記述から、日本では古くから「清き明き心」を大切にしてきた民族だと言えるでしょう。
 第2次世界大戦末期、米国のルーズベルト大統領が病気急死、当時の鈴木貫太郎首相は、米国民に向けて、謹んで心からお悔やみ申し上げますという、弔意を表す談話を発表したのです。そして心を込めた弔電を打ちました。 敵国米国の国民に対し、深い哀悼の意を表したそうです。多くの米国人に、日本の武士道精神の発露として米国民に大きな感銘を与えたと言われています。アメリカ亡命者で作家のトーマス・マンというドイツ人がいましたが、ドイツでは、敵国大統領が死んで、国中が喜んでいるのに、日本の首相は敵国の大統領の死を悼む弔電を送ってきた。やはり日本はサムライの国だと言って、日本人の礼節の心に最大の賞賛の言葉を贈ったと言われています。日本には古来、死ねば敵も味方もない、安らかに眠ってくださいという死者への弔いの気持ちがあるのです、これも清き明き心だと思います。

 この「清き明き心」を大切にする日本の伝統は、いったいどこから来たのだろうか、聖書の申命記10章に「あなたがたの神、主は……かたよって愛することなく、わいろを取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行ない、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる」と、聖書には素人ですが、これは「清き明き心」の源泉であるように思います。
 明治維新を成功させた人々、多くの人は私利私欲では絶対動かない人でした、賄賂を幾ら贈ってもビクとも動かない、国のため、公のためでないと動かない人たちで、古来の心を持った人達です。

 源実朝の歌、「山は裂け 海はあせなむ 世なりとも 君に二心わがあらめやも」とありますが、たとえ山が裂け、海が干上がってしまうような世の中が来ようと、吾が君に二心を持つようなことがありましょうか、謀反の心を持つようなことがありましょうか、いや決してありません、との歌です。二心のない、清き明き心を持って主君に仕える、古来多くの日本人が信条としてきたものと言うことができると思います。
 
 白隠禅師の歌、 「晴れて良し 曇りても良し 富士の山 元の姿は変わらざりけり」、、、晴れても曇っても、富士山の美しさは変わらないと歌いました。周囲の状況に関係がない、私もそのような者でありたい、古来日本人が、清き明き心という言葉で表してきた理想の姿というものがそこにあると思います。

 「清き明き心」は、現代では清く明るい心と書きますけれども、日本書紀の中では、「清き赤き心」 という文字が使われていますが、赤ちゃんの赤、赤子の赤で、これは本来「清く、また赤子のように素直な心」と言うことができると思います。
隣国中国では、親は子どもに何を真っ先に教えるかというと、人に騙(だま)されるなと教えるそうです。中国社会は人間不信の社会で、騙し騙される社会、人に騙されるなよと教えるそうです。賢く立ち回って、うまく世を渡っていきなさいと教えだそうです。
 では我が日本では何と教えますか、まず親は子どもに、ウソをつくなと教えますし、正直、誠実でいなさいと、赤子の魂のときから清き明き心を教えます。日本人の中には古来からの心はちゃんと受け続けられていますね。
 何より、清き明き心を尊ぶ!なぜなら、そういう心が神のみこころを宿すと考えられたからです。日本神道で、清き明き心には、神のみこころに一致した心という意味があるように思います。神のみこころを宿す心、信仰する心とは、清き明き心だと言える思います。
菅原道真の句、 「海ならず たたへる水の 底までも 清き心は 月ぞ照さむ」、海でなくても、深く満ちている水の底までも清いような心には、月の光が照らすという。清き明き心にこそ、神が宿るということです、その清き明き心が、大和心だということが出来ると思います。
 この清き明き心が、どこから来たのでしょうか?神社へ行った時宮司さんに聞いたところ、特に神社では小さいときから清き心を強調されるそうです。清き明き心のルーツはどこにあるのですかと聞いても、日本の古くからの伝統と答えられます、それほどに日本人と一体だということでしょうね。
「清き明き心」は、日本神道のコアの部分と言うべきでしょう。世界にはユダヤ教という民族宗教があるように、日本には神道という民族宗教があって、清き明き心はその日本神道から来ていると言えると思います。
 
