祖父の書いた戦中戦後の回顧録を従妹が持っていました。今回、従妹から見せてもらい、その内容に大変驚きました。知らないことばかりが書かれていました。
それほど長い文ではないので、ここに数回に分けて再録しておこうと思います。
山河ありき
筆者が中支の南昌日本領事館警察署の警察官として赴任したのは、支那事変が拡大の一途をたどり、漢口がやっと陥落した昭和十五年の夏であった。
当時同市に行くには、先づ長崎から船に乗り、上海に上陸して大陸の内航船に乗り換え揚子江を北上し、首都南京を経て更に同江を遡航、二日がかりで九江市に到着、ここから鉄路を西南に向け、軍事輸送の貨車の片隅に八時間ばかり座って居て、やっと南昌に着くと言う経路をとっていた。
南昌は中国大陸の東西南北のほぼ真中に位置し、江西省の省都で、当時人口約三十万と言われ、日本人はもとよりかって外国人が住んだことのない、最も排他的思想の強いところといわれていた。それだけに四千年の歴史をもつ中国奥地の中国人の素顔が「生」で見られた。例へば女の纏足(幼少の頃足指をまるくしておき活発に外に出られないようにして浮気を封ずる)男の弁髪(黒髪を肩まで垂らす)の遺風がいたるところで見られた。
周辺には日本軍約二個師団が展開、南進の拠点として重要視されていた。在留日本人も六百人をかぞえ、主として軍相手のサービス業、貿易等に従事していた。南昌警察署は警部署長以下十二名で構成され、在留日本人犯罪の取締りと言うより、むしろ指導に重点がおかれ、日本人の保健衛生から戸籍事務等まで担当し、言うなれば警察権を持った町役場のような存在であった。署長は福島県人で、号を「桃村」といい、大変俳句の好きな人であった。土曜日には全署員が広い署長室に集合、句会が開かれるのが常であった。しかしみんな進んで出席していたわけではなかった。「趣味の押し売りだ」とぶつぶつ言いながらも、出席しないと署長の機嫌をそこねるからである。
当時の外務省警察官の昇任はその所属長が推薦した者のなかから、競争試験で昇任する制度であったから、まず所属長の気に入らねばならない事情があった。「俳句の一つも出来ないようでは常識人としての教養に欠ける」と言うのが、俳人署長の口ぐせであった。従って毎土曜日の句会のやりかたは独善的で誤字脱字があろうものなら「それで報告書が書けるか」と其の場で叱られた。
其の当時の句で今も記憶に残っているのは誰の句であったか、「移り住む難民の群夏木立」の句である。現在のカンボジヤの難民を想起させそうな句である。
俳句の先生であり、署長である「桃村」師の俳句指導は、あたかも大工見習いが師匠に手を取って教えられるようにして、頭から俳句をたたきこまれた。桃村師との出合いが、すなわち私の俳句につながる出合いであった。否応なく強制されて俳句の世界に踏み込んだが、一年以上も俳句に親しんでいると、自然に俳句の「よさ」、「面白さ」がわかって来て興味を覚えるようになった。「ホトトギス」にも投句をはじめた。
当時のホトトギスは極めて厳選で、一年つづけて投句しても、一句も入選しないのが常識とされていた。
私に俳句の目を開かせた恩人は、福井県人で、しかも親友の奈良邯子であった。彼は若い頃から俳句に興味を持ち、その当時すでにホトトギスへの入選の経歴をもっていた。俳壇の消息にも通じ、虚子のホトトギスを「一つの企業」と言い、「虚子は偉大な俳人であると同時に企業人である」と評していた。
当時南昌には軍報道部が発行していたタブロイド版の新聞があるだけで、ラジオさえ聞くことは出来なかった。中国本土の奥地にあっては、この新聞が戦争の行方、国内の情況、世界の大勢を知る唯一の拠りどころであった。毎日戦況を知らせる景気のよい活字が列んでいたが、敗色はおおうべくもなく、連日の爆撃と重慶側のゲリラにふりまわされ、夏雲を仰いでの嘆息の毎日であった。
