馬場の右手は力道山の直々の特訓で強力な武器となりました。これは馬場が最初のアメリカ武者修行に出る前のこと。力道山はアメリカでは空手チョップを使えというアドバイスをして,特訓に移行したと馬場は述べています。
空手チョップは力道山自身がフィニッシュホールドとして用いていた技。いかに渡米後のためとはいえ,それを馬場に伝授したということは,力道山は馬場を自分の後継者にと考えていたのではないかと僕には思えます。
馬場は慎重な人間です。また,おそらく自分の信念といったものに強固な自信をもっている人間だとも思えます。これが相俟って,馬場は他者の気持ちを断定的に述べることはしません。というよりも,他者の気持ちを忖度すること自体を好まないように僕には感じられます。ですからこのときの力道山の考え方に関しても,馬場は何の説明も与えていません。
一方,馬場はその特訓の辛さについては書いていますが,力道山の後継者としての自分ということについても,何も書いてはいません。ただ,少なくとも馬場自身のうちには,チョップを直々に伝授されるということは,自分が力道山の後継として指名されたという意味なのだという自負が,間違いなくあったのではないかと僕には思えるのです。
馬場は直接的にそれを手にしていたわけではありませんでしたが,アメリカでは破格のファイトマネーを獲得していました。力道山の死後,それを上回る条件の提示があったものの,帰国の決断をしています。その決断の背景は,渡米が修行のためであったからということも確かにあったと思うのですが,力道山の後継者として日本のプロレスの灯を絶やすわけにはいかないという馬場の思いもあったからではないかと僕は考えています。
存在の限定と存在の否定を同様の意味に解釈することを許容する根拠は,『エチカ』の中にはほかにもあります。それは第一部定義六説明です。ここでスピノザは,神が絶対に無限であると定義されたならば,そこには一切の否定は含まれ得ないという主旨のことを述べています。
絶対に無限であるものが,概念できるようなどんな限定も受けないということは明らかです。限定を受けた途端に,そのものは無限であるということができなくなってしまうからです。同じことは,自己の類において無限であるものについても妥当します。しかし自己の類において無限であるものは,自己の類に属さないものによって否定することが不可能であるとはいえません。たとえば延長は思惟によっては否定されると考えることは可能ですし,逆に思惟は延長によって否定されると考えることも不可能とはいえないでしょう。ただ,第一部定義二にあるように,自己の類に属するほかのものによって限定されるものが有限であるといわれるので,そのことによって延長も思惟も有限であるとはいわれません。いい換えれば,延長が思惟によって,思惟が延長によって否定され得るとしても,だから延長は思惟によって,思惟は延長によって限定されるということにはならないわけです。
これでみれば,スピノザが否定というものを,限定よりもさらに幅広く把握していると理解するべきだと僕は思います。つまり限定は常に否定のうちに含まれているということになるでしょう。逆に否定は常に限定を含み,かつさらにほかのものも含んでいるということになります。
よって,限定と否定を同一の意味で解することはできないということが帰結しているのは確かです。つまり存在の限定と存在の否定は,必ずしも同一の意味ではないでしょう。しかし,限定が常に否定のうちに含まれるのだとすれば,少なくとも存在の限定というのは,必然的に存在の否定であるということにはなります。よって,XがYの存在を限定するのだとすれば,それはXがYの存在を否定しているということだと理解することは,誤りではないことになります。そして今は,このことさえ成立すれば,考察の条件としては十分なのです。
空手チョップは力道山自身がフィニッシュホールドとして用いていた技。いかに渡米後のためとはいえ,それを馬場に伝授したということは,力道山は馬場を自分の後継者にと考えていたのではないかと僕には思えます。
馬場は慎重な人間です。また,おそらく自分の信念といったものに強固な自信をもっている人間だとも思えます。これが相俟って,馬場は他者の気持ちを断定的に述べることはしません。というよりも,他者の気持ちを忖度すること自体を好まないように僕には感じられます。ですからこのときの力道山の考え方に関しても,馬場は何の説明も与えていません。
一方,馬場はその特訓の辛さについては書いていますが,力道山の後継者としての自分ということについても,何も書いてはいません。ただ,少なくとも馬場自身のうちには,チョップを直々に伝授されるということは,自分が力道山の後継として指名されたという意味なのだという自負が,間違いなくあったのではないかと僕には思えるのです。
馬場は直接的にそれを手にしていたわけではありませんでしたが,アメリカでは破格のファイトマネーを獲得していました。力道山の死後,それを上回る条件の提示があったものの,帰国の決断をしています。その決断の背景は,渡米が修行のためであったからということも確かにあったと思うのですが,力道山の後継者として日本のプロレスの灯を絶やすわけにはいかないという馬場の思いもあったからではないかと僕は考えています。
存在の限定と存在の否定を同様の意味に解釈することを許容する根拠は,『エチカ』の中にはほかにもあります。それは第一部定義六説明です。ここでスピノザは,神が絶対に無限であると定義されたならば,そこには一切の否定は含まれ得ないという主旨のことを述べています。
絶対に無限であるものが,概念できるようなどんな限定も受けないということは明らかです。限定を受けた途端に,そのものは無限であるということができなくなってしまうからです。同じことは,自己の類において無限であるものについても妥当します。しかし自己の類において無限であるものは,自己の類に属さないものによって否定することが不可能であるとはいえません。たとえば延長は思惟によっては否定されると考えることは可能ですし,逆に思惟は延長によって否定されると考えることも不可能とはいえないでしょう。ただ,第一部定義二にあるように,自己の類に属するほかのものによって限定されるものが有限であるといわれるので,そのことによって延長も思惟も有限であるとはいわれません。いい換えれば,延長が思惟によって,思惟が延長によって否定され得るとしても,だから延長は思惟によって,思惟は延長によって限定されるということにはならないわけです。
これでみれば,スピノザが否定というものを,限定よりもさらに幅広く把握していると理解するべきだと僕は思います。つまり限定は常に否定のうちに含まれているということになるでしょう。逆に否定は常に限定を含み,かつさらにほかのものも含んでいるということになります。
よって,限定と否定を同一の意味で解することはできないということが帰結しているのは確かです。つまり存在の限定と存在の否定は,必ずしも同一の意味ではないでしょう。しかし,限定が常に否定のうちに含まれるのだとすれば,少なくとも存在の限定というのは,必然的に存在の否定であるということにはなります。よって,XがYの存在を限定するのだとすれば,それはXがYの存在を否定しているということだと理解することは,誤りではないことになります。そして今は,このことさえ成立すれば,考察の条件としては十分なのです。
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