昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

なるほど!と思う日々(280)サル学と言語ゲーム

2014-07-23 05:42:08 | なるほどと思う日々
 「ピグミーチンパンジー」という著書のある自然人類学者黒田末寿氏は、サルの観察について言っている。
 
 
 サルの群れに近づいていくと、最初、向こうは全く異質なものとして受けとり逃げていくわけです。それでもこっちは森のシカや木のようについていくと、何とか許容されるようになる。最後に、サルに攻撃されます。攻撃されたときに、逆にわしの方が偉いのだとガッと怒る。攻撃されるようになると、かなりサルに近いところにいったということです。しかし、いつまでも最下位のサルの状態ですと、群れの中を自由に動き回れないということがあって、わしのほうが偉いというところで頑張っておいて後はしずかにしておく。そうなると、発情した若いメスがほれておしりを向けてくるという段階になります。これはニホンザルの場合で、チンパンジーの場合は、観察者は自分たちとは異質のものであるということうはよく認識しています。ですから、チンパンジーの行動をみるときは、こちらが影響をあたえている、いつまでも違和感をもった存在としているんだということを、より強く考慮しなくてはなりません。 
 いずれにせよ観察対象と干渉をおこしているのは確かですが、サルに受け入れられた後はなるべくサルに干渉しないようにしていると、そのうちサルのほうが僕らを無視するようになってきます。

 この動物行動学的なアプローチとは別に、実験室的にサルの精神の働きとか脳の働きを解明しようというアプローチもある。

 チンパンジーやゴリラに身振りを教えたり、カードを使って、人間とコミュニケートする方法を教える実験がある。これは人間の伝達手段を彼らに訓練したわけですから、そこから得られた結果はどれほど彼らの本来のものであるか、ちょっと問題ですが、すごい能力を持っているということはわかります。ですから、僕たちが野生のサルやチンパンジーをみるときにも、もっと同化して彼らの内面をのぞくような方法論をもたなければ、本当の理解ができないのではないかという気がしています。
 
 外国語を学ぶ場合、サル学と同じような問題があることを哲学者、浅田彰氏は指摘している。
 つまり言語を含む活動様式の総体である、ヴィトゲインシュタインいうところのあいまいな<言語ゲーム>を共有するしかない。
 
 たとえば日本語を学ぶ場合、自転車に乗るとか水泳をするとかいうのと同じで、実際に自転車にまたがったり水に入ったりするようにして、実際に日本人コミュニティーの活動様式のなかに入っていき、身をもってそれに慣れていくという形でしかあり得ない。
 
 しかも、「あなたがうまくコミュニケートできないとすれば、それは、言語ゲームを共有していないからです」というネガティブな言い方はできても、「日本語の言語ゲームとはこれこれこういうものであり、これさえ共有すればうまくコミュニケートできます」というようなポジティブな言い方はできない。・・・
 
 現実には、あくまでも非常にあいまいな言語ゲームの共有ということしかあり得ず、その場合には、外的観察者はもちろんのこと、内部にいる人にすら完全な共有という客観的保証は永遠に与えられることがなくて、とりあえずうまくいっているところまでしか言えないわけです。
 

 呉善花さんが<スカートの風>の中で言った「日本語は人格を変える?」という言葉を思い起こした。
 

 モンゴルとの間でEPAを締結。
 

 その昔、元寇に襲われ、今は大相撲を席巻されている相手。
 千年の恨みを超えて抱擁!