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子供達に修身を!

2015-11-24 12:17:41 | 道徳等
今日、小中学校で週に1回行われている道徳の時間は正式教科ではなく、道徳の教科書はなく、資料等?で教育が行われていると言われています。幸い、昨今安倍内閣は教育再生を目標にしており、道徳教育が課題の一つとして取り上げられています。
戦前の日本には道徳に相当すると言われる修身という教科があり、努力、親孝行、公益、正直等々、内容を偉人、有名人の言葉、エピソードを分かりやすく子供達にに教え、子供達は物事の基準としていたように思います。終戦後、修身は軍国主義教育だとされ、残念ながらGHQによって廃止されました。

道徳が位置づけになったのは1958年と言われていますが、教科とはならなかったようで、理由は道徳教育は心の問題等である、他の教科のように採点が難しいことが主な理由となっているそうです。

長く教科ではなかった道徳が、どうして今になって教科化される動きが出てきたのか・・・大きなきっかけは2011年に大津で起きた、いじめ自殺事件(2011年10月11日、滋賀県大津市内の中学校の当時2年生の男子生徒が、いじめを苦に自宅で自殺した事件)と言われていますが、他にも重大な少年犯罪の増加等、安倍内閣はいじめ対策の一つとして、道徳を強化に位置付けることを決定されました、遅まきながらも良策と思います。
戦前の子供達にもいじめがあったのは間違いないでしょうが、子供達の対応が現在と違ってるのは当然と思えます、何故なら修身等を学ぶことにより、子供達はそれなりの物事の基準を持っていたからでしょう。
全国では、今も多くの子供がいじめを受けてるのは間違いないでしょう、いじめと言う理不尽さを跳ね返すことが出来ない心優しい子供達です。いじめる方も善悪が曖昧で、本能的に行っているように思います・・・はっきりした善悪を子供達に示す基準等を教えるのには、修身に勝る教育はないように思います。

修身では努力、友情、親孝行、公益、正直等、25項目に及ぶ徳目を日本人にとって馴染みの深い過去、現代の偉人、有名人の言葉やエピソードをふんだんに用いて教えていたと言われています。

以下の、3つの物語りは修身では有名だそうです。
二宮金次郎、毛利元就、山内一豊の物語で、当時の子供達は、これらの物語により物事の基準を自分なりに作ったと思います。子供達にこんな分かりやすい、興味をそそる物語が戦後消えてしまいました、本当に残念です。

1 親や先祖を大切にしましょう。「父母ニ孝ニ」

二宮金次郎(幕末の貧しい農民で、苦労しながら学んで成功した人です。努力して武士の身分にまでになった彼は、明治時代、農地改革に尽力をつくした人です。)

 二宮金次郎は、家が大そうびんぼうであったので、小さい時から、父母の手助けをしました。
 金次郎が十四の時、父がなくなりました。母は暮らしにこまって、金次郎と次の子を家におき、すえのちのみごをしんるいにあずけました。しかし、母は、その日から、あずけた子のことが気にかかって、夜もよく眠れません。「今ごろは、目をさまして、ちちをさがして泣いているであろう。」と思うと、かわいそうでならなくなり、いつも、こっそり泣いていました。金次郎は、それに気がついて、 「おかあさん、どうしておやすみになりませんか。」
と聞きましたが、母は、 「しんぱいしないでおやすみ。」というだけでした。金次郎は、「これは、きっとあずけた弟のことをしんぱいしていらっしゃるのにちがいない。」と思って、 「おかあさん、弟をうちへ連れてかえりましょう。赤んぼうが一人ぐらいいたって、何でもありません。私が一生けんめいにはたらきますから。」といいました。 母は、大そう喜んで、すぐにしんるいへ行って、赤んぼうを連れてもどりました。親子四人は、一緒に集まって喜び合いました。


