竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 二二〇 今週のみそひと歌を振り返る その四〇

2017年06月24日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二二〇 今週のみそひと歌を振り返る その四〇

 今週は集歌1073の歌を中心に遊びます。
 万葉集の鑑賞で、万葉集から万葉集を鑑賞する立場と、新古今和歌集の時代から新古今和歌集を鑑賞するように万葉集を鑑賞する立場があります。ご存知のように万葉集の歌は漢語と表語文字の漢字で音を表して表記されたものですし、古今和歌集の歌は一字一音の万葉仮名だけで表記された和歌集です。新古今時代の漢字交じり平仮名表記の和歌集とは違います。このような背景がありますから万葉集や古今和歌集の鑑賞で「枕詞」という便利な術語が採用できるかは不明です。古今和歌集は言葉を敢えて清音平仮名だけで表現することで複線的で複合的な歌の世界を目指していますから、言葉の解釈への思考停止を意味する「枕詞」というものを積極的に採用してでしょうか。疑問です。
 また、肝心なことに「枕詞」という術語が成立するためには、慣用語的に他の言葉と連携して人々の認識・認知がなければなりません。和歌の創成期には、建前としても「枕詞」という術語でくくられるような言葉は存在しません。「枕詞」は和歌の長い歴史の中で形成されるものなのです。ただし、万葉集の歌を漢字交じり平仮名歌に翻訳し、それを定訓として擬似原歌として扱うのですと、それは新古今調の翻訳和歌ですから、翻訳という過程で「枕詞」は成立します。古語意味不詳として「枕詞」という術語を導入して、そのように翻訳しているのですから、当たり前です。当然、弊ブログは万葉集を万葉集として鑑賞する立場ですから、「枕詞」という術語を導入することを拒否します。実に素人の素人たる所以です。

集歌1073 玉垂之 小簾之間通 獨居而 見驗無 暮月夜鴨
訓読 玉垂(たまたれ)し小簾(をす)し間(ま)通(とひ)しひとり居(ゐ)に見る験(しるし)なき暮(ゆふ)月夜(つくよ)かも
私訳 美しく垂らす、かわいい簾の隙間をして独りいるこの部屋から見る、待つ身に甲斐がない煌々と道辺を照らす満月の夕月夜です。

 さて、集歌1073の歌の「玉垂之小簾」という表現で「玉垂」は「枕詞」として言葉の意味合いやその言葉が示す景色などを考慮しないのが標準です。慣用句であり語調を整えるものというのが一般です。類似の表現を持つものとして集歌2364の歌や集歌2556の歌を案内します。確かにそうではありますが、一方で万葉集では恋人を待つ若い女性の部屋の様子を示す言葉として「玉垂之小簾」という女性にふさわしい内装を表現しますし、この言葉が歌で紹介されますと、時に、それは若い女性のインテリア流行になると思うのが良いのではないでしょうか。大切な恋人を部屋に迎え入れるとき、インテリアやファッションに心を砕くのは若い女性にはありえることではないでしょうか。その視点からしますと、インテリアを似せ、流行の染め色を身に纏うのは想定のうちですし、その想定が成り立つなら、その情景を歌に詠うのも想定の内です。

集歌2364 玉垂 小簾之寸鶏吉仁 入通来根 足乳根之 母我問者 風跡将申
訓読 玉垂し小簾(をす)し隙(すけき)に入り通(かよ)ひ来(こ)ね たらちねし母が問(と)はさば風と申(まを)さむ
私訳 美しく垂らすかわいい簾の隙間から入って私の許に通って来てください。乳を与えて育てくれた実母が簾の揺れ動きを問うたら、風と答えましょう。


集歌2556 玉垂之 小簀之垂簾乎 徃褐 寐者不眠友 君者通速為
訓読 玉垂し小簾(をす)の垂簾(たれす)を行き褐(かち)む寝(い)は寝(な)さずとも君は通はせ
私訳 日が翳り美しく垂らすかわいい簾の内がだんだん暗くなります。私を抱くために床で安眠することが出来なくても、貴方は私の許に通って来てください。
注意 三句目「徃褐」は一般的には難訓で「往くかちに=往く勝ちに」と解釈します。当然、見る景色はまったくに変わります。


