11月23日に倉敷市芸文館で対局があった第22期倉敷藤花戦三番勝負第三局。
倉敷市長による振駒で甲斐智美倉敷藤花が先手に。早々に居飛車を明示。山田久美女流四段は2筋での角交換と,先手の飛車先の歩の交換を許す代償に銀冠に組みました。
ここから▲5九金と寄り,囲いをそれで済ませた先手が△7四歩に対して▲2五歩から攻撃し,そのまま一方的に勝っています。後手が囲いに手を掛けすぎたというのがこの将棋の簡単な総評になるでしょう。
2勝1敗で甲斐倉敷藤花が防衛。第21期から連覇で2期目の倉敷藤花。タイトル獲得通算7期となり,女流五段への昇段も決めています。
彼我の実力差を鑑みれば,このような将棋が二局でシリーズは終了すると僕は思っていました。しかしそうならなかったのは,記者会見で甲斐倉敷藤花が相手の気迫を感じたと言っているように,山田四段の何としてでも勝ってやろうという意気込みが凄まじかったからだと思います。絶対に勝ちたいと思っている人間と,できれば勝ちたいと思っている人間が一対一で戦えば,どんな競技でもよほど実力差がない限りは前者が勝つのは勝負事の鉄則。このシリーズはそれをあからさまに示したといえ,人と人とが勝負するということの面白みをよく伝えたシリーズだったといえるのではないでしょうか。同じ会見で,敗者としての心情の動きを,包み隠さず赤裸々に語った山田四段も,勝負師としてはともかく,人としてなんて素敵な存在だろうと感じました。僕にとっては忘れ得ぬシリーズになるでしょう。
デカルトの哲学体系の中で問題が発生していたとしても,それは僕の関知するところではありません。それに,詳述はしませんが,デカルト自身は、神が実在するということを証明しています。
僕がいう難点とは,そのデカルトの証明に,スピノザが満足していないという点にあります。スピノザが不満を感じていることは,『デカルトの哲学原理』の第一部の諸論や,デカルトによる証明のひとつである第一部定理七の直後の長い備考から明白です。ただし,ここではその詳細にも立ち入りません。それがスピノザを満足させるに至らなかったということだけが明らかならそれで十分だからです。なぜならこの事態のうちに,スピノザの哲学に立脚したなら,デカルトの哲学体系では,神の実在が論証されていないということが含まれているからです。繰り返しますが,僕が難点といっているのはこのことだけなのです。
僕はデカルトの詭弁はあくまでも表向きの見解なのであり,神が自己原因であるということについては,デカルトも本心では是認していたと理解しています。そしてそうであるなら,神の実在は容易に論証されます。ですからスピノザの哲学の立場から,デカルトが本当はそれを認めていたのだということを明らかにすることができれば,難点は一遍に解決できます。そしておそらくある種のからくりとでもいうべきものがあって,これを論証するのは驚くほどに簡単なことなのです。
『デカルトの哲学原理』で神の実在が論証されるひとつ前の定理,第一部定理五は,神の存在の認識は神の本性の考察だけに依拠するといわれています。これは要するに,神の本性には神の存在が含まれているという意味だと僕は解します。本性のうちに存在が含まれているからこそ,その本性を認識するだけで,その存在も認識され得ることになる筈だからです。これを第一部定義一と比べたなら一目瞭然ではないでしょうか。つまりこの定理は,スピノザの哲学に翻訳すれば,神は自己原因であるといっているのと同じことになるのです。
倉敷市長による振駒で甲斐智美倉敷藤花が先手に。早々に居飛車を明示。山田久美女流四段は2筋での角交換と,先手の飛車先の歩の交換を許す代償に銀冠に組みました。
ここから▲5九金と寄り,囲いをそれで済ませた先手が△7四歩に対して▲2五歩から攻撃し,そのまま一方的に勝っています。後手が囲いに手を掛けすぎたというのがこの将棋の簡単な総評になるでしょう。
2勝1敗で甲斐倉敷藤花が防衛。第21期から連覇で2期目の倉敷藤花。タイトル獲得通算7期となり,女流五段への昇段も決めています。
彼我の実力差を鑑みれば,このような将棋が二局でシリーズは終了すると僕は思っていました。しかしそうならなかったのは,記者会見で甲斐倉敷藤花が相手の気迫を感じたと言っているように,山田四段の何としてでも勝ってやろうという意気込みが凄まじかったからだと思います。絶対に勝ちたいと思っている人間と,できれば勝ちたいと思っている人間が一対一で戦えば,どんな競技でもよほど実力差がない限りは前者が勝つのは勝負事の鉄則。このシリーズはそれをあからさまに示したといえ,人と人とが勝負するということの面白みをよく伝えたシリーズだったといえるのではないでしょうか。同じ会見で,敗者としての心情の動きを,包み隠さず赤裸々に語った山田四段も,勝負師としてはともかく,人としてなんて素敵な存在だろうと感じました。僕にとっては忘れ得ぬシリーズになるでしょう。
デカルトの哲学体系の中で問題が発生していたとしても,それは僕の関知するところではありません。それに,詳述はしませんが,デカルト自身は、神が実在するということを証明しています。
僕がいう難点とは,そのデカルトの証明に,スピノザが満足していないという点にあります。スピノザが不満を感じていることは,『デカルトの哲学原理』の第一部の諸論や,デカルトによる証明のひとつである第一部定理七の直後の長い備考から明白です。ただし,ここではその詳細にも立ち入りません。それがスピノザを満足させるに至らなかったということだけが明らかならそれで十分だからです。なぜならこの事態のうちに,スピノザの哲学に立脚したなら,デカルトの哲学体系では,神の実在が論証されていないということが含まれているからです。繰り返しますが,僕が難点といっているのはこのことだけなのです。
僕はデカルトの詭弁はあくまでも表向きの見解なのであり,神が自己原因であるということについては,デカルトも本心では是認していたと理解しています。そしてそうであるなら,神の実在は容易に論証されます。ですからスピノザの哲学の立場から,デカルトが本当はそれを認めていたのだということを明らかにすることができれば,難点は一遍に解決できます。そしておそらくある種のからくりとでもいうべきものがあって,これを論証するのは驚くほどに簡単なことなのです。
『デカルトの哲学原理』で神の実在が論証されるひとつ前の定理,第一部定理五は,神の存在の認識は神の本性の考察だけに依拠するといわれています。これは要するに,神の本性には神の存在が含まれているという意味だと僕は解します。本性のうちに存在が含まれているからこそ,その本性を認識するだけで,その存在も認識され得ることになる筈だからです。これを第一部定義一と比べたなら一目瞭然ではないでしょうか。つまりこの定理は,スピノザの哲学に翻訳すれば,神は自己原因であるといっているのと同じことになるのです。
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