「独善史観」
真理が誤謬を駆逐するというのは概ね正しいが、それは、それ
ぞれの利害に関わるからであって、例えば、ガリレイが幾ら命を
懸けて真理を説いても、当時のローマ教皇庁としては神の言葉を
信じる方が利に適うわけで、地球は球で太陽の周りを回っていた
としても誤謬を改める必然が無かった。それでも、利害に関わる
事態になると、つまり人工衛星が打ち上げられると真理が明白と
なり、つい先頃、四百年を経て、教会は誤りを認めたらしいが。
人は、もちろん誤りに気付けば誤りを正そうとするのだろうが
、いや利害が絡むとそうとばかりは言えないが、正しいと思い込
んでいる者に、その誤りを指摘してもそう易々とは認めようとし
ない。何しろ正しいと信じているのだから。それでも、目的地へ
辿り着けば正しい道を選んだことを認識するが、目的地に辿り着
かなければ誤ったことさえも気付かないでいるかもしれない。つ
まり、正しい判断だったと認識出来るのは、決められた目的に到
達してからなのだ。
それでは、先の戦争で日本は如何なる目的をもってアジアに進
軍し、何を以って目的達成としていたのか。もし、日本を中心と
した大東亜共栄圏が大義名分なら、アジアの共存共栄が実現しな
かったことによって、日本は道を誤ったことを認めなければなら
ない。たとえ欧米列強がアジアを切り刻んで植民地にしようと、
我々がアジアの同胞に同じ事をしてはいけないのだ。かつて大阪
の駐車違反を減らす為のCMで、注意されたおばちゃんが、「何
でウチだけ言うのんっ!皆なやってるやないの!」って、善悪の
判断を人に預けて、人がやってるから自分もやるというのは下卑
た考えだ。大義名分が色褪せてもなし崩しに戦線を拡大したでは
ないか。それを侵略と言うのだ。合意の下と言うが、威力を背景
に如何なる譲歩を引き出してもそれを合意とは言わない、威し
(おどし)である。他国の領土を武力で治め、戦線を拡げて増軍
を重ね、アジアの共存共栄という大義名分を見失って、正しい道
を逸脱したのだ。昨今は成長に伴って中国の軍事費が増大し危
惧されるが、かつて混乱に乗じて多くの国から侵された国が、再
び同じ過ちを繰り返さないように過敏になるのは仕方の無いこと
ではないか。そしてその責任の一端は日本にも在るのだ。
歴史の検証というのは、その事柄に現在も関わりを持ち、従っ
て過去の事では済まされない人にとっては、真実を検証する前か
ら何らかの目的があって、事実を曲げても名誉を守ろうとするの
はローマ教皇庁に似ている。歴史の検証にその事柄に何らかの利
害を持つ者が関わってはいけない。それは国家や政治家や軍人や
評論家や右翼や左翼や猫や杓子や、つまり、何らかの意を汲んで
発言する人を排さなければならない。あっ!言論の自由を忘れて
た、つまり国の公式見解に於いては。そうすると自ずから学者に
委ねることになるのではないか。そうでないと何時まで経っても
首相が変わる度に振り子の様に極端から極端へ見解が変わる。た
だ、我々は何時までそんなことに拘っているのか。我々は然るべ
き賠償を済ませて(北朝鮮とは合意してないが)謝ったではない
か。それを誤りだったと蒸し返しては、近隣諸国との将来に亘る
友好的な関係が築ける訳が無い。いつまで謝ればいいのか、と言
いながら、蒸し返しているのは日本ではないのか。縦しんば我が
国は正しかった、と言ってもかつて軍靴に汚された国々が認めな
いだろう。今こそ日本がリーダーシップを発揮して、嘗ての大東
亜共栄圏を武器を携えずに築くべきではないか。武器を突きつけ
合っての共存共栄など図れる訳が無い。まず、初めに日本が武器
を棄てたことこそ誇るべきではないのか。
人は、誰でも心から謝る時には、申し訳ない気持ちを相手に伝
えようと自らを蔑み、過去の行いを恥じる。その様子を他人事の
ように見ている者にとっては「自虐的」に映るかもしれない。そ
の一事を捕らえて自虐史観だと決め付けるのは、意に反する者に
すれば溜飲の下がる思いだろうが、自虐史観にしろ独り善がりの
独善史観にしろ、そういう感情的な批判が物事を誤らせるのだ。
頑なな考えに固執していては何も前に進まないではないか。例え
ば護憲派が国防について語ってみるとか、改憲派が平和について
語ることがあってもいいのではないか。私は、護憲であれ改憲で
あれ、いつも過去の検証に終始することに苛立ちを覚える。勿論
どんなことがあっても嘗ての様な過ちを犯してはいけないが、つま
り民主主義を守るべきだが、しかし何故、将来の国の在り方を語
る時に過去の姿しか脳裏に浮かばないのか?この国の未来は過
去のトラウマの上にしか選択の余地が無いのか。もし、我が国が
過ちを犯したとすれば、そんな権力者を認めた国民にこそ、その
責任があるのではないか。我々は権力者も国民も、過去の過ちを
認めよう!そして、これからの国の在り方こそを、寛かに語るべき
ではないだろうか。
過ちて改めざる、是を過ちという(孔子:論語)
(おわり)
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真理が誤謬を駆逐するというのは概ね正しいが、それは、それ