 弊ブログでは「玉垂之小簾」の言葉について「玉」は「大切なもの、美しいもの」などを示すと考えていますし、「小」は「かわいい」、男物に対する女物のような感覚で解釈しています。他方、「玉垂」の「玉」はじゅじゅ玉などの実際の草木の実などで作った「すだれ」と解釈することも可能です。ただ、若い女性の部屋の様子を示す言葉として、弊ブログでは「美しい」の意味合いを採用しています。
 他方、玉で出来たタスキを示す「玉垂」という言葉も万葉集にはあります。ただし、柿本人麻呂が作った造語と思われ、万葉集では河嶋皇子の葬儀に際しその妻である泊瀬部皇女に奉げた挽歌である集歌194の長歌に「玉垂乃 越乃大野之」という句と以下に紹介する短歌に現れるだけです。

集歌195 敷妙乃 袖易之君 玉垂之 越野過去 亦毛将相八方
訓読 敷栲の袖かへし君玉垂し越野過ぎゆくまたも逢はめやも
私訳 二人の休む敷栲の床でお互いの衣の袖を掛け合って貴方。野辺送りの葬送の玉垂を身に付けて越野を行列は行きますが、また、再び、貴方に逢えるでしょうか。

 この「玉垂」は玉で出来たタスキを示すとしましたが、古代、タスキはそのタスキを掛ける人の穢れを除く、物忌みの意味があったとされています。つまり、葬儀での親族を示すものであったと思われます。さらに人麻呂が奉げた挽歌で詠われる人物は泊瀬部皇女ですから、高貴な人物に対する修辞においても「玉垂」という言葉が選ばれた可能性があります。なお、繰り返しますが、このタスキをイメージする「玉垂」という言葉は河嶋皇子の葬儀で歌われた挽歌でのみ登場する非常に特殊な用法です。
 そのため、万葉集では「玉垂之小簾」の言葉が優勢となっていますし、ここから「玉垂」という言葉を「枕詞」という術語で処理します。「枕詞」の世界からしますと、人麻呂の「玉垂」が顔を出してはいけないのです。

 おまけでもう少し。
 万葉集の時代、「枕詞」という術語が成立していたかは疑問ですが、同様に万葉集の時代、三輪山は特殊な霊域として存在していました。ところが、明治時代の廃仏毀釈運動の時代、三輪山は宗教的な生き残りのため、仏教寺院群を解体・破棄し、神道聖地との宣伝広告を行いました。その宣伝広告の成果が今日の神道としての三輪山です。
 一方、大三輪氏は後に大神(おおみわ)氏と氏表記を変えますが、万葉時代の大神高市麻呂は仏教の大檀那で三輪山に大御輪寺(大神寺または大三輪寺)という大寺院を建立し、その大御輪寺は私寺ですが仏教僧の得度を許す戒壇を持つような仏教聖地へとなる基盤を築いた人物です。この歴史を反映して明治時代初期までは、人々は三輪山といえば仏教聖地を思うような場所でした。有名な三輪そうめんは江戸時代での大御輪寺への参詣の土産として発展しましたが、廃仏毀釈の後、三輪神社に由来を持つとその歴史を変更しています。
 このような歴史がありますから、万葉集の歌を鑑賞するとき、三輪山に仏教大寺院群の存在を忘れてはいけませんし、その裏手となる長谷寺方面の山並みは人を散骨し葬る場所であったことも忘れることはできません。

集歌1095 三諸就 三輪山見者 隠口乃 始瀬之檜原 所念鴨
訓読 三諸(みもろ)つく三輪山見れば隠口(こもくり)の泊瀬(はつせ)し檜原(ひはら)念(おも)ほゆるかも
私訳 仏や神々が宿る三輪山を眺めると、その奥にある隠口の泊瀬にある檜原をも偲ばれます。
注意 飛鳥時代以降の三輪は、大三輪寺を中心とする仏教寺院が立ち並ぶ仏教の聖地です。また、三輪山は神道の聖地でもあります。そこで原文の「三諸就」を解釈しました。


 今回は標準的な解説とは異なる視点で紹介しましたが、歴史や言葉を探るとこのような事柄も現れてきます。このような専門家ではない、素人視線が弊ブログの特徴で酔論の故たるところです。
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