昭和十九年も末になると、在留日本人で妻子を内地に帰すものが急に多くなった。
揚子江(今は長江と呼ぶ)は日本陸海軍で何とか(昼間は米機の爆撃で危険)安全が保たれていたが、上海─長崎間の海上航路は、潜水艦の出没で危険となり、はるかな鉄路をとって、当時の首都南京に出て、京漢線を北上、現在の首都北京を経て満州に入り、朝鮮半島を縦断して南下し、終点の釜山から、旅客船で下関に上陸するという大変な旅行をよぎなくされた。
外務省の警察官は外地に三年間大過なく勤めたら、官費で帰朝することができ、三ヶ月間内地で静養できるしくみになっていたが、有資格者であっても戦争中のことであり、なかなかその権利行使ができにくい状態であった。しかし、親友「邯子」君は家庭の事情を訴えて再三帰朝願を出し、三ヶ月以内に任地に戻る事を条件に許可され、妻子を連れて福井市に帰郷した。
同君が帰って来たのは昭和二十年四月で、「日本の国土のほとんどが制空権を失い、焦土と化しつつあり、国民は疲れきってゐて、今講和がなければ破滅するのではないか」と、その帰国談にはただただ驚くばかりであった。そうこうするうち、欧州ではその年の五月一日、米英ソの連合軍がベルリンに突入し、ヒットラー総統は自殺したと伝えられた。
その時の気持ちとして、じっとしておれず、当時南昌市唯一の台湾銀行の応接室でドイツ滅亡の追悼句会を開いた。憲兵に知られるとめんどうになるので本当に気心の知れた一心同体の者七、八名が集った。
残念であるがその時の句は、私の句を含めて次の四句しか記憶していない。
ドイツと言ふ国かつてありき花茨(いばら) 邯子
もう出ない陽が沈み行く夏野かな 鶴子
バラ活ける刻も失いドイツ逝く 了夏
巨(おお)いなる国の崩るる日の薔薇(さうび) 礁舎
ドイツは二度までも大戦を引き起こした張本人として、再び日の目を見る事はなかろうと言うのがその時の我々の結論であった。
我々の身にふりかかる破局は間もなくやって来た。八月十五日の無条件降伏である。
...つづく
それほど長い文ではないので、ここに数回に分けて再録しておこうと思います。
山河ありき
筆者が中支の南昌日本領事館警察署の警察官として赴任したのは、支那事変が拡大の一途をたどり、漢口がやっと陥落した昭和十五年の夏であった。
当時同市に行くには、先づ長崎から船に乗り、上海に上陸して大陸の内航船に乗り換え揚子江を北上し、首都南京を経て更に同江を遡航、二日がかりで九江市に到着、ここから鉄路を西南に向け、軍事輸送の貨車の片隅に八時間ばかり座って居て、やっと南昌に着くと言う経路をとっていた。
南昌は中国大陸の東西南北のほぼ真中に位置し、江西省の省都で、当時人口約三十万と言われ、日本人はもとよりかって外国人が住んだことのない、最も排他的思想の強いところといわれていた。それだけに四千年の歴史をもつ中国奥地の中国人の素顔が「生」で見られた。例へば女の纏足(幼少の頃足指をまるくしておき活発に外に出られないようにして浮気を封ずる)男の弁髪(黒髪を肩まで垂らす)の遺風がいたるところで見られた。
周辺には日本軍約二個師団が展開、南進の拠点として重要視されていた。在留日本人も六百人をかぞえ、主として軍相手のサービス業、貿易等に従事していた。南昌警察署は警部署長以下十二名で構成され、在留日本人犯罪の取締りと言うより、むしろ指導に重点がおかれ、日本人の保健衛生から戸籍事務等まで担当し、言うなれば警察権を持った町役場のような存在であった。署長は福島県人で、号を「桃村」といい、大変俳句の好きな人であった。土曜日には全署員が広い署長室に集合、句会が開かれるのが常であった。しかしみんな進んで出席していたわけではなかった。「趣味の押し売りだ」とぶつぶつ言いながらも、出席しないと署長の機嫌をそこねるからである。