2 きょうだい仲良くしましょう。「兄弟ニ友ニ」

毛利元就(室町時代後期から戦国時代にかけての安芸、現在の広島県西部の国人領主・戦国大名です。)
 毛利元就は戦国時代に中国地方を治めていた勢力のある武士でした。元就には隆元・元春・隆景という三人の子どもがありました。
 ある時、元就は三人の子どもを集めて、三本の矢を一つに束ねたものをそれぞれに渡して、それを折るように命じました。しかし、丈夫な矢が三本もしっかり束ねてあるのですから、いくら力を出しても子どもの力では折ることが出来ません。そこで元就は、束ねてあった矢を一本一本ばらばらにして、それを渡して折るように命じました。今度は一本だけですから三人ともたやすく折ることが出来ました。元就は三人の子どもに向って、「兄弟もこの矢とまったく同じである。兄弟が仲良く協力一致すれば、どんな強い敵から攻められても、なかなか破れるものではない。反対に、兄弟がばらばらになれば簡単に敵に攻め破られることになる。この矢をみて、三人ともよく心に留めて省みなければならない。」と言って諭しました。

 また、三人の子どもが成人した時、元就は三人に一つの書き物を渡しました。それには、「三人とも、毛利の家を大切に思い、たがいに、少しでもへだて心を持ってはならない。隆元は二人の弟を愛し、元春・隆景はよく兄につかえよ。そうして、三人が一つ心になって助け合え。」
と書いてありました。また、元就は、隆元に別の書き物を渡しましたが、それにも、「あの書き物をまもりとおして、家の栄をはかるようにせよ。」と、よく行きとどいた戒めが書いてありました。
 書き物をもらった兄弟は、三人の名を書きならべた請書を父にさし出し、「三人は、心を合わせて御戒めを守ります。」と、かたくちかいました。
この三本の矢はJリーグ、広島のサンフレッチェのサンは、この三本の矢のさんをサンとして使用されているそうです。


3 夫婦はいつも仲むつまじくしましょう。「夫婦相和シ」
山内一豊の妻、見性院(戦国時代から江戸時代にかけての女性で、土佐国土佐藩初代藩主、山内一豊の妻です、本名は千代ともまつとも言われています。)

山内一豊が織田信長のけらいになったばかりのころ、大そうよい馬を売りに来た者がありました。これを見た人は皆ほしいとは思いましたが、何分にも値が高いので、誰一人買おうという者がありません。馬の主は馬を引いてかえろうとしました。 一豐も、ほしくてほしくてたまらないから、家へかえって、「ああ、金がないほど残念なことはない。武士としてはあのくらいな馬をもってみたい。」と思わずひとり言をいいました。妻はこれを聞いて、夫に向かって、「その馬の値はいかほどでございます。?」「金十両。」妻は立って、鏡箱の中から十両の金を出して、「どうぞ、これでその馬をおもとめあそばしませ。」一豊はおどろいて、「これは又どうした金か。これまで貧しい暮らしをしているのに、こんな大金を持っているなら、なぜあると一言いわなかった。」「さようでございます。このお金は私がこちらへまいる時、「夫の一大事の折りに使え。」と申して父の渡してくれた金でございます。人の話によりますと、ご主人織田様には、近いうちに京都で馬ぞろえをなさいますとのこと。さだめて皆様はごじまんの馬に乗ってお集まりのことでございましょう。あなた様にも、その折りにはよい馬にめして、主人のお目にとまるようになされるのが大事と考えまして、今日このお金を出しましたのでございます。」

 一豊は妻に礼をのべて、その馬をもとめました。やがて馬ぞろえの日となって、一豊の馬は、はたして信長の目にとまって、「ああ、よい馬、名馬々々。誰の馬か。」とたずねました。けらいのものが、「これは一豊の馬でございます。」
といいますと、「日ごろ貧しい暮しをしている一豊が、よくもこういうよい馬を買いもとめた。見上げた志のもの、りっぱな武士」と、信長は大そう感心して、これが一豊の出世のもとになったということであります。
等々・・・
現代の道徳等の時間で使ってもらい物語です。

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