昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

なるほど!と思う日々(279)歴史の終わり?(2)

2014-07-09 03:39:20 | なるほどと思う日々
 いわゆるイデオロギーに基づく抗争の歴史が終わって、今世界の状況は新たな局面に入っている。
 そして日本もその発展において岐路に立っているとフクヤマは指摘する。
 

 戦後、軍事、政治、経済、社会、文化すべての面でアメリカに対する強烈な劣等感があり、だからこそ日本の近代化はアメリカ化であった。
 しかし、驚くべき経済成長の結果、そういう劣等感は消えた。
 そしてむしろこの成功が古い日本のシステムが持っている優越性、つまりプレモダンな伝統によるものが、欧米で見られる古典的な自由主義よりもうまく機能したと見られる。
 つまり、<イエ社会>としてのある種の集団主義が企業の長期的成長に適していたのだ。
 
 
 日本は、この歴史以後の世界に関して、競争的な、したがってそれだけ人間的なヴァージョンを発明したのだ。
 領土をめぐる軍事的闘争や、それを核とする古典的な大国としてのステイタスから、新しい技術や高付加価値生産のコントロールをめぐる競争や、そこでの日本の優位に焦点が移ってきた。
 言い方をかえれば、ガンジーが指摘した資本主義の社会的罪を日本的感性で克服できる可能性が見えてきたということか?
 

 つまり、かつての日本の戦士がもっていた<気概>や、美的満足感のようなものが巧みに取り込まれている。日本の技術者や労働者は、完全主義の情熱をもって、新しい製品を作り出し、一分のムダもミスもなく生産することに誇りと喜びを感じる。
 日本の消費財は、高級なファッションに限らず、スノビッシュなまでに洗練されている。
 
 <気概>というのは人間のパーソナリティの中で、自分自身に誇りを感じ、他人から価値ある存在として認められたいと望む部分を指す言葉だ。ヘーゲルが言ったように、それがあるからこそ人間は人間なのだ。
 それはある意味で、富の蓄積と消費だけに興味を持つ経済的な部分の対極にある。
 日本においては、経済的な活動とされているものが、実際には<気概>にかかわる行動なのだ。それは個人的な富の蓄積と消費のために行われているのではない。それは、新しい製品を開発し、市場のシェアを広げ、競争相手を打ち負かすことによって得られるプライドのために行われている。
 
 アジアの人々がモデルとして注目しているのは、もはやアメリカではなく、日本のなのだ。 (以上、浅田彰<「歴史の終わり」と世紀末の世界>を参考にまとめてみました)

 ウインブルドンテニスの覇者、ジャコビッチ選手が歓喜のあまりコートの芝生を食った。
 
 同じような光景がサッカーW杯でもみられた。

 
 


なるほど!と思う日々(278)歴史の終わり?

2014-07-08 02:48:20 | なるほどと思う日々
 韓国を訪れた中国の習近平主席が安倍政権について批判している。
 
 日本は歴史を振り返り、過ちを再び起こすべきではない!と。
 安倍政権の靖国参拝や集団的自衛権など、歴史を逆行させようとしてしているのでは?と。

 ここで、1989年天安門事件が起きた年に、提起されたアメリカのフランシス・フクヤマの「歴史の終わり?」を思い出した。
 
 

 この論文の中で、彼は言っている。
 歴史とは異なったイデオロギーを奉ずる者たちの繰り広げる闘争の歴史である(ヘーゲル) そのような闘争の歴史が終われば歴史は終わる。
 全体主義や共産主義のように自らの普遍性を主張するイデオロギーに基づいたグローバルな闘争はもうないだろう。
 
 そしていみじくも、その2年後、ソ連邦は69年の歴史を閉じ解体する。
 
 歴史は自由民主主義の勝利をもって終わったのである、と。
 重要なのは、自由民主主義の原理がフランス革命によって打ち立てられヨーロッパに広められたという事実である。
 フランス革命の提起した解決が200年を経てなお唯一ひろく受け入れられる解決だということがはっきりした、ということだ、と。
 すくなくともその<自由民主主義>に代わり得る別の根本的なシステムを見い出せていない、と。


