竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 二一八 今週のみそひと歌を振り返る その三八

2017年06月10日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 二一八 今週のみそひと歌を振り返る その三八

 今回は次の組歌に遊びます。
 歌は巻六に載るものですが、同じ日の宴会で詠われた歌が巻八にも七首が載せられています。巻六の歌と巻八の歌とでは載せる目的が違うようです。巻八では秋八月二十日に橘諸兄の屋敷で宴会があり、秋をテーマに歌を詠ったとして載せます。一方、その宴会で役務の中上りで上京してきた長門守の巨曽倍對馬が妻の待つ自宅に帰っていないことを、古歌を引用してからかっています。そのような風景の歌です。

秋八月廿日宴右大臣橘家謌四首
標訓 (天平十年)秋八月廿日に、右大臣橘の家(いへ)にて宴(うたげ)せる謌四首
集歌1024 長門有 奥津借嶋 奥真經而 吾念君者 千歳尓母我毛
訓読 長門(ながと)なる奥津借島(かりしま)奥まへに吾(あ)が念(も)ふ君は千歳(ちとせ)にもがも
私訳 (私が管理する)長門の国にある奥まった入り江にある借島のように、心の奥深くに私が尊敬している貴方は、千歳を迎えて欲しいものです。
右一首、長門守巨曽倍對馬朝臣
注訓 右の一首は、長門守巨曽倍對馬朝臣なり

集歌1025 奥真經而 吾乎念流 吾背子者 千歳五百歳 有巨勢奴香聞
訓読 奥まへに吾(あれ)を念(おも)へる吾(あ)が背子は千歳(ちとせ)五百歳(いほとせ)ありこせぬかも
私訳 心の奥深くに私を尊敬してくれている私の貴方が、千年と五百年を迎えてくれないものでしょうか。(ねえ、巨勢部の貴方)
右一首、右大臣和謌
注訓 右の一首は、右大臣の和(こた)へたる謌

集歌1026 百礒城乃 大宮人者 今日毛鴨 暇無跡 里尓不去将有
訓読 ももしきの大宮人は今日もかも暇(いとま)を無(な)みと里に去(ゆ)かずあらむ
私訳 沢山の岩を積み上げて造った大宮に勤める官人は、今日もまた、暇が無いと里に下っていかないのでしょう。
右一首、右大臣傳云、故豊嶋采女謌。
注訓 右の一首は、右大臣の傳へて云はく「故(いにし)への豊嶋采女の謌なり」といへり。

集歌1027 橘 本尓道履 八衢尓 物乎曽念 人尓不所知
訓読 橘し本(もと)に道踏む八衢(やちまた)に物をぞ念(おも)ふ人に知らえず
私訳 橘の木の下にある道の人が踏み通る八つの分かれ道のように、あれこれと物思いにふけることよ。その相手には判ってもらえないのに。
右一首、右大辨高橋安麻呂卿語云 故豊嶋采女之作也。但或本云三方沙弥、戀妻苑臣作歌也。然則、豊嶋采女、當時當所口吟此謌歟。
注訓 右の一首は、右大弁高橋安麻呂卿が語りて云はく「故(いにし)への豊嶋采女の作なり」といへり。但し、或る本に云はく「三方沙弥が、妻の苑臣に恋して作れる歌」といへり。然らば則ち、豊嶋采女、時に当たり所に当たり口吟し此の歌を詠へりか。

 さて、集歌1027の歌に添えられた左注から類推すると、巨曽倍對馬の妻も評判な幼な妻だったかもしれません。その左注に示される三方沙弥の妻である苑臣(そののおみ)(園臣)が詠ったとされるのが次の歌です。この歌からしますと、妻の苑臣はまだ髪も伸びきっていない年頃に婚姻したと考えられます。

三方沙弥娶園臣生羽之女、未經幾時臥病作謌三首
標訓 三方沙弥の園臣生羽の女(むすめ)を娶(ま)きて、いまだ幾(いくばく)の時を経ずして病に臥して作れる歌三首
集歌123 多氣婆奴礼 多香根者長寸 妹之髪 此来不見尓 掻入津良武香  (三方沙弥)
訓読 束(た)けば解(ぬ)れ束(た)かねば長き妹し髪このころ見ぬに掻(か)き入れつらむか
私訳 束ねると解け束ねないと長い、まだとても幼い恋人の髪。このころ見ないのでもう髪も伸び櫛で掻き入れて束ね髪にしただろうか。

集歌124 人皆者 今波長跡 多計登雖言 君之見師髪 乱有等母  (娘子)
訓読 人皆(ひとみな)は今は長しと束(た)けと言へど君し見し髪乱れたりとも
私訳 他の人は、今はもう長いのだからお下げ髪を止めて束ねなさいと云うけれども、貴方が御覧になった髪ですから、乱れたからと云ってまだ束ねはしません。

集歌125 橘之 蔭履路乃 八衢尓 物乎曽念 妹尓不相而  (三方沙弥)
訓読 橘し蔭(かげ)履(ふ)む路の八衢(やちまた)に物をぞ念(おも)ふ妹に逢はずに
私訳 橘の木陰の下の人が踏む分かれ道のように想いが分かれて色々と心配事が心にうかびます。愛しい恋人に逢えなくて。

 作歌された時代からしますと、元明天皇の時代の集歌125の歌が先で聖武天皇の時代と思われる集歌1027の歌が後と思われます。集歌125の歌を詠う三方沙弥は仏名で官人としては山田史三方(御方)の名であったと思われ、その彼は和銅三年から長門国の隣、周防国の国守を務めています。これらから、歌はその時代のものと考えられています。
 最初の集歌1026の歌に戻りますと、巨曽倍對馬は長門国の国守で、三方沙弥は隣の周防国の国守を務めた人です。歴史では山田史三方は養老六年に部下が仕出かした官物盗用事件の監督責任を問われ罰を与えられていますが、天皇特赦により罪を免れています。およそ、官人では記憶に残る事件の当事者です。万葉集に残る歌などから推定して、彼はこの事件以来、公から消え、藤原房前の秘書または相談役のような立場に落ち着いたようです。藤原房前と橘諸兄とは政治的に近い関係があったと思われますから、橘諸兄は山田史三方を直接に知っていた可能性があります。
 ここで山田史三方と三方沙弥とは同一人物としますと、その三方沙弥は幼な妻を詠った歌を詠いましたから、その比較です。そこからの集歌1026の歌です。その集歌1026の歌が大好きであった豊嶋采女からの思い出で、集歌1027の歌へとつながったと思われます。ただ、類型歌の関係からすると宴会に集う人々たちには集歌1027の歌が先にあり、その歌から集歌1026の歌が導き出されたのかもしれません。
 可能性として、原万葉集の編纂の指揮をとったと伝承が残るほどの歌人であった橘諸兄が、「そういえば、豊嶋采女が詠った歌があったねぇ」と、職務の上京だからと妻が待つ自宅に帰らない巨曽倍對馬を集歌1026の歌でからかったのでしょう。それを受けて、高橋安麻呂が、「豊嶋采女といえば、こんな歌がありましたねぇ」と集歌1027の歌を披露したかもしれません。これですと、右大臣橘諸兄と国守を管理する右大弁高橋安麻呂ともに巨曽倍對馬に早く自宅に帰って幼な妻にあってやれと歌で指示していることになります。
 和歌は花鳥の使いとしますが、同時に会話の手段でもあります。公式には公務の上京ですから自宅に帰れとは指示できませんが、暗黙裡に自宅に帰れと指示していることになります。

 今回もまた支離滅裂な話になりました。反省です。
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