 日露戦争中、日本軍に捕まったロシア人捕虜の収容所が、四国の松山にありました。そこには約6000名のロシア人捕虜が収容されていたそうです、県は、「捕虜は罪人ではない。祖国のために奮闘して敗れた心情をくみとり、一時の敵愾心(てきがいしん)にかられて侮辱を与えるような行動はつつしむこと」と県民に訓告していました、凄いですね。この松山に来た捕虜の大半は、傷病兵でした。彼らに対し赤十字の医師や看護婦らは、懸命に治療と看護に当たりました。手足を失った者には、当時の皇后陛下より、義手や義足が贈られたそうです。
 
 捕虜のF・クブチンスキーの日記にも、敵国でこのようなやさしい思いやりを予期したであろうか、医師や看護婦の献身的な心配りは、真の人間愛の表れである。それは神聖にして不滅のもので、キリストの愛と名づけられるものである、看護に当たった医師や、看護婦たちクリスチャンではありませんでした。彼らは、日本に伝わる清き明き心に従って、行動したのです。その行動はロシア人捕虜の目にはキリストの愛があふれたものに映ったと言われています。当時のロシア軍と言えば、占領した地域を略奪し、強奪の限りを尽くした強盗のような野蛮な軍隊として恐れられていました、そのロシア軍にいたロシア兵が、日本に捕らえられて、捕虜収容所でみた日本人たちの姿は、日記から見ると別世界のものだったようです。
 日露戦争後の明治40年、政府は戦死したロシア兵たちのための忠魂碑を建てています。まず敵兵のために碑を建て、そしてその2年後に、戦死した日本兵のための忠魂碑を建てています。ロシアの戦死者たちのその碑は、旅順の203高地の東側の山の麓にあります、今でも見学できます。日本から大理石を運び、非常に大きなロシア正教風のチャペルと共に建てました。除幕式にはロシア側も呼ばれ、日本の乃木大将も参列しました。ロシア側は感激して、いままで世界の歴史において、敵の忠魂碑を建てた国は日本が初めてである、みな感涙したと言われています。

 鎌倉時代に元寇が日本に攻めてきましたが、モンゴル軍と一緒に来た高麗軍にも、勿論日本の武士たちにもたくさんの戦死者たちが出ました。北条時宗は戦死した敵味方を弔うための寺を建てました、それが鎌倉の円覚寺です。
 
 その後少し時代が過ぎますが、楠木正成が後醍醐天皇のために鎌倉勢と戦ったことがあります。大阪の赤坂村という所に楠木正成が建てた墓があります。味方の墓と、敵の墓が並んで建っているそうです、味方の墓は味方塚といい、敵の墓は寄せ手塚です。敵とは書いていない、敵の墓の方が大きくて立派です。敵も死ねば、味方あるいはそれ以上に弔うという気持ちが、日本人の心だったと思います。 日本を思うとき、このような崇高な民族がいったい他にあっただろうかと思います。何という清き明き心だろうか!わけ隔てしない、偏って愛することをしない!
 
 幕末の時代に駿河湾沖で、政府と幕府の船が戦ったことがありましたが、幕府軍の船は敗れて、沈没しばらくして、駿河湾にその戦死者たちが打ち上げられました。幕府軍の戦死者たちは賊軍でした、そのとき戦死者たちを集めて丁重に葬ったのが、「清水の次郎長」だそうです、実在の人物で、本名を山本長五郎、死んでしまえばみんな仏じゃないか、野ざらしにするなんてとんでもないと言って、彼らを丁重に葬ったそうです。死人に対して温情を示す日本の文化、日本にも、古来、生者にも死者にも温情を示す風習が伝わっているようです。これも清き明き心の表れと見ることが出来ますね。
 極東の東の小国、日本、311等で日本人の道徳心等々、今も世界の国々から道徳心のモデルにされ続けられる日本、古来より素晴らしい心を持って生きてきた日本人、もっと日本に誇りをもっていいと思います。天皇制を頂点とする日本に生まれてよかったと言える日本社会を目指したいですね。

*ネット資料等を多用しています、思いつき、雑文でプログと言うことで。


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未来を背負う子供達に、教育勅語を!