当時の外務省警察官の昇任はその所属長が推薦した者のなかから、競争試験で昇任する制度であったから、まず所属長の気に入らねばならない事情があった。「俳句の一つも出来ないようでは常識人としての教養に欠ける」と言うのが、俳人署長の口ぐせであった。従って毎土曜日の句会のやりかたは独善的で誤字脱字があろうものなら「それで報告書が書けるか」と其の場で叱られた。
其の当時の句で今も記憶に残っているのは誰の句であったか、「移り住む難民の群夏木立」の句である。現在のカンボジヤの難民を想起させそうな句である。
俳句の先生であり、署長である「桃村」師の俳句指導は、あたかも大工見習いが師匠に手を取って教えられるようにして、頭から俳句をたたきこまれた。桃村師との出合いが、すなわち私の俳句につながる出合いであった。否応なく強制されて俳句の世界に踏み込んだが、一年以上も俳句に親しんでいると、自然に俳句の「よさ」、「面白さ」がわかって来て興味を覚えるようになった。「ホトトギス」にも投句をはじめた。
当時のホトトギスは極めて厳選で、一年つづけて投句しても、一句も入選しないのが常識とされていた。
私に俳句の目を開かせた恩人は、福井県人で、しかも親友の奈良邯子であった。彼は若い頃から俳句に興味を持ち、その当時すでにホトトギスへの入選の経歴をもっていた。俳壇の消息にも通じ、虚子のホトトギスを「一つの企業」と言い、「虚子は偉大な俳人であると同時に企業人である」と評していた。
当時南昌には軍報道部が発行していたタブロイド版の新聞があるだけで、ラジオさえ聞くことは出来なかった。中国本土の奥地にあっては、この新聞が戦争の行方、国内の情況、世界の大勢を知る唯一の拠りどころであった。毎日戦況を知らせる景気のよい活字が列んでいたが、敗色はおおうべくもなく、連日の爆撃と重慶側のゲリラにふりまわされ、夏雲を仰いでの嘆息の毎日であった。
昭和十九年も末になると、在留日本人で妻子を内地に帰すものが急に多くなった。
揚子江(今は長江と呼ぶ)は日本陸海軍で何とか(昼間は米機の爆撃で危険)安全が保たれていたが、上海─長崎間の海上航路は、潜水艦の出没で危険となり、はるかな鉄路をとって、当時の首都南京に出て、京漢線を北上、現在の首都北京を経て満州に入り、朝鮮半島を縦断して南下し、終点の釜山から、旅客船で下関に上陸するという大変な旅行をよぎなくされた。
外務省の警察官は外地に三年間大過なく勤めたら、官費で帰朝することができ、三ヶ月間内地で静養できるしくみになっていたが、有資格者であっても戦争中のことであり、なかなかその権利行使ができにくい状態であった。しかし、親友「邯子」君は家庭の事情を訴えて再三帰朝願を出し、三ヶ月以内に任地に戻る事を条件に許可され、妻子を連れて福井市に帰郷した。
同君が帰って来たのは昭和二十年四月で、「日本の国土のほとんどが制空権を失い、焦土と化しつつあり、国民は疲れきってゐて、今講和がなければ破滅するのではないか」と、その帰国談にはただただ驚くばかりであった。そうこうするうち、欧州ではその年の五月一日、米英ソの連合軍がベルリンに突入し、ヒットラー総統は自殺したと伝えられた。
その時の気持ちとして、じっとしておれず、当時南昌市唯一の台湾銀行の応接室でドイツ滅亡の追悼句会を開いた。憲兵に知られるとめんどうになるので本当に気心の知れた一心同体の者七、八名が集った。
残念であるがその時の句は、私の句を含めて次の四句しか記憶していない。
ドイツと言ふ国かつてありき花茨(いばら) 邯子
もう出ない陽が沈み行く夏野かな 鶴子
バラ活ける刻も失いドイツ逝く 了夏
巨(おお)いなる国の崩るる日の薔薇(さうび) 礁舎
ドイツは二度までも大戦を引き起こした張本人として、再び日の目を見る事はなかろうと言うのがその時の我々の結論であった。
我々の身にふりかかる破局は間もなくやって来た。八月十五日の無条件降伏である。
...つづく