 その観点から中国の現状を眺めると、<中華思想>というイデオロギーを打ち立て、<共産党の一党独裁>というシステムで昔の日本の覇権的姿勢を真似て軍事力を強化することのほうが、忌まわしい人間の歴史から脱却できていないのでは?と疑ってしまう。
 

エッセイ(212)朝日新聞に見る集団的自衛権(2)

2014-07-04 05:40:42 | エッセイ
 昨日の朝日新聞のトップ記事。
 
 「組織としての殺人を容認するものだ!」
 「すべての戦争は自衛のため!」
 「普通に戦争できる国にすることに反対!」
  という思いを朝日は強く代弁している。

 一方、同盟国のアメリカに引きずられることを懸念している。
 「いざという場合ノー!と言えるか」と。
  恐らく、今回の集団自衛権に関しては、アメリカからの強い要請もあったのだと思う。
  アメリカの庇護の下、のうのうと命の危険から免れている日本の姿勢が問われている。
  少なくとも日本を守ろうとする米軍が危険にさらされている時ぐらいは助けろよ!と。

 <天声人語>に日本は「言霊の幸う国」だとし、言葉に宿る力によって栄える国だと述べている。
 つまり、「9条は武力放棄をうたい、長い平和を築いた。その言葉を大切にしなくては!」というわけだ。

 1000年前の<古今和歌集>の世界において、政治とは、歌を詠むこと。
 
 やまとうたは人の心の種として、萬の言の葉とぞなりにける。力も入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれとおもわせ、男女の仲をも柔らげ猛き武人の心を慰めるは歌なり。(古今和歌集序文)
 
 地震など、天変地異、いわゆる超自然的な存在は鬼神の仕業。
 だから彼らにとって鬼神をなだめることが、つまり歌を詠むことが唯一の対策になる。
 一種の呪術者(シャーマン)政治・・・平安コトダマイズム。
 日本史は平安コトダマイズムと鎌倉リアリズム、この二大原理の対立。

 平安貴族は現実に対応する<政治>というのは苦手。
 これに対し、鎌倉武士はそもそも現実に対応するために生きてきた。
 社会の矛盾を呪術的な方法ではなく、実際の制度の改革や法の整備などで切り抜けていく。
 敵が攻めてきたら、武器をとって戦わなければならない。
 祈っていてもしょうがないという立場だ。

 昔の律令にあたる憲法では、日本に軍隊はないことになっている。
 コトダマの世界では戦争よ無くなれ平和よ来いと言えば本当に平和が來ることになる。
 (井沢元彦<言霊将軍実朝>より)

 
 日本をめぐる周辺国の状況は流動的だ。
 少なくとも<政治>はコトダマイズムではなくて、リアリリズムで対応せざるを得ないだろう。

 中国の習近平主席は北朝鮮を差し置いて韓国を訪問。
 
 日本は拉致問題解決のため近づいて来た北朝鮮に対し制裁処置を一部解除。
 

 当日の朝日新聞の広告欄には「米国慰安婦、韓国政府を集団提訴!」
 「告げ口外交で墓穴!」などの言葉が踊っている。
 
 

エッセイ(211)朝日新聞に見る集団自衛権問題

2014-07-02 02:43:31 | エッセイ
「集団的自衛権 憲法解釈変更へ 行使容認きょう閣議決定 公明、受入れ決める」
 昨日の朝日新聞のトップ記事だ。
 
 閣議決定案は、集団的自衛権を使えるように、憲法9条の解釈を変えることが柱だ。
 具体的には「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合などの条件を設け、それを満たす場合には、日本が集団的自衛権を使えるようにする。
 
 この決定に対して、朝日は当然のごとく批判的な論陣を張る。

 一面の<座標軸>では、「集団的自衛権は国連憲章に認められて権利だというが、日本はさらに重い責務を負うことになるよ」と懸念を示し、その先に集団安全保障も視野に入れているようだと勝手読みし、「だとすればなおさらだ。国際社会の危機を、今まで以上に受け止めなければならない」と、今まで平和憲法のおかげで無傷でいられたのに、これからは死も覚悟しなければならない。それでもいいのかい?という論調だ。
 我がことのみを心配し、他への思いやりは語らない。そんな無責任な姿勢が通用すると思っているのだろうか? 

