昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

三鷹通信(299)三鷹市民大学・日本の文学・折口信夫

2018-10-10 01:34:28 | 三鷹通信
 
「なぜ、市民大学哲学コースはプロのヴァイオリニストの生演奏を聴くことにしたのか?」
 早速、Y哲学コース運営委員から回答をいただきました。
 「ニーチェとワグナーの関係のように<哲学思考>と<クラシック音楽>とは深い関係があります。クラシック音楽の生演奏を聴き哲学的な思考を体験するのが今回の企画の趣旨です」と。
 …なるほど! ニーチェがワグナーの中に見ていたのは、人間社会の合理的なもの(経済主義的な、言い換えれば、金もうけ主義的な姿勢)を批判し、人間の感動的な要素に注目するという<ロマン主義>の精神だったのですね・・・

 この日、お隣の哲学コースの運営委員Y氏からパンフレットをいただいた。
 哲学コースの自主学習でプロのヴァイオリニスト戸田弥生のソロコンサートをやるというのだ。
 確かに戸田弥生のホームページをのぞいてみると、来年3月1日に予定されている。
 
 なぜ、哲学コースでヴァイオリンの演奏?
 そのつながりを教えてほしい。

 わが日本の文化コース自主学習でJAZZの実演を行ったW運営委員からは、ご自身のプロ活動のパンフレットを頂いた。
 11月新宿で演奏するそうだ。


 柳田國男に引き続き、大久保喬樹東京女子大名誉教授は、民俗学者として「折口信夫」を採り上げられた。
 1887~1953 柳田の実証、現実派に対して折口は直観派であり、釈超空の名で詩人でもあった。
 「死者の書」
  *大津皇子の死霊とまみえた中将姫がさまよえる魂を鎮め自らも浄土へといざなうという幻想的な物語。
 「古代研究・ははが国へ・常世へ」
  *「われわれの祖(オヤ)たちの、この国に移り住んだ大昔は、それを聴きついだ語部の物語の上でもやはり大昔の出来事として語られている。・・・ただ残るは、父祖の口から吹き込まれた、本つ国に関する恋慕の心である」
  *「十年前、熊野に旅して、光充つ真昼の海に突き出た大王が埼(志摩半島のはずれの岬)の尽端に立った時、遥かな波路の果に、わが魂のふるさとのあるような気がしてならなかった」
  *「すさのをのみことが、青山を枯山なすまで慕い嘆き、いなひのみことが、波の穂を踏んで渡られた「ハハの国」は、われらの祖たちの恋慕した魂のふる郷であったのであろう」
  ・・・実証性がない神代の時代の日本文化を直観によって語る・・・

  ・・・折口信夫は<セックスの問題>に触れたがらない理性的な柳田と離別した・・・
  *新しい時代にも、なお村々・国々の主権者と認められた巫女が多かった。卑弥呼や国難を救った神功皇后などである。
  *村々の高級巫女たちは、独身を原則とした。それは神の嫁として・・・。
   神祭りの際、群衆の男女が、恍惚の状態になって、雑婚に至る根本の考えは、一人一人の男を通じて、神が出現しているのである。

 折口信夫・釈超空というと、ボク自身、中学の国語のK先生を思い出す。
「いやあ、新婚旅行でエミちゃん(彼の嫁)と一緒にお風呂に入ったんだ・・・」
 折口信夫を崇拝するK先生は顔を赤らめて得意げに秘話を語った。
 そういえばK先生は折口信夫を顕彰する石川県の羽咋市歴史民俗資料館の近くの神社の神主の息子?とか聞いたことがある。
 ボクは卒業生を代表して答辞を述べたのだが、その時、指導を受けたのがK先生だった。
 万葉集の志貴皇子の句を冒頭に述べることを指導された。

 ・・・石(いわ)ばしる垂水の上のさ蕨の 萌え出づる春になりにけるかも・・・
 私事で失礼します。