「儒教道徳がもたらす覇権主義」
儒教道徳とは年功序列を強いる身分道徳である。その教えは主従関
係を重んじ五常(仁義礼智信)の徳目は専ら身分の低い者に強いられる。
のちに武家支配の封建社会の下で重用されそのリゴリズム(厳粛主義)
は厳格化した。そもそもヒエラルキー(階級制度)は社会が成長をして
いる時には序列が更新されて機能するが、成長が限界に達するとヒエ
ラルキーが崩れて下層階級を圧迫して社会秩序が崩壊し始める。かつ
て豊臣秀吉は天下統一を果たした後、もはや戦によって武功を挙げら
れなくなった武士たちの処遇に困惑し朝鮮出兵を決断したように、下
層階級から負託された報酬に応えるために支配者がその矛先を外部に
求めるのはヒエラルキー社会の常套手段である。それと同じことがか
つて日本帝国主義の下でも経済的な理由から再び繰り返され、そして
今、儒教思想のメッカ、じゃないか総本山である中国でも国内秩序(ヒ
エラルキー秩序)を維持するために覇権主義へと向かわせている。
多くの政治学者は所謂「覇権循環論」に従って、ヘゲモニーを失っ
たアメリカに取って代わって中国が世界をリードすると考えているよ
うだが、私はそうは思わない。これまで述べてきたように国家が外部
へ武力干渉する時は、すでに国内が安定して余す軍事力を対立国に向
ける時か、しかし、そもそも厭戦気分が蔓延した太平の社会で軍事力
だけで言うことを聞かせるというのは傲慢な考えで、これは秀吉が行
って敗退し、またアメリカもベトナム戦争で敗戦を喫した。そしても
うひとつは、不安定な国内にくすぶる人民の不満を逸らすために外部
へ目を向けさせようとする時で、それはかつて大日本帝国が大東亜共
栄圏を掲げて戦って呆気なく玉砕し、そして北朝鮮では今もなお強兵
政策に縛られて貧国から抜け出せないでいる。つまり、一帯一路を掲
げて覇権の拡大を目指す中国が世界の国々からヘゲモン(支配者)とし
て認められるかといえば、それは、かつて日本帝国主義が国民の不満
を海外進出によって紛らわしたやり方とまったく同じである。そして
、不公平な二制度社会に対する国民の不満が限界に達した時、これま
で中国では何度も繰り返されてきた内乱によって一帯一路は破たんす
るに違いない。かつてアメリカ軍の占領下で我が国民の多くは、アメ
リカの豊かな物量社会の一端に接して、誰もが敗れて当然だと納得し
たものだが、それでは、我々は今の中国社会に対していったい何に納
得して彼らのヘゲモンを受け入れなければならないと言うのか。そも
そも人は武力だけで支配されないことはこれまでの民族闘争を見れば
明白である。ただ、「腐儒の腐説」(福沢諭吉)だけは絶対に御免蒙り
たい。
(おわり)
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