2014-05-08 09:11:34 | 道徳等
 教育勅語と言うと、戦前の可笑しな道徳規範の教えと言う人が今でも多くいるようで、本当に残念なことです。道徳規範、教育勅語は、全国民に分かりやすく対話するような形で極々普通の道徳心等が書かれており、子供でも理解することが容易です。

 明治23年からの58年間、日本の道徳教育の規範とされました、明治天皇ご自身も自ら率先し心得を守られたと言われています。教育勅語は、日露戦争後にイギリスで紹介され、多くの国、国民が深く感銘し、大変な反響を呼び英語・仏語・独語・中国語など様々な言語に翻訳されました。以後世界中に広がり、今でも世界各国の道徳規範となっています。隣国中国、韓国等でも使用されています。

 世界中、今でも尊ばれる道徳規範、教育勅語、日本敗戦後、GHQ米国は教育勅語を全面否定、日本占領政策上、一番恐れたのは武士道精神、道徳心等の再興を恐れたためです。GHQ米国は「教育勅語を否定する決議をするように国に「指示」しました。決議案が可決成立、教育勅語は失効し、日本の学校教育から排除され、本当に日本の宝とも言うべき道徳規範、教育勅語は日本から消えました。この時から日本人は魂を抜かれた状態になり現在もこの状態が続いています。

 戦後道徳規範、教育勅語は否定され、薄れた道徳心、、、昨今の日本は多発する殺人、目に余る既得権争い、いじめ、家族、地域社会の崩壊が現在でも進行しています。せめてもの救いは東日本大震災においての日本人の道徳心がまだ生きていたことです。
日本人が失くしたものを取り戻すには長い年月を必要とします。世界中で語り継がれている日本の道徳規範、教育勅語は、未来を背負う子供達へ再興、引き継ぐことは大きな責任でもあるように思います。

 教育勅語(12の徳目:12の道徳の細目)
 一、両親を大切にしましょう(孝行)
 一、兄弟・姉妹は助け合いましょう(友愛)
 一、夫婦はいつも仲睦まじくしましょう(夫婦の和)
 一、友達同士信じ合い、大事にしましょう(朋友の信)
 一、自分の言動を慎みましょう(謙遜)
 一、まわりの人を、広く愛しましょう(博愛)
 一、勉強し、職を身につけましょう(修学習業)
 一、知識を深め、才能を伸ばしましょう(智能啓発)
 一、人間性の向上に務め、道徳心を養いましょう(徳器成就)
 一、世のため、人のために働きましょう(公益世務)
 一、社会のルールを守りましょう(遵法)
 一、国のため真心を尽くしましょう(義勇)

***極々当たり前のことばかりです!

  参 考(中国、韓国)
 中国の学制は日本の教育勅語を母体にしています。北朝鮮、韓国の教育制度は、現在も植民地時代の日本の制度そのものです。反日韓国識者達は、教育システムの中の日本色を排除せよ!と、今でもスローガンを掲げています。

1906年、中国史上初の教育方針の教育宗旨を公布しましたが、日本の教育勅語を参考にしています。特に尚公、尚武、尚実、忠君、尊孔の五項目は、公徳心や全国民団結、国を守る自覚の養成、虚飾を棄てて実務能力を求める、、、基本理念は日本の教育勅語です。
 今日の中国の教育理念、徳智体の全面発展も日本の教育勅語で、中国共産党の体制に順応して表現を変えているだけのようです。

現在の中国の道徳教育等

正しい生活(6、7才)
品徳と生活(7~8才)
品徳と社会(9~12才)
思想品徳(13~15才)
思想政治(16~18才)
  
