パリ対局となった竜王戦七番勝負第一局。第1図が封じ手の局面。
ここから羽生善治名人の△2四同歩,渡辺明竜王の▲同飛までは必然。そこから△6五歩に▲2三角と打ち,△同金▲同飛成△6六歩▲3三龍。二枚換えの駒得で龍もでき,普通は先手が戦果を上げたと考えられるところ。しかし戦い早々にできたこの龍が,本局ではあまり働くことなく終ってしまうことになります。以下,後手は馬を作って第2図。
△4七角成と馬を作った後手に対し,▲4三金と食いついたところ。重いですけど確実で,先手の穴熊の陣形には相性がよさそうな手に思えます。しかしここで△6四角と打たれ,渡辺竜王は早くも苦戦と感じられたそうです。以下,20手ほど戦って第3図。
ここで△6七銀と打ったのが最終的な決め手になりました。この周辺,局面は複雑なのですが,どうしても後手がうまいこと勝つようにできていたようです。これ以下の先手の指し手はほぼ形作り。即詰みに討ち取った後手が勝っています。
はっきりとした敗因や勝因の分からない不思議な将棋。ことによると相居飛車戦で相手が右玉の場合,居飛車穴熊に組むというのはあまり有効な作戦ではないのかもしれません。
羽生名人が先勝。第二局は30日と31日です。
明日は京王閣記念の決勝です。並びは佐藤-神山で東日本,平原-後閑-高橋の埼京,北津留-石丸-加藤の西日本で武井は単騎。結束する西日本がちょっと不気味です。
僕たちがこの運動によって喜びを感じることがないことについて考えられる理由はいくつかあるのですが,ひとつは,人間が喜ぶということと,その喜びを意識するということは別のことであるということです。喜びは感情であり,これは第三部定義三にあるように,延長の属性の下でも思惟の属性の下でも考えられるのですが,これを仮に思惟の属性の下で考えます。するとこれは,ある人間の精神のうちにある思惟の様態であるということになるでしょう。そしてこのことを,この人間が喜んでいるということにします。しかしだからといって,このことのうちには,この人間が自分の喜びを意識するということが含まれているわけではありません。なぜならこの人間が自分の喜びを意識するためにはこれだけで十分ではなく,この喜びという感情の観念が存在する必要があるからです。
僕は観念に関連して,人間の精神のうちにある観念があるということは,人間の精神の無意識に関連するのであって,人間の意識に関係するのは観念の観念であるという意味のことをこれまでの考察の中で何度か述べてきました。この理由の説明はこのこととちょうど同じ関係にあるのであって,単に感情というならば,それが思惟の様態である限りにおいてはこれは無意識に関係するのであって,その喜びを自覚するためには,喜びの観念,あるいは喜んでいる自分自身の観念が必要であるということです。確かに人間の身体がなす排尿という運動は,それだけでみれば人間を小なる完全性から大なる完全性へと移行させる運動であるとしか考えられませんから,これはひとつ,有力な説明ではないかと思います。
ここから羽生善治名人の△2四同歩,渡辺明竜王の▲同飛までは必然。そこから△6五歩に▲2三角と打ち,△同金▲同飛成△6六歩▲3三龍。二枚換えの駒得で龍もでき,普通は先手が戦果を上げたと考えられるところ。しかし戦い早々にできたこの龍が,本局ではあまり働くことなく終ってしまうことになります。以下,後手は馬を作って第2図。
△4七角成と馬を作った後手に対し,▲4三金と食いついたところ。重いですけど確実で,先手の穴熊の陣形には相性がよさそうな手に思えます。しかしここで△6四角と打たれ,渡辺竜王は早くも苦戦と感じられたそうです。以下,20手ほど戦って第3図。
ここで△6七銀と打ったのが最終的な決め手になりました。この周辺,局面は複雑なのですが,どうしても後手がうまいこと勝つようにできていたようです。これ以下の先手の指し手はほぼ形作り。即詰みに討ち取った後手が勝っています。
はっきりとした敗因や勝因の分からない不思議な将棋。ことによると相居飛車戦で相手が右玉の場合,居飛車穴熊に組むというのはあまり有効な作戦ではないのかもしれません。
羽生名人が先勝。第二局は30日と31日です。
明日は京王閣記念の決勝です。並びは佐藤-神山で東日本,平原-後閑-高橋の埼京,北津留-石丸-加藤の西日本で武井は単騎。結束する西日本がちょっと不気味です。
僕たちがこの運動によって喜びを感じることがないことについて考えられる理由はいくつかあるのですが,ひとつは,人間が喜ぶということと,その喜びを意識するということは別のことであるということです。喜びは感情であり,これは第三部定義三にあるように,延長の属性の下でも思惟の属性の下でも考えられるのですが,これを仮に思惟の属性の下で考えます。するとこれは,ある人間の精神のうちにある思惟の様態であるということになるでしょう。そしてこのことを,この人間が喜んでいるということにします。しかしだからといって,このことのうちには,この人間が自分の喜びを意識するということが含まれているわけではありません。なぜならこの人間が自分の喜びを意識するためにはこれだけで十分ではなく,この喜びという感情の観念が存在する必要があるからです。
僕は観念に関連して,人間の精神のうちにある観念があるということは,人間の精神の無意識に関連するのであって,人間の意識に関係するのは観念の観念であるという意味のことをこれまでの考察の中で何度か述べてきました。この理由の説明はこのこととちょうど同じ関係にあるのであって,単に感情というならば,それが思惟の様態である限りにおいてはこれは無意識に関係するのであって,その喜びを自覚するためには,喜びの観念,あるいは喜んでいる自分自身の観念が必要であるということです。確かに人間の身体がなす排尿という運動は,それだけでみれば人間を小なる完全性から大なる完全性へと移行させる運動であるとしか考えられませんから,これはひとつ,有力な説明ではないかと思います。
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