桜井昌司『獄外記』

布川事件というえん罪を背負って44年。その異常な体験をしたからこそ、感じられるもの、判るものがあるようです。

先日の話

2013-07-21 | Weblog

今日も、大阪で作られた冤罪の事実を書いたが、先日の日弁連での集会のおり、「江戸時代の冤罪の統計はないのか、と問われて調べたらば、当時は、冤罪を作った人が処罰された」と、東電OL殺人事件の支援をされた方が発言した。

俺は、どのような冤罪で、どのようなことだったのか、全く知らないが、江戸時代に冤罪を作ってしまった役人が処罰されていたのかと、少し驚いた。将軍と言う「神」が存在して、その神の名代として取り締まりをしていた奉行所関係者が間違えると処罰されていたとしたらば、今の時代は何だろう。

先般の国連・拷問禁止条約委員会では、「日本は中世の名残がある」と発言したけれども、警察や検察がやり放題で、どのような冤罪を作っても「判断が間違えている」と、平然と語るのでは、今の時代は中世に悖るのではないか。

石を抱かせ、鞭で打ち、拷問が取り調べの基本で野蛮な時代と思っていた江戸時代も、今よりもマシなことがあったのだ。

役人が新しい「神」の名代になった明治から昭和時代の名残が、今の警察と検察のやり放題を作ったのだが、新しい時代に相応しく、いや、人間社会の当然として、過ちを犯して冤罪を作った警察と検察を処罰する法律は、早急に作る必要があるだろう。


人質司法

2013-07-21 | Weblog

日本の人権が語られるとき、裁判の長期化、代用監獄、可視化、取調など、色々な問題が語られるが、その中に「人質司法」と呼ばれる問題がある。

警察や検察に逆らって否認すると、いたずらに勾留が長引いて留置場や拘置所に入れられてしまい、裁判が始まる前に長期間拘束の不利益を受けてしまう問題だ。何か月も拘束されれば、勤め人は会社を解雇されようし、家族の暮らしを背負った人は、大変な事態に苦しむことになる。

諸外国では、警察の調べは1日や2日の短時間だし、検察の調べも短期間だ。起訴されて裁判になっても、可能な限りに釈放されて自由な立場で裁判を受けるようになっている。これは、先ず、「有罪判決があるまでは無罪」という、大前提があるからだ。

ところが、日本では逮捕されたことが、即、犯人であり、有罪であるかのように扱われている。21日間もの取り調べが認められるし、起訴後の取り調べさえ、何か月でも自由だ。

今日、また冤罪の報道があった。給油用のカードが盗まれて使われた事件で、犯人として逮捕された人のアリバイが証明されたという。まあ、警察や検察は、この程度。一度犯人だと決め込んだらば無罪方向の調べはしないから、こんなことが起こるし、日本では日常茶飯事の冤罪と言えるだろう。

この事件で、俺が思ったのは警察や検察のお粗末さだけではない。ガソリン給油カードを使った「窃盗事件」だったとしても、逮捕した後、処分保留、再逮捕と繰り返して、何んと85日間も拘束していた異常さだ。

裁判所は何をしているのだ!

微罪のガソリンカード窃盗使用の罪だろうに、なんで85日間も拘束されるのだろうか。

検察は、被告が否認していることから、「否認するとは不届き!」!と、懲罰的に拘束し続けたのだろうが、裁判所の役割は何なのだ。人権の守り手として検察の行いをチェックしないで、誰が国民の人権を守るのだ。

もちろん、検察の力が強大で、裁判所を超えた存在になって来た日本の状況が問題であって、検察の権力を削減することは火急の課題だが、その前に、裁判官を志した人たちの願いたい、国民の人権を守るのは裁判官なのだと、もう一度、自分の立場を考えて職務に当たって欲しいねえ。