細部内容
1 品徳と生活
健康で安全な生活、楽しく積極的な生活、責任と思いやりのある生活、頭脳を働かせ創造性のある
生活 
2 品徳と社会
 成長する社会、私と家庭、私と学校、私と地域、私は中国人、世界に向かって
3 思想品徳
 成長する私、私と他人との関係、私と集団、国家社会との関係 


現在の韓国の道徳教育等
 
 正しい生活(6~7才)
(8~15才)は下記内容
1 個人生活
2 家庭、近隣、学校生活
3 社会生活
4 国家、民族生活

(16~17才)下記から選択
*市民論理
*論理と思想
*伝統倫理

 このように中国、韓国等でも教育勅語が道徳教育の基礎となっています。日本の宝である教育勅語は世界の道徳規範であることは間違いなさそうです。
 山積する昨今の日本の道徳心欠如による諸問題等解決は、高い道徳心を要します、未来の子供達に託するしか解決不可能でしょう。マスコミ等は教育勅語を避けますが、隣国ではちゃんと道徳教育が成されている現実を直視する必要がありそうです。教育勅語は、未来を背負う子供達への最高のプレゼントになることは間違いないと思います。

*平成14、19年 国立教育政策研究所の資料を一部使用しています。

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学校教育に、道徳科目導入を!

2013-11-13 09:29:42 | 道徳等

先日政府は小中学校教育に、道徳科目を追加するとのことです、現在の学校義務教育では道徳は課外等周1回程度であり、学校現場では真剣な教育が行われてなくまったく軽視されています、道徳教育は多感な小中の時期の子供達には極めて重要な教育だと思います。今まで子供たちにとって、人間の心のあるべき姿が家庭、学校、、、何処でも学べない面がありました、学校教育の場で学ぶことは大きな意義があり、本当に喜ばしいことです。
 
 現在の日本を省みれば戦後、道徳、修身等教育が禁止された結果現在のような偏った利権至上主義、弱肉強食等々が蔓延しており、可笑しな経済構造、派遣、非正規、格差社会、いじめ、弱者が立ち直れない社会等々の蔓延を助長した面があると思います。本来の日本人の姿ではないと思います。

 戦後GHQは、特に終戦間際の神風攻撃隊等に大変危惧し、日本人の国、家族を想う心を何とか壊し、GHQ支配に適した国民作りを目指した結果、まんまとその計画通りにことは進み、世界一の支配しやすい日本国を誕生させ、結果は、国民の汗の結晶は国民に還元しない構造が出来上がり、突き詰めれば、道徳心の問題が大きいように感じます。

 話は少し逸れますが、、、本来であれば日本人の手で憲法を作り(GHQが憲法草案は、明確にハーグ国際条約違反です。)主権、義務等々wを明確に国民に認識させ、教育関係法等整備等により子供達に成人前にはきちっとした道徳教育を施し、文化的な国民生活向上を目指すべきでした、現在の日本は、何せ自分さえ良ければ他人はどうでもいい、金がすべて、殺害しても金を得たい、年金欲しさのため死亡届け出さない等々、道徳心なんか何処吹く風です。
 
 戦前の日本人はあるべき人間の心として、二宮尊徳、上杉鷹山等々を一つの理想像としていたようです、少しでも子供たちに、分かりやすいように人間の心等はこうあるべきと道徳規範等を教えることが出来たら、子供たちが大きくなった暁には、もっともっと国民の意思を反映できる、文化的な日本が作れるのは間違いないでしょう。現に世界の国々では日本の偉人たちを(中国でさえちゃんと日本の偉人達の活躍を教えられています。)学んでいます。本家本元の日本は道徳教育規範が無いに等しいです、世界の人達から見れば、子供達に道徳教育を施していないことは理解出来ないでしょう。過去江戸時代に来日した多くの宣教師達は、名も無い一般庶民の道徳心の高さに驚嘆した報告書を数多く自国に送っており、いかに日本が貧しくても庶民にいたるまで道徳心が高かったか知ることが出来ますし、江戸時代でさえ、ちゃんとした道徳規範が存在し、親たちは子供たちに教えていました。