ぞれの利害に関わるからであって、例えば、ガリレイが幾ら命を
懸けて真理を説いても、当時のローマ教皇庁としては神の言葉を
信じる方が利に適うわけで、地球は球で太陽の周りを回っていた
としても誤謬を改める必然が無かった。それでも、利害に関わる
事態になると、つまり人工衛星が打ち上げられると真理が明白と
なり、つい先頃、四百年を経て、教会は誤りを認めたらしいが。
人は、もちろん誤りに気付けば誤りを正そうとするのだろうが
、いや利害が絡むとそうとばかりは言えないが、正しいと思い込
んでいる者に、その誤りを指摘してもそう易々とは認めようとし
ない。何しろ正しいと信じているのだから。それでも、目的地へ
辿り着けば正しい道を選んだことを認識するが、目的地に辿り着
かなければ誤ったことさえも気付かないでいるかもしれない。つ
まり、正しい判断だったと認識出来るのは、決められた目的に到
達してからなのだ。
それでは、先の戦争で日本は如何なる目的をもってアジアに進
軍し、何を以って目的達成としていたのか。もし、日本を中心と
した大東亜共栄圏が大義名分なら、アジアの共存共栄が実現しな
かったことによって、日本は道を誤ったことを認めなければなら
ない。たとえ欧米列強がアジアを切り刻んで植民地にしようと、
我々がアジアの同胞に同じ事をしてはいけないのだ。かつて大阪
の駐車違反を減らす為のCMで、注意されたおばちゃんが、「何
でウチだけ言うのんっ!皆なやってるやないの!」って、善悪の
判断を人に預けて、人がやってるから自分もやるというのは下卑
た考えだ。大義名分が色褪せてもなし崩しに戦線を拡大したでは
ないか。それを侵略と言うのだ。合意の下と言うが、威力を背景
に如何なる譲歩を引き出してもそれを合意とは言わない、威し
(おどし)である。他国の領土を武力で治め、戦線を拡げて増軍
を重ね、アジアの共存共栄という大義名分を見失って、正しい道
を逸脱したのだ。昨今は成長に伴って中国の軍事費が増大し危
惧されるが、かつて混乱に乗じて多くの国から侵された国が、再
び同じ過ちを繰り返さないように過敏になるのは仕方の無いこと
ではないか。そしてその責任の一端は日本にも在るのだ。
歴史の検証というのは、その事柄に現在も関わりを持ち、従っ
て過去の事では済まされない人にとっては、真実を検証する前か
ら何らかの目的があって、事実を曲げても名誉を守ろうとするの
はローマ教皇庁に似ている。歴史の検証にその事柄に何らかの利
害を持つ者が関わってはいけない。それは国家や政治家や軍人や
評論家や右翼や左翼や猫や杓子や、つまり、何らかの意を汲んで
発言する人を排さなければならない。あっ!言論の自由を忘れて
た、つまり国の公式見解に於いては。そうすると自ずから学者に
委ねることになるのではないか。そうでないと何時まで経っても
首相が変わる度に振り子の様に極端から極端へ見解が変わる。た
だ、我々は何時までそんなことに拘っているのか。我々は然るべ
き賠償を済ませて(北朝鮮とは合意してないが)謝ったではない
か。それを誤りだったと蒸し返しては、近隣諸国との将来に亘る
友好的な関係が築ける訳が無い。いつまで謝ればいいのか、と言
いながら、蒸し返しているのは日本ではないのか。縦しんば我が
国は正しかった、と言ってもかつて軍靴に汚された国々が認めな
いだろう。今こそ日本がリーダーシップを発揮して、嘗ての大東
亜共栄圏を武器を携えずに築くべきではないか。武器を突きつけ
合っての共存共栄など図れる訳が無い。まず、初めに日本が武器
を棄てたことこそ誇るべきではないのか。
人は、誰でも心から謝る時には、申し訳ない気持ちを相手に伝
えようと自らを蔑み、過去の行いを恥じる。その様子を他人事の
ように見ている者にとっては「自虐的」に映るかもしれない。そ
の一事を捕らえて自虐史観だと決め付けるのは、意に反する者に
すれば溜飲の下がる思いだろうが、自虐史観にしろ独り善がりの
独善史観にしろ、そういう感情的な批判が物事を誤らせるのだ。
頑なな考えに固執していては何も前に進まないではないか。例え
ば護憲派が国防について語ってみるとか、改憲派が平和について
語ることがあってもいいのではないか。私は、護憲であれ改憲で
あれ、いつも過去の検証に終始することに苛立ちを覚える。勿論
どんなことがあっても嘗ての様な過ちを犯してはいけないが、つま
り民主主義を守るべきだが、しかし何故、将来の国の在り方を語
る時に過去の姿しか脳裏に浮かばないのか?この国の未来は過
去のトラウマの上にしか選択の余地が無いのか。もし、我が国が
過ちを犯したとすれば、そんな権力者を認めた国民にこそ、その
責任があるのではないか。我々は権力者も国民も、過去の過ちを
認めよう!そして、これからの国の在り方こそを、寛かに語るべき
ではないだろうか。
過ちて改めざる、是を過ちという(孔子:論語)
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