 <社説>では、「他国で戦争できる国へ。時の政権が憲法を都合よく解釈できる国へ」などと、国民が選ぶ政権をまったく信用していない。
 新聞は時の政権に批判的であるという役割にのみ終始し、少なくとも国益に立脚したコメントは控えるようにしているようだ。 
 ところが<社説余適>では一瞬目を疑った。
 「南シナ海、波高し」では、中国の覇権的な姿勢を批判している。
「日中の会議に参加して、ベトナムのような国をいじめるのは大国に相応しくない振る舞いだ! 中国は力で押し通すな! と主張したら、背後でベトナムを唆す米国こそが地域の平和を乱している。そもそも南シナ海は歴史的に我々の海だ! と強烈な反駁を喰らった。現在の必要に応じて歴史的装いを整えた主張で、どうしようもない強弁だ!」
 と朝日にしてはなかなかの現実的コメントを載せている。

 安倍首相はこの集団的自衛権容認は武力攻撃の抑止力になることを強調したが、彼に反対する人たちは、安倍さんは先祖帰りを目指しているのではという懸念があるようだ。
 
 つまり、満州国設立にも影響力のあった<昭和の妖怪>祖父の岸信介元首相のイメージが付きまとっているのだ。
 安倍さんの目指す本心は分からないが、少なくとも昔の帝国主義日本を夢見ているなどという幻想はナンセンスだろう。
 核兵器も保有していない日本にはそんな力はあり得ないことは彼も重々承知だろう。
 むしろ中華思想を標榜する中国に、遅れて来た覇権国家的脅威を感じているというのが本音であろう。

 今回、憲法改正ではなくて、憲法解釈の変更でいざという時の事態に対応するというのは賢明なステップで(既に自衛隊容認の実績があり、時代と共に憲法解釈が変わるのは当然とも言える)むしろ憲法9条の精神を残して<積極的平和主義>を標榜する日本の姿勢は認められるべきだ。
 南シナ海ばかりでなく、韓国に占有されてしまった竹島や、ロシアのウクライナ侵攻、中東やアフリカの争いを見れば、現実は日本の平和憲法が願う理想とは程遠いのが現実である。
 
 
 政治は現実に対応できてなんぼのものなのだ。

 ただし、このままで人類の今後が良い訳がない!
 日本は人類の覇権争いの空しい歴史を顧みて、いかにあるべきか、世界のリーダーを糾合して問題解決の先頭に立つべき使命を平和憲法が促していることは間違いない。
 
 現実はそれぞれが国益、あるいは民族の利益をベースに争い合っているのが人類社会だ。そして先の見えない八方ふさがりになっている。
 人類自身として何が問題なのか?
 国家や民族のあるいは宗教をリードする者たちが集まり協議する<人類会議>を提唱する。
 
 ぼくは今、いろいろな仲間の協力を得て「レロレロ姫の警告」という小説を上梓すべく試みている。
 文明の発達を謳歌しているように見えながらも、人為的な地球温暖化問題を抱え、核廃棄物の処理問題も先送り。政治的にも経済的にも解決の目途がたたない人類社会。さらにいつまでも絶えない国家や民族紛争、人類はこのままどこへ向かおうとしているのか。
 自然を司る暗黒星雲から東日本大震災とともに遣わされた姫が警告するというファンタジーだ。
 
 左欄のカテゴリーから、<詩歌>1.(3.11を忘れない!)をご参照下さい。


 STAP論文撤回で、核心を握ると思われていた笹井芳樹氏が、「不正を防ぐ指導を徹底しきれなかった」と反省、これまではSTAP細胞が存在すると主張してきた件に関しても、「整合性を疑念なく語ることは困難」と後退した。
 
 しかし、「STAP細胞はあります」と今なお信じる小保方晴子氏は、実験で明らかにすべく神戸理研の研究センターに入った。
 
 小保方晴子さんというひとりの魅力的な女性をめぐる、このきわめて現代的問題を孕んだドラマはどのように展開するのだろうか?