 何か未来に希望が見出せるような政府の道徳教育科目導入案、、、日本の未来は捨てたものではないと言う国になると確信しています。子供たちに施す教育、道徳は、その国の未来を制するといいます!侍のように、あるべき人間の心を理解し、どんなに貧しくても魂は売らない人生を歩みたいですね。

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大西中将と特攻隊

2013-08-07 09:15:17 | 道徳等
戦後特攻隊に対する、評価は日本国内では犬死、無駄死等と述べる人が多く、マスコミ等を使った、大々的なGHQ戦勝国の徹底した一種のプロパガンダであることが文献等を精査すれば分かります、日本の未来、敗戦後の復興を信じて戦死した特攻隊員に対しての最大の侮辱だと思います。

 戦時中の米軍兵から見た場合、特攻隊戦法は理解できないと同時に、最大の恐怖であったと言われています。
 戦前、戦中の日本人は現在と違い、道徳教育、修身教育等を受け、国、郷土、両親、家族等に対する感謝、恩義等を持っており、感謝、恩義等のため、特攻攻撃、、、欧米には絶対にない思想であり、欧米人が一番恐れる(自己犠牲の精神)思想であったと思います。

 終戦間際の困難な戦況の中、日本の勝利は有り得ない、指揮官であった大西滝次郎中将は、後世の日本を考えた末の決断であったと思います、単なる戦術的戦法ではないと理解すべきでしょう。敗戦後、戦勝国等にペコペコ頭を下げ、命乞い、属国に成り下がる等々、、、戦勝国、欧米諸国は必ず日本人の足元を見ることを見抜いていたでしょう。

 敗戦後の日本民族の再興のためには、犠牲的精神が必要と判断したと思います、若者に国のため特攻で死んでもらう、、、日本人のみならず世界の人々が後世歴史を顧みた場合、感謝、恩義等(自己犠牲)により日本国の再興を信じ、多くの若者が戦死した、何と崇高な民族であろうかと後世語られ、日本発展の礎になることを確信しての大西滝次郎中将の決断であったろうと思います、大西滝次郎中将自身、指揮官であるがゆえ、部下のみに命令を下し、自ら特攻出撃出来ない苦しさは想像を絶する大変な苦悩であったと思います!

 戦後日本は国に対する、感謝、恩義等はご法度であり、現日本の諸悪の根源等々は突き詰めれば道徳教育、修身教育等をGHQ等により廃止されたのが根本原因であると思います。
敗戦後、政治家、官僚、経済界、スポーツ界、名も無き人々等、日本国再興のため努力奮闘された方々は、特攻隊で戦士した方々に報いていると思います。
 
 戦勝国欧米は特攻隊を、犬死、無駄死と声え高々にマスコミを使い広めましたが、マスコミは戦勝国の意向を大きく受け、現在も綿々と続いており、影のオーナーの意向に沿った特攻隊報道であると思います。

 日本人の良心は歴史が変わろうが普遍であると思いますし、後魂さえ入れたら本来の日本人を取り戻すことは間違いないでしょう。マスコミ界では絶対封印である大西滝次郎中将、日本の未来の大きなヒントを秘めてると思いますし、大西滝次郎中将を知れば、日本人が忘れていた心を知ることが出来ると思います。

 今日の日本の礎になった多くの特攻隊の方々、日本人は素直な気持ちで、感謝する気持ちを忘れてはならないと思います、未来を信じ、敗戦復興を信じ身を捧げています。(特に沖縄県民の方々に特攻隊に感謝する人が多いということ付け加えます。) 8月になると靖国参拝が出てきますが、突き詰めると靖国問題は「日米問題」に他なりません!中国、韓国問題等にすり替えていると思います、対立のツールとして利用されているのは間違いないと思います。

 今出来ることは、「未来を信じ、先人に感謝する気持ちを持つこと」が、心の豊かさに繋がるかなと思います。

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