「あほリズム」

2010-07-02 02:54:30 | アフォリズム(箴言)ではありません
            「あほリズム」


              (1)

 人が自殺をすれば我々はすぐに「何故死んだ?」と問うが、それ

では我々は「何故生きる?」と問うだろうか。死ぬには理由があっ

て生きることには理由がいらないとすれば、生きることよりも死ぬ

ことの方がよっぽど「理に適っている」ではないか。



             (2) 

「国家」とは戦争がもたらした概念(ゲゼルシャフト)である。

つまり力を持たない国を「国家」とは呼ばない。従って、

「国家」概念に縛られたままでいくら戦争放棄(ゲマインシ

ャフト)を叫んでも敵う(叶う)わけがない。


              (3)

 護憲を訴える人々は「戦争の放棄」を叫ぶ前に、まず「国家

概念の放棄」から始めなければならない。例えばEU統合の試

みとは国家概念の超克であり、それによってもたらされる最大

の恩恵はEU内の「戦争の放棄」ではないか。

              (4)


 先進国は道(社会)を造りながら近代文明を発展させてきた。

ところが中国はただその道を駆けるだけで先進国に追い着いた。

だから彼らは近代社会の作り方を知らない。


              (5)

 如何なる文明も何れその終焉が訪れるとすれば、その最大の

原因は退屈である。退屈は「動く物」の宿命である。

 学者はその結果を進化と呼ぶ。


              (6)

 「神の死」を訴えたニーチェは人間に「超人」思想を説いたが、

しかし、彼が思い描いた「超人」とは、実はイエス・キリストでは

なかっただろうか?


              (7)

「同じ土俵の中で争っているだけだ」と、是非を巡って対立する者

を批判するが、その人もまた桟敷に座って「同じ土俵をただ眺め

ているだけだ」 


              (8)

 人との付き合いは「きっかけ」から始まるのではない。共感が無

ければいくら「きっかけ」があっても付き合いは生まれない。つまり

「きっかけ」よりも共感が優先する。ところが世間には安っぽい「き

っかけ」だけが氾濫している。



              (9)

「絶対」は「相対」によって絶対化される。

その結果、「相対」は「絶対」によって相対化される。


              (10)

 神は人間によって絶対化された。

その結果、人間は神によって相対化された。


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「(菅)話放題」②

2010-07-01 08:15:10 | 「(菅)話放題」
          「(菅)話放題」②


 菅総理は、トロントで開かれたG8及びG20首脳会議で、我が

国は「経済成長と財政再建の両立」を目指すと宣言したが、それは

古くは忘れたが近々では、小泉政権の下で御用学者を財務大臣に迎

えて曰く「経済成長なくして財政再建なし」をスローガンに国民の

絶大な支持を得たことを思い出す。その後、退任した先生はマスコ

ミなどで「景気回復を果たした」と自らの功績を誇らしげに語って

いたが肝心の財政再建は一体どうなったかしら。借金は今や膨れ上

がって1000兆円を超えようとしている。つまり、「経済成長し

ても財政再建なし」だった。官僚たちに唆(そそのか)された政権が

財政再建を語る時に経済成長を持ち出すのは本気で返済する気がな

いのだと勘ぐってしまう。菅総理は「間違わなければ」と前置きし

たが、政府は、殊に財政再建に関して言えば一度たりと「うまくい

った」例(ためし)などなかったではないか。

 バブル景気の果てに経済崩壊が起こり財政再建を迫られる状況は、

徳川幕府の元禄時代に貨幣経済が発達して商業が繁栄し江戸文化は

最盛期を迎えるが、一方で年貢に頼る幕府は米の相対的価値が下落

して財政が逼迫し、更に放漫財政による破綻からそれを建直そうと

繰り返された「財政改革」を想起せずには居られない。吉宗が行っ

た「享保改革」は米価対策や貨幣改革などを進めたが、台頭してき

た商業主義を封建支配することが出来なかった。その後は賄賂政治

の「田沼時代」と彼を失脚させた松平定信の「寛政改革」、続いて

驕奢に耽る「文化文政時代」とそれを非難した水野忠邦の「天保改

革」というように、「幕府政治はシーソーの如く放漫時代と緊縮時

代を繰り返しつつ幕末の動乱期へと突入して行ったのである。」

            丸山眞男(著)「日本政治思想史研究」
             (第一章、第三節5)より抜粋引用

 これはまるでバブル崩壊後に迷走を繰り返す方今の政治と何と似

通っていることだろうか。経済成長をいえば借金を厭わずバラ撒き、

財政再建をいえば改革が叫ばれる。車を移動させるには順序が決ま

っていてアクセルを踏んだ後に然るべき処でブレーキが踏まれる。

しかし我々が乗った車はアクセルが踏み込まれて加速した途端にブ

レーキが踏まれ、そしてそれが何度も繰り返される。危なっかしく

て仕方ないと思っていると、事ここに至って運転手は「アクセルと

ブレーキは両立する」と言い始めた。もう、「我々」はどうやって

車を動かすかといった議論するのは止めて、目的について語るべき

ではないだろうか。つまり、いったい「我々」は何処へ行こうとし

ているのか。どういう社会を目指すのか。そしてそこへ行くにはち

ゃんと道が通っているのか。経済成長や財政再建といった議論は車

の運転技術の話しに過ぎなくて、「もしかして」単なる手段に過ぎ

ないのではないだろうか。

                          (菅)②

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